物語はある夏、八王子のある民家での夫妻殺人事件から幕を開ける。容疑者の山神一也は、被害者宅に「怒」と血文字で書き残していた。
それから一年、山神一也は未だ逃亡中である。一年後の夏、まったく違う場所で、まったく違う人々の前に素性の知れない三人の男が現れる。浜崎の漁港に暮らす、家出を繰り返した愛子とその父親洋平の前には田代が。東京の大手企業に勤め、母親が余命幾ばくもないゲイの優馬の前には直人が。母子家庭で、母親の不倫騒動のために度々引越しを余儀なくされ、沖縄の波留間の民宿に住み込みで働く泉の前には田中が。
「怒り」というタイトルとは裏腹に、物語は三つの場所を行き来しながら淡々と進んでいく。愛子、優馬、泉はそれぞれの事情と苦悶と諦めを夏の暑さの中で舐めながら、それぞれ出会った男に目が離せないものを感じとってゆく。一方で筆は淡々と、三人はいずれも山神一也と共通の身体的特徴をもっていると記してゆく。果たしてこの中の誰かが山神一也なのか、それとも三人ともそうではないのか。
時々思うのだけど、長い物語を分冊出版するとき、上下冊にするか、上中下冊にするかはどのように決めるのだろう。
分冊にするなら巻末に続きが気になるような仕掛けを作るはずで、そのため上下冊と上中下冊とでは物語の組み立てが違ってくるはず。もしかしたら文庫化したときに多少手直しをして、それぞれの巻末に気になる記述が来るようにしているのかもしれない。
実際には枚数とか予測売れ行きとかで作家と出版社が相談して決めるのだろうが、吉田修一「怒り」の単行本は、上下冊に分かれているものの、一冊にまとめられなくもない分量に思える。あえて上下冊にしたのが作者の意向なら、上冊終わりに差しこめれた記述は、とても効果的だと思う。続きが気になって仕方ない。