コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

タイトルにこそ答えよう『IOTビジネスをなぜ始めるのか?』

人工知能クラウドビッグデータ、IOT、RPA…流行りの新しい情報技術についての、なんだか凄そうな単語を新聞や雑誌やネット記事などで見かけない日はなくなったように思う。そしてビジネスパーソン(とくに古めの日系企業に勤める方)は、こういう事態に直面するかもしれない:

  • 経営陣から「今流行りの◯◯をウチでも導入したいから、業務効率改善ができるような、うまい使い方のアイデアを出してほしい」と丸投げされる
  • ◯◯を導入するべくベンダーやコンサルタントプログラマーを雇ったけれど、経営陣からは高いと文句をいわれる、雇った方の定着率は悪い、というさんざんな結果になる
  • ◯◯を活用するために●●と▲▲のデータが必要になり、それぞれ違う部署が管理しているから個別にかけあったら、●●を管理している部署は「そもそもそんなデータとってないし、新たにとるのは手間がかかる、今は繁忙期だからあとにしてくれ」と非協力的。▲▲を管理している部署からデータは出てきたものの、抜け漏れが多かったり、データ形式がバラバラだったり、ひどいときには手書きだったりして使い物にならず、データ処理の方にものすごく時間がかかることがわかった。

どれも私の知りあいから聞いた実情である。

こういうことになる原因はたったひとつ。

 

「①ビジネス上のどんな課題を解決したいか明らかにする→②そのためにどんなことをすればよいかを整理する→③必要手段として技術を使う、が正しい順番なのに、①②をすっとばして、何をしたいのかもわからない状態でいきなり③にとびついているから」

 

まずやりたいことありきなのである、あたりまえではあるが。次にどうすればできるのかを検討する。この順番を守らなければ、あれもこれもやりたいと目移りするだけで結局何一つできなかったり、大して重要でないことに時間をかけてしまったりする。

情報技術は手段だ。それが目的化してしまうから、わけのわからないことになる。情報技術を導入すれば魔法や万能薬のようにビジネスがうまくいくわけではない。

 

本書は最初にそのことを念押ししている。

ITでビジネスを成功させている多くの人々を見てみると、技術そのものの習得を優先するのではなく、技術で解決できることは何かをハッキリさせて効果的に技術を使いこなしている人が成功しているように思えます。

あっちこっちを掘るにしても、何を見付けたらうれしいかを知っていなければ、炭鉱と掘削機を使って「悦に入るだけ」となってしまうわけです。

炭鉱はこれまでのビジネス、掘削機がIT技術にあたる。見つけたいものの形や価値、利用方法、売り先を知らなければ、たとえダイヤモンド鉱山を掘りあてても宝の持ち腐れだ。さらにいえば、使い道を知っていてこそ、効果的なデータの集め方を決められるわけで、そうでなければ何をどういう形式で集めて、どう分析すればいいのかもわからない。

 

本書では「なにをしたいかハッキリさせたうえでデータを収集・分析してビジネスに役立てている」事例をいくつも集めたうえで、それらを一段高いところから俯瞰的に見た全体図を解説しようとしている。たとえばこんな具合。

IOTのフレームワークは「取得」「収集」「伝送」「分析」「可視化」「モデル化」「最適化」「制御」「フィードバック」から成り立つと考えられます。

これをふまえて、それぞれの業界でIOTを考えるときに踏むべき手順を示している。実際の内容はそれぞれの企業、業務、ビジネス上の問題次第であるから、この本ではそこまで踏みこむことはできない。ただ「こういう順番でこういうことを考えればいいよ」という提案を残しているだけで、ここだけ見たら、一冊の本にまとめるよりも一本の雑誌記事にまとめた方が読みやすい内容のように思える(実際に本書は雑誌掲載記事をもとに書かれているが)。現場の技術者としてはものたりないが、経営陣が読んで、なんらかの気づきがあることを期待する。そんなコンセプトの本だ。

入門書にぴったり『トコトンやさしい組込みシステムの本』

以前、アイコンをつなげてプログラミングを行うタイプのソフトウェア「ExtendSim」で遊んだことがある。アイコンの機能が見た目ですぐわかるようになっており(演算用なら “+” 記号がついているなど)、入出力もアイコンにくっついている小さな正方形の数と場所でわかるという、実に親切設計なソフトウェアだ。

このソフトウェアを使うにあたってのルールのひとつに「最初に、画面のどこでもいいので時計アイコンを置く」というのがある。遊んでいる当時は、どうしてこんな不可思議なルールがあるのかよくわからなかったが、この本を読んだあとならわかる。時計は、いつどのタイミングで処理しなければならないかという、プログラミングを走らせるときの大事な指針なのだ。普段認識することがあまりない、プログラム実行での時間の大切さに気づかせるためか、単に面白がらせるために、わざと「時計アイコンを置く」という手順を入れたのかもしれない。

