コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

挫折のすすめ (平石郁生著)

 

挫折のすすめ (NextPublishing)

挫折のすすめ (NextPublishing)

 

タイトルを見ただけでは「若いうちの失敗は買ってでもしろ」という内容の本かと思えるけれど、中身もそれに近い。

著者は起業家として何社もの会社の立上げ、M&A、事業転換、退任などを経験し、それを11の大事なことにまとめあげた。文字にしてみればとても短いが、それぞれに、50歳になろうとする著者の経験してきた、数年、十数年もの年月が凝縮されていると感じる。

その中でもとくに印象的だったものを3つ紹介する。

1. 起業家は「変化」を「利用」する。しかし、自分自身で変化を起こすとは限らない

2. 無消費に勝つ

3. 創業期は「技術の革新性」が重要だが、成長期は「顧客交渉力」が成長を左右する

インターネットという新しいインフラが社会にどういう影響をもたらすか。著者の起業家経験の中で手がけたのは「自動車保険見積比較サイト」だった。今でこそ当たりまえのサービスだが、当時は保険代理店を通すのが一般的で、どの保険代理店もひいきの保険会社だけを紹介しており、見積比較は簡単ではなかった。

さらにいうと、そのような事情から「保険見積を比較する」という発想そのものが育たず、著者の表現を借りれば、世の中が自分たちに追いつき、多くの人がサービスを求めるのを待つ必要があり、それまでの運転資金を確保することにこそ苦労するのだそうだ。これが2番目の大事なことだ。今まで世の中に存在していなかったビジネスは、必要性に気づくことそのものに時間がかかってしまう。顧客が最後まで気づかない=必要だと思わない可能性だってあるのだ。

IT起業関連の本を読んでいると、しばしば「自分たちは時代を先取りしすぎてしまった」という記述が出てくる。最初に読んだときにはなんとも傲慢な記述に思えたが、繰り返し目にしているうちに、その意味が飲みこめてきた。

3番目の大事なことについて、顧客交渉力は「顧客にとって代替手段のないサービスを提供できるか」にかかっている。もし答えがNOであれば価格競争に入らざるをえず、成長可能性は低くなる。

ユニークな製品をもつ会社は強い。他のところでは買えないからだ。たとえばダイソーの家電製品はほかのどの会社でも思いつかないものばかりで、高くても消費者は喜んで買ってくれる。けれどすべてのサービスはいずれ成熟期を迎え、技術革新がどんどん減り、プレイヤーが増え、差別化できなくなって価格競争に突入する。この時期をいかに遅らせるか、あるいは価格競争からいかに距離を置くかが、非常に重要なキーになると思う。

 

ところで、この本を読んで得た最大の収穫のひとつは、クレイトン・クリステンセン教授という名前を知ったことだ。

彼はハーバードでイノベーション関連の講座をもっており、その著作は本書のいたるところで引用されている。以下一節を読んだ時に首がもげそうになるほどうなずいた。

クリステンセンは組織の持つ競争力が、そのステージの進展と共に「資源」から「プロセス」「価値基準」へと変化し、それが文化に埋め込まれていくと説明している。

「資源」とは人材、設備、技術、ブランド、顧客との関係などのこと。「プロセス」とは組織の人間が各種資源を価値の高い製品やサービスに変換するための相互作用、連携、意思伝達、意思決定などのパターン、つまりは「もうかるしくみ」だ。クリステンセン教授によれば、成長しない組織はいつまでたっても「資源」に依存したままで、もうかるしくみを構築できないのだという。そして、一握りのビジョナリー・カンパニーだけが、「価値基準」、組織に【できないこと】を定義し、それをもうかるしくみに埋めこむことに成功する。

これほど簡潔に本質をつくことが書いてあるのだから、イノベーションを考えるなら、クリステンセン教授の著書を読む必要がどうしてもありそうだ。入手次第読んでみようと思う。

スペシャリストが解説する Amazon Web Services 知っておきたい基礎知識 (佐々木大輔著)

 

 

インターネットや関連サービスが日進月歩の現代、どんなことができるようになっているのか知るために手にとった本。

Amazon Web Services (AWS)とは、Amazonが提供するクラウドサービスだ。システムに必要なハードウェア(サーバー本体、保管室など)と保守管理をAmazonが担い、クラウドサービス利用者は実際の運用部分だけを手がければいいようになっている。サービスはもちろん有料だが、利用状況に応じてデータベースの容量を増減させるなどど、必要な分だけを利用し、従量課金することができる。

