コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

ここがおかしいよ日本社会『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』

 

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 

わたしがインターネット上で借金玉という名前を知ったのは、ニューアキンドセンターへの投稿を読んだのが最初だった。読み始めてからすぐ、わたしはこういうことが知りたかったのだと思った。同時に、こういうことを書くのに、生傷を引き裂いて鮮血を迸らせ、血反吐を吐き散らす覚悟と胆力が必要だっただろうとも分かった。自分自身を含めた現実と徹底的に向きあった人間の文章だった。

借金玉氏がニューアキンドセンターで書いた記事のまとめはこちら。

借金玉 | ニュー アキンド センター

そのうちでもわたしが何度も何度も読み返した、読んで絶対損はない記事をいくつか。

起業失敗の話。起業を志す皆さんに敗残者からお伝えしたいこと | アキンド探訪

連載最初の記事。起業の失敗理由を「人」の観点からえぐり下げている。借金玉氏は事業に失敗してからあまり時間がたっておらず(具体的には書いていないが、文章から察するに、創業期メンバーとの対立&反乱&背信行為があったと思われる)、「人間は必ず裏切る」という残酷すぎる現実がメインテーマ。だがここに「裏切った方が得な環境を作ってしまった代表取締役が悪い」と加え、自分自身が悪かったところも血まみれ解体しているのが借金玉氏のすごいところ。これで一気に連載ファンになった。

起業という甘い罠の話。なまはげに嵌められない起業とは | アキンド探訪

こちらは少々方向性を変えて「起業させてから食おうともくろんでいる出資者もいますよ」というお話。出資者に株式9割握られていたらもはやお察しだけれど、起業当初の、熱にうかれている状態では案外ころっといってしまう。

英雄頼りの「会社経営」から抜け出す理由。兎を獲ったら犬を煮る話。 | アキンド探訪

創業期を抜け、規模拡大期に入る頃。これまでひとりの超優秀メンバーにまかせていた仕事を、ほかのメンバーにもできるようにマニュアルなどに落としこんでゆかなければならないが、たいていここで衝突発生するというお話。借金玉氏が起業過程でつまずいた場所。

 

さて本書だが、タイトルから分かるように起業失敗についてのものではない。著者はADHD注意欠陥多動性障害)とASD自閉症スペクトラム自閉症、アスペルガ ー症候群、広汎性発達障害などを包括する概念)を抱えている。発達障害は一人一人の症状や困りごとが違う。著者にも双極性障害などいろいろある。

そんな著者が書く発達障害向けのライフハックであるが、読んでみると感想がひとつ。

「もしかして『ここがおかしいよ日本社会』が裏テーマになってないか?」

たとえばこの文章は読みながら、わたしは「あるあるあるある!!!!」と高熱時のうわ言みたいなことを言いながらうなずきまくっていた。

職場というのは、言うなればひとつの部族です。このことをまずしっかりと理解してください。

そこは外部と隔絶された独自のカルチャーが育まれる場所です。そして、そこで働く人の多くはそのカルチャーにもはや疑いを持っていません。あるいは、疑いを持つこと自体がタブーとされていることすらあります。それはもう正しいとか間違っているみたいな概念を超えて、ひとつの「トライブ(部族)」のあり方そのものなんです。言うまでもありませんが、それは排他的な力を持ちます。部族の掟に従わない者は仲間ではない、そのような力が働きます。

「空気を読む」とは、そのような部族の中に流れるカルチャーをいち早く読み取り、順応する能力です。僕にはこの能力が完全に欠けていました。欠けているだけならまだしも、そもそも順応する気がなかった。僕の失敗の一番致命的なところはそこだと思います。

 

なんとなれば、定型発達者であれば誰もが意識せずある程度できる(できるようにさせられる)ゆえに、ほとんど文字化されないことを、発達障害者である著者は文字化してみせた。

これ、社会文化学研究に一番大切な能力なんである。

「肝心なことはみんなできるから、わざわざ言葉に残そうとする人は少なく、文献の行間から読みとるしかない」というのは社会文化学研究あるある(とわたしは思っている)。それを本気で観察して考え抜いて文章化されるほどありがたいことはない。

