コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 1/100> R.K.Massie “Peter the Great: His Life and World”

ブログを始めてから500冊読破。うち英語は1割未満。ちょっと少ないなぁ…3割欲しいな…と、思いつきで英語の本100冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限はとりあえず2023年3月末まで。

 

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は①。ピョートル大帝というロシア帝国の基礎を築いた偉人の生きざまをつぶさに教えてくれて、読者の人生観そのものに影響を与えてくれる。

Twitterで知った米国在住投資家、じっちゃまこと広瀬隆雄さんが「ボロボロになるまで読んで、ページがちぎれたので新しいペーパーバックを買い直した」とおすすめしていたことをきっかけに購入。最初「ピーターなんて偉人居たっけ……しかも "the Great"?」と首をひねり、しばらくしてようやくピョートル大帝のことだと気づいた。

 

本書の位置付け

ピョートル大帝の伝記。さまざまな歴史的資料(主に手紙類)と論証を引用しながら、偉人の一生をドラマチックに描く。

 

本書で述べていること

本書は5部構成。

第一部: 古きモスクワ大公国 (Old Muscovy)

森林豊かで冬には雪に閉ざされるモスクワの風景とともに、ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフの父親アレクセイから語り起こし、前皇妃マリヤ・ミロスラフスカヤの死、ナタリア・ナルイシキナとの結婚及びピョートルの誕生を語る。

幼き日のピョートルは異母姉ソフィアの政変により障害者の異母兄イワンと共同統治を強いられ、それを嫌ったナターリアとともにモスクワ郊外のプレオブラジェンスコエに移住した。欧州の最新技術の情報をもたらしてくれる外国人たちと親交を深め、同じ年頃の少年たちと軍事訓練さながらの戦争ごっこを繰返して実力を磨いた。偶然、漂流物保管倉庫で帆船を見つけたことからピョートルが航海に興味を抱き、それがのちのロシア海軍創設につながることや、出所不明の噂をきっかけにピョートルとソフィアが一触即発状態になり、ついにピョートルが皇帝の権威をもってソフィアをノヴォデヴィチ修道院に幽閉することなどが、臨場感たっぷりに描かれる。

 

第二部: 大使節団 (The Great Embassy) 

母ナタリアと異母兄イワンの死により、単独統治を始めたピョートルのヨーロッパ周遊について語る。250人もの大使節団にピョートル本人は「ピョートル・ミハイロフ」という偽名で極秘参加し、表向きは皇帝はモスクワにいるよう偽装された(しかし訪問先にはバレバレであった)。

使節団はリガ (*1)  から始まり、ケーニヒスベルク (*2)アムステルダム (*3) 、ロンドン (*4) 、ウィーン (*5) を訪問した。欧州大陸では〈太陽王ルイ14世の全盛時期であったが、フランスはロシアの宿敵であるオスマン・トルコと親交を結んでいたため、ピョートルはパリ訪問を避けた。ピョートルはヴェネツィアにも訪れる予定だったが、ロシア国内で銃兵隊蜂起が起きたとの急報を受け、いそいでモスクワに帰還した。

モスクワ帰還後のピョートルは怒り狂い、銃兵隊2000名近くを全員拷問にかけて事実関係を吐かせ、そのうち1200名を死刑に処した(ピョートルみずから罪人を斬首したという説まである)。ソフィアは関与を否定したが、さらに厳重な監視下におかれ、6年後に死亡した。ピョートルの苛烈な処罰は、彼が訪れたばかりの欧州諸国に衝撃を与えた。

銃兵隊は壊滅し、ピョートルみずからが皇帝親衛隊を再設立したが、彼の治世以降、皇位継承権をもつのが女性や幼児のみとなったとき、だれを至尊の位につけるべきか、皇帝親衛隊の発言権が大きな役割を果たすようになったのは、ある意味皮肉。