本書でも時計の大切さがでてくる。組込みシステムの要となる演算・制御装置である「マイクロプロセッサ」には「アドレス(必要なデータのありか)」「データ」「コントロール(作業を行うタイミング)」の3つの情報を渡す必要があるが、3つ目はまさに時計を見て行うことだ。

組込みシステムとは、ソフトウェアとハードウェアを組み合わせて、ソフトウェアを走らせてハードウェアを制御するシステム。こう書けばすぐさまロボット制御を思い浮かべるけれど、マイクラプロセッサという超小型制御・演算装置を搭載することにより、家電製品などの小さな機械にも応用できるようになり、さらに通信機能をもたせることで、インターネットからの監視制御まで可能になった。Internet of Things (モノのインターネット)がどんどん進化しており、工場の製造設備でも、それまで人間が24時間監視しなければならなかったことをコンピュータにやらせることや、人間は安全な場所から制御だけして、危険な現場作業は遠隔操作可能なロボットやドローンにやらせることも考えられている。

組込みシステムを紹介しているこの本では、マイクラプロセッサの基本機能から解説している。マイクロプロセッサには制御・演算機能しかなく、それ以外の入力・出力・記憶・通信などの機能はそれぞれ専用のICチップが行うこと。ノイズ除去などこれまでハードウェア回路が担ってきた役割もソフトウェアで数値処理出来るようになりますます機械の小型化が進むようになったこと。さらには実際の仕事で気をつけなければならないことまで。

専門用語は多少出てくるけれど、細かな技術課題よりも、そもそもの組込みシステムの考え方、ビジネスへの利用で気をつけなければならないこともふんだんに盛り込んでいる。ちょうどいい塩梅の本だ。

女達のサイドストーリー『烏百花 -蛍の章-』

大人気の八咫烏シリーズの番外編。本編ではほとんどの作品が武人の雪哉と若宮を主人公としているため、どうしても男中心の物語になる。けれど本編ではあまり語られない女達にもそれぞれの物語があり、生き方があり、甘い恋や苦い恋がある。今作はそれらを集めたサイドストーリー集だ。

全六作の短編集であるが、よく登場するのはやはり若宮の妻である浜木綿(はまゆう)と、彼女の筆頭女房である真赭の薄(ますほのすすき)だ。浜木綿は両親を殺されて孤児として育てられた過去を持ち、若宮が背負う苛烈な運命を理解したうえで受け入れようとしている。真赭の薄は大貴族の一の姫、若宮の将来の妃候補として誇り高く育てられたが、ある出来事をきっかけにきっぱりと妃となる望みを切り捨て、断髪して浜木綿の女房になることを選んだ。いずれも芯の強さでは誰にも負けない女性である。

彼女たちのみならず、主要登場人物は芯の強い女性が多い。目が不自由でありながら音楽の才能があり、貴族に庇護されるよりも芸で身を立てることをよしとする結(ゆい)。己の生命と引きかえに愛する人との子どもを残した松韻(しょういん)と冬木(ふゆき)。男達のように戦場を駆けたり、世界の成り立ちについて頭を悩ませたりという派手さはないけれど、作者が意図してかせずか、そこには男達を支えるいわゆる「銃後の妻」達の姿がある。

そういえば、本編最後まで残った主要登場人物の女性達に、物分かりの悪い者はいない気がする。頑なだったり一途過ぎたりするけれど、ものごとを正しく見据えようとして、己の間違いがあれば正そうと努力する。そうでない女性達は物語半ばでさまざまな形で退場していった。

八咫烏シリーズ第二部の刊行予定はまだ先だが、想像もつかないほどの苦難が待ち受けているのは火を見るよりも明らかだ。作者の阿部智里さんは、第二部構想はすでにできているとインタビューで語った。

阿部智里さん『弥栄の烏』 | 小説丸

芯の強い女性達がどのように運命に立ち向かうか、それを楽しみにさせる。そういう気持ちにさせられる短編集。

これらの物語もまた、作者がインタビューで語ったような「伏線に気付かなくても面白かったんだけれども、気付いた後で読むとひとつひとつの意味が変わって見える」ものになるのかもしれない。

罪をつぐなうにはどうするか『虚ろな十字架』

仮出所中の強盗殺人犯に娘・愛美を殺された小夜子が、死刑廃止論に断固反対するライターとなり、数年後、彼女自身が、ある殺人事件の被害者になった。いったいなにがあったのか、事件後に離婚した元夫・中原が、亡き小夜子の最後の足取りをたどっていく。そこには思いがけないつながりがあったーー

 