発達障害者が書いた」ということにも価値があると思う。本気でわからないから本気で観察したことが文章からビシバシ伝わるし、明文化されることへの嫌悪感も低い。

人間、普段何気なくやってることを「これっておかしいよね?」と指摘されると、居心地悪くなったり、おちょくられたりバカにされたと感じたりするもので、「そう言うあんたがおかしい」と反論したくなる。ネットなどはこの手の論争に事欠かない。

けれど、発達障害者相手ではこの心理的ハードルが下がるのである。「発達障害者ならまあしょうがないか。自分をおちょくっているわけではなく、本気で分かっていないんだろう。よく読めば内容も結構納得できるし」てなもの。昔の中国なんかでもあったが、あいつおかしい、とささやかれる知識人が、最も鋭く社会批判していたりする。体制批判は時代によっては一族郎党全員死刑だが、"正常な"状態にないとみなされた人間は見逃されるのである。

話がそれたが、この本は「日本社会ワケワカラン」とお悩みの外国人移民勢には良い日本社会入門書になると思う。誰か英訳して売り出してみてくれないものか。

 

ちなみに、押さえておきたいポイントを3つに絞って紹介するならば、わたしはこれを選ぶ。

業務習得や遂行の最高の潤滑油は「好意」です。業務上関わる多くの人間に好意を持たれることにさえ成功していれば、ハードルは一気に低くなります。もちろん、逆も然りです。悪意を持たれた時点で、本当に大変なことになります。

この世で最もシンプルで、どの職場でも使える最強の「見えない通貨」。それは、 「褒め上げ」「面子」「挨拶」の3つです。この3つを覚えれば、人間関係における  9割の問題は解決すると言ってもいい。

人間というのは「雑談」を経てその人間がコミュニケーション可能な相手なのか、そうでないのかを測っている節が大変強くあります。共有する話題も用件も全くないところで発生するある種儀礼的なコミュニケーションは、お互いが対話可能かの試し合いです。これが「できない」と認識されると、それ以上の深いコミュニケーションをとるのは往々にして難しくなるでしょう。

【おすすめ】IT時代の軍事技術競争に負けるとなにが起こるか『Army of None』

【読む前と読んだあとで変わったこと】

新しい視点を身につけるために読む本。日本ではあまり取り上げられることがない、軍事技術発展という視点からIT技術を見るようになった。

 

かのビル・ゲイツがブログでAI・機械学習関係の必読書と絶賛していると聞き、即買い。

When ballistic missiles can see | Bill Gates

Army of None: Autonomous Weapons and the Future of War

Army of None: Autonomous Weapons and the Future of War

 

ビル・ゲイツが直接発信している情報に簡単にアクセスできること、欲しい本をAmazon Kindleで即買いできること。いずれもIT時代の恩恵だが、本書ではIT時代の軍事技術について、身の毛のよだつ現実を読者に見せる。

2018年12月頭に、中国のIT最大手であり、事実上中国解放軍のIT関連軍事技術開発を一手に担うファーウェイの副社長兼CFOがカナダで逮捕(のちに保釈)されたニュースは世界を震撼させたが、これは米国と中国がIT軍事技術分野でかねてから繰り広げてきた熾烈な覇権争いの一環である。

習近平のメンツをつぶした華為ショックの余波:日経ビジネス電子版

本書を読めば、なぜIT技術が必要かがわかる。

Work understands the consequences of falling behind during periods of revolutionary change. Militaries can lose battles and even wars. Empires can fall, never to recover.

ーーワーク(アメリ国防省官僚)は、革新的な変化が起こっている時代に乗り遅れることの重大さを承知していた。軍は戦闘や戦争そのものに敗北するだろう。帝国は没落し、二度と立ち上がれないだろう。

 

少し話が逸れるが、最近、欧米のエリートは「哲学教育」を重視しているという話題に触れた。日本で哲学の入門書といえば、おそらく《ソフィーの世界》を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。わたしも昔読んだ。

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

 

なぜ哲学を学ぶのか。強力な軍事技術を手にしたとき、それを濫用しない自制心と分別をつけることが目的の一つだ。シカゴ大学教授ロバート・ハッチンスは「無教養な専門家こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威」と述べた。子供に核兵器を持たせることほど危険なことはない。本書に登場する軍事技術を「使う」側にいる人々が、それだけの分別をもつことを願うしかない。

 