(*1) 現在のラトビアの首都。当時はスウェーデン領。大使節団が最初に立ち寄った街であったが、伝令が間に合わなかったため、ピョートル一行は最初、外交上礼儀にかなう歓待を受けなかった。ピョートルは侮辱を受けたと感じ、のちの大北方戦争開戦時に、リガで不当な扱いを受けたことを口実にした。なお、ピョートルは帰国時にここで当時戴冠したばかりのポーランド・リトアニア共和国王アウグスト2世と会った。

(*2) 現在はロシアのカリーニングラード。当時はプロイセン領。

(*3) ピョートルの時代、アムステルダム海上貿易の要として欧州でもっとも裕福な都市であり、絵画をはじめとする芸術・文化の中心地でもあった。ピョートルは芸術にはあまり興味を示さなかったが、後にエカテリーナ大帝が芸術品をアムステルダムより購入している。

(*4) 当時のイングランド王ウィリアム3世はオランダ総督を兼ねていたため、オランダとロンドンの両方でピョートルを迎えた。ウィリアム3世の父親は前オランダ総督、母はイングランド王チャールズ1世の娘であり、ウィリアム3世の妻はチャールズ2世の姪にあたる。当初は妻がメアリー2世としてイングランド女王の座についたが、のちに共同統治となった。なお前イングランド王であるジェームズ2世は、名誉革命で追放された。

(*5) 当時はハプスブルク家が支配する神聖ローマ帝国などの地域の中心地。ピョートルの訪問時はレオポルト1世が在位。レオポルト1世はオーストリア大公、ボヘミア王ハンガリー王も兼ねており、当時の欧州では教皇と並ぶ高貴な存在であった。ちなみにハプスブルク家オスマン帝国と敵対しており、ルイ14世オスマンと親交を結んでいたのはハプスブルク家の力を削るためでもあった。

 

第三部: 大北方戦争 (The Great Northen War)

ピョートル大帝の時代、スウェーデンバルト海沿岸をフィンランド、カレリア、エストニア、イングリア、リボニア (*6)  まで領土展開し、海岸堡としてドイツ北部沿岸地域の一部を支配する大国であった。ロシアにとっては、イワン雷帝の息子フョードル1世が1598年に死去してリューリク朝が断絶した混乱 (*7) に乗じ、カレリアとイングリアを割譲させることでバルト海への出口を奪い、スウェーデンに対抗しえない状況に追いこんだ因縁の相手でもあった。

大北方戦争開戦直前、スウェーデンのカール11世が逝去し、15歳の少年王カール12世が即位した。カール11世時代の政策に不満を持ち、ポーランドに亡命したスウェーデン貴族ヨハン・パトクルの遊説により、デンマークポーランド、さらにロシアのピョートルがスウェーデン侵攻を密約した。(*8)

史実として、1700年、ロシアとの緒戦となったバルト海東部沿岸のナルヴァの戦いで、カール12世は人数にしてスウェーデンの3倍以上あったロシア兵力を蹴散らして勝利をおさめ、1714年、ロシアはガングートの海戦でスウェーデン海軍相手に大勝利をおさめて制海権をにぎった (*9) 。著者は、緒戦の勝利がカール12世にある種の慢心を生じさせ、ピョートル率いるロシアを甘く見させてしまったのかもしれないと書いている。この章を読むと、『銀河英雄伝説』のシドニー・シトレ元帥の名言を思い出す。

勝ってはならないときに勝ったがため、究極的な敗北に追いこまれた国家は歴史上、無数にある。

(*6) リガは当時リボニアに属していた。注釈 (*1) も参照。

(*7) ロマノフ王朝が創設されるのは1613年。リューリク朝断絶からロマノフ王朝創設までの時代は動乱時代と呼ばれる。内乱や飢饉、ポーランドリトアニア軍やスウェーデン軍の侵攻、南部境界地域のタタールの侵略により、ロシアは実態としては国家機能を喪失していたが、ミハイル・ロマノフのもとにロシア国民が団結し、苦闘の末に侵略軍を退けた。

