コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

ビジネスパーソンの基礎教養〜山口周『武器になる哲学』

ふたたび哲学入門書。

前回の記事をおさらいすると、【哲学】とは「愛知」を意味する学問分野、または活動であるという見方をするならば、根源的には「知識欲に根ざす活動」である。近代までの哲学は形而上学と自然学(自然科学)を含んでいたが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。私たちがいま「哲学」といえばなんとなく「ものの考え方をあつかう学問」だとイメージするけれど、実はこれは哲学の一部でしかない。

本書では、現代社会から見るとおかしな結論を導き出すことも多々ある(アリストテレスの自然学と結びついた天動説などはその典型)哲学が、なぜ、西洋社会では必修とされているのか、という点から語り起こす。ちなみに「なぜ西洋社会の真似をしなければならないんだ」という反論が聞こえてきそうなので補足すると、東洋社会に揺るぎない影響を与えている中国でも、古代から、およそ学者というものは、思想体系ーー近代以前では儒教思想、現代中国では共産党の指導思想というちがいはあるにせよーーを徹底的に学ぶところから始まる。

西洋哲学と東洋思想で共通しているのは、【ものの見方/理解のしかた】を扱う分野であるということだ。著者は【思考の枠組み/コンセプト】という言葉を使う。私の意見では【世界観】とも言いかえられると思う。ただなんとなく現象をながめるのではなく、どのように現象を観察し、どのように論理を組み立て、どのように同じコミュニティに属する人々に説明し、ときにはすでにある考え方を批判するのか。哲学を学ぶことは、そうしたやり方を学ぶことであり、結論の丸暗記ではない(丸暗記すればどうなるかは、アリストテレスの天動説をコペルニクスが覆すまで実に1000年以上かかったことを考えてみればよい)。

本書の著者は、哲学を学ぶことのメリットを4つにまとめている。哲学を学ぶことは、4つの目的を果たすための武器を手に入れることである。

①状況を正確に洞察する

②批判的思考のツボを学ぶ

アジェンダを定める

④二度と悲劇を起こさないために

哲学を学ぶことの最大の効用は、「いま、目の前で何が起きているのか」を深く洞察するためのヒントを数多く手に入れることができるということです。そして、この「いま、目の前で何が起きているのか」という問いは、言うまでもなく、多くの経営者や社会運動家が向き合わなければならない、最重要の問いでもあります。

哲学の歴史が、それまでに世の中で言われてきたことに対する批判的考察の歴史であることを考えれば、②がなにより大切だと私は思う。日本人はクリティカル・シンキング(批判的思考)が苦手とされるけれど、哲学を学ぶことで身につけることが期待できる。

「自分たちの行動や判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して、意識的に批判・考察してみる知的態度や切り口を得ることができる、というのも哲学を学ぶメリットの一つとして挙げられると思います。

著者はこのように前置きしたうえで、「役立つ」哲学のキーコンセプトを50個、4種類に分けて紹介している。以下いくつか紹介。

 

第1章「人」に関するキーコンセプト

人を動かす、ということはビジネスの根幹であるけれど、アリストテレスは著書『弁論術』において、本当の意味で人を説得して行動を変えさせるためには「ロゴス(論理)」「エトス(倫理)」「パトス(情熱)」の三つが必要だと説く。理屈だけでは人は動かないし、きれいごとだけでも動かないのは、誰もが経験しているところ。ただし裏技で人間を動かそうとするならば、洗脳手法になるが、自分の行動を合理化するために意識を変化させる仕組みである認知的不協和をわざと起こして相手の意識を変えるやり方もある。また「ものでつる」のは、とくに子ども相手だとついついやりがちになるが、報酬、特に予告された報酬は、すでに面白いと思って取り組んでいる活動に対しての内発的動機付けを低下させ、少ない努力でより多くの報酬を得ようという考えの方を活発化させるため、人間の創造的な問題解決能力を著しく毀損する、ということが通説となっている。

「弱い立場にあるものが、強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などのおり混ざった感情」と解されるルサンチマン、ようするにやっかみは、酸っぱいぶどうのお話が典型的だけれど、私たちが本来持つ認識能力と判断能力をゆがめ、価値判断を逆転させ(社会的に成功しているとはいいがたい人物が高価なブランド品を買ったり陰謀論にすがりついたりして「誰も持っていないものを持っている自分スゴイ」「誰も知らないことを知っている自分スゴイ」とドヤる心理)、そこにつけこまれて食い物にされてしまう。

わたしたちは自由を無条件に良いものだと考えがちだけれど、《自由からの逃走》を著したエーリッヒ・フロムによると、自由とは耐え難い孤独と痛烈な責任を伴うものであると述べている。一昔前、テキサスで大停電が起こり、インフラ整備はどうなっているんだと責められた市長が、本来自分たちで必要になるものは自分たちでどうにかするべきだろうとSNSで逆ギレしていたが、本質的な自由を得ようとすればこのような論争が起きてしまう。インフラを誰かに頼ればその誰かに支配されてしまう。その誰かから自由になろうとすれば、自家発電機を導入するしかない。お金も手間もかかる。だから実際にはある程度の自由を他人に売り渡し、面倒を見てもらっている人間がほとんど。このように突き詰めると自由というものはよほど自我がしっかりして自分の考え方を確立している人しか背負えない。サルトルアンガージュマンという概念で、自由意思のもとで選択し、現実を「自分ごと」として良いものにしようという態度を提唱しているけれど、たいていの人は流されてしまい、それどころかハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告》で提唱した「悪の陳腐さ」に示されているように、いわれたことをそのまま思考停止で実行したあげく、偽装などの犯罪行為に手を染めかねない。人間に権威への服従心理があることは、ミルグラムが有名なアイヒマン実験でも立証している。

アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

その上でさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

 

第2章「組織」に関するキーコンセプト

リーダー論といえば「恐れられるリーダーとなるべき」「どんな手段や非道徳的な行為も、結果として国家の利益を増進させるのであれば許される」と言い切ったマキャベリの《君主論が有名だが、多数派に対してあえて批判や反論をする悪魔の代弁者も、リーダーがチーム運営をするにあたって役立つことが多い。ただし、リーダーが反論を受け容れられる懐の広い人物であることが前提なのはいうまでもない。ミルの《自由論》はこのことを端的に指摘している。それどころかヘールト・ホフステードは権力格差指標(部下が上役に対して反論する時に感じる心理的な抵抗の度合い)の議論で、上司は自分への反対意見を積極的にさがすべきと説いている。

ある意見が、いかなる反論によっても論破されなかったがゆえに正しいと想定される場合と、そもそも論破を許さないためにあらかじめ正しいと想定されている場合とのあいだには、きわめて大きな隔たりがある。

自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである。全知全能でない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない。

ミル『自由論』 

ある人の意見に反駁する、わかりあえない人こそが学びや気づきを与えてくれるということは、エマニュエル・レヴィナス他者という概念を使って説明している。わからないものにふれる機会を与えてくれるのが他者であり、わかるということはそれによって自分が変わるということだから。

 

第3章「社会」に関するキーコンセプト

人間社会というものはあまたの哲学思考の対象になってきた。ホッブズリヴァイアサンで①人間の能力に大きな差はない ②人が欲しがるものは希少で有限である という二つの前提から、希少なものを奪いあうために戦いあうことこそが世界の本質であることを導き出す。この状態での自由と安全を保障する唯一の方法は、個人個人の自由と安全を剝奪できる権力を有する巨大な権威を置き、社会を統制させることだというのがホッブズの結論であるわけだが、これは突き詰めれば「巨大権力に支配された秩序ある社会」と「自由だが無秩序な社会」のどちらが、人々にとって望ましいのか?という問題に行きつく。

マルセル・モースはポリネシア社会を研究して「贈与」の概念を打ち立てた。①贈与する義務=贈らないことは礼儀に反し、メンツは丸つぶれになる ②受け取る義務=たとえ「ありがた迷惑」と思っても拒否してはいけない ③返礼する義務=お返しは絶対に必要 という図式は東アジアや東南アジアの伝統的社会にもよく見られる。日本でいえばお中元やお歳暮が典型的。これは経済学の定番学説ではうまく説明できない仕組みであるが、モースは逆に、近代社会では「贈与」の考え方がうすれたために人間味までもうすくなってしまったと批判する。

差別問題はどの社会でも深刻だが、意外にもアリストテレスは2000年も前に差別問題の本質を喝破している。差別と格差は、同質性が高いからこそ生まれるというのである。たとえば中世の庶民は貴族や王族を妬まない。生まれ直さないと貴族や王族にはなれないからだ。公正な社会では人々は同質性からくる妬みを抱えながら「おまえがうまくやれないのはおまえが劣っているからだ」とつきつけられる。それは果たして幸せな社会であるといえるだろうか。ともすれば公正世界仮説、すなわち、成功している人はそれだけの努力をしてきた(=努力はいずれ報われる)という説にとらわれた人は、逆に不幸な目にあった人を見ると「そういう目に遭うような原因が本人にもあるのだろう」と考えてしまう。これがいじめの根源的考え方なのはいうまでもない。

すなわち、妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者がいる人々である。ところで、同じ人と私が言うのは、家系や血縁関係や年配、人柄、世評、財産などの面で同じような人のことである。(中略)また、人々はいかなる人に対し妬みを抱くかという点も、もう明らかである。なぜなら、他の問題と一緒にもう語られているから。すなわち、時や場所や年配、世の評判などで自分に近い者に対して妬みを抱くのである。

アリストテレス『弁論術』 

 

第4章「思考」についてのキーコンセプト

ソクラテスがかかげた無知の知=「自分はものを知らない」ということを知っているや、トーマス・クーンのパラダイムシフトはあまりにも有名。

フェルディナント・ソシュールが提唱したシニフィアン(概念を示す言葉)とシニフィエ(言葉が示す概念そのもの)、すなわち言葉の豊かさは思考の豊かさに直結するという考え方も、今日では常識に近くなったと思う。構造主義哲学の立場では、「それ」を示す言葉がなければ「それ」について思考するのは不可能、ということはオーウェルの《1984》ですでに述べられているが、言葉というものは社会文化や歴史的背景によってある限られた枠組みをもち、このためわたしたちの思考は言葉の制限を受け、本当の意味で自由に思考することはできない。たとえば英語に「武士」にあたる言葉はない。"samurai" という外来語を英語に取り入れるまで、武士について語ることはできなかった(まあ「騎士のようなもの」という説明はできなくもないが、西洋の騎士と武士は全然違うものである)。ちなみに「特攻隊」という言葉も英語には存在しないため "Kamikaze" という言葉が取り入れられた。

 

最後に、ジョン・メイナード・ケインズが『雇用・利子・および貨幣の一般理論』で、誤った自己流理論を振りかざしている実務家について記したことを引用する。

知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。