AWSの特徴は3つだ。

 1. すべてのサービスはWeb API (Apprication Programming Interface)で利用できる。各種プログラミング言語AWSを操作できる。

 2. 信頼性とセキュリティが確保されている。

 3. 多種多様なフルマネージドサービスが提供されている。OSなど機能開発以外のことはAmazonが担うから、考える必要がない。

 

この本にある2015年現在、AWSのサービスはおおまかにインフラサービス(ネットワーク、データベースなど)とソフトウェア・プラットフォームサービスに分けられている。この本はそれを1つ1つ紹介し、どういう仕組みになっているのか、これまでのシステムにそのまま繋げて利用できるのか、などの面から説明する。説明はカタカナのコンピュータ用語ばかりだからややとっつきづらい。

AWSのサービスのうち、負荷が低い時期には低コストに抑え、負荷が高い瞬間だけ高パフォーマンスを発揮するようにできる「Amazon Route 53」と「Amazon CloudFront」がとても便利そうだ。必要なときに必要な分だけ。効率化としても素晴らしい。ログ分析やリアルタイムモニタリング用のサービスも提供されており、オンラインショップには重宝しそうだ。

また、数人レベルのスタートアップ企業で重宝しそうなオフィスのデスクトップ環境も用意されている。ユーザーの手元にあるコンピュータにはAWSへのアクセス機能があればいいから高性能は必要なく、在宅勤務も問題ない。すべての処理はAWS上で行うことができる。基本的な文書共有機能、メール機能なども提供されており、ライセンスが必要な商用アプリケーションもインストールできる。インターネットを利用しない起業などもはや考えられない時代だが、初期投資が抑えられ、初期設定の手間がはぶけて、ビジネスに集中できるすばらしいサービスだ。

目新しいのが、機械学習を提供する「Amazon Machine Learning」サービスだ。これをどのようにビジネスに利用するかは、まだまだ見当が必要だろう。

“Project Management in Oil and Gas Industry" (by Sikander Sultan)

 

PROJECT MANAGEMENT IN OIL AND GAS INDUSTRY (English Edition)

PROJECT MANAGEMENT IN OIL AND GAS INDUSTRY (English Edition)

 

 

コーヒーカップを手元においてノートパソコンで仕事をしているときにふと「コーヒーをキーボードにかければ壊れるかな?」と思った(もちろん試していない)。疲れているのに、さらに脳を疲れさせるような英語原書を読む。

この本はカラフルな図表をふんだんに使い、英語表現はわかりやすく、内容は初級参考書程度ながらプロジェクト遂行に必要なことをひととおり網羅している。タイトルにある石油・ガス業界に限らず一般的なプロジェクトの特徴をまとめているので、プロジェクト入門書としてもおすすめの一冊。

本のタイトルにある"Project Management"について、本文では次のように解説している。(日本語訳は私によるもの)

Project, which signifies a strategic set of interdeoendent tasks that are carried out within a defined timeline for the purpose of realising a desired outcome

ーー プロジェクトとは、望ましい成果物を得るために、限られた時間帯の中で行われる、おたがい関連性があるタスクを戦略的に組みあわせたもの。

Management, which plans, coordinates and controls the people who carry out the project activities so as to ensure efficient as well as effective completion of tasks

ーーマネジメントとは、効果的にかつ効率的にタスクを終わらせるために、計画立案し、調整し、プロジェクト業務を行う人々を管理監督すること。

 

この本は、ベテランコンサルタントが新米二人の講習を行うという設定で書かれている。クライアントが将来利益を得られるプロジェクトを選ぶための助言から、契約、遂行、コスト・スケジュール管理、品質管理、リスク管理、財務分析、さらには組織立上げまでひととおりこなすことを考えて、それぞれの概要を数ページでまとめている。最初から読んでもいいし、ある章だけ読んでもいい。重要なことは概念図で示されているため、本文を読まずに概念図をたどることもできる。各章最後にプロジェクト例が実際の企業名入りで紹介されており、ここだけでも結構楽しい読み物だ。

この本によると、石油・ガス業界のプロジェクトは60%が予算オーバー、70%がスケジュール超過という統計があるそう(ひどい数字だ)。投資額が年々大きくなるから、まずは経営判断として、有望なプロジェクトを慎重に選び、うまく管理しなければならない。

たとえばスケジュール超過の原因は顧客・労働者・コンサルタント・機械・材料・外的要因の6つに分けることができる。先週末読んだ『バンダルの塔』であれば、顧客、労働者、外的要因が主要因だろうか。要因が分かれば、力を入れるべきポイントもわかる。

