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本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

珠玉の哲学名著をちょっとだけのぞいてみよう〜岡本祐一朗『哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる』

【哲学】とは「愛知」を意味する学問分野、または活動であるという見方をするならば、根源的には「知識欲に根ざす活動」である。近代までの哲学は形而上学と自然学(自然科学)を含んでいたが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。私たちがいま「哲学」といえばなんとなく「ものの考え方をあつかう学問」だとイメージするけれど、実はこれは哲学の一部でしかない。

本書は西洋哲学で珠玉といわれる50冊の古典を、5章に分けて紹介している。著者によると、とびきりの名著なのになかなか紹介される機会のなかったものをとりあげること、「根本的に何をねらったのか?」に光を当て、どんな議論や批判が寄せられたかに注目したこと、この2点に本書の特徴があるという。

 

第1章 そもそも哲学って何?

哲学はひとことでいえば「知識欲に根ざす活動」であるわけだけれど、対話(問答)によって真理を探究するというスタイルを打ち立てたのがソクラテスの弁明》などにその活動が残るソクラテスである。ソクラテスが処刑されたのは有名な話だが、その弟子プラトンは師に死を与えた民主制に絶望し、《国家》で根本にさかのぼり、理想的な国家のありかたとは哲学者が統治する国家であり、哲学者とはつねに恒常不変のあり方を保つもの(イデア)、消滅しないものごとの本質に触れることのできる人々のことであるとした (*1)。そのプラトンに師事しながら後に対立したアリストテレスは、形而上学で存在としての存在、具体的学問領域を統括する学問を探究した (*2)アリストテレス哲学は、のちにトマス・アクィナス神学大全によってキリスト教と統一される。この3人がギリシャ哲学でもっとも有名であり、その他の哲学者についてはディオゲネス・ラエルティオスのギリシア哲学者列伝》に依るところが大きい(信用性については多少疑問符がつくが)。

(*1) 東洋思想でいえば老子の思想。老子は天地万物、いっさいの現象の根底には絶対的本源である「常道」があると考えていた。

(*2) 原題は「自然学の後に属する著作」という意味の「メタ(後)フィジカ(自然学)」。このためのちの世で形而上学は「形あるものを超える学問」というイメージを抱かれるようになる。また、具体的学問領域を統括する存在とは神そのものである、という考え方から、形而上学存在論だけではなく、神学としての側面ももたされてきた。

知識欲のおもむくままに、国家政治について、学問領域について洞察する一方、哲学者は人生のあり方についても深く思索している。ストア派哲学に属するセネカ《人生の短さについて》がその代表。また、一度は異教に惹かれながらもやがてキリスト教に帰依し、欲におぼれた過去から回心した《告白》によって中世キリスト教哲学の基礎を築いたアウレリウス・アウグスティヌスのように、神学的探究をはじめた人々もいた。神学的探究はやがて信仰により語られていたことを理性によって論証しようとする動きとなり、スコラ哲学の父アンセルムスにより《プロスロギオンが書かれる。とはいえキリスト教哲学も一枚岩だったわけではなく、反対意見もあわせた両論併記スタイルのアベラール《然りと否》には、活発な教説提起がみられる。変わり種としては、ルネサンス時代に書かれ、聖書やギリシャ・ローマ古典を風刺して笑いをとるエラスムス痴愚神礼讃が出版当時ベストセラーになった。

 

第2章 どうすれば正しい判断ができるか?

随筆(エッセイ)ジャンルを開拓したモンテーニュ《エセー》は、人間理性や判断の無力さを力説し、あらゆる知識を徹底的に疑い、さらにはその疑いそのものさえも疑う立場をとる。同じくすべてを疑うところからはじまり、「われ思う、ゆえにわれあり」というただ一つ疑いの余地がない原点からあらゆるものを理性的に論証する手法を、デカルト方法序説で示した。

一方、デカルトが拠り所とした人間理性そのものをゆるぎないものと見なさず、人間は脆弱であるとの立場をとったのがパスカル《パンセ》である。ヒュームは《人間本性論》でさらに一歩踏みこみ、理性を否定して激しい批判にさらされた。スピノザは主著《エティカ》デカルトの二元論を批判した。ジョン・ロック《人間知性論》で私たちのあらゆる知識は経験にもとづくと説いてデカルトに代表される大陸合理論と対立し、ライプニッツは《人間知性新論》でロックの思想を批判しながら、彼自身の思想を《単子論》に残した。

人間が自然を技術的に支配するという近代思想の原点を打ち出し、観察と実践を重視する近代科学にきわめて有用な「帰納法」を提唱したのが《ノヴム・オルガヌムを書いたフランシス・ベーコンである (*3) 。平等につくられた人間が国家(コモンウェルス)を形成するためには、各人がもつ自由な権利を一部譲渡しなければならない、という点を探究したのがホッブズリヴァイアサン。ルソーの《社会契約論》は民主主義の宣言書としてフランス革命に大きな影響を与えた一方で、「ファシズム」の先駆思想として非難された。

(*3) アリストテレス哲学は演繹法中心で、ベーコンにいわせれば「具体的な経験を無視して、原理原則だけで自然を理解しようとした」ということになる。ベーコンはアリストテレスの考え方に代わるものとして帰納法を提唱した。

 

第3章 この世の中をどう生きるべきか?

