コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】小説ではなく人生そのもの『白銀の墟 玄の月』

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 性格は変えることができる、ただし多大な努力と、時には犠牲を払えば、と、前向きに考えるようになった。これまでは「私の性格のこの部分が嫌いだけど、この歳になれば多分もう変わらない」と諦めていた。
  • まずは自分がキャパオーバーになって追いつめられないために、ひとに任せることができること、お金で代行サービスを買えることは、外注するようにした。

 

小野不由美さんの〈十二国記〉シリーズのかねてよりのファンで、新作『白銀の墟  玄の月』全四巻も発売日まもなく買いに走った。

読み終わったときには、愕然としてしまった。

とんでもない物語を読んだ、という衝撃。えっアノ場面は書かないの?  という驚き。さまざまな感想が一杯になったが、とにかく一言でいうと、化け物としかいえない凄まじい小説だった。

 

物語の舞台は、十二国と呼ばれる異世界。そこでは天が定めた条理のもとで十二の国家が存在し、十二の麒麟と呼ばれる神獣が天命ある王を選び、選ばれた王が国を治めている。

だが、十二国のうちのひとつ、戴国はここ6年間荒れていた。戴国の王である泰王と、泰王を選んだ泰麒が行方知れずになっていたのだ。泰王の代わりに臣下が治世にあたっていたが、自分に逆らう者、泰王の味方と思われる者は軍を出動させて一族郎党どころか街単位で皆殺し、そのくせ政治は無関心、という状態で、戴国の民は塗炭の苦しみをなめさせられていた。

『白銀の墟  玄の月』は、秋が深まろうとするころ、戴国の女将軍・李斎が、ようやく見つけた戴国の台輔・泰麒を伴って、戴国に戻るところから始まる。

戴国では冬越しがなによりも厳しい。雪に閉ざされた大地は凍りついて掘ることすらできず、秋に食糧と炭を蓄えることができなければ餓死か凍死するしかない。だが、荒れた国、疲れた民では、満足に作物を育てることもできず、いつ土匪や軍が襲ってくるのかびくびくしながら生き延びるのが精一杯だった。

そんな中で帰国した李斎と泰麒は、行方知れずの泰王を捜しながら、どうにか冬が来る前に民を救うことができないか模索する。だが二人にできることはあまりにも少なかった。身を隠しながらわずかな手がかりを追い、民間団体に助けを求め、泰王がまだ生きていることに一縷の望みをかける。やがて泰麒は李斎と別れることを決めて、麒麟としての自分にしかできないことをなすために王宮に乗りこむーー。

 

さまざまな登場人物が目まぐるしく変わっているから、誰を物語の中枢にするべきなのは人それぞれかもしれない。

小野不由美さんはかつて「どんな脇役にも人生があり、すべての登場人物にとっては自分こそが主人公である。だけどそれを書きこむと本の横幅より分厚い本になってしまうから書けない。だからそこは読者の想像力にすがりたい」というふうに言っていた。『白銀の墟  玄の月』でもそれが貫かれていて、どの登場人物も、それまで積み重ねてきた人生の上で、物語に登場するいまこの瞬間を生きている、と感じられる。

それでもあえて選ぶなら、私から見ると、この物語の中心はまぎれもなく泰麒だ。

泰麒は今作で、時には葛藤し、時には血を流しながら、これまで麒麟の本性とされてきたことをことごとく覆してみせた(麒麟は慈悲の生き物である、決して剣をとることができない、孤高不恭の生き物で決して王以外には膝を折らない、etc)。

麒麟の本性とされてきたものは、一部は麒麟として生まれてからの教育のおかげかもしれないが、一部は確かに泰麒の本性とも本能とも呼ぶべきもので、決して覆すことができないものだ。ーー本来なら。

それを覆した泰麒がそれだけ主上や戴国のために無茶をしたのだ、自分自身に打ち勝つことができたのだと、ヒーローのように崇め奉るのは簡単だけれど、私はここまで読んだとき、泣けてしかたがなかった。

 

ーーとうとう小野主上が『本性に逆らう』話を書いた。ということと。

ーー頼むから、ここまで過酷な経験に投げこまれないと本性を変えられない、なんてことを突きつけないでくれよ、ということを思って。

 

