コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

護ることの重み〜中山七里『護られなかった者たちへ』

……言葉もない。

読み始めれば止まらず、ほぼ徹夜で読み終えた。

私はふだんあまりミステリーを読まないのだが、これは刺さった。葉真中顕『ロスト・ケア』『絶叫』と同系統の社会派ミステリー小説。テーマは生活保護受給者たちの声なき叫び。

 

あらすじを簡単に。

仙台市の保健福祉事務所課長・三雲忠勝が拘束された餓死体で発見された。被害者は公私ともに善良と名高く、怨恨が理由とは考えにくい。かといって物盗りによる犯行の可能性も低く、捜査は暗礁に乗り上げる。そして第二の犠牲者がみつかる。手法は同じく拘束されたうえで餓死するまで放置。事件を追うため保健福祉事務所に聞き込み調査に入った刑事たちは、生活保護受給申請の審査・決裁、生活保護受給要否を調査するケースワーカーの現実にふれるーー。

 

生活保護、といわれてすぐに思い浮かぶのはなんだろうか。不正受給、水際作戦、そんなキーワードが浮かぶ人もいるのではないだろうか。

私は「水際作戦」が浮かぶ。

さまざまな理由で、この社会で生きていく力のない者たちがいる。彼らをすべて救済する予算はない。誰に生活保護を受給させるか、誰かが決めなければならない。

定職についている人々は、こぼれ落ちた人々を蔑む。私はそんな声を身近で見聞きしたことがある。

努力不足でそうなった、自己責任でそうなった、なのになぜこっちが高い税金を払わされてまでそんな連中を助けなければならないんだ。こっちの給料が高いのはそれ相応の努力の結果だ、努力もしていない連中を助けるいわれはないーー

社会福祉を批判するそれらの声の主は、支払う税金か高いほどよりよい社会福祉を享受できるのが当然、逆はありえないと言っていた。自分たちがこぼれ落ちる側になる日など永遠に来ないと信じきっていた。

私はそれほど楽観的にはなれない。自分が定職について生活が安定しているのはたまたま運が良かっただけだと思う。けれどそう考えない人々がいる。あるいはなお悪く、予算には限りがあるのだから、同情に値する事情がある人々には手を貸してもよい、だから自分がそうであると証明してみせろーーそう考えている人々がいる。

それが生活保護のハードルをあげている側面は否めない。この小説にもそのような場面が登場する。

読み込んでみると、門外漢である笘篠にも申請項目の趣旨が理解できた。要は資産があれば利用するなり売却するなりして生活費に充てろ、能力があるのならちゃんと働け、近親者から援助が受けられるのならまずそちらを先に頼れ、他の制度による給付があるのなら生活保護費に優先させろ、そしてそれら申請内容を確認するために官公庁および関係者への調査を同意しろ──つまりはそういう内容だ。

その人々にこの小説を読ませてみたい。

 

国家予算には限りがあるという主張は正しい。神ならざる人間には、誰がほんとうに困っていて、誰が不正受給をねらっているかなど、正確に判断することはできないという主張も。はからずも登場人物がみずからそう語っている場面がある。

「年金受給や生活保護の最前線に立っていますとね。想像以上にワルがはびこっている現実を目の当たりにします。障害年金を引き出すために、医者を恐喝して偽の診断書を作成する者。それどころか本当に四肢を切断させた上で、本人に支給された障害年金を横から掠め取る者。おそらくは四六時中、悪巧みしかしていないんじゃないかという連中がごろごろいます。そんな輩の前では、三雲課長のような善人は格好の獲物でしょう」

「だから余計に辛いんです。生活保護を必要としている住民の数に対して、予算があまりにも少な過ぎて。わたしたち担当は相談者の訴えをそのまま申請するだけですが、三雲課長はその案件を取捨選択しなければなりません。ひどく残酷な言い方になりますが、掬った指からこぼれ落ちる人は一定数存在する。でも、そのこぼれ落ちた人を受け止めるセーフティネットがない。案件を却下する度、課長は断腸の思いだったでしょう」

生活保護は最後のセーフティネット。そこからこぼれれば護るすべはない。けれど日本にかぎらずどの国家でもすべての者を護ることはできない。すべての者を護ることをうたって制度設計してきた社会主義国家はことごとく破綻してしまった。

すべての者を護ることはできない。それが真実。

何かしてやれただろうか? これから先、何かできるだろうか?

そう問い続けることしか、できないのかもしれない。