コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

無邪気な残虐性《君のためなら千回でも》

読め。

と、渋谷交差点のど真ん中にでかでかと極彩色太字で書きたくなる。読まずに死ぬのはもったいない。

同時に、読み終わった本を壁に向かって力一杯投げつけたくなる。ふざけるなこれでてめえらのしたことをわずかなりとも帳消しにしたつもりか!  と絶叫しながら。

 

この小説はあるアフガニスタン少年の一人称で語られる。

アフガニスタンの首都カブール、1970年代。裕福な絨毯商人の家庭に生まれた少年が、召使いの少年ハッサンと木登り遊びをするところから物語が始まる。少年は出産時に母親を亡くし、一つ年下のハッサンは産まれ落ちた直後に母親が家出した。年が近く、母親がいない二人は日が暮れるまで遊びまわり、それから少年は父親の所有する豪邸に、ハッサンは庭にある召使小屋に帰っていく。

少年はパシュトゥーン人イスラムスンニ派アフガニスタンの主流派民族。
ハッサンはハザラ人、イスラムシーア派アフガニスタン内では少数民族。差別され、召使いのような仕事につくことを余儀なくされる。

兄弟同然に育った少年とハッサンだったが、少年はよく「ハッサンは友達だろうか?」と自問自答した。友達ならどうして親戚友人(もちろん全員パシュトゥーン人だ)が集まるときにハッサンを誘ったことが一度もないのだろう?

少年は不思議に思いながらも学校に通い、その間ハッサンは家で働いている。少年は字の読めないハッサンに教科書を読み聞かせながら、ハッサンが高い理解力を示すと不快感を覚え、ときに意地悪をしてまったく違う意味を教えたりする。

そして冬の日が訪れる。少年が罪に堕ちたあの日がーー

 

著者は作品の中で書いていないが(イスラム教義の厳しいアフガニスタン出身の彼にとっては書くまでもないことだったに違いない)、あの冬の日に起こったできごとは、イスラム唯一神アラーが許さないことだ。禁忌を犯した罪人は死後、地獄の炎に焼かれ、永遠に転生できないという。

少年はその冬の日を記憶にとどめ続けた。同時にそこから逃げようとあがいた。そのさまがどうしようもなく醜く、自己愛剥き出しで、愚かで、哀れだ。代償はあまりにも大きく、逃れるために少年はさらに罪を重ね、搾取し、盗む。やがてソ連アフガニスタン侵攻が始まり、少年と父親が故郷を後にしてからも、あの冬の日に少年は囚われ続けた。

わたしはどれだけ苦しもうと少年の自業自得だと思う。結局少年は主流派民族の一員であり、ハッサンの属するハザラ民族のことを本当に理解することはできないのだし、それどころか知らず差別を自分の内に持つようになっていた。ハッサンを親戚友人との遊びに誘わないのは序の口であり、究極的なところで「ハザラ人に過ぎない」ことがすでに少年の脳裏に染みこんでいた。あまりにも自然にそうなったため、恐怖すら感じさせる。

まだわずか12歳の少年の心に内面化した差別を描ききったことが、この小説の凄いところだと思う。一人称ゆえ、少年は実に素直に自分自身の胸の内を明かしている。少年のふるまいに読者はときに顔をしかめながら、無意識に自分自身と比べてみているのではないだろうか。自分はこれほど愚かではないと、心底信じられる読者はどれくらいいるだろう?

読め、家族が寝静まったあとに、苦いアイスコーヒーを淹れて。ページが涙で見えなくなるころに、コーヒーを飲みほすと、苦味走った小説の真髄を心にとどめることになるだろう。