(*8) ただしピョートルの場合は「ロシアとオスマン帝国間で停戦条約が調印されたあとでなければスウェーデン侵攻は行わない」という条件付きであった。著者は、ピョートルがその治世において同時にスウェーデンオスマン帝国という二つの強敵を相手にせずに済んだのは幸運であったと評する。大北方戦争で不利になったカール12世がオスマン帝国に亡命した際、オスマン帝国スウェーデンが組んでロシアを討つ構想をあげたが、当時のスルタンは停戦条約を理由にこれを退けた。

(*9) ロシア海軍がピョートルのもとで創設されたのが1696年であり、ピョートルが大使節団に同行して学んだ造船術や航海術がおおいに役立てられた。ピョートルの治世初期まで黒海オスマン帝国が、バルト海スウェーデン王国がおさえ、ロシアには軍港がなかったことを考えれば快挙というほかない。1703年に建設されたサンクトペテルブルクバルチック艦隊の本拠地となった。

 

第四部: 欧州の舞台にて (On the Europian Stage)

オスマン帝国についての本書の記述は、簡潔にして要点をおさえている。

The Ottoman Empire, every hectare conquered by the sword, stretched over three continents. (......) Great cities as distant and as different as Algiers, Cairo, Bagdad, Jerusalem, Athens and Belgrade were ruled from Constantinople.

ーーオスマン帝国の領土は1ヘクタールに至るまでその剣に征服されたものであり、三つの大陸にわたっていた。(......) 距離の上でも文化の上でもかけ離れたアルジェ、カイロ、バグダッドエルサレムアテネベルグラードのような大都市がコンスタンティノープルから支配されていた。(意訳)

オスマン帝国は壮麗帝スレイマン1世(1520 - 1566)のもとで栄華を極め、ピョートルの時代には衰退のきざしを見せていたもののまだ充分に脅威であった。ピョートル大帝不凍港を求めて南下政策をとり、クリミア半島東側、アゾフ海 (*10) に注がれるドン川河口のアゾフ城砦を占領した (*11) 。しかしのちのプルート川の戦いで、オスマン帝国軍に包囲されたピョートルは、停戦と引換えに、アゾフ城砦をはじめとするオスマン帝国から獲得した領土を放棄させられた (*12) 

南下政策をあきらめざるをえなかったピョートルは、バルト海と欧州外交に力をそそぐ。美しい新築都市サンクトペテルブルクが新首都となるのもこの頃。モスクワからサンクトペテルブルクに移動した外交官たちが、このころのロシア宮廷の日常活動を報告書や回顧録などでいきいきと描写している。サンクトペテルブルク北西のクロンシュタットに船で赴き、そこで週末を過ごそうとピョートルに誘われたときは、行きは嵐でガレー船が投錨して2日2晩飲まず食わず、クロンシュタットでは毎晩酔いつぶされて昼間はなぜか斧をわたされて木を切る手伝いをさせられ、帰りは突風で船が浸水して川の中洲で焚き火にあたりながら野宿するという悲惨な目にあわされたという。

(*10) 黒海北部の内海。

(*11) 当時のクリミア半島オスマン帝国の従属国、モンゴル騎馬民族の末裔が治める勇猛果敢なクリミア・ハン国の本拠地であり、ロシアには手が出せなかった。ロシアがクリミア半島そのものに侵攻するのは、19世紀、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争を待たなければならない。ちなみに壮麗帝スレイマン1世の寵姫ヒュッレムは、ウクライナ西部の町ロハティン出身であったが、クリミア・ハン国によって故郷から掠奪されてオスマン帝国に売られ、女奴隷としてハレム入りしたといわれる。

(*12) 本書の著者は、ピョートルはプルート川の戦いで敗れはしたものの、オスマン帝国支配下バルカン半島に史上初めてロシア皇帝軍が侵攻したことそれ自体が、ロシア正教の支配的地位を受け入れる素地をバルカン半島キリスト教徒たちの中に根付かせたと評している。