前置きが長くなった。読書感想に入ろう。

最初の一文からショッキングだ。

On the night of September 26, 1983, the world almost ended. ーー1983年9月26日の夜、世界は終わりを迎えかけた。

三週間前の1983年9月1日、ソ連はアラスカ発ソウル行きの大韓航空機を撃墜し、アメリカ上院議員を含む乗員乗客269名が死亡した。両陣営の緊張は高まり、ソ連アメリカの報復を警戒して"Oko"と呼ばれるシステムで監視していた。

26日の真夜中過ぎ、システムが警告を発した。「アメリカ合衆国ソビエト連邦に向けてミサイルを五基発射」

当時駐在していたソ連将校ペトロフは、警告を奇妙に感じた。本当にアメリカが攻撃してきたのなら、たかだか五基のミサイルで終わらせるはずがない。ソ連の地上設備を全滅させるために雨あられとミサイルを撃ちこむはずだ。彼は調べた。結局、システムの誤作動が判明し、世界は第三次世界大戦の危機からからくも逃れた。

この事件について、著者はこう述べている。

What would a machine have done in Petrov’s place? The answer is clear: the machine would have done whatever it was programmed to do, without ever understanding the consequences of its actions.

ーーもし機械がペトロフの立場にいたらどうしていただろう?  答えは明らかだ。機械はプログラムされたとおりのことをする。その行動がどれほど重大なことか理解すらせずに。

著者は人工知能に意思決定させることの危険性を述べているが、私はこのエピソードから別のことを読み取った。もし人工知能時代であれば、五基のミサイルでもペトロフは敵攻撃だと判断したかもしれない。なぜなら「ミサイルの雨あられ」は、標的がどこにあるかわからない状況で少しでも命中率を上げるための方法であり、「標的を見つけることができる」人工知能搭載ミサイルであれば、少数精鋭で事足りるから。

 

もう一つの例は著者自身の経験から。軍人時代、アフガニスタン国境に潜伏していたときのこと。五、六歳の女児が山羊を連れて潜伏場所を遠巻きに歩いた。女児は明らかに著者達にーー敵側狙撃兵にーー気づいており、位置特定に来たのだ。事実、女児がいなくなってすぐにタリバン戦闘員が押し寄せた。

女児の行為は「戦争法では」攻撃理由になる。もちろん、わずか五、六歳の女児を撃とうとする者などいるはずもなかった。だが、倫理観をもたない機械なら?

 

著者は元米軍特殊部隊で米国防省軍事専門家。テスト段階にある軍事設備や研究プロジェクトを見聞きするなかで「コンピュータが攻撃目標を提案すること」がすでに実現可能であることを見つけている。「通信妨害されているなかで動きまわる攻撃目標を追尾する」ミサイルを開発しようとすれば、「ある物体が攻撃目標かどうか」をある程度識別できなければならないから。

いまのところミサイルは攻撃目標になる可能性があるものを見つけて画像情報を送り返すだけで、攻撃をするかどうか判断するのはオペレーターである。

攻撃判断を含め、いままだ人間が判断していることを自動化するかどうか?

軍事産業ではこれが大きな論争の的になっている。完全自動化すれば、もちろん、オペレーターがいなくなる(車の自動運転が実現すれば運転手がいなくなるように)。そうなれば、ミサイルがどこにいるのか把握できなくなりかねないーーミサイルは「勝手に」動きまわるし、敵レーダーに捕捉されないために位置情報送信は最小限にしなければならないから。

殺傷能力の高い対潜水艦ミサイルを「野放し」にして、勝手に目標を見つけさせて(時に目標を見つけられないまま迷子のように深海をさまようかもしれない)、勝手に攻撃判断を下させる(もしかしたら民間船や味方艦を敵艦と取り違えるかもしれない)ということは、少し考えるとなかなか怖い。

防衛省は兵器自動化にはかなり慎重な姿勢をみせており、著者は米防衛省上層部へのインタビューでそれを浮き彫りにしている。だが一方で、もし必要となれば兵器自動化を推し進めるだろうとほのめかしている。

The lesson from history, Schuette said, was that “we are going to be violently opposed to autonomous robotic hunter-killer systems until we decide we can’t live without them.” When I asked him what he thought would be the decisive factor, he had a simple response: “Is it December eighth or December sixth?”

