コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

あなたの可能性、日本で発揮できますか?『日本に殺されず幸せに生きる方法』

独裁国家でもあるまいし、日本に殺されるとはなんぞや?

首をかしげる一方、「保育園落ちた日本死ね」に代表されるように、少子化が叫ばれながら、特に共働き子育て家庭にとって日本社会は決して生きやすくはない。なんだか真綿で首が締められている気もするけど、まだ窒息していない…そんな日本社会のことを書きたいのかなと思いながら読み始めた。

読んでみたところ、日本に物理的に殺されるのは大げさだとしても、可能性を殺されるという意味で警鐘を鳴らしているのは、なるほどと思えた。

 

本書の著者はめいろま(めいろま@May_Roma)の名前でツイッターご意見番として名を馳せ、バックパッカー、国連職員、国際結婚などの豊富な海外体験をもとに「ここが変わらなければならないよ日本人」についてインターネットで発信し続けている。彼女の本を読むのは二冊目。

二冊とも、さまざまなデータを駆使しながら「日本社会の仕組みは時代遅れでうまくいかないところが多々出てきている」「日本のやり方以外にも選択肢はある」「だからそれに目を向けよう」と主張するものだった。

 

日本では言語障壁があるから海外の英語情報は行き渡りにくいし、翻訳されたものはその時点で訳者の考えに影響される。つい最近起こった大坂なおみ選手のコメント誤訳報道などがそうだ。

【検証】なぜ大坂なおみ選手の誤訳報道が起こってしまったのか?(菊地慶剛) - 個人 - Yahoo!ニュース

大坂なおみ選手については、ハイチ系アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、英語を母語としているという意味では従来の日本人像に合うとはいえないけれど、彼女の偉業ゆえに「日本人はスゴイんだぞ!」と言いたい人々が、なんとか彼女に日本人的な振る舞いをさせようとあれこれ誘導しては失笑を買っているという印象。

このように日本人は日本のやり方に固執し、日本にやってきた外国人たちにもそれを強要するけれど、同調圧力が強すぎるところにイノベーションが起こりにくいことはすでに散々指摘されているし、わたし自身の体感としても実感できる。これこそ日本の宿痾ではないだろうか。

著者始め、海外に出た人々はそのことを知っているから「そうではない社会もあるんだよ」「今の仕組みだとそろそろうまくいかないのがわかってきたでしょう」「新しい考え方を入れないと社会は発展しないよ」と発信し続けている。

著者の指摘は鋭い。

日本で、特に女性に強くあるのが「同調圧力」です。何か新しいことを始めると言うと 「やめなよ。うまくいきっこないから」と言ってくる人が9割です。それは、本気で心配して言っているのではありません。 「自分と同じと思っている人がうまくいって上のレベルに行くのは面白くないから、足を引っ張ろうとしているだけ」なのです。

(中略)

みんな自分が大事で、他人にはさして興味もありませんから、あなたに言ってくることのほぼすべてが自分のために言っているか、適当に思いついたことを言っています。

同じようなネット記事をこのところよく見かける。それだけ、同調圧力に違和感を覚える人々が増えてきたのかもしれない。

帰国子女の娘がクラスで浮いた存在に… 鴻上尚史が答えた戦略とは? (1/7) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

 

同調圧力は両刃の剣だと、わたしは思う。

みんなが同じであればみんな仲良くしていられるし、東日本大震災時に見られたような壊滅的天災のなかでなお保たれる秩序が生まれる。だがそこから外れた瞬間に「自分たちとは違う」という理由で激しい差別を受けるリスクがある(これが怖いゆえにみんなと同調しているともいえる)。この環境からイノベーションが生まれにくいことは言わずもがな。また、判断基準が「みんなやっている」「言われたからやる」になると、たとえば検査数値偽造や統計調査偽造などの犯罪行為にも平気で手を染める。
同調圧力の強い社会に生きる」ことは、「自分独自の判断基準を放棄させられる」ことと同義だ。

社会が経済成長を続けて豊かであれば、それでも生きていくことはできよう。だが、経済が衰退して社会福祉が面倒を見てくれなくなり、自分自身で食べていかなければならないとなると、独自の判断基準のなさが最大の弱点になる。