 

第五部: 新しきロシア (The New Russia)

この章ではピョートル大帝が試みた国内改革を、政治、経済、宗教、日常生活及び社交界などの面からまとめている。

ある日、晩餐の席で父帝アレクセイの政績が話題になり、ピョートルは老臣ドルゴルキーに自分と父帝のどちらがすぐれているか尋ねた。ドルゴルキーは答えた。皇帝の重要な仕事は3つある。国家運営、軍隊の整備、外交がそれである。1番目ーーこれはアレクセイの方が優れていると言わざるを得ない、なぜならピョートルは遠征続きで内政にかける時間がそれほど取れなかったから。2番目ーーこれはどちらが優れるか判断しがたい。3番目ーーこれは文句なしにピョートルの方が優れている、と。

ピョートルが内政に時間をかけられなかったのは確かだが、彼は試行錯誤しながら、絶対君主が遠征で留守にしている間に国家を動かしていく政治的仕組みや、国内産業育成や、寛容な宗教政策などをとってきた。ピョートルはあまりにも外国人を重用し、外国のさまざまな仕組みを(ときには試験的に)ロシアに導入することを繰返したため、反対勢力も多く、改革は一筋縄ではいかなかった。さらに度重なる戦争や、サンクトペテルブルク建設をはじめとする土木工事のために国民に重税をかけなければならなかったが、諸外国から借金することだけはなかった。

1725年1月28日、ピョートル大帝は53歳の生涯を閉じた。後継者問題がくすぶる中、帝位についたのは妻であるエカテリーナであり、後にエカテリーナ1世と呼ばれる女帝であった。

 

感想いろいろ

ロシアがウクライナに全面侵攻したことが連日報道されているこのご時世、どうしてもウクライナやキーウ(キエフ)についての記述に目が行く。

本書第1章にキーウの位置付けが明快に述べられている。アレクセイはロマノフ朝第2代皇帝、ピョートル大帝の父親である。

Late in his reign, Alexis had won back from Poland the shining prize of Kiev, mother of all Russian cities and the birthplace of Russian Christianity.

ーーその治世の後期においてアレクセイは、輝かしきキーウ、すべてのロシア都市の母にしてロシア正教の生誕地であるキーウをポーランドより取り戻した。(意訳)

東スラブのキリスト教化は、988年、キーウを首都とするキーウ・ルーシー公国の大公がビザンツ帝国の司祭より洗礼を受けたことが始まりだという。13世紀にモンゴル帝国がキーウを支配すると、キーウの府主教は主教座をモスクワに移転。モスクワ公国が正教会の庇護者であることを自認し始めたのはビザンツ帝国滅亡後であり、コンスタンチノープルの総主教より独立した総主教座の地位を獲得したのは1589年である。すなわち西欧文化の起源がギリシャ・ローマであるならば、東欧文化の起源はキーウ、ロシアにとっては宗教面、歴史面、文化面で文字通り「はじまりの地」なのだ。

ロシア史を学べば、2014年のクリミア半島侵攻も、2022年のウクライナ侵攻及び大ロシア主義復活宣言も、ピョートル大帝時代からの悲願を繰返しているという見方ができる。クリミア半島はーーエカテリーナ2世 "Catherine the Great" 時代にロシア黒海艦隊基地が設立されたようにーー黒海の軍事支配の要であり、黒海は地中海進出の足がかりになる。キーウがはかり知れない文化的価値をもつように、クリミアは数百年かけてロシアが獲得した軍事的価値の高い地域なのだ。

ソ連時代にはクリミアもウクライナソ連支配下の共和国であった。たまたま1954年にクリミアがウクライナに帰属変えさせられたために、ソ連崩壊時にクリミアがウクライナとともに独立してしまった。ロシアとしてはウクライナはもちろん、クリミアを手放すつもりなどなかった」ロシアの言い分はおおよそこんなところであろう。

