コーヒータイム -Learning Optimism-

18歳のわが子に読書をすすめるために、まずわたしが多読乱読しながらおすすめを探しています。英語書や中国語書もときどき。

歴史に人々が流されるか、人々が歴史をつくるか〜トルストイ《戦争と平和》

 

戦争と平和(一)(新潮文庫)

戦争と平和(一)(新潮文庫)

 
戦争と平和(二)(新潮文庫)

戦争と平和(二)(新潮文庫)

 

戦争と平和》ほどの大作であれば、あらゆる書評が書き尽くされているし、あらゆる内容が徹底的に研究され尽くしているだろうから、わたしの読書感想はきっと新しいものをつけ加えるものではない。それでも書きたいから、《戦争と平和》を読んだ感想を書く。

 

まず登場人物500人以上の中でも、主人公といえる三人、ピエール、アンドレイ、ナターシャについて。
大富豪ベズウーホフ伯爵の庶子として生まれた主人公のひとりピエールは、典型的な世間知らずとして登場する。死の床につきつつあるベズウーホフ伯爵のいるペテルブルクを訪れたピエールは、空気読め圧力に満ちみちた息苦しい上流社会になじめず笑いものになり、棚ぼた的にころがりこんだ莫大な遺産におどおどし、美しいけれどピエールを小馬鹿にして火遊びを繰り返す公爵令嬢エレンと(社交界の空気読め圧力によって)結婚させられ、エレンの浮気騒動後にたまたま駅で出会った老人に誘われてすんなり秘密結社フリーメーソンに入る。

遺産、結婚、妻の浮気、秘密結社、ついでに親友をその秘密結社に引きこむ試みと、ピエールの前半生は現代から見てもやばいキーワードがわんさか出てくる。まわりには、親友のアンドレイ公爵を除けばろくな奴がいないし、ピエール自身も何をしたいのかよくわからず、おまけに流されやすく自分に酔いやすい性格もあって、金には困ってないだけにひたすら迷走している。

そのアンドレイ公爵がもうひとりの主人公だ。彼は貴族出身らしくプライドが高く、ピエールとは反対にものごとの目的をよく考え、哲学的で、お高くとどまっている理屈屋という印象。アンドレイ公爵は名誉を求めて軍隊に従事するが、おりしもロシアはナポレオン・ボナパルト率いるフランスと戦争の真っ最中で、フランス軍との交戦を身をもって体験することになる。

アウステルリッツの戦いでロシアは敗北し、アンドレイ公爵は重傷の身で捕虜になる。死の淵を見た彼はもはや軍隊にも名誉にも未練はなく、ただ自身の平穏な暮らしを望むようになっていた。それでも月日がたてば、アンドレイ公爵は幼い息子(妻は出産時に生命を落とした)を妹のマリアに預けて軍務に戻り、やがて愛する少女ナターシャに出会う。

ロストフ伯爵令嬢ナターシャが、三人目の主人公だ。財政状況がよくないとはいえ貴族出身で、天真爛漫で明るく、みんなに愛されてきた、多少わがままだけれど嫌味なところがない典型的なお嬢さまタイプ。ナターシャは社交界デビューをきっかけにアンドレイ公爵と婚約を交わすも、彼の父親の反対にあって公にはできず、アンドレイ公爵が父親を説得するためにナターシャのそばを離れている間に、若さゆえの過ちを犯してしまう。

 

この三人はそれぞれ、混迷の時代でどのように生きるべきかを考えている(ピエールとナターシャは時々刻々変わる状況に流されてぶれまくっているが)。しかし彼らはあの時代ーーナポレオンがロシアに侵攻した時代ーーを生きた人々のうちのほんの三人にすぎず、三人をとりまくさらに多くの人々が、さらに複雑な個人の思惑を抱え、あらゆる思惑がやがて寄せ集まって「ひとつの時代」をつくりあげる様を、《戦争と平和》は描写する。

トルストイは意図的に〈神の思し召〉と〈人々の意識の集合がもたらす結果〉をきっちり区別している。登場人物たちの人生を変えるような偶然の出会いや体験は〈神の思し召〉を思わずにはいられない運命的なものであり、一方で、戦争をはじめとする人類社会そのものの大きな流れは〈人々の意識の集合がもたらす結果〉である。

戦争と平和》の戦争の描写はとても秀逸で、わたしは軍の動きのメカニズムを時計のメカニズムにたとえた部分がとても好きだ。一つの歯車(たとえばロシアのアレクサンドル皇帝)が動き出すと、第二、第三の歯車(皇帝側近や軍総司令官)が動き出し、大小さまざまな歯車や動輪や滑車(司令官たちや兵たち)が動き出して、ついに時計の針が動く。

ここに現れているように、ロシアのアレクサンドル皇帝やフランスのナポレオンは歴史の歯車のひとつにすぎず、彼らが戦争開始を決意したのは個人的意図ではなく歴史的必然にしたがったにすぎない、というのが《戦争と平和》を貫くトルストイの思想である。

トルストイはナポレオンを「無性格で歴史の道具にすぎぬ」と評し、しつこいほどに、戦争というのはアレクサンドル皇帝やナポレオンのような歴史上の人物のみによってつくられたわけではなく、それどころか彼らがどれだけの自由意志を実現できたかも怪しいと繰り返す。彼らが開戦を決意したのはある日突然思いたったことではなく、彼らを取り巻く無数の人々の影響抜きに語ることはできない。そうである以上、戦争になだれこむしかない状況をつくったのは、彼らを取り巻く人々の意識すべてであるともいえる、というのがトルストイの主張だ。