幸いなことに、独自の判断基準は自分の中に育てることができる。「みんながやっているから」を理由にせずになぜそうするのかを考え続ける、思考停止をしないという決意と、さまざまな本を読むなり多国籍の友人と交流するなりして、多様な考え方にふれるための少しの時間、そして自分自身と異なる価値観でも否定せず「そういう考え方もあるのか」と受け入れる寛容さがあればいい。

これらはみんな、時間をかければ、長くても数年で身につけることができる。身につけることが、できた。

 

みずからの力で生き残れ『日本人の働き方の9割がヤバい件について』

本書の著者はめいろま(めいろま@May_Roma)の名前でツイッターご意見番として名を馳せ、バックパッカー、国連職員、国際結婚などの豊富な海外体験をもとに「ここが変わらなければならないよ日本人」についてインターネットで発信し続けている。

わたしが初めてめいろま氏のツイートに触れたきっかけは忘れてしまったが、意見に説得力があり、気になったのでフォローした。最近あふれかえっている日本人スゴイ系の記事や本やテレビ番組に違和感を覚えていたところだったので、めいろま氏の「世界からは日本人はこう見られている」ツイートが面白く感じられた。彼女のツイートは、英国事情、英語学習、世界から見た日本を知るためによく参考にしている。

めいろま氏は谷本真由美名義で多くの本を書いており、これはそのうちの一冊。

 

電通の高橋まつりさん過労自殺事件をはじめとする度重なる過労死や過労自殺報道、労働時間は長いのに生産性は先進国の中でも低い件など、日本の働き方がおかしいことはとうに明らかになっていると思う。それについて問題提起している識者も数多い。なのに一方で高度プロフェッショナル制度が成立したように、政府・経済界はむしろ労働時間延長を推進している。

著者はそれを問題視した。

日本が直面する経済環境や、世界の情勢は大きく変化しているのにもかかわらず、日本人の働き方は、高度成長期の頃とほとんど変わっていません。

すでに時代が変化しているにもかかわらず、過去の栄光や成功体験にしがみついて、自分自身が変化することを拒むというのは、個人レベルでは実によくある心理活動だけれど、それを国レベルでやっているのが日本ではないだろうか、と、わたしは考えることがある。

日本は「仕組み」よりも「人」のせいにすることが多いとよく言われる。しかし、ビジネスの世界では、もうけるための仕組み=ビジネスモデルをつくった時点で会社組織はかなりの部分が決まる。なぜならビジネスモデルを遂行するのに最も適した組織形態にしなければならないから、という意見もある。わたしはこちらに賛成だ。

上司に評価されることばかりを熱心にやり、そうでないことは事実上無視する人をさんざん見聞きした。なにをしたいかが決まれば仕組みが決まり、仕組みが決まれば評価制度が決まり、その中にいる人間に求められることが決まる。逆に言えば、この時点で人間にできることには制限がつく。求められることはどんどんやるし、求められないことは得にならないからやらない。「求められること」がおかしければ、その中にいる人間もまたおかしくなるのはあたりまえ。

働き方はそのひとつ。高度経済成長期に終身雇用制度や長時間労働があったから、それを【成功体験】だと勘違いしてしまった。同じやり方をすればいまの経済衰退も良くなるに違いない、と、誰もが思いこんでしまった。けれどゲームルールはすでに変化していて、これまでのやり方では通用しない。歴史上、鉄砲伝来が戦のやり方を根本的に変えてしまったように、飛び道具相手にどんなに日本刀の一騎討ち技術を磨いても、もう役にはたたない。

そもそも長時間労働だって、高度経済成長期に役立ったかもしれないけれど、それだけで経済成長できたわけではない。著者は明快に言い切る。

日本の成功は、当時の資源価格や国際政治、金融政策、特許技術の購入のしやすさ、新技術の導入、海外の最新技術や知識の導入、地道な品質改善活動、教育改革、さらに歴史的なタイミングなど、様々な要素が絡み合っていたから可能だっただけであり、「日本人の働き方」は成功要因の一つにすぎなかったのです。

 

これからは正社員雇用でさえ安定しているとはいえない、それは世界的な流れであり、日本ももちろん例外ではない。自分のスキルが労働市場でいくらで売れるかが重要。著者はこれを「働く人の自分商店化」と呼ぶ。

