コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

黒人として、友達として〜マーク・トウェイン《ハックルベリー・フィンの冒険》

 

本作は児童文学ながら、ヘミングウェイが「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と位置付けるほどの名作。

ハックルベリー・フィンの冒険》はハックルベリーの一人称で語られる。ハック(ハックルベリー)はトムの親友で、家なし生活をしていたが、本作冒頭ではダグラス未亡人に引きとられて暮らしている。本作は《トム・ソーヤーの冒険》の続編にあたるけれど、最初にハックが《トム・ソーヤーの冒険》でのできごとをかいつまんで説明してくれるから、読んだことがなくても全然問題ない。

ダグラス未亡人の家にはジムをはじめとする黒人奴隷たちがおり、奴隷商人だの奴隷競売だのの言葉がごく自然に使われる。マーク・トウェインが《ハックルベリー・フィンの冒険》を書き始めたころ、アメリカでは南北戦争が終わってからしばらくたち、南部では根強い奴隷制度復活活動、北部主導の民主再建への反対活動が繰り広げられていた。黒人差別や白人優位主義は、本作の重要テーマでもある。

このような時代背景から、本作では黒人関連の差別用語(いわゆる "Nワード")が使用されまくっており、出版当初は禁書扱いにする図書館もあったという。現代アメリカではオリジナルに加え、差別表現を改めたバージョンも出版されている。

 

英語原文で読むと、わんぱくぼうずで勉強嫌いなハックルベリー・フィンのくずれた英語、造語("betwixt" = between and next など)、方言、黒人奴隷たちのなまりを表現するために、文法やスペルが意図的に崩されているところがあるから、英文としては読みやすいとはいえない。しかしリズムが良くて響きが気持ちいいので、英語原文に果敢に挑戦した。

黒人奴隷のジムの言葉にはとくに苦労させられた。なまりを表現するためもはや英語とは思えないほどで、声に出して読まなければなにを言っているのか見当つかない。日本語でいえば「てぇへんだ(大変だ)」と表記しているようなもの。

どうしても英語原文ではむずかしいところは、光文社古典新訳文庫と角川文庫の和訳版を参照したが、それぞれ微妙に訳出がちがったり、注釈のつけ方がちがったりするのがまたおもしろい。たとえばハックが塩入れをひっくり返してダグラス未亡人の妹であるミス・ワトソンに叱られる場面では、角川文庫版には【レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」ではユダが塩入れをひっくり返している】と注釈があるが、光文社版にはない。また、トムにアラブ人や象が近くまで来ているとウソをつかれたとき、ハックがひとりごちる場面では訳出が異なる。原文だとこう。

I reckoned he believed in the A-rabs and the elephants, but as for me I think different. It had all the marks of a Sunday-school.

角川文庫版ではこのように訳出。

おいらの考えじゃ、トムはアラブ人やゾウがいたなんて信じているんだ。だが、オレはどうかっていえば、考えが違う。あれはどう見たって、みんな日曜学校のマーク入りなんだ。

一方、光文社版ではこのようになる。私はこの方が自然だと感じる。「エイラブ人」というのは、ハックが「アラブ人」を正しく発音できなかったためにわざとこのような表記になっている。

トムはエイラブ人とかゾウとか信じてたのかもしんねえけど、おいらの考えは違う。ありゃ、日曜学校の話とそっくりのうさんくせえ感じがした。

 

前置きが長くなったが、物語のあらすじを。

ハックルベリー・フィンはダグラス未亡人のところに住み、字が読めなかったので学校にも通っていたが、気ままな家なし生活に慣れていた彼は、ベッドで眠り、ごたまぜではなく別々に出てくる料理を食べ、読み書きを習い、なにかといえばキリスト教のお説教をされたりお祈りをさせられたりすることにどうにも慣れない。

ある日ハックの飲んだくれの父親が現れ、ハックを連れ去ってしまう。父親の目当ては《トム・ソーヤーの冒険》でハックが手に入れたお金を自分のものにすること。どうにか逃げ出したハックは、たまたま流れてきた筏でミシシッピ川を下る。その途中でダグラス未亡人のところから逃亡した黒人奴隷のジムと出会い、ともに野宿生活をするーー。

子ども向けの冒険物語らしく、どの章でも盛り上がりがあり、とくに年頃の男の子が真似したくなるような場面がたくさんある。トム・ソーヤーがギャングごっこを提案するところ、ハックが釣りをしたり野生の果実を集めたりしてサバイバルするところ、荒天でのミシシッピ川下り、ウソをついて大人を意のままに動かすところ、などなど。