 

あわせて読みたい

Twitter上で秀逸なスレッドをみつけたので引用。なぜロシアがいまウクライナに、そしてソ連帝政ロシアポーランドバルト海三国など征服地域全てに対して、ロシアの言葉、文化、慣習、政治体制を押しつけようとするのかについての深い洞察。

68/110
年代記の「ロシアの町」の地図は、民族や話し言葉の地図では「ない」。それは、当時「ロシア人」と呼ばれていた古代教会スラブ語の聖なる共同体の地図だ。出自や話し言葉は関係ない。典礼に古代教会スラブ語を使えば「ロシア人」になるのだ。

71/110

欧米人が中世の聖なる共同体と現代の国民国家を同一視するのは、無知だ。しかし、ロシア人がそれを行う場合、それは政治的な主張だ。かつて古代教会スラブ語の聖なる共同体であったものが、いまやロシアの単一民族国家に変容しなければならないのだから。

74/110
これが、プーシキンが現代のロシアにとって重要であることの説明だ。ロシアはエカテリーナ2世の時代に現在のウクライナベラルーシを併合した。以来、ロシア政府は、政治、文化、言語の面で、すべての東スラブ地域をロシア標準にならって均質化するよう常に戦ってきた

97/110

ウクライナがロシアと異なるのは、使用する方言だけでない。東ウクライナは17世紀にロシアの支配下に入ったが、ロシアへの統合は18世紀末のエカテリーナ2世の時代から始まった。したがって、ロシア人とウクライナ人のミームは異なる進化を遂げた。

98/110

ロシアとウクライナの文化の違いには、個人の主体性、個人の尊厳、集団行動に対する理解の違いがある。ロシアでは、これらの考え方は、何世紀にもわたってロシア国家によって徹底的に排除されてきた。ウクライナでは、その時間ははるかに短かったのだ。

106/110
さらに重要なことは、ロシア国家がロシアにおける人間の尊厳の観念を破壊したことである。ロシア人は、自分たちには何の尊厳もないという考えを内面化した。彼らの尊厳、重要性、自己価値は、帝国に属する(=服従する)ことで初めて導き出されるのである。

110/110
文化の均一化、それがZ戦争の真の目的だ。古代の聖なる共同体の方言の分岐を、全員がロシア人になる方向へ誘導することだ。ウクライナの問題は、その方言がいまだ存在することにある。これが、ロシア文化に深く埋め込まれている観点だ。
(スレッド終了)

仮蔵 on Twitter: "ミームの戦争: 🇷🇺が占領地でロシア語教育を押し付けたり、教科書や学習指導要領で🇺🇦の歴史を消去しようとしたりしていますね。このような動きの文化的背景をよく説明する論考スレッドをご紹介。著者はKamil Galeev氏。脅威の110連ツイ。要約3つ投下してから本文投稿します。 https://t.co/fe4Csf722X"

 

ピョートル大帝と彼の異母姉ソフィアの権力争いは、イリヤ・レーピンの歴史絵『皇女ソフィア』(正式名称は、「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィア・アレクセーエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の使用人が拷問されたとき」)及びそれを解説した中野京子著『怖い絵 死と乙女篇』に臨場感たっぷりに描写されている。

ソフィアは最終的には権力争いに敗れて修道院で憤死する。皇族女性がろくな教育も受けられずに宮殿の奥深くで生涯を終えるのがあたりまえだった時代、女性の身ながら一時最高権力を手にした型破りな彼女を、本書の著者は、ピョートルの玉座を脅かしたただひとりのロシア人、修道院に幽閉されてなお彼に脅威を覚えさせた勇猛果敢にして強靭な意志の持ち主と評している。彼女の存在はのちのエカテリーナ大帝をはじめとする女帝を受け入れる下地を築いた。