ーーシュエット氏に言わせると、歴史の教訓は、「われわれは自動化されたロボットのハンター・キラーシステムに猛反対するだろう。われわれがそいつなしに生きられないと決意するまではね」となる。

私が、どういったことが決定的要因になるだろうかと尋ねたところ、彼の答えは簡潔だった。

「そいつは12月8日(第二次世界大戦中に日本軍が真珠湾攻撃を実行した後)かね、それとも12月6日(実行前)かね?」

 

このような現実がある中で、結局私たちはどうしたいのか?

それこそが考えるべきことだと著者はいう。

人類は核兵器という「人類を絶滅させるに足る能力をもつもの」と共存する仕組みを四苦八苦しながら探り続けている。現在のところ「全員核武装して互いに睨みあう」というやり方でとりあえず平和は保たれている。同じことが人工知能やロボットにも起こるだろう。

著者にできるのは「どうすべきか考え続けよう」と呼びかけることだけだし、そうすべきだろう。己の価値基準に照らしあわせた判断こそが、人間にしかできないことだから。

【おすすめ】日本の未来予想図『Chavs: the Demonization of the Working Class』

 

Chavs: The Demonization of the Working Class

Chavs: The Demonization of the Working Class

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

イギリスのニュース(主にBBC)、イギリスの福祉制度や社会問題等について書かれたオンライン記事などをよく読むようになり、日本社会の30年後の姿を自分なりに予測するようになった。あまり先行きが明るくないようだと、海外移住も考えるかもしれない。そう考えるきっかけとなった本の一冊。

 

Twitterで「イギリス現代社会のことを書いているけど、これって日本の未来予想図じゃね?」とコメントされていた本。電子書籍で読んでみた結果、序盤でどんよりとした気分にさせられたけれど「移民受け入れを決めた日本には確かに他人事じゃないわこれ」という感想。

 

Q: ほぼ同時期に、二人の幼い少女、マデリーンとシャノンが、それぞれ違う家庭から誘拐されました。マデリーン誘拐事件は大々的に報道され、各界著名人から援助の手がさしのべられましたが、シャノン誘拐事件はたいして報道もされず、援助も微々たるものでした。なぜでしょう?

A: マデリーンは常識ある中流家庭育ちだったのに対して、シャノンは喧嘩・暴力が日常茶飯事の貧困家庭出身だったから。

 

笑いごとではなく、現実にイギリスで起こった誘拐事件である。

二人の少女のうち、マデリーンはとうとう見つからなかったが、シャノンは一年後に見つかった。誘拐犯とされたのは母親の彼氏(母親は五人の男性との間に七人の子どもを産んでいた)の親戚だった。このことで母親への非難報道が巻き起こる。

数週間後、事件が母親による支援金目当ての狂言誘拐だったと報道され、非難はますます加熱した。母親本人のみならず、母親が「所属している」と思われた”Chavs”(ワルとかヤンキーに近い)に代表される貧困家庭、さらには貧困家庭の多い地域一帯が批判対象となった。生活保護世帯は子どもの数を制限すべきだというまことしやかな論調まで飛び出した。

 

この誘拐事件が日本で起こるとどうなるだろう?  やはり、狂言誘拐を起こした母親へのバッシング一色となるだろう。

だが、日本社会とちょっと違うのは、イギリスは本来、差別にものすごく厳しい社会制度をもつという点である。

イギリスでは、人種・宗教・LGBTなどを理由に不当な扱いをすれば、裁判所に訴えることができる。不当解雇などでは、企業相手に数億円規模の賠償金を勝ち取ることすらできる。だが同じイギリスでは、”Chavs” への差別にはまるきりブレーキがない。

その根底には、日本の「一億総中流」幻想とまったく同じ考え方がある。

...that we are all middle class, apart from the chav remnants of a decaying working class. ーー私たちはみんな中流であり、腐った労働者階層の “Chavs” のクズどもとは違う、という考え方だ。(意訳)

少女誘拐事件では明らかな報道格差があった。

労働者階層への無理解はメディアが片棒をかついでいる、なぜならメディア関係者はほとんどが中流出身だから、というのが著者の見解だ。これまた日本は他人事ではない。大手新聞社・テレビ局に入るのが一握りのエリートなのは、日本も同じ。

The fact that the British elite is stacked full of people from middle-and upper-middle-class backgrounds helps to explain a certain double standard at work. Crimes committed by the poor will be seen as an indictment of anyone from a similar background. The same cannot be said for crimes where a middle-class individual is culpable.

