コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

弥次さん喜多さんならぬ北さん喜多さん〜宮部みゆきが本所深川を舞台に贈るシリーズ物『きたきた捕物帖』他

日本語で読むなら歴史小説が好き。

中国語で読むなら社会派小説や企業小説が好き。

英語で読むならミステリーやファンタジーやSF。

差を生むのは予備知識の量である。小説は気軽に読みたいのにいちいち「当然のように名前が出てきたけど誰これ?」「誰と誰がどういう親戚だって?」とひっかかっているようなら楽しめない。中国清王朝の有力大臣や政治事情やら、ヨーロッパの王室間婚姻事情やら、そんなものが頭に入っていないものだから、自然と予備知識なしでも想像力である程度補えるジャンルを手にとることが増える。この点恋愛小説などは王道中の王道であるが、若い頃に読みすぎて少々飽きた。

こういうわけで歴史小説は日本語で読むことがほんどだが、この〈きたきたシリーズ〉は最近読んだものの中でダントツで面白い。シリーズ一作目は図書館で借りたが、翌日には書店に走って続編まで買いそろえるくらいにはハマった。

江戸時代、浅草御門の東にある大川(隅田川)にかかる両国橋を渡れば、そこは本所深川である。

本所深川は元町に住み、深川一帯をあずかる岡っ引きの文庫屋(文庫は本などを入れる厚紙製の箱)・千吉親分が、正月をすぎたある小雪がちらつく日にふぐをさばき、ふぐ鍋にあたって急死した。千吉親分のもとで絵入り文庫〈朱房の文庫〉を売って生計をたてていた北一は窮地に立たされる。北一自身は親なし同然で頼れる人もおらず、小柄で痩せっぱち、性格もどこか頼りない。千吉親分の跡をついで文庫屋を営む万作・おたま夫婦と折り合いが悪く、いつ文庫を卸してもらえなくなるかわからないその日暮らしの日々が続く。

そんな北さんが巻きこまれる珍騒動は眉唾すぎて笑えるものばかり。祟る福笑いだの、神隠しにあう双六だの、死んだ前妻の生まれ変わりだの、怪談話のド定番すぎて読む方はついつい笑いたくなるネタばかり。しかし北さんたちは大まじめ。なんといっても実際に被害者がでる。福笑いを所有する家では次々病人がでるし、双六で遊んだ子どもが行方不明になり町中総出でさがす。頼れる親分であった千吉の名を汚したくない。万作・おたま夫婦の店から出て深川元町の南側にある冬木町に移り住んだ、盲目だけれどとてつもなく鋭く頭が回る千吉親分の未亡人・松葉に相談しながら、北一はどうにか助けにならないかと走りまわる。

そんなある日、北さんが出会ったのが、もう一人の〈きたさん〉。本所深川の東端、扇橋町の湯屋「長命湯」の裏庭で行き倒れていたのを拾われ、そのまま雇われたという喜多次である。これが明らかに謎多き人物で、どうやら家紋(のようなもの)持ちの一族出身らしい。厳然たる身分制度がある江戸時代において、家紋持ちはそれだけで庶民ではありえない。しかも本人は無口ながら恐ろしく頭がまわり、腕が立つ。そんな喜多次はある出来事をきっかけに北一に恩義を感じ、助けるようになる。ここに〈きたきた捕物帖〉の舞台が完成する。

事件というものは、解決した後にも、何かしらすっきりしないものを残す。

小説末尾にこうある。水戸黄門のようにスッキリ解決というふうには決していかないのが、この本にでてくる事件である。それでも北さんは文庫の振り売りをしなければ食べていけないし、亡き千吉親分が残した名声と〈朱房の文庫〉を大事に守っていきたいと日々奮闘している。泥臭く足掻いている。その泥臭さになにかしら共感を覚えるのは、生きてゆくことは大変だけれどそれでも、という、生きる力のようなものを北さんに、小説に感じるからだ。