ここ最近、石油・ガス業界のエンジニアリング会社が軒並み業績不振で苦しんでいるニュースをよく目にする。要因がわかったからといって、適切な対応ができるとは限らないということだろう。顧客が厄介な注文ばかり出しているせいかもしれないし、責任者が損切りをしぶってずるずる損失を出してしまったのかもしれないし、契約形態が良くないために最初から損失を出しやすい構造ができあがっていたせいかもしれない。さまざまな「人」の原因はあれど、このような基本に立ち返るための教科書は、いつでも考えを整理する役に立つと思う。

全社員生産性10倍計画 (本間卓哉著)

著者が手がけるIT顧問業務や、著者の会社が提供するソフトウェアを売りこむ文章がしばしば出てきて、なんだか会社パンフレットを読んでいるような気がしてきてしまうが、内容はわかりやすい本。

企業のIT活用は主に2点。社内環境をIT化し、生産性や業務効率を高めることか、 Webを通じて新規顧客を獲得することだ。だが、IT投資が無駄に終わってしまうことも多い。主な理由は 「適したITサービスを選定できる人がいない」「有能なIT担当者がいない」「適したITサービスを導入しても組織に浸透しない」から。ある部分だけ効率化して、それによって他の部分にシワ寄せが来ていたり、解決すべき問題と導入したIT機能間にズレがあったり…。

著者がこの本で強調しているのは、ツールから選んではいけないこと。まずは会社事業がどういう流れで行われていて、どこにどういう問題があるかを把握するのが先。そして、その問題解決に使えるツールがないか。その順番で考えなければいけない。

『UXの時代 - IOTとシェアリングは産業をどう変えるのか』(松島聡著)

 

読書三昧ですごす週末のなんと幸せなことか。

 

著者はひとことでビジネスの新潮流をまとめている。

今起きつつある変化で注目すべき点は、消費者・ユーザー自らが主権者として、製造・消費という経済活動の様式を変えようとしているということだ。

UXとは「ユーザーエクスペリエンス」だ。これからはモノを売るのではなく経験を売る。そして売り手は企業だけではなく、これまで消費者側にいた人々も製造・販売ができるようになる、という意味である。著者の言葉は明快だ。

UXを基準にビジネスを考えた場合、こうした産業の分類は意味をなさない。ユーザーがモノを使うのも、サービスを利用するのも、自分が求める体験をするためであり、それを提供する企業の業種が何なのかは関係ないからだ。

シェアリングエコノミーとは「必要なときに必要な分だけ利用する共有型経済」。配車サービスのUberや部屋貸しのAirbnbのように、車や家の持ち主が余剰時間をゲストとシェアすることでお金をかせぐことができる。

UXやシェアリングサービスのポイントは、アマゾンなどが提供するクラウドサービスをプラットフォームとして安価に使用できるということだ。サービスには膨大なデータを保管するストレージからAIまでそろっており、これを利用すれば数人の新興企業でも幅広いサービスを提供できる。

これまでの垂直統合型の企業はもはやこれからを生き延びることはできず、これからは水平協働ネットワーク型へと転換していく、というのが著者の主張だ。そこではユーザーの考えや行動を積極的にサポートできる企業が生き残り、量産型製品を一方的に提供するだけの企業は淘汰される。

 

「現代の若者は消費意欲が低い」などという見出しの雑誌記事が増えたのは、いつからだったろうか。21世紀に入ってからよく見るようになった気がする。だが、それは少し違うと思う。消費意欲が低くなったというより、これまでの方法では若者が消費しているものを測りづらくなっただけだろう。

雑誌が「消費意欲が低い」というとき、たいていは不動産・高級車・時計・ブランド品などが売れなくなった、という意味だ。だが若者はそれらにお金をかけなくなっただけで、たとえばウェブコンテンツなど、別のことにお金をかけている。そしてこれまでお金をかけて所有していた車などは、シェアリングで充分、と考える人が増え始めている。軽井沢に別荘がなくても、Airbnbを利用して別荘の部屋を一部屋借りればよい。余ったお金を自分が興味をもてる活動・経験にまわせれば、人生はもっと豊かになる。著者の表現を借りればこうだ。

ユーザーにとってモノは手段であって目的ではない。手段に対価を払うのは目的である価値を得るためであって、モノを買って所有するためではない。製造物中心主義の日本ではこの点が理解されない。