(物語の中でも、トム・ソーヤーが強盗やら脱獄やらについての物語ーー《モンテ・クリスト伯》などーーを読んではもったいぶって友達に説明し、書いてあることをそのまま真似たごっこ遊びをする。トムがあまりにも熱心に本の通りにすることにこだわるところなど、マーク・トウェインは意図的に《ドン・キホーテ》に似せて、アメリカ南部でも人気があった中世騎士物語を皮肉ったという説あり)

黒人奴隷のジムに対してもハックはからかったりふざけたり、ジムが無学なのを馬鹿にするような態度ばかりとっていたが、ある時本気でジムを傷つけてしまい、ジムはハックから距離をとる。そのときハックの態度にわずかに変化が現れる。

英語原文はこちら。ハックはふだんジムのことを名前呼びしているが、この文章ではわざと "nigger(黒ん坊)" に謝ること、謝ることを「後悔していない」ことが強調されている。

It was fifteen minutes before I could work myself up to go and humble myself to a nigger; but I done it, and I warn’t ever sorry for it afterwards, neither. I didn’t do him no more mean tricks, and I wouldn’t done that one if I’d a knowed it would make him feel that way.

角川文庫版訳出。「黒ん坊なんか」としたことでニュアンスを正確に伝えられていると思う。

それから一五分もしなければ、おいらは腰を上げて、黒ん坊なんかに頭をさげに行くことはできなかった──だが、おいらは、それをやった。そして、それをやったことを、後になっても、少しも後悔しなかった。おいらはそれっきり、ジムにはたちの悪いイタズラはしなかった。そして、あんなイタズラだって、しなかったはずなんだ。ジムにあんな思いをさせることが、初めっから分かっていたならな。

光文社版訳出。

黒ん坊に謝りにいく決心をするのに一五分かかった。けど、おいら、謝った。そんで、そのあといっぺんだって、そのことを後悔しなかった。おいら、もう二度とたちの悪い噓でジムをかつぐようなことはしなかったし、ジムがあんなふうに感じるってわかってたら、あの噓だってつかなかったと思う。

家なし生活で奴隷など持たないハックも、人種偏見と無縁ではない。ダグラス未亡人の妹、ミス・ワトソンはジム(と、おそらくそれ以外の黒人奴隷にも)厳しく、奴隷を売り買いできる財産だと考えており、それが当時一般的な考え方だった。ハックの父親は黒人と白人の混血児が投票権をもつことに我慢ならない。ハックは逃亡奴隷のことを役所やミス・ワトソンに告げないなら「他人から最低の奴隷制度廃止論者って呼ばれる」「地獄行きになる」と考えていた。

このような背景を考えると、ハックがジムに謝りにいくまで15分もかかったのはあたりまえだし、そもそも謝ったことがとてもすごい。この辺りが本作をアメリカ文学史上最高傑作のひとつとする理由のひとつだろう。児童文学で、白人少年と黒人奴隷の交流を肯定的に書いた、という点で。

 

ハックルベリー・フィンの冒険》では、黒人奴隷のジムは頑固で無学であるもののやさしく気質のまっすぐな人物として描写される一方、白人たちの方はこれでもかというほど多種多様で、どちらかというと悪党寄りが多い。とくにハックの父親と、途中で行動をともにすることになった詐欺師2人は、私の価値観からするととことん人間のクズ。こいつらでさえ、白人であるというだけで、黒人を物のように意のままにできると考えるのが、《ハックルベリー・フィンの冒険》の舞台となった時代だ。

アメリカでことにそれがひどいのは、黒人奴隷が聖書の記述によって正当化されていると信じる人々がいるからだ。ベストセラー『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』の21では、旧約聖書で弟アベルを殺した罪で、神に呪われ、死ぬまで地上をさすらう罰を課せられたカインにつけられた印が、黒い肌だったという説があると紹介している。

カインにつけられた印が何なのか、具体的な記述はない。顔のあざだという説もあれば、赤毛だという説もある。黒い肌だという説もあって、これはその後、黒人奴隷を正当化するのに利用された。

21世紀ではこの考え方は時代遅れとなり、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える "Black Lives Matter" 運動が盛り上がるのをうれしく思う。一方で、21世紀でもこのような運動が必要になるほど、白人が黒人をはじめとする有色人種(この言葉自体どうかと思うが)に抱く差別や偏見は根深いということを思い知らされる。