もろもろの現象の原因の総和は、人間の知恵では把握できない。しかし原因をさぐりだしたいという欲求は人間の心の中にこめられている。そこで人間の知恵は、どのひとつも単独で原因と思われるような、現象の無数の条件の複雑きわまるからみあいを見きわめることをせずに、手近な、しかももっともわかりやすい因子をつかまえて、これが原因だ、と唱えるのである。歴史上の事件で(ここでは観察の対象は人々の行動であるが)、もっとも幼稚な因子は、神々の意志と、もっとも目立つ歴史上の位置に立っている人々、ーー歴史上の英雄たちの意志である。しかし、各々の歴史上の事件の本質、つまりその事件に参加した人々の全集団の行動に目を注ぎさえすれば、歴史上の英雄の意志が集団の行動を指導しているのでないばかりか、逆に、常にひきまわされていることがわかるはずである。

後半になればなるほど、小説の登場人物たちから離れて、なぜロシア軍はモスクワを放棄してフランス軍に明け渡したのか、なぜフランス軍はモスクワを占領して、豊かな食糧を得ておきながら、そこにとどまって冬を越さずに自滅したのか、ということについて、トルストイの考えを述べている論説文めいたパートが多くなるが、それはひどく因果関係があいまいで(トルストイ自身が「もろもろの現象の原因の総和は、人間の知恵では把握できない」と書いているのだから当然だが)、一言でいえば、結局はなるようになった、と言いたいように思える。

 

それでも、個々人がそれぞれの立場で感じたことは、その人固有の自由思考をとりもどしてくれる。アンドレイ公爵はかの有名なアウステルリッツの戦いで重傷を負う。あおむけに倒れているアンドレイ公爵を、戦場を見てまわっていたナポレオンが発見した場面。アンドレイ公爵はそれがナポレオンだと気づいていた、けれどもはや関心を持たなかった。アンドレイ公爵がナポレオンについて、「天才」「怪物」などの世間的観点に流されない、彼独自の観点をもつに至った瞬間である。

彼はその声に関心を持たなかったばかりか、心に止めもしないうちに、すぐに忘れてしまった。彼は頭が焼かれるように痛かった。彼は全身の血が失われてゆくのを感じた。そして自分の上に遠い、高い、永遠の蒼穹を見ていた。彼は、それが自分の憧れの英雄ナポレオンであることを、知っていた。しかしいまは、自分の魂と、はるかに流れる雲を浮かべたこの高い無限の蒼穹との間に生まれたものに比べて、ナポレオンがあまりにも小さい、無に等しい人間に思われたのだった。いまは、だれが彼のかたわらに立とうが、彼のことをどう言おうが、彼にはまったくどうでもよかった。彼はただ自分のそばにだれかが足を止めてくれたことだけがうれしかった、そしてその人々が自分を助けて、自分を生活へ――いまこそその解釈をすっかり変えたので、限りなく美しいものに思われた生活へ――戻してくれることだけを渇望していた。

ピエールも、ナターシャも、アンドレイ公爵ほど劇的な形ではないにせよ、さまざまな出来事の中で、神とはなにか、信仰とはなにか、人生とはなにか、なんらかの見解をつかんでいくことになる。この辺りはロシア正教の背景知識がうすいと正直理解しづらい。

トルストイのもうひとつの主張、すなわち、歴史は英雄たちによってつくられるものではなく、無数の人々の無数の行動によってつくられる、という点にはおおいに賛成するけれど、この論点を小説という形で書いたのはなぜだろう? というか《戦争と平和》はほんとうに小説なのか? と首をかしげたくなる。後半部分など、ほとんど歴史論文を読んでいるような気分になる。

尊敬するブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」でも《戦争と平和》をとりあげているけれど、トルストイ同様、これは長編小説ではないと断じる。

人生が捗るトルストイ『戦争と平和』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

なんというか、中国には政権を担う者を舟、民衆を水にたとえて「載舟覆舟」、「水は舟を載せることができるが、舟を転覆させることもできる」という意味の言葉があるが、《戦争と平和》は舟、すなわちナポレオンやアレクサンドル皇帝やクトゥーゾフ総司令官といった歴史上名を残した人物たちだけではなく、舟を浮かべる水、水をつくるひとつひとつの分子、流体粒子、流束などを、500人以上の登場人物がひしめきあう大長編で表現しようとしたのだ。しかし流体力学のみならず物理学分野でよくあることだが、ほんとうにすべての因子とその相互作用を解析することはできず(そんなことができるのはラプラスの悪魔だけだ)、ある程度代表性をもたせた人物たちの物語にならざるを得なかったのだろう。それぞれの流体因子は流れそのものに大きく影響するとは限らないが、間違いなく流れを構成する一部分だ。

トルストイの《戦争と平和》は、おそらく小説ではない。歴史論文でもない。トルストイみずからが「人間の知恵では把握できない」と認めたもろもろの現象の原因の総和、ナポレオンのロシア侵攻や敗走というロシア近代史上稀にみる重要な出来事を引き起こしたものを、人間の身でどこまで把握できるかという壮大な試みであり、その中に身を置いた個々人が、どこまで真理に近づくことができるかという挑戦である。読者であるわたしはトルストイが到達出来た地点に連れて行ってもらうことになるわけだけれど、五里霧中を手を引かれて歩いているようなもので、霧を晴らすためには、まだ人生経験がすくなすぎる。