手段であるモノを所有するのは、使用頻度が高く、持っていたほうが都合がいい場合であり、決して所有すること自体に価値があるからではない。しかも、所有したほうが得か、他人とシェアし、必要なときにアクセスして利用したほうが得かの境界線は、徐々にシェア・アクセスのほうへ移動しつつある。

 

さまざま示唆に富んだことが書かれているが、この本の一番読み応えがあるのは、後半部分にある「シェアリングサービスを提供しようとするときにぶつかる現行政との交渉の難しさ」である。著者は倉庫が使われていない夜間に、空いているスペースをフットサルに活用できないかと思い、行政に相談にいったところ、答えは「一時的な利用でも、建物の用途が変わるなら申請が必要です。一度申請してから確認済証が出るまで1ヶ月以上かかりますので、毎日用途変更を繰返すのは無理です」であった。

縦割りの権化である行政とうまく交渉するのは相当難しく、シェアリングサービスが広がりづらい一因となっている。これに既得権益がからむとさらにややこしくなる(タクシー業界の猛反対でUber導入が進まないのは有名な話だ)。海外から見ると、日本のこういう旧態依然とした縦割りのやり方は不思議に映るらしい。実にもったいないことだ。

 

本文中に、ピーター・ドラッカーによるこれからのまとめが引用されている。これを書きとめておこう。

1.企業の従業員支配からプロフェッショナル主導へ

2.画一的フルタイム労働から勤務の多様化へ

3.統合的経営から分業・アウトソーシング

4.メーカー主導から市場主導へ

5.産業ごとの独自技術からクロスボーダー技術へ

 

バンダルの塔 (高杉良著)

この小説は実話をベースにしている。

産油国イラン。石油産出にともない、天然ガスが大量に噴き出ていたが、活用されることなく焼却され、灼熱の砂漠にある油田をさらに焦がさんとするかのように、火柱が立ちのぼっていた。この天然ガスを産業利用すべく、1973年、日本とイランの間に、合弁による石油化学事業計画がもちあがり、イラン・ジャパン石油化学(IJPC)が立ち上げられ、主人公の山中正史が赴任することになった。油田最寄りの空港に向かって、飛行機がゆっくりと降下するところから、物語が始まるーー。

これだけ書くと、著者得意の事実をベースにしたモーレツ社員によるプロジェクト成功譚のようだが、「イラン革命」という不吉な言葉を知っている読者であれば、これがそれとは正反対の小説であることをすぐさま察するだろう。

物語序盤から不吉な影はゆっくりとたちのぼってくる。最初はイスタンブール総領事からもたらされた、イラン現体制の安定性を不安視する噂。それがしだいに外務省に広がり、専門誌記者にまとこしやかにささやかれ、プロジェクト担当者の胸の奥に不安の澱みを生じさせる。石油ショックによる建設費用の高騰、イラン人気質との折り合いの難しさなども小説の中で浮き彫りにされるが、これはどのプロジェクトでも起こりうることだ。この小説での結末を決めたのは、イラン革命。すなわち政権交代だった。

実際にはイラン革命でプロジェクト中断が決まったわけではない。革命政権も、これがイランの今後の国運を決めるほどの重要プロジェクトであることを理解していたため、むしろ継続を望んだ。プロジェクト中断の決め手となったのは、この後始まるイラン・イラク戦争が長引いたことである。しかし、この小説ではイラン革命に追われるようにして山中たちが建設現場を去る場面で終わる。著者は多くを書きこんではいないが、五年以上の年月をかけ、建設終了間際までもちこんだプラントから去らねばならなかった担当者達の無念はいかほどだっただろう。

イラン革命はイランの内政問題であったが、たとえ政権が比較的安定していても、欧米諸国に睨まれているイランとの貿易はいつも困難を極める。そしてその背後には、イランの石油利権を独占したいという欧米諸国の打算が見え隠れする。こういう小説やノンフィクションを読むと、資源と警備力をセットでもたない国は、ありあまる資源を狙われるために不幸になるのだなあ、と、ため息をつきたくなる。

 

最後に少しだけ救われる話を。

日本側はプロジェクトから撤退したが、イラン・イラク戦争停戦後、イラン側は社名をBandar Imam Petrochemical Companyに変更、韓国企業を使い、国の威信をかけて石油化学設備を再建した。各プラントは1994年から順次生産開始。現在、このプラントがイランの石油化学産業の中核となっている。

完成間近までこぎつけながら無念にも去らねばならなかった設備が、再建され、イランの経済を支える一助になっていることを思えば、「やってきたことは無駄ではなかった」と思えるのではないだろうか。なんといっても、イランを石油化学製品輸出国へと転換させ、イランの人々の生活をよりよくする、という目的を果たすことはできたのだから。