ーー英国のエリートが中流や、より上の階層出身者に占められているという事実は、ダブルスタンダードの存在を説明する助けになる。貧乏人がかかわる犯罪は、同様の貧乏人たちを誰彼構わず責めたてる口実にされる。だが、中流家庭の人間が犯罪に関わったとしても、同じように責めることはできない。(意訳)

著者は筆鋒鋭く、このような格差社会は、1970年代にサッチャー政権が推進した新自由主義政策がもたらしたと持論を展開する。

民営化、規制緩和成果主義個人主義

地域共同体への貢献よりも資産があるかどうかで評価される風潮。

貧富の差が拡大される一方で福祉費用は削られつづけ、あまつさえ「貧困は自己責任であり、貧困者は犯罪に手を染める可能性が高い」といった根拠なきバッシングまで巻き起こる。

Thatcherism’s attitude was that crime was an individual choice, not one of the many social ills that thrive in shattered communities.

ーーサッチャーイズムの姿勢は、犯罪は個人の選択であり、閉鎖的なコミュニティにはびこる数多くの社会的病理のひとつではない、というものだった。(意訳)

まさに日本で、いま、現在、起こっていることではないか?

 

イギリスの現状が恐ろしいほど日本に似通っている気がしてくる一方、読み進めるにつれて、違和感もまた生じてくる。

著者は格差社会新自由主義政策のせいだと断じる一方、貧困層の怒りをエリートに向けようとしている。だがこれは共産主義者があおった階級闘争そのものに思える。そして、エリートから富を奪い、平等に再分配することで地上の楽園をめざしたはずの共産主義社会もまた、決して理想通りにはいっていないことを、わたしたちはすでに知っている。

一部の人間をーー独裁者であれ、政党であれ、民主的手段で選出した大統領であれーーリーダーに立てると決めた時点で、「持つ者」「持たざる者」が生じるのはもはや時間の問題になるのだと、わたしには思える。権力者のまわりには人や金が集まり「持つ者」になり、それを仲間内で分けあうからますます富む。なのに不思議とそういう人ほど成功を個人的行動の結果と思いこむ。

At the centre of Cameron’s political philosophy is the idea that a person’s life chances are determined by behavioural factors rather than economic background.

ーーキャメロン(イギリス前首相)の政治的信念の中核をなしてきたのは、人生の機会は経済的基盤よりも行動によって決まるという考え方だ。(意訳)

かなり絶望的に思えるが、実際にこれがイギリスの、日本の、アメリカの現状だ。貧困は自己責任、貧困者は道徳観念が欠落した犯罪予備軍だから取りしまらなければならないと考える「持つ者」が一定数居て、格差はますます広がる。

「蟻のコミュニティでは2割の働き蟻がよく働き、残りはなまけている。2割の働き蟻だけを取り出して新しいコミュニティを形成しても、なぜか、時間が経つとやはりそのうちの8割はなまけ始める」と聞いたことがある。人間社会も昆虫社会と同じように、自然に格差社会ができてしまうのかもしれない。

格差社会ができるのは人間社会の宿命なのだろうか?

考えても答えがでない問いを、考えずにはいられなくさせる。この本はそんな本だ。

タイトルがブラックジョークにしか見えない『弥栄の烏』

悲しみながらもぞっとする結末。「弥栄」とはますます栄えるという意味だが、全部読み終わったあとにこのタイトルを見ると、ブラックジョークに見える。

 

本書は八咫烏シリーズの六作目にして、第一部完結篇。舞台は八咫烏が支配する山内と人間界とを行き来する。第五作『玉依姫』を、八咫烏側から見た物語だ。

これまで八咫烏の天敵とされてきた大猿達だったが、『弥栄の烏』で大猿側の事情が明らかになったとき、わたしは大猿に強く感情移入せずにはいられなかった。第四作『空棺の烏』では身分差別を書ききった著者が、今作ではべつの理不尽な現実をとりあげた。

