コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 35 / 365> P. Saniee “The Book of Fate”(邦題《幸せの残像》)

英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数は最低100頁程度、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日
本書はイランの女流作家によるベストセラー。邦訳タイトルは《幸せの残像》であるが、英語版原題は "The Book of Fate"。"Fate" という言葉は日本語で運命、宿命に訳される。英英辞典では "the development of events outside a person's control, regarded as predetermined by a supernatural power." 、すなわちあらかじめ運命の女神により定められ、本人にはコントロール不可能な出来事を意味する。

女性の一生をつづる物語は、フィクション、ノンフィクションにかかわらず、女性に生まれたゆえにさまざまな制約を課されなければならない息苦しさ、そこから脱出しようともがきつづける葛藤と無縁ではいられない。

古典英米文学では、イングランドの田舎で結婚問題に悩む若い娘たちを生き生きと描くジェイン・オースティンの『傲慢と偏見』、アメリ南北戦争時代をたくましく生き抜くスカーレット・オハラが主人公の『風と共に去りぬ』は定番中の定番。近現代では、祖母から孫娘までの三代にわたり、激動の20世紀中国で嵐にもまれながら生きた女性の人生を血の滲むような文字でつづったノンフィクション『ワイルド・スワン』や、韓国女流作家の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』がよく知られる。

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本書もその流れを汲む、20世紀のイランを生きる女性の半生を描くフィクション。邦訳版巻末のインタビューで、作者は次のように述べる。

ヒロインはマスーメと命名する必要がありました。マスーメとはペルシア語で『無垢』という意味です。彼女が直面した問題はどれも彼女自身の行動や間違いの結果引き起こされたものではありません。彼女は伝統や文化、社会、政治がもたらしたものの代償を支払わされたのです。

物語は1960年代から始まる。イランは親米派のパーレビ国王治世下にあり、主人公は15歳になったばかりの少女マスーメ (英語でMassoume)。田舎育ちの彼女は、信心深く、家族の恥にならぬようふるまうことを求められ、父母やきょうだいとともにテヘランに引越してからも、ラジオで流行音楽を聴くことも、女友達の家に遊びに行くことも許されず、高等学校に進むためにも父親に必死に頼みこまなければならなかった(当時のイランではマスーメの年の少女はすでに結婚適齢期とみなされていた)。

作者は「彼女が直面した問題はどれも彼女自身の行動や間違いの結果引き起こされたものではありません」と語るものの、マスーメが生きた時代、おかれた環境では、もちろんすべては彼女のせいであった。テヘランに行きたがったせい。高等学校に通いたがったせい。ハンサムな男子大学生がバイトをしている薬局に通うなどふしだらきわまりない。ましてや足首を痛めて介抱してもらうなどどこまで恥知らずなのか。後妻だろうとなんだろうとさっさと地元で結婚出産していればよかったのに、そうしなかったマスーメが全部悪い。

根底にあるのは、女性に子育てや家事などいわゆる「家庭内の役割」以上をさせたくないという男性本位の考え方である。女の子はどれほど仕事ができようと関係ない、結婚出産してこそ一人前、という価値観を必死にすりこもうとする人々は男女問わず大勢存在する。

マスーメもまさにおなじような顛末をたどりそうになる。彼女は高校を退学させられ、お見合いの末結婚させられる。ほぼ見知らぬまま夫となった男性との夫婦生活はマスーメにとっては "my unpleasant duties" ーー不愉快な義務ーーであり、しかも夫となったハマッド (英語でHamid、アラビア語で「アッラーを称賛する者」を意味する)は熱心な共産主義者で反王制活動にすべての時間と精力を注ぎ、妻に自分のやりたいことを制限されたくないしあれこれ詮索されたくないと言い放つ。

マスーメは、いつも自分は父親の、兄弟の、夫の、息子の体面のために生きることを強いられてきたと口にする。ハマッドが女性にも教育を受ける権利があると考え、マスーメが学業を続けることを許したことだけは幸いであったが、本質的にはマスーメが自分のすることに干渉しなければなにをしようとかまわなかっただけであり、結局のところ、彼女をひとりの人間として尊重しないという点では伝統的な男性たちと変わるところがない。マスーメがマスーメ自身の望みだけをもとになにかを選択することが許されたためしなどなかったのだ。

アーサー王物語に登場する魔女は、"above all things women desire to have the sovereignty"、女性の真の望みは己の運命の主人たることであると言った。現代はフェミニズムがさかんで、女性の教育水準があがり、社会進出が進み、男女平等が声高にうたわれるようになったけれど、女性が真の意味で己の主人たることができているのだろうか?この本を読むと心もとなくなる。