シェエラザード(上)(下) (浅田次郎著)

 

シェエラザード(上) (講談社文庫)

シェエラザード(上) (講談社文庫)

 
シェエラザード(下) (講談社文庫)

シェエラザード(下) (講談社文庫)

 

 

シェエラザードまたはシェヘラザード。千夜一夜物語の語部である聡明なアラビアの大臣の娘。この本のタイトルであり、作中に登場するニコライ・リムスキー・コルサコフによる交響組曲のタイトルでもある。この曲は伊藤みどり以来、ミシェル・クワン安藤美姫キム・ヨナら伝説級の選手たちがフィギュアスケートで幾度となく使い、世界の頂点に輝いた。

小説の冒頭は、まさに千夜一夜物語のようにとても不思議な幕開けをみせる。帝国ホテルに宿泊する中華民国政府ーーすなわち台湾政府ーーの関係者、宋英明と名乗る中国人が、主人公の軽部順一と日比野重政に話をもちかけた。戦時中に米軍攻撃を受けて台湾沖に沈んだ「弥勒丸」をサルベージしたい、そのための資金を融資してほしいと。

軽部順一のかつての恋人、新聞社に勤める久光順子が調べたところ、弥勒丸には莫大な金塊が積まれているというまことしやかな噂があることがわかった。宋英明が日本関係者に接触してきたのはこれが最初ではないことも。まもなく事態は急展開する。宋英明が軽部らとは別に接触した人物が謎の死をとげたのだ。

物語は現代と過去を行き来して、息もつかせない緊迫した展開を見せる。過去とは昭和20年4月、まさにその弥勒丸に乗りこんでいた人々の運命をめぐる物語。現代とは沈没した弥勒丸の引き上げ、弥勒丸を知る人々をめぐる物語だ。二つの物語がからみあいながら、しかし時空を行き来することに混乱や負担を感じさせることなく、読者をぐいぐい引き寄せる。

おそらくそれは、小説を読みすすめるにつれて、いくつか、現在を生きる私が知っている単語が、戦争中の記憶とともに出てくるせいでもあるのではないか。

横浜港に停泊している氷川丸。戦時中病院船として徴用され、豪華客船の中ではただ一隻、撃沈されずに生き延びたことを私は知らなかった。氷川丸が70年以上前にいったいなにを見てきたのか、今はもうほとんど語られることがなくなってしまった。こうして小説を読むことで、忘れ去られようとしている記憶にふれる。この瞬間がとても貴重だ。

 

地政学は悪党の論理だ。その意味するところは、国家の望むものを獲得するためであれば戦争や殺戮を選ぶことにも迷いがない、クールで抜け目がない悪どさだ」

以前私が『悪の論理:地政学とは何か』を読んだ時に書いた感想だ。

この小説は吐き気がするほどにはっきりと、それを目の前に突きつけてくれる。

読みすすめるにつれて吐き気がますますひどくなる。弥勒丸をめぐる、およそ血の通った人間が思いつくものとは思えない思惑が明らかになるにつれて。シンガポール弥勒丸が積みこむことになる黄金の出どころ、なぜ弥勒丸の乗務員数と犠牲者数には十倍もの開きがあるのか、なぜ弥勒丸は攻撃されねばならなかったのか、謎がひとつずつ明らかになるにつれてーー。

登場人物たちはみな聡明だ。気づかないほうがどんなに幸せであろうからくりを見抜きながら、軍命にさからえず、弥勒丸を最悪の運命に向かって押し出してしまった。そしてその結果、50年後に再会した相手に「辛い仕事をさせてしまった」と言葉にかけずにはいられないほどの苦悶を抱えこんで生きてきた。それぞれの思惑が明らかになるにつれて、宋英明が、人死にを出してまで弥勒丸を引き上げたかったことが、深く納得できてしまう。

太平洋戦争中だから、で片付く話ではない。シリア内戦、パレスチナロヒンギャ。「最悪の人道犯罪」はいまこの瞬間に起きていて、それはこの小説で描かれた弥勒丸の悲劇と同じように、政治的・宗教的メリットを得られるならば戦争や殺戮もいとわない人々が引き起こしている。これが現実だ、と、暗澹たる気分になってしまった。だがそれでも、題名「シェエラザード」が一度聞き出したら止まらなくなる美しい交響組曲であるように、読む手が止まらない傑作小説だ。