著者が思い描いているのは、おそらく、先住民と侵略者。

このことに気づいたとき、わたしが「先住民」と理解したのはなぜか、差別問題がくすぶるアイヌ民族アメリカンインディアンではなく、大和民族ーー日本人だった。

日本列島に古くから住みついてきた大和民族は、彼らなりの伝統や文化を育んでいたのかもしれない。彼らの言葉、彼らの叡智、彼らの文明があったのかもしれない。だがそれは、大陸からきた唐渡り人達がもたらした文化の激流に呑みこまれてしまった。今ではもう大陸文化の影響が強すぎて、古い古い土着文化を見分けられなくなってしまったーー。

不思議なことに、最初に脳裏に浮かんだのはこのことだった。

終盤に書き付けられた言葉のせいかもしれない。不気味にひびいて、ぞっとする結末のまま幕引きする言葉。先住民の最後の生き残りから、侵略者の末裔に向けた渾身の言葉。

「なあ。自分の罪を、自分にとって不都合な部分をすべて忘れた生き方は、楽しかったか?」

残された人々は、それでも、愛する者たちを守りながら生きていかなければならない。八咫烏第一部は徹底的なすれ違いを残したまま終わり、第二部の悲劇的展開を予感させる。

現代中国を理解するための良書『中国2017』

ぜひ読んでほしい一冊。

著者は中国籍の女性経済学者、ジャーナリスト。中国国内で政治的に敏感な話題に踏みこむ言論活動を貫いたため、国家安全当局による常時監視、尾行、強制家宅捜査をはじめとするさまざまな圧力を受け、二〇〇一年に中国を脱出してアメリカに渡り、プリンストン大学等で研究活動をする一方、ブログや寄稿等を通して情報発信を続けている。

本書は彼女の2017年度の寄稿記事をまとめて、日本語訳したもの。いわゆる深層分析が多く、経済学者兼ジャーナリストならではの鋭く独特の視点、中国とアメリカ双方の政治・経済・社会構造を熟知した洞察、客観的で偏りのない調査・研究結果に基づく内容、読みごたえある文章が持ち味。

彼女の記事が中国国内で読まれることはまずない(アクセス不可)。記事の中で理由の一端に触れることができる。

米のNGOフリーダム・ハウス (Freedom House)は、 2016年の中国宣伝主管部門が下部に命じた文書を分析し、政府がコントロールを重視する順位は、中共と官僚の名声、健康と安全、外交、官僚の誤った行為、メディアと審査、公民社会、経済の順だとしました。

(2017.1.3付Voice of America記事)

ルールの抜け穴に落ちたとき『黄昏の岸 暁の天』

本作の主題はきっとこれ。

「絶対者が定めた、逆らえば死罰が下る〈理〉に支配されながらどう生きるか」

私たちはさまざまな法規制や社会規則に縛られながら生きている。人間社会がうまく回るためにはルールが必要だからだ(殺人が犯罪にならない社会を想像できるだろうか?)。

だが、ルールに抜け穴があったら?修正できず、破れば死刑になるとしたら?

本作はそんな異世界の物語。読めば読むほど気分が沈んでくるが、読まずにはいられない陰惨な魅力をもつ物語。

 

舞台は地球ではない異世界。十二の国があるため、十二国と呼ばれる。そのうちの一国〈慶国〉には、日本から異世界に渡った女子高生・中嶋陽子が女王として君臨していた。

ある日、〈戴国〉の女将軍が利き腕に深い傷を負った血まみれの姿で慶国王宮に転がりこんだ。王と宰輔が行方不明になり、空位をいいことに臣下が暴虐無道のかぎりを尽くしている、生き地獄同然の戴国を助けてほしいと嘆願するために。

戴国の宰輔は、同じく日本から異世界に来た少年、高里要。陽子は彼を捨ておけず、できるだけのことをしようとする。しかし、そこに立ちはだかったのが「条理」だった。

十二国には〈天〉と呼ばれる存在があり、遵守すべき条理が定められている。そこには他国への手出しを禁じられている。破れば、不可思議な力により、陽子は即座に死ぬ。女王である陽子が死ねば慶国は荒れ、民は苦難を舐めることになる。

「天帝がいるのかどうかは知らない。だが、世界には条理がある、これは確かだ。そして、それは世界を網の目のように覆い、これに背けば罰が発動することも確かだ。しかもこれは事情を忖度しない。…いわば天綱に書かれている文言に触れたか触れなかったか、ただそれだけの、自動的なものなんだよ」

