アーサー王物語はただの伝説ではない。イギリス文化に溶けこみ、空気や水のように、普段意識することはないけれど、あるのがあたりまえであり、深層水のように意識の底流の一部をなす。
およそヨーロッパの物語や戯曲や詩歌などといった創作物が、ギリシャ神話やホメーロスや聖書を抜きには語れないように、アーサー王物語(と、もちろんシェイクスピア)抜きではどんなイギリス文学を語るのも難しい。日本人であれば、《古事記》を読んだことがなくともイザナギやアマテラスやヤマタノオロチの名前は誰もがどこかで耳にする。同じように、アーサー王物語自体は知らずとも、数多くの文学作品はその影響を知らず受けており、読み手にもそれを伝えるーーそういうものだ。
たとえば《ハリー・ポッター》シリーズにはマーリン勲章というものが登場するが、イギリス人ならすぐに、アーサー王物語の大魔術師マーリンを思い浮かべることだろう。マーリンはアーサー王の父親ウーゼル王が人妻イグレーヌに横恋慕したとき、魔法でウーゼル王を彼女の夫であるティンタジェル(コーンウォール)公ゴロイスの姿に変え、逢引を手助けしたというから、21世紀の価値観からするとちょっとどうなのかと思わなくもないが……。
本書はアーサー王物語を読みやすい語り口でまとめたもの。数百年語り継がれてきた伝説によくあることだが、アーサー王物語にもさまざまな分岐があり、本書はたぶんそのうちもっとも有名なものを採用していると思われる。
ウーゼル王とイグレーヌの間に生まれたアーサーは、十五歳で父を亡くしたあと、奇蹟の剣エクスカリバーを抜いたことでブリテン島の王と認められる。かの円卓の騎士たちのための円卓は、大魔術師マーリンがアーサー王のために用意した。
マーリンはつぎにカーライルへ行って円卓を準備しました。それはブリテンの立派な貴族たちがこぞって座れるように作られたものです。この名誉ある席に列なることを許された貴族たちは、みな誓いをたててつぎのような義務を負いました。つまり、たがいに自分の生命を賭してたすけあうこと。それぞれ最も危険な冒険を試みること。必要なときには修道士のような孤独な生活をたえしのぶこと。召集を受けた場合はただちに駆けつけ戦闘の用意をすること。戦闘にあたっては、夜の訪れによって引き分けとならぬ限り、敵を撃ち破るまで絶対に戦闘から身をひかぬこと、などでした。
円卓の騎士のうちかなりの人数はアーサー王と親戚関係にあったらしい。最も有名な騎士のひとりガウェインは、イグレーヌと前夫ゴロイスの娘でありアーサー王の異父姉にあたるモルゴースの息子。彼の3人の弟たちも円卓の騎士に名を連ねている。さらに、勇猛な騎士でありながらアーサー王を裏切り、王妃ギネヴィアと不倫関係を結んだモルドレッドも、モルゴースの妹であり魔女のモルガン・ル・フェイを母に持つため、アーサー王の甥にあたる。(モルドレッドはモルガンとアーサー王の不義の子という説もあり、またモルゴースとモルガン・ル・フェイは同一人物扱いされることも。ややこしい)
アーサー王物語の騎士道精神と中世冒険物語には大いにわくわくさせられるが、恋愛関係は一転してかなり込み入った後ろめたいものが多い。
王妃ギネヴィアは恋多き女性だったようで(一説にはアーサー王を嫌った魔女モルガン・ル・フェイの呪いにより次々不義を重ねたとか)、モルドレッドのほかに、比類なき気高い騎士であるランスロットとも恋愛関係を結んでいるし、もう1人の円卓の騎士、バグデメイガス王の息子マレアガンスからは片思いされたあげく誘拐沙汰になる。
ランスロットは王妃一筋であったものの、ペレス王の娘であるカーボネックのエレインとの間に、後に円卓の騎士として聖杯探索に成功するガラハッドをもうけている(エレインはランスロットに薬を盛り、ギネヴィアだと錯覚させて関係をもったというから恐れ入る)。また女性から好意を寄せられることも少なくなく、それに王妃が嫉妬心を露わにするものだから痴話喧嘩も絶えない。
ランスロットと肩を並べる誉高き騎士トリスタンは、やはりランスロットと同じく報われない恋ーー伯父コーンウォール王マルクの妻である美しいイゾルデへの恋ーーを抱えていた(しかし美しいイゾルデとトリスタンがもともと想いあっていたのをむりやり横取りしたマルクの自業自得でもある)。トリスタンは紆余曲折を経てブルゴーニュのホウエル王の娘、白い手のイゾルデを娶り、聖杯探求の旅に出るが、志半ばで斃れる。ちなみに彼の最期にかかわる白い帆と黒い帆の問答はギリシャ神話由来。
騎士物語と悲恋物語がからみあい、アーサー王と円卓の騎士たちの悲劇は完成する。さまざまな創作物にインスピレーションを与え続けるアーサー王物語の入門書として、本書はこの上なくふさわしい。