コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

信頼障害としてのアディクション〜小林桜児『人を信じられない病』

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は②。酒、タバコ、違法薬物、買い物、性的行為……さまざまな依存症について情報があふれかえる中で「信頼障害」という観点から依存症をとりあげたのが新鮮であった。

 

本書の位置付け

本書は、依存症患者を実際に診察している精神科臨床医の立場から、依存症とはなにか、どのように依存症患者に向かいあえばいいのかを書いた本。

著者は前書きで「依存症を一つの大きなジグゾーパズルにたとえるならば、さまざまなマスコミや研究者たちのピースはすでに数多くはめこまれているが、連日連夜、外来でも病棟でも依存症の患者の診療に直接当たっている臨床医たちのピースが少なすぎたのだ。」と述べている。

 

本書で述べていること

世界保健機関ICD-10(国際疾病分類第一〇版)やアメリカ精神医学会のDSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル第五版)などといった診断基準によれば、アルコールや薬物などへの依存そのものではなく、依存によりその人の日常生活や心身健康にトラブルが起きているにもかかわらず、やめることができないとき、コントロールを失っていると判断し、アディクションを診断する。

本書では『信頼障害仮説』という仮説が提示され、ルポルタージュに近いかたちでこの仮説を提示するに至るまでのさまざまな経験、検証、思考実験が説明されている。 『信頼障害仮説』とは、依存症患者たちは『人』を信じられず、アルコールや薬物といった『物』、買い物といった『単独行動』しか信頼できない状態にある、という仮説である。

 

感想いろいろ

本書をなにがなんでも読もうと思ったのは、たまたま以下の一節が目にふれたからだ。

明白な生きづらさを生きのびてきたアディクトは、幼少期に近親者を失う不安感や、虐待、養育放棄、学校でのいじめに伴う耐えがたい苦痛を一人で我慢してきた。周囲に助けを求めようとしても、本来なら一番助けてくれるはずの親が加害者本人であったり、いじめ被害を訴えても「あなたがわがままだからでしょう」「そんなことあるわけないでしょう」などと取り合ってもらえなかったりして、彼らは人生の早い段階で他者にSOSを出すことを諦めてきた。

私だ、と思った。私は精神面の不調で他者にーー親にーーSOSを出さない一人だ。親は我が子を含めた他人の精神面に全然理解がなく、内容が正しければどんな言い方でもかまわない、という信念を持つ人であった。

つまり、アディクトは「我慢を続けてきた人」なのだ。だからこそ、彼らはアディクトではない人々より実ははるかに我慢強い。通常ならとっくに音を上げて、誰かに泣きつきたくなるような状況でも、アディクトは我慢し続ける。泣きつけるほど信頼できる、安心できる他者を彼らはもっていないからである。

私だ。私は泣きつけるほど信頼できる、安心できる他者を探しつづけていたーーついにそんな者はどこにもいない、今生にめぐりあうことはないと諦めるまで。

アディクトにとって「他者」とは自分に危害を加えたり、プレッシャーや不安を与えたりして何らかの苦痛を強いる存在、常に気を遣い、我慢しなければならない相手でしかない。

(中略)

アディクトたちは基本的に「人」と一緒にいると疲れるのであり、信頼関係ができて本音を言ってくれるようになると、「本当は一人でいるほうが楽」と答えるものである。

私だ。私は対人交流が怖いのだ。私は何度も社交的になろうとした。だが人と一緒にいるとどうしても怯え、疲れてしまうことを繰り返し思い知らされた。私にとって安心してつきあえる人とは【つきあうに値しない私という人間を、その気になればいつでも突き放せるほどに自立した強い人】であった。私はつきあうに値しない、が大前提だ。今でも。

アディクトははじめ頼りたかった「人」に裏切られ、今や頼りにしていた「物」にも裏切られている。それでも、ほんとうに苦しい時に「物」はかつて自分を助けてくれた、という記憶は残っている。「人」に助けてもらった記憶は、ない。だからこそアディクトは「物」に頼り続ける。「今度こそ、うまくいくはず」とみずからを奮い立たせながら、失敗を繰り返すのがアディクトのジレンマなのだ。

さいわい私はーー一時期病的にインターネットやオンラインゲームにはまりつつもーー一応社会的生活を送ることができている。だがそれはただ単に幸運だったからだ。少しでも、出会う人、選んだ行動が違っていれば、破滅する可能性はあった。