宮部みゆきさんの作品で私を魅了するのはいつもこの「生きている」という感覚だ。小説は終わっても登場人物たちの人生は続く。腹も減る。やりきれない日々もある。身も世もなく慟哭する時さえある。でも生きてゆく。そのような言葉にならない力を感じるからだ。

〈きたきた〉シリーズの前日譚というか、〈きたきた〉がこの続きにあたるというか。千吉親分の先々代である岡っ引き、本所深川は回向院の茂七親分が活躍するのが『本所深川ふしぎ草紙』。七つの怪談話にのせてその裏に交錯する人情を描く短編集である。

(『ふしぎ草紙』には登場しないが、茂七の若き日の手下・政五郎が、〈きたきた〉では千吉親分の先代にして本所一帯を束ねる大親分、本所回向院裏の政五郎となり、北一をなにかと気にかける。だけどそれはまた別のお話。)

〈きたきた〉の北一がまだ何者でもなく、何でも屋のようにいろいろなことに首をつっこみつつ駆けまわるのに対し、茂七は正真正銘の十手持ち岡っ引き。殺人事件や通り魔事件を捜査するのも仕事のうち。ミステリーの謎解きはもちろん見どころだけれど、その背後にある人の心の動きを抉り出すような話の運びこそが真髄。話の随所にでてくる麦とろ飯やら栗飯やら大福やら、江戸ならではのごはんも美味しそう。

私が一番好きなお話は「送り提灯」。最後の2行の切なさは格別。登場人物では「消えずの行灯」にでてくるおゆうがいっとう好き。分をわきまえたうえでの気っ風の良さはまさに江戸娘。

稲荷寿司、蕪の味噌汁、ぴちぴち白魚の二杯酢ぶっかけ、鰹の刺身、菜の花飯、七草粥、桜餅。旬の江戸ものをちりばめ、味わいながら、回向院の茂七親分が本所深川一帯に起こる大小の事件を解決してゆく短編集。この本で初登場する、富岡橋のたもとに稲荷寿司屋台を出す謎の親父が〈きたきた〉シリーズの喜多次となにやら繋がりがあるとほのめかされておもしろい。

この本に収録された短編ではダントツで「白魚の目」が好きで何度も読み返した。物語終盤で、あることをきっかけに茂七はぴちぴち白魚の二杯酢かけが苦手になったことが語られるが、茂七の手下である糸吉は最初からぴちぴち白魚が苦手である。もしかして?……と推量したくなる。ところでこのお話で重要な場所となるお稲荷さんは、もしかすると〈きたきた〉で北一の住まいとなる富勘長屋の近所にあるという「小さいお稲荷さん」と同じだったりするのだろうか。

ぼんくら同心・井筒平四郎が本所深川北町の鉄瓶長屋で起こる一連のいざこざに巻きこまれるお話。この頃回向院の茂七大親分は米寿、さすがに足腰が弱ってきており、一の手下である政五郎がいろいろなことを実質引き継いでいる。

たまねぎを剥くように一層ずつ、表面にあるできごとが剥かれ、裏側にある人情と怨念と嫉妬のひだが丹念にほぐされ、さらされ、幾重にも隠された真相がしだいに明らかになるストーリーテリングは絶品。個人的には平四郎と煮物屋おかみのお徳さんのかけあいが好き。

本所深川の由来や現状のようなものは、この本でよく語られている。〈きたきた捕物帖〉の北一たちが生きるころはさらに数十年経ち、事情も多少変わってきているかもしれないけれど、根本的なところはそう変わらないであろう。

御府内に組み入れられてまだ数十年しか経っていない本所深川は、万事において開幕以来の朱引きのうちである市中とは別勘定で、町火消しの組織も自分たちで願い出て作り上げ、擁しているほどだ。新開地だから活気はあるが、名主や地主の歴史も浅い。そうなると必然的に、奉行所の本所深川方は、この土地内で起こる事柄に対しては大きな力を持つことになり、時には役職の垣根を越えて、何でも屋のように万事を仕切る。だから、この役職は多忙であると同時にたいへん実入りが多い。