今後仕事を選ぶ際に重要になることに 「市場で評価されるかどうか」があります。...仕事の報酬というのは、基本的に、需要と供給で決まります。

働く人の自分商店化は、 50年前の状態に回帰しただけであり、そもそも、終身雇用や働く人の多くが、正社員として、新卒で一括採用される仕組みの方が異常であった、ということがいえるでしょう。たかだか50年程度しか歴史のない仕組みが、「日本固有の雇用体系」といえるかどうかは疑わしいですし、戦後の高度成長期の産業構造に合わせて、最適化された雇用体系にすぎなかったというわけです。

それはとりもなおさず、能力が低くても正社員にしがみついていればそれなりの収入が保証されてきた層が、今後、貧困層に転落するかもしれないことを意味する。実力主義の行き着く先は貧富格差拡大だから。

貧富格差是正のためにこれまで人類はさんざん努力してきたではないか、その努力が無駄になるというのか、と反論されそうだけれど、結局資本主義とはそういうものであり、対価に見合うサービスを提供できなければ淘汰される弱肉強食の世界なのだ。慣れあいだの分け合いだの(生活保護などのセーフティネット)で落ちこぼれた人が餓死しないようにすることはできるし、その取組み自体は素晴らしいけれど、社会全体でみれば残念ながら少数派。経済的余裕がなくなればまっさきにセーフティネットが「仕分け」対象になるのが、イギリスであり、日本なのだと思う。

結局のところ、みずからの力で生き残れ、という真理に立ち戻っている。読み終えたとき、そんな気がした。

食べるラー油ならぬ食べる文章『小林カツ代のお料理入門』

小林カツ代さんの本に出会ったのはかなり昔だ。最初に読んだ本のタイトルももう思い出せない。けれど「小林カツ代さんは美味しい文章を書くひと」ということはずっと記憶にあった。

なんというのか、お料理について書いたエッセイを読んでいると、まるで本当に食べているような気分になってくる。しかもどれもこれも美味しい。炊きたてご飯を茶碗によそって、塩をふって食べることを書いたエッセイでは、電気釜の蓋の重み、立ちのぼる湯気、炊きたてご飯の香りがわっと広がる光景が、匂いつきで目の前に浮かぶ。お料理の味加減じゃないけれど、匂い、感覚、味の描写が絶妙。

小林カツ代さんがこの本で書いたお料理は、どれもこれも手間いらず、なんだったらちょっと手を抜いたりして、一人暮らしにぴったりな分量ながらとても美味しい。まるで初めて一人暮らしをする子どもにお母さんがレシピを伝授しているよう。一緒に作りながら「こうすれば美味しいんです」とニコニコしている昭和のお母さんがしっくりくる。

もともとのタイトルは「実践 料理のへそ!」。へそは胎内にいる赤ん坊と母親を結ぶ大切な命綱だから、料理のへそは、そんな命にかかわる大事な意味もあってつけたそう。味のカギを握るところにポイントを置いていて(とはいっても「砂糖はパパパッと肉の上全体にふりかけてから」というように全然難しくないこと)、こうすれば美味しい!

料理研究家である前に、「美味しいものを食べたい/食べてもらいたい」がエッセイに凝縮された小林カツ代さんの本。お腹が空いているときに読めば、お腹がぐうぐう鳴って、すぐに台所に立って料理したくなること請けあいだ。

国家に潰されるということ『A3』

 

A3 上 (集英社文庫)

A3 上 (集英社文庫)

 
A3 下 (集英社文庫)

A3 下 (集英社文庫)

 

たまたま全文無料公開されていることを知り、オウム真理教のことを知るために読んでみることにした。

https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac

読み続けるのが苦しくなる本だった。テーマはオウム真理教でも教祖麻原彰晃でもない。

「国家権力を総動員してでも、違法行為や超法規的措置や例外をことごとく容認してでも、必ず潰さなければならない」

そう認識されたとき「潰される側」がどういう仕打ちにあうか、記録し、問うことだった。

 

地下鉄サリン事件が起こった1995年3月、わたしは兵庫県在住だった。阪神淡路大震災の報道をもう見たくなくてほとんどテレビをつけていない時期だった。

インターネットも今日ほど発達していなかったから、全国を震撼させた凶悪事件だったにもかかわらず、リアルタイムで報道を見聞きした記憶はほとんどない。また、関西在住のわたしにとって、一度も行ったことがない東京というところは、どこか遠い地に感じられた。麻原彰晃という名前は知っていたが、彼がなにをしたのかは、ぼんやりとしか印象がなかった。

