コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

あなたが知っているつもりになっていることは、実は……〜S.スローマン&F.ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』

この本の冒頭にはどきりとさせられた。1954年に起こったアメリカの水爆実験による第五福竜丸の被曝と、このことがきっかけで死亡した久保山愛吉さんの事例から、本書はスタートしたのだ。そして、第五福竜丸や、水爆実験場付近の環礁に住んでいた人々が被爆したのは、アメリカの科学者たちが水爆の爆発力を過小評価したこと、風向きの予測を誤ったことが原因だと結ぶ。水爆の仕組みを十分理解していないのによくもまあ「思いあがって」躊躇なく爆発させてみたものだといわんばかりだ。

(本文中には久保山愛吉さんの実名は出てこない。後の研究によれば、直接の死因は「死の灰」による放射線障害ではなく、急性放射線障害を治療する際に受けた輸血から肝炎ウイルスに感染したためと推定されているらしい)

このように、人間が「聡明であると同時に愚かである」ことが本書のテーマ。著者らは認知科学の方面から、人間がいかにわかっていないか、その一方でいかにわかったつもりになっているのかを説明する。このあたりは以前読んだ『ファクトフルネス』に似ている。『ファクトフルネス』では、人間が陥りやすい思いこみを10の「本能」にまとめていた。過大視本能、単純化本能、焦り本能など。そのうえで、これらの本能がいかに人間の世界に対する見方をゆがめているのかを解説した。

認知科学によって得られた知見の多くは、一人ひとりの人間のできないこと、すなわち人間の限界を明らかにしてきた。

……

おそらくなにより重要なのは、個人の知識は驚くほど浅く、この真に複雑な世界の表面をかすったくらいであるにもかかわらず、たいていは自分がどれほどわかっていないかを認識していない、ということだ。その結果、私たちは往々にして自信過剰で、ほとんど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している。

だがこの本はここでは止まらない。さらに「知識のコミュニティ」について解説する。人間一人ひとりがもてる知識はひどく限られているから、日常生活に必要な知識のほとんどをアウトソーシングするようにできているというのだ。

私たちは食べ物、衣服、家具、水道、食器用洗剤、マスク、水洗式トイレ、その他もろもろの作り方を知っている人のおかげで快適な日常生活を送ることができる。私たちの頭蓋骨の中側と外側の知識はシームレスにつながっている(と私たちは錯覚している)。頭蓋骨の外側にある知識はまわりの人々や本やインターネットが保持しており、私たちはいつでもそれらにアクセスできることで、まるでそれらが自分の頭蓋骨の内側にあるかのように勘違いする。このため私たちは自分自身の無知を知覚しにくい。実際には、私たちが頭蓋骨の内側にもつ知識はごく限られており、思考や判断は、自前でもっている知識以外に、身のまわりのものや人に大きく左右される。常識とか社会通念とか生活習慣とか、そういう言葉で表現されるものだ。

ではどうやって頭蓋骨の内側と外側にある知識を区別するのか? 意外に簡単だ。

知識の錯覚を解くのは驚くほど簡単だ。では説明してくれ、と相手に頼むだけでいい。

たとえば目を閉じた状態でいま自分がいるリビングのインテリアを説明してもらう、水洗トイレの仕組みを説明してもらう、など。

ちなみに私も試してみたけれど、毎日見ているにもかかわらず、テーブルクロスの色と柄すら全然思い出せなかった。本書によると、これらは「外側にある知識」で、いつでもアクセスできるから覚えている必要はないと脳が判断したものらしい。なるほど、テーブルクロスの色と柄は、リビングにいれば見ればわかるし、リビング以外にいるならスマホで写真撮っておけば済む。わざわざ「頭蓋骨の内側にある知識」として記憶する必要性はまるでない。

 

私たちが知識のかなりの部分をアウトソーシングしているとわかったところで、著者らはさらに一歩進む。頭蓋骨の内側にある知識と外側にある知識を区別できないために、私たちの社会が抱えるさまざまな問題が生じている、という。

たとえば、私たちの考えはコミュニティのそれと分かちがたく結びついているために、考えを変えることは、コミュニティとの人間的つながりに影響する恐れがある。だれでも親戚に頑固なお年寄りが居るはずだ。お年寄りがくだくだ話すことを古臭くて時代遅れだと感じても、それを真正面から言ってしまえば親戚付合いに影響が出る。一人や二人であれば適当に聞き流せばいいが、お年寄りが多数派であれば困ったことになるだろう。なるべく会わないようにするためには、実家を離れて一人暮らしするしかないかもしれない。こういうふうに、私たちが自分の意見だと思いこんでいることの多くは、実は頭蓋骨の内側ではなく外側にある。コミュニティの意見だったり、コミュニティと反対の意見だったりするのだ。

この本を読み進めるのはあまり愉快なことではなかった。自分が無知であるとどんどん思い知らされるから。だが、読み終えたあと、ちょっとだけマシな気分になれたのもまた確か。ソクラテスではないが、少なくとも私は「自分が無知であることを知る」ことができたから。