コーヒータイム -Learning Optimism-

18歳のわが子に読書をすすめるために、まずわたしが多読乱読しながらおすすめを探しています。英語書や中国語書もときどき。

「意識の流れ」という新手法〜ヴァージニア・ウルフ《ダロウェイ夫人》

 

Mrs Dalloway

Mrs Dalloway

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〈怖い絵〉シリーズの著者である中野京子さんは、絵画をありのままに見て感じとるだけではなく、その絵画が制作された時代背景、題材の意味、画家の意図などを知ることによってより一層鑑賞を楽しむことができると示してくれた。たとえばドガの名画〈踊り子〉は、見たところバレエダンサーを描いた躍動感あふれる絵画だが、当時はバレエダンサーは地位が低く、ほぼ娼婦同然に思われていたこと、舞台袖にいる黒服の男が彼女のパトロン兼愛人であることを知れば、絵画を見る目が変わるであろう。

本作《ダロウェイ夫人》も、ただ読むだけではなく、なぜこのような書き方でなければならなかったのか知ることで、より一層深く読める。ベストセラー『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』で、本作の意味が解説されている。

19世紀末から20世紀初頭にかけ、いくつもの分野で革新的な考えが生まれて、私たちが現実を認識して表現する能力に疑問が抱かれるようになり、さらに、そもそも客観的な現実は存在するのかという問題さえ持ち上がった。

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モダニズムの作家たちは、この問題に実験的な手法で取り組んだ。彼らがおもに使った新手法のひとつが「意識の流れ」で、これは登場人物の内的思考を作者が手を加えずにそのまま伝えようとするものだ。この手法は、ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)、ウルフの『ダロウェイ夫人』(1925年)、フォークナーの『響きと怒り』(1929年)などに見られる。

このような背景で書かれた『ダロウェイ夫人』、英語原文は私の英語力ではどうにも読みこなせなかったのであきらめて日本語訳で読んだ。なにしろ主観と(たまにある)客観がごたまぜなうえ、はっきりとした区切りもなく、主人公であるダロウェイ夫人(名はクラリッサ)の心の声がひたすら垂れ流されているかと思えば、いつのまにかほかの人の心の声が流れに合流して、いま話しているのはだれ? と混乱させられる。光文社古典新訳文庫の訳出は、原作の雰囲気をできるだけ保つことに苦心しているのがよくわかる。

花々を見て、煙のまとわりつく木々を見て、のぼっては下るカラスの群れを見て立ちつくすわたしに、ピーターが何か言った。「野菜に囲まれて物思いかい」だったかしら。「おれはカリフラワーより人間がいいぞ」だったかしら。ある朝、朝食どき、テラスでのことだった。ピーター・ウォルシュ……もうすぐインドから戻る。六月? 七月? どちらだか忘れた。だって、あの人の手紙は恐ろしく退屈なんですもの。覚えているのは語られた言葉、あの眼差し、ポケットナイフ、笑い顔、不機嫌。何百万の物事が何もかも消え失せて、残ったのがカリフラワーについての二言三言だなんて、とても不思議。

ダートナル運送の車が通り過ぎていく。クラリッサは縁石に立ち、やや緊張して待った。すてきな人だ、とスクロープ・パービスは思った。同じウェストミンスター区の住人だから隣人も同然。よく知っている。鳥のような雰囲気がある。カケスかな。青緑色で、軽やかで、陽気だ。

ストーリーはそれほど複雑ではない。頃は第一次世界大戦終戦直後、場所はロンドン。クラリッサは姿勢の美しい上流階級出身の女性で、リチャード・ダロウェイと結婚してダロウェイ夫人となった。50代に入り、しだいに老いてきたのを感じている。

ある日彼女はパーティを主催することになり、お花を買いに行く。なじみの花屋に向かう途中でむかしの恋の思い出、いまの季節(六月頃)への賛美を思い、かと思うと死後もなにかが残るはずだとぼんやり思い浮かべて「わたしは確実に故郷の木々の一部だし、あのつぎはぎだらけの醜い屋敷の一部だ。そして、まだ出会ったこともない人々の一部でもある」などと考え、そうかと思えばなんとなく嫌いな知人のことを思い出しては気分が冷える。

そのうち視点はクラリッサから離れて、たまたま花屋の外に止まっていた一台の車を目で追う人々(第一次世界大戦直後にはまだめずらしい乗り物で、乗客は王族か総理大臣かと人々は噂した)のあいだを、まるでリレーのように次々切りかわる。居合わせた女性たち、車を見ていた夫妻、妻に道をたずねた女性。そしてまたクラリッサのところに視点が戻る。

徒然草》《枕草子》などの随筆文学に似ている気もするけれど、それほど整理されてもいない、まさにとりとめなく思うことをそのまま紙に書き落としただけのよう。それが《ダロウェイ夫人》のめざすところだと知っていても、最初は多少退屈に思えた。

しかし、読み進めると、すこしずつ「ウォーリーをさがせ!」のような楽しみが芽生えてくる。クラリッサがふとこぼしたひとことが、べつの人物が彼女についてとりとめなく語る言葉にまぎれたひとことと結びついている、と、気づくことがある。たとえばクラリッサは娘のエリザベスが聖餐式に参加するのを気に入らないが、彼女の昔馴染みのピーターは、ある不幸な出来事を思い出し、だから彼女は無神論者になったのだとなんの気なしに考える。主観的で、断片的で、とりとめのない心の声が、蜘蛛の糸のようにもつれからまりながら、しだいに網目をなし、形をなし、気づけばクラリッサという女性のことをいろいろな角度、いろいろな視点から見た情報が集まり、なんらかの人物像を結びはじめる。

「登場人物の内的思考を作者が手を加えずにそのまま伝えようとする」という手法の試験作としてはなかなかおもしろく読めたけれど、ストーリー重視の私にはちょっとものたりない。しかし読み返すうちに、緻密に計算しつくされた心理関係、人物像を「ウォーリーをさがせ!」のようにみつけだして組み立てるのが楽しくなる、そんな小説だった。