コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

ここではないどこか、いまの生活ではないなにか〜アントン・チェーホフ《チェーホフ全集》

 

ノルウェー・ブック・クラブが選出した「世界最高の文学100冊」(原題:Bokkulubben World Library)の一冊。

Library of World Literature » Bokklubben

桜の園/プロポーズ/熊』巻末解説にこうある。

人々はあたかも物語を発動させるかのように「家」に帰ってくる。それは傷心した自分をやさしく包んでくれる場所であるかもしれないし、あるいは束縛と不自由の代名詞であるかもしれないが、いずれにせよ「家」は、チェーホフ的物語の基軸をなし、物語を始動すべく人々を招きよせ、人々の関係に変化を引き起こす磁場なのである。

チェーホフの作品は、家にとどまりながらもそこから離れること、「ここではないどこか」「いまの生活ではないなにか」を渇望する女性や若者に焦点をあてることが多い。それは都会に出て音楽学校に通うことかもしれないし、避暑地で道ならざる恋をすることかもしれないし、ここではないどこかに引越すことかもしれない。とにかく「この家のこの生活」でなければ良いのであり、一時的なものであってもかまわない。

また、家庭生活を中心にしているものの、劇や短編小説という表現方式上、たとえばジェイン・オースティンのように緻密な筋がひたすら書きこまれることはなく、いくつかの重要な場面を切り取るのみで、残りは読者や鑑賞者に想像させている。帝政ロシアの当時の社会情勢、社交常識、生活習慣がわからなければとまどうこともある(たとえば侮辱されたからと決闘を申しこむなど)。しかし、人間の感情の機微、男女関係などは万国共通なのでなかなか楽しめる。

私の印象としては、チェーホフ作品では、とくに女性は「いまの生活ではないなにか」を得るために恋愛や不倫や社会奉仕に手を出すことが多い。帝政ロシアの時代、女性が男性を伴わずに社会進出する機会がまだまだ限られていたためだろう。劇中で女性が「働きたい」と労働賛美をする場面がいくつもあり、労働によって身を立てるという考え方がしだいに浸透してきたようだけれど、結局は教師だとか女優だとか、せいぜい電信局勤めとかである。

以下、個別作品について読後感をつらつらと。チェーホフ作品の中では《かもめ》《桜の園》《決闘》が私のお気に入り。

 

《かもめ(戯曲)》

青年トレープレフの母親は恋多き有名女優であり、ここ最近は小説家と付き合っている。トレープレフは母親にえもいえぬ劣等感を抱き、自分が何者なのかわからないままあがいている。彼は大学を三年でやめたあと、芸術に新形式を切り開かんと意気込んで脚本を書きあげ、自宅の庭にもうけたミニ劇場で上演しようとするが、母親にこきおろされて自尊心を傷つけられる。彼が恋愛感情を抱いた田舎地主の娘ニーナは、母親を亡くし、父親やその再婚相手とうまくいかず、女優をめざしてモスクワに出るが、やがて身を持ち崩してしまう。

作中でトレープレフがかもめを猟銃でしとめてニーナに渡し、その死骸を見た小説家が創作のヒントを得る場面がある。これがその後の悲劇を暗示する。

ちょっと書きとめとくんです。……題材が浮んだものでね。……(手帳をしまいながら)ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。

トレープレフが母親とその恋人に反発して、母親が演じる脚本、恋人が書く小説以上のものを創作してやると意気込む気持ちはよくわかる。ニーナが父親と継母(しかも父親は財産をことごとく継母名義に書き換えてしまった)のもとから逃れ、女優として身を立ててやると誓う気持ちもよくわかる。だが、二人はやがて、厳しい現実が立ちはだかることを知る。これは「ここではないどこか」を求めて生まれ育った家庭から出ていった若者たちが、やがて、自分たちは何者にもなれないことを知る物語であり、中年以降に読めばめちゃくちゃ刺さる。

 

《ワーニャ伯父さん(戯曲)》

ブログ記事参照。

チェーホフ《ワーニャ伯父さん》 - コーヒータイム -Learning Optimism-

 

