コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】全身全霊でおすすめする半自伝小説〜G.D.ロバーツ《シャンタラム》

 

読め。

と、成田空港に陣取り、インドを目指す旅行者全員の手荷物に本書を突っ込んでやりたい。

 

仕事にプライベートに忙しくなると、なかなか心落ちつかせて(イメージとしては昼下がりのコーヒーブレイクに)本を読む時間がとれないと思っていたけれど、忙しく働きながら、ちょっとした時間を盗んで、絶対面白いとすすめられた小説を読み、また働きに戻るのも悪くない。

ポイントは、小説が異国の地を舞台にしていること。異国のたちのぼるにおいまで、小説の行間から感じられること。新型コロナウイルスが猛威を振るう昨今、海外旅行はできないも同然だが、想像の中で、知らない土地に行った気にさせ、だれかの人生を一緒に生きた気にさせてくれる。そんな小説。

……などと、上巻を半分ほど読んだわたしはのんびりかまえていた。その頃の自分を蹴飛ばしてやりたい。

 

この小説はそんなものではない。もっと泥臭く、堕落と醜悪としたたかに生きる歓喜にまみれ、腐臭漂うなかにささやかな人情味あふれる生活があらわれたかと思うと、臓腑をわしづかみにされ、犯罪と大金と裏取引が煮詰められた苦汁を飲まされる。……そんな強烈な読書経験にふりまわされる。なのになぜ、これほどまでに読み進めたくてたまらなくなるのだろう。

まずは,これ以降の記事(多少のあらすじあり)を読むことなく、この小説を読んでほしい。最初は脳内旅行で異国の地を楽しみながらのんびり。途中からどんどん加速して、本を手放せなくなる。わたしの場合は中巻途中からだった。

本書をすすめていたのは、尊敬する「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人。

徹夜小説「シャンタラム」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

冒頭数行が、小説のテーマを語り尽くしている。

愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、今自分が知っていることを学んだ。しかし、その核となるものが心にめばえたのはまさに一瞬の出来事だった。壁に鎖でつながれ、拷問を受けているさなかのことだ。叫び声をあげている心のどこかで、どういうわけか私は悟ったのだ。今の自分は手枷足枷をされ,血を流している無力な男にちがいないが、それでもなお自由なのだと。拷問をしている男を憎む自由も,その男を赦す自由も自分にはあるのだと。どうでもいいようなことに聞こえるかもしれない。それはわかっている。しかし、鎖に噛まれ、痛さにひるむということしか許されない中では、その自由が可能性に満ちた宇宙となる。そこで憎しみと赦しのどちらを選ぶか。それがその人の人生の物語となる。

この小説は一人称で始まり、主人公はオーストラリアの刑務所を脱獄した最重要国際指名手配犯。著者であるグレゴリー・デイヴィッド・ロバーツも現実に薬物乱用と銀行強盗で投獄され、オーストラリアの刑務所を脱獄した。異様に詳細にわたるまで描写される刑務所と収容囚人たちの様子は、著者ロバーツの経験そのものに根付く。

主人公は偽造パスポートでインドはボンベイ(現在はムンバイ)に降り立つ。たちこめる熱気、脱獄囚として信用できる人間を一目で選ばなければならない緊張感。これも著者ロバーツの実体験そのもの。ボンベイ一のガイドを自認するプラバカルとの出会い、さまざまな過去を抱えてボンベイに流れついた外国人たち、主人公は彼らと交流しながら、やがて"リン・シャンタラム"という新たな名前を得る。

描写されるボンベイの熱気と過酷な現実は、ときに目をそむけたくなるほど。医薬品を手に入れるために盗みの技術を磨かなければならなかったハンセン病患者たち。いつ立ち退きを迫られるかわからず、火事や伝染病や野犬とたたかわねばならない違法スラムの住民たち。薬物売人、娼婦、死体始末屋、さまざまな違法行為を管理する地元マフィアたち。政治闘争止まないパレスチナアフガニスタン、イラン、レバノンなどの国々で家族や友人が虐殺された記憶を抱える無法者たち。だが彼らは生に貪欲で、ときに愚直なまでに正直で、人生について深遠な考えを抱いている。ボンベイで、最重要国際指名手配犯でありながら、"リン・シャンタラム"は、故国では失われた温かい人間関係を新たにつくろうとする。

著者ロバーツはもともと薬物中毒者や銀行強盗である前に、物書きであった。この小説は彼の半自伝小説であるといわれるが(どこまでがフィクションで、どこまでが実際の出来事なのか、渾然とするように書かれているが)、繰り返し【赦し】というテーマが登場する。小説の中でリンが恋愛感情を抱くカーラ・サーラネンは、現実に存在したのかわからないけれど、わたしには、カーラはリンにとっての【運命の女神】そのものであるように思えた。カーラを通して、リンは自分自身を過酷な運命に投げこんだなにものかーー警察、マフィア、はたまた造物主ーーを赦そうとしたのだ。対照的に、家族を惨殺されたことを生涯赦さず、狂気じみた報復を繰りかえす男も、小説には登場する。

私たちが人間たりうるのは赦すことができるからだ。赦しがなければ、われわれ人類は、際限のない報復を繰り返した挙句,とっくに絶滅しているだろう。赦しがなければ、人類に歴史はない。赦しという希望がなければ、芸術もまた存在しない。なぜなら、芸術作品とはある意味で赦しの行為だからだ。赦しという夢がなければ、愛もまた存在しない。なぜなら、愛とはある意味で赦しを約束することだからだ。私たちが生きつづけているのは、愛することができるからであり、私たちが愛するのは赦すことができるからだ。

読め。これだけ。

本書の魅力はどんなに語ろうとしても語ることができない。一言一句逃さず舐めるように読んで、また読んで、読みなおして、渾沌と泥濘の中に、自由をつかみとる読書体験をせよ。