コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

親との関係を冷静な目で見つめなおすことは、これからの人生で最も役立つ『不幸にする親 人生を奪われる子供』

 

不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)

不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)

 


一切の期待も、希望も、信頼ももたない。

 

〈母親〉という言葉が私の中に呼び起こすすべてのイメージと、〈私を産み育てた女〉について私がもつイメージとを、切り離す。

 

ここまでして初めて、私は、これまで私を呪縛してきたものから解放されることができた。

〈私を産み育てた女〉が「あなたが○○をしてくれないから、私は心配でしかたない」と、大げさな身振りを交えながら言っても、「なぜあなたを心配させないために、私が自分の意志を曲げて○○をやらなければならないのかわからない」と、心底から思うことができた。それまでなら〈母親〉を心配させたり悲しませたりすることに罪悪感を覚え、多少なりとも言うことを聞こうとしただろうが、〈私を産み育てた女〉であれば、罪悪感を抑えることができた。

「母親と娘がいさかいを起こしたら、いつだって間違っているのは娘の方なのよ。だって母親が娘を愛していないわけがないもの」

そう聞かされても、「母親神話はもうたくさん。母親は愛していたつもりかもしれないけれど、それは私が欲しかった愛の形ではなかった。だから私は【それは私が欲しいものとは違う】と認識するし、それを間違っているとは思わない」と、考えられるようになった。

 

ここまでくるのに10年以上。

その間にさまざまな本を読み漁った。〈産み育てた女〉との関係がこじれている娘は自分だけではないことを知り、〈私を産み育てた女〉との間で起こっていることを言語化した。

たとえばWikipedia毒親について書かれている項目で、この一節はとても役に立った。

宗澤忠雄は、「毒親」に関する多くの議論の共通点は母親の「自己愛」問題であり、「子育てという親子の相互作用において、子どもを愛でる「対象愛」よりも「自己愛」に偏重し、自分の必要や情緒的ニーズを満たすことを常に優先する関与によって、子どもを傷つけていく」と述べている。

本書はその中で一番最近に読んだ。私が自分の中でうずまくものをはっきりと言葉にするために、冒頭から良い助けになってくれた。

不健康なやり方で子供をコントロールしてばかりいる親は、気づかぬうちに子供の心に地雷を埋め込んでいる可能性があります。その子供は、……大人になってもなお、人を愛したり、何かに成功したり、安心して暮らしてもかまわないのだと"許可される"のを待っているかもしれません。その許可は自分で与えればよいということがわからないのです。

不健康なやり方でコントロールされた子供がもつ最大の特徴は、「自分自身の判断に自信がもてない」ことだと思う。コントロールされて親の望むままに行動するにしろ、反発して真逆の行動をするにしろ、結局は親が押しつけてきた方向を基準に、その通りに/その反対に進んでいるから。

それに慣れきってしまうと、いざ誰にもなにも言われなくなると、どう進めばいいのかわからなくて、途方にくれてしまう。こうなってしまえば、現状がおかしいとぼんやり感じていても、その感覚が正しいのかどうか自信がもてなくなる。

本書の著者もそこを意識したのかもしれない。不健康なやり方で子供をコントロールする親をいくつかのパターンに分けて、「健全なやり方」「不健康なやり方」が際立つように比較表を載せている。また、不健康なやり方でコントロールされた子供が、成長後、どんな問題に見舞われる可能性があるかを、それぞれのパターン別に解説している。

実に親切でわかりやすいつくりだから、すらすら読めて、時々立ち止まっては「自分はこの比較表でいうとどちらだろう?」と自問自答できて、判断しやすいようになっている。

子育てをするにあたって、良いことと悪いことを教える、危険なものには近づけないなど、ある程度のコントロールは必要だが、「不健康で過剰なコントロールをする親」とは、子供の成長をはぐくむためではなく、自分(達)を喜ばせ、自分(達)を守り、自分(達)のためになるようにコントロールをする。自分が安心するために私にあることをするよう/しないよう求める〈母親〉のように。しかも幼い子供にはそれを表現する術がないから、感覚として心の中に降り積もる。積もった感覚を言語化してはじめて、親がしてきたことが、子供のためではなく、親自身のためであったゆえに引き起こされる違和感を、はっきりさせることができる。

「苦痛に満ちた子供時代からの癒しは、長年にわたる虐待とコントロールが原因でわき上がってくるすべての感情と言い分を、はっきりと言葉に出して表現することから始まる」

 

この本を読むことは苦痛だった。私がこれまで目をそむけてきたもの、あきらめきれなかったものを、この本はきれいに整理して目の前に並べたててくれたからだ。読み進めるにつれて「私はそうじゃなかった、これは私のことではない」という感情が湧き上がることがあったが、事実はたいていその正反対で、まさにそう感じた箇所こそが、私に(全部ではないにしろ)かなりの部分あてはまった。

この本を読み終えたとき、私は、この本を読み通すことができたことに誇りと自信を感じた。自分はそうではないと否定したり、意図的になにも感じないようにしたりして、躍起になって自分を守っていたが、とにもかくにも、目を逸らさずに、苦痛に満ちたこのテーマを扱った本を読むことができた。そのことを誇らしく思った。

〈私を産み育てた女〉は、典型的な「かまいすぎて子供を窒息させる親」だった。私は幼い頃、親の言うことを聞いていればいいとあきらめきっていた。だが今では、親の過干渉を不快に思う気持ちを言語化することができる。

親が一言の相談もなく私の家でのホームパーティー開催を提案し、ホームパーティーに参加してほしいと親戚に声をかけ、しかもその親戚の口から私に伝えさせたことがある。

「招いてもいないのに私の家にあがりこもうとするのは不快。一言の相談もなく私の家をホームパーティー会場にされるのは不快。自分ではなく親戚に言わせれば断りづらいというその考え方が不快」

そうはっきり自覚したから、きっぱり断ることができた。以前ならもやもやしたものを感じながらも断りきれなかったかもしれない。

言葉にすれば腹立ちを抑えることができる。自分の行動をコントロールすることができる。この本を読み終えて、断ることができた自分自身をふりかえって、さらに少し自信がついた。