オウム真理教について初めて読んだ本は、『悪魔のお前たちに人権はない』というタイトルだったと思う。

麻原彰晃が残した就学年齢の子どもたちが、住民票受理を拒否され(ちなみに元信者の転入届不受理問題は最高裁で違法判決が出ている)、義務教育すら受けさせてもらえずにいるのを、なんとか小学校に入学させようと支援者の女性たちが孤軍奮闘することを書いたノンフィクションだった。人権とはなにか、父親の罪故に子どもたちを村八分にするのは正しいのか、ずいぶん考えたように思うが、どういう結論が出たかはもはや思い出せない。

2018年7月6日、麻原彰晃始めオウム幹部の死刑が執行されたとのニュースを皮切りに、ふたたびオウム真理教の報道にふれる機会が多くなった。聖路加病院の故日野原重明院長の英断により多くの地下鉄サリン事件被害者が適切な治療を受けられたこと、元信者の林郁夫の全面自供をきっかけに事件が一気に解決に向かったことなどを知った。

その時はエリートと呼ばれる人々がこぞってオウム真理教に入信したことに多少興味をもった。冷静な判断力をもつはずの人々がなぜ狂信的教団に加担したのか、知りたいと思ったが、あえて調べるほど興味が高まったわけでもなく、すぐに忘れた。

いま、若い人達は、オウム真理教の名前を知らないことが多くなってきたという。事件が時間とともに風化していく中で、久々に読んだのが本書だった。

 

本書は当時の連載記事を一冊の本にまとめたもの。オウム真理教をめぐる当時の状況、それに著者が覚えた違和感を、なるべく客観的に記述しようと試みている。

読み始めてすぐに、なぜネットでの無料全文公開に踏み切ったのか、なんとはなしに想像がついた。それだけ読んでほしかったのだろう、できるだけ大勢の人々に。

 

本書で繰り返し述べられているのは、「オウム真理教をめぐる警察・裁判・ジャーナリズムの異様さ」。

オウム真理教相手にはなにをしても許されるとばかりに、別件逮捕の濫用、裁判での精神鑑定不適用、違法な転入届不受理などがあったと、そういったことを感情をできるだけ交えず客観的に、オウム真理教の善と悪の倫理判断に踏みこみすぎることなく、淡々と記述している。

たとえば、傍聴席から見た麻原彰晃はまともな精神状態になく、話があちこちにとんで混乱を極めていたように見えた。そのため裁判を進めるにあたっての判断能力、すなわち訴訟能力(責任能力ではない)に問題ありと著者は見立てた。だが、なぜか一審では精神鑑定は問われなかった。著者からは、麻原彰晃は逮捕時はまともだったのに公判時には「無残に崩壊していた」ように見えた。反抗的な麻原に過剰な向精神薬が投与されたためではないかとの噂がたった。

熊本では、ふつうなら行政指導をすることでも、オウム真理教がからめばいきなり警察が家宅捜査に入った。こういったさまざまな動きが、著者に「まともだろうか」と思わせるきっかけとなったらしい。

戦後最も狂暴で凶悪な男として語られるこの悪の特異点は、裁判においても一審判決確定で審理が打ち切られるという特異点になった。あらゆることが異例だった。でも異例であるはずのあらゆることが、麻原であるという理由でことごとく整合化された。

こうして異例は前例になる。オウム以前とオウム以降とで、日本社会は明らかに変質した。ならば特異点の特異性を見きわめねばならない。何がどのように特異なのかを知らなくてはならない。

さまざまな前例が残り、通信傍受法などの法規が、オウム真理教事件をきっかけに成立した。

著者が恐れているのはこのことだ。

オウムが消滅したとしても法律は効力を保ち、前例は残り続ける。地下鉄サリン事件のことなど知らないという若者が確実に増えてきているにもかかわらず、彼らは法律や前例の影響を受ける。そしてオウムがいなくなれば、法律や前例は存在意義を失うかといえば、そんなことはない。それらは新しい適用先を見つけて生き残ることがある。新しい適用先がなにかは、誰にもわからない。