どんな理由があろうとも抵触すれば自動的に死の罰が下される「理〈ことわり〉」が明らかになるにつれて、陽子は戦慄せずにはいられない。逆らうことができぬ〈天〉は、戴国の惨状にもかかわらず、条理がないからなにもしない。同じ〈天〉が、戴国を助けようとする陽子達の前に、条理があるからという理由で死罰とともに立ちはだかる。

心情的に納得できるはずもない理不尽さを、小野不由美先生は書く。解決策はない。どのように選択するのか決めるのみ。無力感と絶望感に苛まれながらあがく陽子を、強い意志をもって書ききる。

次回作は十二国記完結編。舞台は戴国。不条理にどのような決着がなされるのか(あるいはなされないのか)、待ち遠しい。

 

絶対者が定めた〈条理〉に翻弄される人々は、小野不由美先生の前作『屍鬼』でも重要なテーマとなっていた。終盤、努力ではどうすることもできない冷酷な摂理を突きつけられた少女の悲嘆が、痛々しく響く。この物語は最低限救いがある結末だったが、十二国記はどう終わるのか。

「これが神様に見放される、ということよ…」

屍鬼〈上〉

屍鬼〈上〉

 
屍鬼〈下〉

屍鬼〈下〉

 

少年の成長する音『風の海 迷宮の岸』

小野不由美先生の十二国記シリーズはかねてより好きだ。

さまざまな人々が登場する群像劇だが、中心となるのは二人。そのうち中嶋陽子の物語は読破したものの、もうひとり、高里要の物語はきちんと読んでいなかった。

12月に入り、本編最終作となるはずの原稿が小野不由美先生より講談社に出されたと聞いた。刊行は2019年中。舞台は〈戴極国〉という。となれば高里要が中心になるはずなので、予習のためにこれまでの物語を読み返すことにした。

高里要の物語は、本来なら本書『風の海 迷宮の岸』の前に『魔性の子』があるのだが、「異端」とみなされた主人公がしだいに地域社会から排斥されていく物語は、重苦しく、精神的にきついため、後回し。

 

十二国は地球ではない異界。雰囲気としては古代中国に近い。しかし、ごくまれにあちらとこちらが「混ざる」ことがあり、天変地異(湖の底が盛りあがって跡形もなくなるなど)とともに、人々が巻きこまれてもう一方の世界に飛ばされることがある。高里要もその一人。十二国の〈黄海〉に生まれ落ちるはずが、現代日本に飛ばされた。本来ならば二度と戻れないが、彼は特別だった。人ではなく、麒麟だったのである。

麒麟は神獣。十二国、一国につき一人の王がおり、麒麟は天啓を受けて王を選ぶ役目をもつ。彼は10歳前後の頃、十二国の一、〈戴極国〉の王を選び、王に仕えるべく呼び戻された。

けれど、呼び戻された高里要ーー麒麟としての名前は泰麒ーーは戸惑うばかりだった。もといた世界でまわりにうまく馴染めなかったのは、自分がもともと異界生まれだと思えば案外すんなり納得できたのだが、王を選ぶにはどうすればいいかわからないし、麒麟の姿に転変することもできない。なにもできず、なにもわからないまま、自分に求められることにただ困惑するばかりだった。

 

本書は高里要が泰麒として〈戴極国〉の王を見つけ、王が即位するまでを描く物語である。まだ小さい子供でしかない泰麒が、一生懸命にまわりの人々の期待に応えようとするあまり、必死に背伸びし、時になにもできない自分自身を否定してしまうのは、見ていて痛々しい。神獣としてよりも、無力な、思春期前の男の子としてしか見ることができない。

悩み抜いて王を選び、ようやく役目を果たすことができたとほっとするところまで、著者は丁寧に泰麒の心理的葛藤と成長を描写する。読み終えたとき、わたしは知らずつめていた息を吐いたがーー泰麒の過酷な運命は、王を選んだ後にこそ始まる。

小野不由美先生は、十二国記シリーズで「生きることの難しさ」を書こうとしているという。苦しみ、悩み、選び、学び、生きる。泰麒の心理過程は、まさにこれに沿っている。生き悩んだ思春期前後の子供に、読んでほしい一冊だ。