カントは三批判書(純粋理性批判実践理性批判》《判断力批判》)で、合理論とも経験論ともちがう第三の考え方として、合理論と経験論の統一を模索した。合理論は経験的範囲を越えるときは独断的になり、経験論だけでは学問として要求される必然的認識は成立しないからだ。カントの考え方は近代哲学を完成させるものであり、近代的な自然科学の方法に基礎を与えるものとされた。またフッサールイデーンの中で自然科学などの諸学問に対する関係をあきらかにし、諸学問を基礎づけるものとして現代現象学を提唱した。

カントから始まるドイツ観念論精神現象学を書いたヘーゲルにより完成された。ショーペンハウアーは楽観主義を基本とするヘーゲルの考え方と対立して悲観主義を打ち出し、《意志と表象としての世界》を書いた。ショーペンハウアーにとって人間の生は苦悩と退屈の間を往復しているものであり、ここからの脱却をさまざまな宗教の教えをひきながら問い直している。同じくヘーゲルと対立したフォイエルバッハの《キリスト教の本質》は現世的な幸福を説き、マルクスらに大きな影響を与えた。キルケゴール死に至る病で、ヘーゲルの壮大な理論体系を理解しても、「この私」の問題解決にはならないと批判し、対象を人間に限定した実存主義の立場をとった。

ジェレミーベンサムは「社会にとってなにが正しい行いとなるのか」「その行為をどのように評価すればよいか」を考え、功利性の原理を含む《道徳及び立法の諸原理序説》を書いた。ベンサムの盟友を父親にもつミルは、《自由論》で、自由についての現代的考え方の源流を打ち立てた。ミルの著作の一部を引用する。

「その原理とは、人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は、自己防衛(self-protection)であるというにある。また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある」

マルクス資本論が書かれたのはヘーゲル哲学確立後で、言うまでもなく、社会主義思想のよりどころとなった書物である。ニーチェの《ツァラトゥストラ》は、すべて生あるものは自分の力を増大させ、支配をめざし、「権力への意志」をもっていると説く。残念ながらこれらの哲学的思想は、20世紀の二つの世界大戦において、しばしば悪用されることとなる。

 

第4章 いったい自分は何者なのか?

第二次世界大戦後、ユダヤ人家庭に生まれ、パリ侵攻で捕らえられて収容所送りになり、その後アメリカに亡命したという経歴をもつハンナ・アーレントが、そのものずばり《人間の条件》という著作で、人間とはなにかを探究した。彼女の思想については解説書を読んだことがある。ブログ記事参照。

現代日本社会でも役立つ「全体主義」の解説書〜仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』 - コーヒータイム -Learning Optimism-

20世紀的概念である、弱者を救済して福祉政策をとる社会民主主義の立場がリベラリズムであり、リベラリズムの考え方をアメリカの哲学者ジョン・ロールズ《正義論》にまとめた。なお、ロールズはのちに《政治的リベラリズム》という著書で思想の方向性を修正している。弱者の中にはいわゆる精神異常者も含まれるが、フーコーは著書《狂気の歴史》の中で、狂人がどのように扱われてきたのか、時代ごとに社会全体のレベルでとらえた。

19世紀末、大きな力をもちはじめていた自然科学に対して、哲学はどのような態度をとるのか、また実際何ができるのか、問いがつきつけられていた。ベルクソン物質と記憶で物質(身体)と記憶(心)すなわち心身問題に取組んだ。ハイデガー存在と時間》、サルトル存在と無を書き、存在について深い思索を重ねた。そのサルトルと対立したメルロー・ポンティは《見えるものと見えないもの》でやはり「存在」を重要テーマとした。

《表示について》を書いたラッセルは論理主義の立場をとり、数学の諸規則を論理学の諸規則から演繹し、論理哲学論考を書いたウィトゲンシュタインは、実証可能な学問だけを真の知識だと考えた論理実証主義に多大な影響を与えた。構造主義を批判したジャック・デリダエクリチュールと差異》で、現在支配的になっている伝統の由来を明らかにし、その支配を根本的に解体することをめざした。

 

第5章 哲学はどこへ行くのか?

ここで紹介された10冊はさまざまな分野にわたるためひとつの流れにまとめられるものではなく、したがってこの記事にはのせない。資本主義社会の帝国化など、まだまだ面白い哲学的課題は山積みである。