歴史上、日本は同じことをやったことがある。悪名高い治安維持法だ。

もともと治安維持法は皇室反対論者や共産主義者を取り締まるためにつくられた法律だったが、取り締まるべき対象がほぼいなくなると、そのためにつくられた特別高等警察組織は存亡の危機に立たされた。だが、いったん成立した組織は、それ自体が存続し続けようとするもの。特高がとったのは、治安維持法の検挙対象を拡大するという方法で、それがしだいに過剰なまでの団体活動の弾圧につながった。

治安維持法について、Wikipediaにはこうある。

検挙対象の拡大

1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。

1937年6月の思想実務者会同で、東京地方裁判所検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特別高等警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。

そのため、新たな取締対象の開拓が目指されていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体・学術研究会(唯物論研究会)・芸術団体なども摘発されていった。

 

オウムは特別だ、オウムにしか適用しない、という言い訳で果たして安心できるだろうか、というのが、一貫して著者が問いかけていることだ。

オウムと同じレベルのことをやらかす団体がもし現れたら、「この団体はオウムと同じ、いやそれ以上の巨悪だ」という共通認識が生まれ、同じことがその団体にも適用される。こうして第二、第三の適用対象が現れ、例外はいつのまにかそうでなくなってしまう。これこそが著者の恐れることだ。

オウムがやらかしたのは東京での毒ガスを用いた大量無差別殺人行動だ。こういうことはめったに起こらないーーといっても、9.11の同時多発テロ以後、ヨーロッパ諸国の首都では、イスラム過激派による小規模テロはもはや珍しくなくなってしまった。日本がアメリカの同盟国である以上、他人事ではいられまい。

オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。

 

著者の問いかけについて、わたしは答えをもたない。そして答えをもたないことについて、わたしはそれほど関心をもたない。

この問いかけを意識してのことではないだろうけれど、ひとつの思考実験として参照できそうなのが、小野不由美先生著『落照の獄』。著者がそれを読んだかどうか、わたしが知ることはないだろう。

この本は次の言葉で締められている。麻原彰晃らオウム幹部の死刑が執行されたいま、それは現実になった。

そのときに自分が何を思うのかはわからない。でもこの社会がどのような反応をするかはわかる。
それはきっと、圧倒的なまでの無関心だ。

想像の中のアメリカ留学『英語の授業では教えてくれない自分を変える英語』

本書は15歳の中学生・峰岸陸がアメリカ留学してからハーバード・ビジネス・スクールに入るまでの物語形式で、物語を通して、日本とアメリカの文化的違いを説明しようとしている。ところどころで会話文として英語が登場しており、章末に役に立つ表現をまとめているくらいで、単語や文法についてはほとんど触れない。

あることを説明するためにストーリー仕立てにすることはとても良い方法だけれど、本一冊書けるほど長いストーリーにすると、目的がはっきりしすぎているために物語構成としては無理がでてくる。本書はまさにその罠におちたていた、というのがわたしの感想だ。陸のアメリカ留学経験は、紹介したいシチュエーションにもっていくために、かなり強引な物語展開が多く、途中からつまらなく感じてきてしまった。物語展開が強引であるゆえに「アメリカのことを知らない著者が書いた、想像の中のアメリカ留学もの」に思えてしまう。

説明のための物語形式でありながら、物語としても充分面白い読み物としては、『ソフィーの世界』が筆頭だろう。分厚い本だ。本当に異文化理解のことを書くならば、たかが200ページ程度ではとても足りない。本書では、せいぜい上澄みを掬うにとどまってしまった。

イギリス人だって空気を読みまくる『イギリス英語は落とし穴だらけ』

めちゃくちゃ面白い。イギリス英語がものすごく空気や行間を読む、ある意味日本語に似た言語だとわかる。

たとえばこれ。

(英)I hear what you say.

(訳)君の言うことは耳に入れておくよ。

(真の意味)一応礼儀として聞いておくけど、僕の意見は君とは違う。もうこの話はやめにしよう。

どうだろう。会社勤めなら誰でも心当たりがあるのではないだろうか。もうひとつ。

(英)It’s interesting.