《三人姉妹(戯曲)》

《ワーニャ伯父さん》同様、思い通りにならない生活、あきらめざるを得ない夢、後味の良くないラストが印象的。

主人公の「三人姉妹」プローゾロフ家の長女オリガ、次女マーシャ、三女イリーナと、長男アレクセイは、幼いころ、陸軍将官である父親の赴任にともない、モスクワを離れてある田舎町に落ちついた。教養あるプローゾロフ一家はなかなか田舎になじめず、姉妹はモスクワに帰りたいと夢見る。やがて父親は亡くなり、マーシャとアレクセイは地元住民と結婚する。アレクセイの妻ナターシャは未婚のオリガとイリーナを邪険に扱いはじめ、マーシャも夫に不満を抱え、ある妻帯者の陸軍中佐に心が傾きはじめる。モスクワで身につけた教養はしだいに忘れ去られ、生活は閉塞的で息苦しく、つきあう相手といえば父親縁の陸軍関係者ばかり、やがてはその陸軍でさえ田舎町を去ることになる。

ほぼ都落ち物語のようなもので、三姉妹が都ーーモスクワーーに帰ることを夢見ながらついに現実にとりこまれてしまう過程、その心理的変化がこまやかに描写されている。最終的に姉妹はさまざまな不本意なできごとに打ちのめされながらも生きていかなければならないことを受け入れるが、そのときのオリガの独白が悲痛。

ねえマーシャ、ねえイリーナ、私たちの人生はまだ終わりじゃないの。生きていきましょう!音楽はあんなに愉しそうに、あんなにうれしそうじゃない。もう少し経てば、私たちが生きてきた意味も、苦しんできた意味もきっと分かるはず……。それが分かったら、それが分かったらねえ!

 

桜の園(戯曲)》

太宰治が《斜陽》を書くにあたって影響を受けたという作品で、ラネフスカヤという貴族家庭出身の夫人が没落の果て、生まれ育った家屋敷「桜の園」を競売にかけなければならないところまで追い詰められるのが大筋。「桜」はロシア語ではサクランボのことで、真っ白な花が特徴だから、日本人がイメージする薄紅色の桜並木とは少々異なる。

ラネフスカヤ夫人は《斜陽》に登場する元華族夫人の「お母様」よりも子どもっぽくわがままな印象で、「桜の園」を手放したくないといいながら一切手を打たずにうじうじするだけ、経済的に行き詰まっているにもかかわらず贅沢な生活をやめられないし、自分を金づるとしか見ていない男に貢ぐこともやめられない、とにかく現実を見ない人物として描かれる。ラネフスカヤ夫人をはじめ、ものぐさで現実を見ない兄、母親のダメダメ加減に呆れたり悲しんだりする娘二人、「桜の園」の使用人たちや元家庭教師、「桜の園」の競売を手がける商人などの登場人物がそれぞれの思惑を絡みあわせ、没落貴族の悲哀を浮き彫りにしている。

 

《イォーヌィチ》

この作品は下の一文から始まる。

県庁のあるS市へやって来た人が、どうも退屈だとか単調だとかいってこぼすと、土地の人たちはまるで言いわけでもするような調子で、いやいやSはとてもいいところだ、Sには図書館から劇場、それからクラブまで一通りそろっているし、舞踏会もちょいちょいあるし、おまけに頭の進んだ、面白くって感じのいい家庭が幾軒もあって、それとも交際ができるというのが常だった。そしてトゥールキンの一家を、最も教養あり才能ある家庭として挙げるのであった。

のちに主人公であるイォーヌィチの独白によって、トゥールキン一家はせいぜい田舎にしては教養があるという程度で、トゥールキン氏の演劇好きも、夫人の自作小説も、娘のエカテリーナのピアノも退屈きわまりないことが暴露される。エカテリーナはイォーヌィチの求愛を振りはらって「ここではないどこか」をめざして都会の音楽学校に通うものの、結局挫折して戻ってきて、今度は「いまの生活ではないなにか」を欲しがってイォーヌィチに色目を使うという展開がいかにも皮肉。チェーホフはいわゆる「劇的な場面」をあまり好まなかったというけれど、この小説は淡々と進みながらも余韻深い。

