コーヒータイム -Learning Optimism-

18歳のわが子に読書をすすめるために、まずわたしが多読乱読しながらおすすめを探しています。英語書や中国語書もときどき。

トルコの建前と本音を解体してみせたすごい本〜小島剛一『トルコのもう一つの顔』

 

なぜこの本を読むことにしたか

F爺こと小島剛一さんのことを知ったのは、フランスのサッカー選手の侮蔑的発言をめぐってTwitter上でひろゆき氏と舌戦を繰り広げているのを読んだのがきっかけだった。匿名のインターネット上では、素人がそうとは知らずに専門家にかみついて返り討ちにされることが時々起こるが、この騒動もその一つに思えた。

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けれど、「言語学者」という普段あまり見かけない肩書きが気になったうえ、「単一民族国家であると主張してきたトルコで、僻地調査を続け、政府から差別されてきた少数民族とその言語を次々発見し、国外追放処分を受けながらも自説を曲げずに論文発表し、ついにトルコ政府に少数民族の存在を公式に認めさせた」という経歴を見て俄然興味をもち、著書『トルコのもう一つの顔』を購入した。(同じことを考えた読み手が大勢居たようで、本書は騒動後、重版がかかっている)

しばらく積読していたが、ようやく読み始めたら、あまりにも面白すぎて一気に読了。

 

本書の位置付け

「トルコで僻地調査を続け、政府から差別されてきた少数民族とその言語を次々発見し、国外追放処分を受けながらも自説を曲げずに論文発表した」という著者の経歴をノンフィクション風にまとめた本。旅日記とも、十六年にわたるフィールドワークの記録とも、トルコにおける言語学入門とも読める。続編も出ている。

 

本書で述べていること

トルコ政府の「トルコは単一民族国家であり、トルコ民族の操る言語は方言の差はあれ同一言語であるトルコ語である」という政治的見解に従えば、トルコでは言語学も、生物学も、民族学も、社会学も「科学としては存在できなくなる」と、本書にある。政治的見解が現実とあまりにもかけ離れている上、政府が異論を認めず厳しく取り締まるため、少しでも研究を進めようとすればすぐに困った研究結果が出てきてしまい、睨まれてしまうからだ。(天動説を信じる中世キリスト教国家では、天文学が存在できず、地動説を唱えれば異端とされ火あぶりにされたのと似ている)

そんなトルコで、言語学者である著者がフィールドワークをするにあたり、当然表立ったことはできない。一般旅行者のふりをしながら、僻地に深く入りこみ、トルコ語のみならず少数民族の言語を自ら習得し、隠れキリシタンならぬ「隠れ民族」たちの言語、宗教、生活習慣などの点からこまごまとしたことを聞き取っていく。その過程を生き生きとつづったのが本書である。

 

感想いろいろ

良くも悪くも宗教に対して「ユルい」日本では想像もつかないような意見を持つ人々に、ときとして著者はとまどい、読者である私もそのとまどいを共有する。たとえばキリストという言葉を異教徒が使うと嫌がられることを、私は全然知らなかった。

回教徒の友人にある日「キリスト教徒でない者がナザレのイエスのことを『キリスト(救世主)』と呼ぶのは不謹慎だ」と責められて一言もなかった。ナザレのイエスは回教徒とユダヤ教徒にとっては「預言者」であって「救世主」ではない。いずれとも無関係な私は、他人の言を引用する場合を除けば、「預言者」とも「救世主」とも言ってはいけないのだと戒められた。

言語だけではなく、こういった宗教知識も交えながら、なによりトルコのあちこちで出会った人々の語る言葉を旅行記風に紹介しながら、著者の十六年にわたるフィールドワークの成果が紹介されていくのはとても読み応えがある。トルコ人たちの親切さ、貧乏旅行をしていた著者にチャイをふるまう気前良さ、パンを焼く手際、火加減まで伝わってきそうな文章。

その中に少数民族が受けた仕打ちが紛れこむ。常に私服警察に監視され、身内以外の前では《我らの言葉》を知らないふりをしなければ投獄されるかもしれないという息苦しさと恐怖。年寄りたちが語る迫害や強制移住の歴史。

この辺り、実は日本の読者にも馴染みがあると思う。異民族強制同化政策を取るのはなにもトルコだけではない。そして「一般に異民族強制同化政策が非人道的なものだとは思っていない」のも、トルコに限ったことではない。人間は、自分自身とは違う言語・宗教・文化をもつ人々が気に入らないようにできているらしい。

民族や言語という切り口からトルコという国家を解体してみせた『トルコのもう一つの顔』は、まさにこれまで知らずにいたーー知ろうともしなかったーートルコの政治的・民族的内情を解説している素晴らしい本であり、クルド独立運動がふたたび盛り上がろうとしている(と、メディアが報道している)この時代に再読するにふさわしい。クルド独立運動に対する著者の見解は、当事者たちの期待通りのものではないかもしれないが。