(訳)それは面白いね。

(真の意味)へえそうなんだ。でもなんかおかしいなあ(It’s ...butを連想させて)。まあどうでもいいけど。

ちなみにThat’s interesting. であれば、素直に「それは面白いね」の意味になる。なんとも微妙なさじ加減。

こういったニュアンス満載のイギリス英語を、本書はわかりやすく紹介している。

もともとイギリスは伝統的文化として、自嘲、謙虚、控えめの表現が美徳とされてきたが、島国であるためか、こういったことは日本、特に京都辺りにもよく見られるように思う。言葉以外のニュアンスを巧みに響かせて、本当に言いたいことを口に出すことなく伝える技術だ。

クスリと笑える表現満載でありながら、イギリス英語のよく使う表現を勉強するためにもってこい。今度イギリスの友人を驚かせてみたい人はぜひ読んでみては。

フジテレビ買収を決めた信念『生涯投資家』

ライブドアによるフジテレビ買収がニュースになった頃、わたしはまだ経済にも投資にもあまり興味がなく、フジテレビ買収のなにが問題なのか良くわからなかった。それに絡んで村上ファンドの名前が出てきたときも、インサイダー取引があったらしいくらいの認識だった。

この本は十年の時を経て、村上ファンドを率いていた著者が書いたものだが、いわゆる真相告白本ではない。投資家としての信念、生涯投資家として実現しようとしたことを訴えかけた本だ。

わたしは基本的に告白本の類は読まないのだけれど、この本は純粋に投資理念について学ぶための本として読むことができた。投資とはなにか、投資家とはなにか、企業のあるべき姿はどういうものか。そういったことについて、50年の投資経験がある著者が、生涯かけて学んだことを読むのは、これから投資を考えるにあたってとても役立つ。

そもそも投資とは何かという根本に立ち返ると、「将来的にリターンを生むであろうという期待をもとに、資金(資金に限らず、人的資源などもありうる)をある対象に入れること」であり、投資には必ず何らかのリスクが伴う。しかしながら投資案件の中には、リスクとリターンの関係が見合っていないものがある。それを探し、リタ ーン>リスクとなる投資をするのが投資家だ。

 

著者が目指してきたのは、ひとことで言うと、コーポレートガバナンス徹底による死蔵資金活用。

コーポレートガバナンスは、企業内のセクハラ・パワハラ防止やら、企業の社会貢献活動やら、さまざまな場面で異なる意味で使われている言葉だ。投資家として見ると、コーポレートガバナンスは、投資先企業・団体との健全な対話や議論、株主が企業の健全な経営を監視・監督するためのルール。目指すところは企業価値向上、ひいては株価上昇による投資リターンの最大化だ。だからその反面、内部留保しすぎて投資も株主還元もしていないような企業は、投資家からすると、不必要な死蔵資金を抱えこんで活用出来ていないとしか映らない。

コーポレート・ガバナンスの徹底は投資家にとって目的ではない。目指すリターンを得るまでの目標を投資先と共有し、確認し合うコミュニケーションのルールだ。ゴールはあくまでも、企業が株主に対して、自社の成長や株主還元という形でより高いリターンを提供することである。

著者から見ると、株価向上に努めていない、本来あるべき企業価値に対して株価が低すぎる企業が多すぎるという。

たとえば内部留保金額が時価総額より高い(著者曰く「一万円入りの財布を七千円で販売しているようなもの」)と、資金活用が十分ではないし、そのような企業は買収対象になりやすい。ライブドアが買収をしかけたニッポン放送も、歴史的経緯でフジテレビの筆頭株主でありながら、自身の株価はつりあわないほど低かった。

 

内部留保するくらいなら事業投資なり株主還元なりすべき、という著者の考えはもっともだ。一方で、貯金大好き安定大好きな日本人気質から見ると違和感はないのだから、難しいところ。この気質をどうにかしないと、コーポレートガバナンスの実現は遅々として進まないままだろうという気がする。

企業経営者に限ったことではないけれど、貯金大好き安定大好きな日本人気質は、不安定な状態(手元に資金があまりなくて、事業が成功してお金が入ってくるかわからない状態)への過剰なまでの恐怖心があることの裏返しにも思える。あるいは、高度経済成長期やバブル期に資産を持っているだけでどんどん価値が上がっていった成功体験があるから、経済状況がまったく変わってしまった現在でも同じやり方にしがみついているのかもしれない。もしくは、そもそもリスク判断についての教育(いわゆる金融リテラシー)が行き届いておらず、リスクとリターンを比較した上でリターンを期待して飛びこむという思いきった決断ができないのかもしれない。

どれが実態に近しいのかはわからないし、すぐに変わるものでもないだろう。今わたしは、自分自身から少額でも投資を始めようかと考えている。こういったことを、投資を実行しながら考えていきたい。