コーヒータイム -Learning Optimism-

18歳のわが子に読書をすすめるために、まずわたしが多読乱読しながらおすすめを探しています。英語書や中国語書もときどき。

身震いするほどの不快感〜ジョージ・オーウェル《1984》

 

この小説はどこまで想像力による創作物で、どこからが歴史上の事実をなぞらえているのだろう?

たぶん世界でもっとも有名なディストピア小説である《1984》を読みつづけてしばらくたったとき、私の心に浮かんだのは、この疑問だった。

 

いまさらながら《1984》のあらすじを。

主人公ウィンストン・スミスが暮らすのは党とそのトップ〈ビッグ・ブラザー〉が支配するロンドン。思想・言語・結婚などあらゆることに統制が加えられ、あらゆる部屋に取り付けられた「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンからプロパガンダが流れる一方、屋内・屋外を問わず監視される。ウィンストンをはじめこの社会に生きる者はすべて、会話はもちろん表情まで偽るのが習性化しており、しばしば起きる〈蒸発〉という名の秘密逮捕にも慣れていた。

ウィンストンの仕事は〈真理省〉で歴史記録の改竄作業を行うこと。現在がなにか変わるーーたとえば誰かが〈蒸発〉する、敵対国が変わるなどーーたびに、過去にさかのぼってあらゆる記録が訂正され、まるで最初からそうであったかのように改変させられるのだ。ウィンストンにはおぼろげながら昔の記憶がまだ残るものの、記録が絶えず改竄されるため、記憶はひどくあいまいで存在自体疑わしいものであった。

ある日ウィンストンは、古道具屋で美しい白紙を綴じた本を買い、日記をつけるという禁断行為をはじめる。彼は記憶に残る出来事を書きとめる。ある日、ある欺瞞の動かぬ証拠となりうる、ある写真を偶然見たことをーー。

 

小説に登場するさまざまな一見荒唐無稽に思える設定のうち、少なくともふたつ、絶対に現実をそのまま写しとったと確信できるものがある。なぜなら、私は現実に、あるいは歴史上で、これらが行われるのを見聞きしたからだ。

まずひとつめは【言葉を奪う/言葉の定義を変えることで思考できる範囲そのものを限定してしまうこと】。小説中での該当部分を引用する。ちなみに「ニュースピーク」とは、主人公ウィンストンの同僚サイムが編集している辞書に載る予定の言葉のことである。

「ニュースピークの目的は総じて、思考の範囲を狭めることにあるというのが分からないか? 最終的には思想を表現する言葉がなくなるわけだから、従って〈思想犯罪〉を犯すのも文字通り不可能になる。必要となりえる概念はどれもこれも、たった一語で表現されるようになるんだ。意味がきっちりと限定され、従属的な意味はすべて抹消され、忘れ去られてね。…」

ふたつめは【現状を不変のものとしてただ受け入れてやりすごし、それに疑問をもたない若い世代】。これも小説から引用する。「彼女」とは、ウィンストンが親しくしている女性、ジュリアである。

彼女はうんざりし、戸惑い、そんなことを気にしたことは一度もないと言うのである。何もかも戯言だと知っているのに、どうして頭を悩ませる必要があるのだ、と。いつ歓声をあげ、いつ野次を飛ばせばいいかは分かっているのだから、それで十分なのだと。(……)ある意味、党が押し付ける世界観は、それを理解できない人々にもっとも奏功しているのだ。そうした人々は自分たちがどれほどの非道を働かれているかをちゃんと理解することもできず、実際には何が起きているのかに気づけるほど社会のできごとに目を向けることもない。だから、党がどれほど乱暴に現実を歪めようとも、それを受け入れることができるのだ。彼らは理解力が乏しいおかげで、正気を保っているのである。

なぜこのふたつを行うのかといえば、歴史の用語にもなっている【衆愚政治】が目的であろう。一部の特権階級にとっては、市民が無知で、余計なことは考えず、日々のささやかな暮らしにだけ邁進してくれるほうが支配しやすい。このため意図的に教育内容を制限し、知識階級を駆逐するのだから。

 

そんなことを考えながら最後まで読み終えたとき、胸に残ったのは不快感、ただ不快感だった。

小説後半は急転直下の展開をみせる。ウィンストンが思想犯罪で逮捕されるのだ。尋問、拷問、苦痛ーーそんなものよりもずっと恐ろしいことが、ウィンストンの身に起こる。自己精神破壊、自意識と自己が大切にしていたものの完全否定、破壊されつくした心にあらたに受け入れる自己暗示と思想。それは、ひとりの人間がこれほどまでに自由であることができ、これほどまでに隷属することができることを赤裸々に見せつけてくる。

かの名作《夜と霧》で、アウシュビッツに送りこまれた著者は、極限状態下でもどのように感じるか選ぶことができる、それが残された最後の、決して奪われることのない自由だということを見出した。《1984》は、この、最後の自由をねじまげる姿を読者に見せつける。

ゆえに私はこの本を不快極まりなく感じた。人間の尊厳の最後のひとかけらまで打ちくだくことはできるのだと、黒を白に、昼を夜に認識させることはむずかしくないと、嘲笑されているように感じて。

記録が改竄されれば、かつてのできごとは記憶の中にのみとどまる。記憶が失われれば、かつてのできごとはなかったことになる。もはや生きている人間にどんな影響ももたらすことがないという意味で。

不快感、ただ不快感が残る。吐き気がする読書体験だった。私にとってはもう二度と読み返したくない小説であり、いつか読み返さずにはいられないであろう小説だ。