 

《犬を連れた奥さん》

観光地であるヤルタで、妻に不満があり浮気を繰返すモスクワ出身の中年男性グーロフと、夫に不満があり息抜きに旅行に出たペテルブルク出身の若い女性アンナが、不倫関係を結ぶお話。

モスクワに戻ったグーロフはなぜかアンナのことが忘れられず、機会をみつけてペテルブルクを訪れてアンナと再会し、アンナも夫の目を盗んでモスクワに行くことを約束する。ふたりが互いに恋するところで小説自体はプツリと終わってしまい、これから困難がまだまだあることを暗示するにとどまるため、少々物足りないが、想像力で補う余白が多々あるともいえる。女主人公の名前がアンナなのは偶然なのか、それともトルストイの名作《アンナ・カレーニナ》を意識しているのか気になるところ。

 

《決闘》

ペテルブルクに住んでいたラエーフスキイは、人妻ナジェージダと駆落ちしてコーカサス黒海沿いの町までやってきたが、「畑の向こうは山と荒野、見たこともない人間たち、見たこともない自然、みじめきわまる生活程度」のコーカサスの暮らしに幻滅して、ナジェージダへの愛も消え失せ、彼女を捨ててモスクワに戻りたくてたまらない。ナジェージダもコーカサスの生活に不満を抱き、こっそり借金をこしらえたり、地元警察署長と火遊びをしたりしている。一方、同じコーカサスに住む動物学者フォン・コーレンは、ラエーフスキイが持ちこんだ都会的悪習、すなわち飲酒、ヴィント遊び、人妻との同棲などが気に入らず、彼をひどく嫌っている。

あることがきっかけでラエーフスキイがコーレンを侮辱し、二人は決闘することになるが、どちらかがどちらかに殺されることはなく、それどころか決闘を経てラエーフスキイは人が変わったようになった。極貧ながらも地に足がついた生活をすることになり、ナジェージダの浮気を知りつつ、彼女とも正式に結婚する。

「ここではないどこか」に行くことができたけれども、苛酷な現実の前で夢破れてその日暮らしをし、そこからも逃げだそうとするが、やがて決闘事件をきっかけに地に足着いた生活を試みはじめるある男女のお話。堕落した人間が暴力的事件をきっかけに人が変わったようになる点では、フラナリー・オコナーの短編作品に似ていると思う。ブログ記事参照。

信じていたものが根底から塗り変わる瞬間〜フラナリー・オコナー《フラナリー・オコナー全短篇(上)(下)》 - コーヒータイム -Learning Optimism-

 

《六号室》

魯迅の短編作品《孔乙己》に似た作品だが、視点は真逆である。《孔乙己》は茶館の下働きをしている少年の視点から、科挙に合格できずに窃盗を繰返すほど落ちぶれながら、学があることを鼻にかけ、インテリしぐさをする孔乙己を笑いものにする。一方《六号室》は田舎病院で院長を務めるラーギン医師の視点から、田舎町では哲学や宗教談義などの高尚な話ができる相手がいないことを嘆き、ようやく見つけた話し相手があろうことか精神病棟〈六号室〉に収容されている青年であったことが語られる。どちらも結末は悲劇的である。《孔乙己》では孔乙己は困窮の果てにのたれ死にするし、《六号室》では精神病棟でわけのわからない宗教話をするラーギン院長自身が精神異常だとされ、患者として収容されたあげくに急死する。

共通するのは「人間は自分には理解出来ない話をする者をしばしば狂人扱いする」というぞっとする真実。どちらがオカシイかはだれにもわからず、ただ多数派か少数派かでオカシイほうが決めつけられる。そしてインテリや専門家はたいてい少数派になる。それが恐怖をあおる小説だ。