コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】新米獣医のあたふた奮闘記〜J. Herriot “All Creatures Great and Small”

 

リアル『銀の匙』!!

……というのが読み始めてすぐ浮かんだ。『銀の匙』ファンや酪農家出身ならとても楽しめる一冊。

(『銀の匙』は荒川弘作の酪農漫画で、農業高校での生徒たちの青春物語。授業風景として、農作業や家畜の世話をするシーンがよくでてくる。)

 

著者のジェームズ・ヘリオットは、イギリスはノースヨークシャーの田舎町・サースクに住むベテラン獣医。本作は著者自身が獣医になったばかりの頃の体験を題材にした自伝的ノンフィクション。

著者が獣医資格を取得したばかりの1937年、獣医はひどい就職難であった。田舎町でのアシスタント業務に思いがけず就けたことを著者は喜んでいたが、これが雇用主のジークフリード・ファーノンと個性豊かな地元住民にふりまわされる日々の始まりであった。忘れっぽくてすぐにキレ散らかすジークフリードと彼の弟で学生のトリスタン(*1)、自信たっぷりにもっともらしく治療方針にあれこれ口出してくる依頼者たち(しかしたいてい素人意見で間違っている)、泥とまぐさと牛糞と血液その他体液にまみれながらの治療。凍てつく冬の深夜の往診、春先の羊の出産期。腹痛を起こした馬、子宮が体外に脱出した雌牛、中国皇帝の飼い犬の血をひくという便秘がちのデブ犬。

(*1) ジークフリードはドイツ風の名前だが兄弟ともに純イギリス人。クラシック好きの父親がワーグナー交響曲ジークフリード牧歌』から名付けた。ジークフリードゲルマン神話に登場する竜殺しの英雄。ちなみにトリスタンは同じワーグナーによる楽劇『トリスタンとイゾルデ』から名付けられた。トリスタンはアーサー王の円卓の騎士の一人。イゾルデは彼の主君マルク王の妃で、二人が禁断の関係に陥る悲恋物語である。

 

しかしそのうち著者はこの田舎町を好きになる。数百年の歴史がありそうな石造りの家畜小屋。素朴で自立精神に富み、客人をもてなすことに喜びを感じる人々。しだいに電話で「ドクター・ヘリオットをお願いします」といわれることが出てきて、著者は地元住民たちに受け入れられ始めていることを知る。

苦労話は売るほどあるが、金持ち未亡人のミセス・パンフリー(デブ犬の飼い主。著者は犬の便秘改善のためによく往診していた)の屋敷でパーティに参加し、シャンパンとサーモンサンドイッチをさんざん楽しんだその日の深夜に、豚の出産のために農夫に呼び出され、凍りつくような水で手を洗い、汚らしい豚小屋の中で腕を肩まで母豚の産道に突っこまなければならなかった話が印象的。すべて終わったあと、著者は学生時代に教師から聞いた言葉を思い出し、闇夜の中で声を立てて笑ってしまう。

“If you decide to become a veterinary surgeon you will never grow rich but you will have a life of endless interest and variety.”

ーー「獣医になると決めたのなら、金持ちにはなれないよ。しかし、おもしろくて変化が尽きない人生をすごすことになるだろう。」(意訳)

 

語り口はユーモラスで、良くも悪くも人情味あふれる「古きよき」田舎町での新米獣医の悪戦苦闘がおもしろいし、『銀の匙』と比べてみると興味深い。

銀の匙』といえば美味しそうな食事場面がよく出てくるが、本書でも食事場面はたいそう食欲をかきたてる。日曜日のお昼に食べる伝統的食事(サンデーロースト)として山吹色のヨークシャー・プディングにたっぷりのグレイビーソース、ハッシュポテトとカブを添えた分厚いロースト、湯気がたつアップルパイにカスタードクリーム、食後の紅茶。豚一頭屠殺した翌週の朝食に出てくる自家製ヨークシャー・ソーセージとベーコン。

第一章では妊娠牛の胎児が "head back" (首だけ振り返るように後ろ向きの状態)であることがわかり、産道に腕を突っこみ、仔牛のあごにひもをつけて引きずり出すことになるが、『銀の匙』でも逆子の仔牛の足に縄をつけてひっぱり出すシーンがある。人間なら帝王切開となるところだが、妊娠を繰返す乳牛ではそうもいかないのだろう。仔牛の異常体位は十数種類もあるようで、それぞれでやり方が異なる。

Know what is normal and what is not | Tasmanian Institute of Agriculture

第五章では疝痛(腹痛)を起こした馬が「患者」であり、腸捻転と診断された馬は著者の手で安楽死させられる。『銀の匙』では、安楽死ではないものの、競走馬が急死したことが話題になるシーンがでてくる。いわく「(馬は)腹痛なんてしょっちゅうだしちょっとした事で命を落とす」。

疝痛との闘い(イギリス)【獣医・診療】 - 海外競馬情報(2013/08/20)【獣医・診療】 - 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル

苦労と奮闘とおかしさがたっぷりと染みこんだノンフィクション、『銀の匙』好きは必読、獣医に興味ある人も必読、動物好きなら読んでみて損はない。