生まれついてのどうしようもない本性に葛藤する姿は、小野不由美さんのほかの小説にも登場する。

黒祠の島』の浅緋、『屍鬼』の沙子や律子がその典型だろう。浅緋は生まれついての本性を受け入れて「自分はこういう存在だ」と開き直っており、沙子は「こんな弱い生き物は嫌だ」と泣きながらも冷酷な摂理に立ち向かうことができずにいた。律子は「自分を嫌いになりたくない」と本性に逆らいつづけたが、その先には死あるのみであり、希望はどこにもなかった。

『白銀の墟  玄の月』では、麒麟として生まれついた泰麒が、一時的とはいえ、麒麟の本性に悖る行動をすることができた。登場人物のひとりはそれを「意思の力でやってのけたんだろう」と看破していたが、まわりの人々には効果絶大だった。

だがその対価は凄まじい。

まず、泰麒がそれを決断するまでに必要だった人生経験。泰麒はーーこちらの世界とあちらの世界でーー本人の望みにかかわらず事故や天災を巻き起こし、数えきれないほどの犠牲者を出した。麒麟は血を厭う生き物だけれど、自分で殺さないだけで、使令として使う妖魔に殺させるのであれば、結局変わらないことを嫌というほど思い知らされた(『魔性の子』『黄昏の岸  暁の天』にこのあたりの事情が丁寧に書かれている)。これだけの経験をくぐりぬけてきたゆえに、泰麒は、あまたの屍のうえに、それでも現在戴国に自分が在ることを選んだ、だからここで投げ出すことはできない、と、強く決意していた。

つぎに、本性に悖る行動をしたために払わされた代償。泰麒の行動は、望む結果を引きよせることができたけれど、そのために将来にわたって身体の不調が残ると宣言された。どのような不調が残るのか、物語では明らかにされていないが、最高位の神獣であり、穢瘁や失道以外にはほとんど病気一つしない麒麟に、一生ものの不調が残ること自体、とんでもないことだ。

ここまでの人生経験を重ねて、これだけの代償を支払って、ようやく本性に悖る行動をなしえるのか。逆にいえば、ここまでしなければ人間は己の本性に逆らうことができないのか。この物語はそれを赤裸々に見せているのか。

そう感じて、気持ちが沈んだ。

しかも、である。〈本性〉は一時なりとも逆らうことができるものとして書かれていたが、決して逆らうことができないものもまた登場する。〈天の条理〉と呼ばれるものだ。いわば神が定めた規則で、逆らえば神罰として死あるのみという厳しさだ。

物語の中では「変えられるもの」と「変えられないもの」が峻別されていた。泰麒が意思の力でねじふせた本性は「一見変えられないが、そう思いこまされていたところもあって、代償を支払えば変えられるもの」。神が定めた天の条理は「変えられないもの」。

ニーバーの祈りと呼ばれる言葉があるが、それをとことん突きつめている。

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed,and the Wisdom to distinguish the one from the other.

ーー神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

Wikipediaより)

ここまで「本性を変えること」を抉りさげた小説は見たことがない。麒麟という生き物はこういうものだ、という前提がこれまでのシリーズで明らかにされていたからこそ、ここまでの衝撃を与えられたのだと思う。

 

私は泰麒という登場人物から読んだが、この小説はさまざまな読み方ができる。泰麒が本性に勝つ物語、李斎が絶望的な状況の中でもあきらめない物語、国盗りを実行した臣下・阿選が泰王に勝とうとあがく物語、天の条理に触れんとした臣下・琅燦の挑戦物語、塗炭の苦しみの中でも精一杯生きた去思や朽桟や数多くの協力者の物語、子供を飢えで亡くしながらも泰王への恩を忘れずに弔いつづけた名もなき轍囲の親子たちの物語……あげればきりがない。きりがないほどに、それぞれの登場人物が生きている。

登場人物を生かすためのエピソードは惜しげなく盛りこむ一方、ふつうなら最大の見世場となるであろうエピソードも、必要ないとみれば歴史書の記述一行で済ませてしまうなど、恐ろしく合理的な判断もある。この辺は第4巻最後まで読んだ方であれば分かってもらえると思う。小野不由美さんは徹頭徹尾、人間が己の信念や必然によって動くことで物語が動くのであり、見世場をつくるために必要もないのに人間を動かすことはしない、という意思を貫いており、また、そうしても〈十二国記〉の読者は分かってくれる、という信頼も感じる。

とんでもない物語を読んだ。そうとしか言えない。18年ぶりの新刊だけれど、この物語を書くのにこれだけの年月が必要だったと腹落ちする。是非手にとってほしい。そして、それぞれの物語をじっくり何度でも味わってほしい。