ストーリーとしてはそれほど複雑ではない。死刑廃止論の是非というテーマについて、掘り下げはやや浅いように感じたけれど、読み物としてはさくさく読める。

殺人者を死刑に処せばすむのか。殺人者が心から反省しているわけでなければ、死刑にしたところで意味はあるのか。

作中であがってくる疑問だ。

私の考えは「死刑制度に人間の考えそのものを変えるような力はなく、ただ社会から不穏分子を取り除くためにのみ機能すると考えたほうがいい」ということだ。

遺族が求めているのはいつも、殺人者の「心からの反省と謝罪」だけれど、過失殺人や追いつめられた果ての殺人ならともかく、殺人そのものを世間にアピールする手段とする者もいれば、死刑になりたいがゆえに通り魔殺人を起こす者もいる。こういった人間に「心からの反省と謝罪」など端からできないことであろう。

人間の胸の内は、この世で一番変えがたいものであり、国家権力をもってしてもそれは難しい。だから、国家権力や法律制度にそこまで求めること自体に無理があるのではないだろうか。読みながらそんなことを考えた。

 

人間関係の泥沼、シリコンバレーへようこそ『サルたちの狂宴』

 

Chaos Monkeys: Obscene Fortune and Random Failure in Silicon Valley

Chaos Monkeys: Obscene Fortune and Random Failure in Silicon Valley

 
サルたちの狂宴 上 ーーシリコンバレー修業篇

サルたちの狂宴 上 ーーシリコンバレー修業篇

 
サルたちの狂宴 下 ――フェイスブック乱闘篇

サルたちの狂宴 下 ――フェイスブック乱闘篇

 

これはカンとしか言えないのだけど、翻訳書を読むとき、「日本作家が書いたように読みやすい」と感じるものと「なんだか文章の流れに違和感がある」と感じるものとがある。

「違和感がある」と感じたものはたいてい、著者の住んでいる国でしかわからないような表現が山ほどある、まさに翻訳者泣かせの文章であることが多く、決して翻訳者がやっつけ仕事をしたわけではない。だがともかくそういう違和感に気づいたときには、私の乏しい英語力と語彙力をフル発揮して、原書にあたることにしている。

 

本書『サルたちの狂宴』も、途中で英語原書に切り替えた。なんというか、吉本新喜劇を無理矢理英語で聞かされているような違和感があって、なじめなかったからだ。

原書を読んでみたところ、カリフォルニア大学大学院での物理学博士課程を経て、ゴールドマンサックス、シリコンバレーでの起業、フェイスブック勤務まで経験している著者が書いているだけある、という感想。

ビジネス向けの堅めの英語に、さらりとラテン語やフランス語の決まり文句が混ぜられていたり(教養あるエリートの証)、現代風のイケてる表現やユーモアたっぷりの比喩表現もあったり(クスリと笑わせて場を和ませるため)、欧米なら誰でも知っているであろう『不思議の国のアリス』をはじめとする引用(”a marketing Twiddledee to the product Twiddledum”)、果てにはスペイン語までとび出す(アメリカ南部はスペイン系移民の影響が強く、著者もラテン系血統)という具合。こちらも読みやすいとはいえないが、あえて原書にチャレンジするのが面白いと思う。

 

本書は「秘密保持契約違反にならない範囲で」著者が渡り歩いてきた金融業界と広告業界について書き下ろしたノンフィクション。

金融や広告については基本用語紹介程度で、広告はどのように表示されるのか、表示元にはどのようにお金が入るのか、とくにFacebookのように個人情報を大量に扱うようなところではプライバシー保護はどうしているのか、かなり分かりやすく書かれており、インターネット広告に興味があればとてもいい読み物になる。

それに加えて、これでもかと書きこまれているのは、生々しい起業の実態、創業者同士のいさかい、投資家とベンチャーの駆引き、買収騒動を伴う腹のさぐりあい、訴訟という名の企業間戦争、さらにFacebookという超有名企業での仕事のすすめ方である。

法律にふれなければなにをしても良い、とにかく大金をつかんでやろうと目をぎらつかせたシリコンバレーの若きゲームプレイヤーたちが、人間関係をもがきながら泳ぎぬくさまがよくわかる。ゲームの裏ルールにいちはやく精通するのが生き残るコツだ。

大勢の人を動かし巨額の売り上げを左右するような大きな決定というのは、結局次の要素で決まる。すなわち、直感的感覚、そこにいたるまでに受け継がれた政治的な影響力、そして多忙かせっかちか無関心な(あるいはその全部があてはまる)相手を納得させられるメッセージを発信する力、である。

 

シリコンバレーでは、スタートアップは往々にしてどこか別のIT会社に入るための足がかりになるもので、買収話がもちかけられた場合、買収額にはスタートアップの優秀な従業員を雇用するための料金も入っている。

著者はシリコンバレー起業時代、ひたすら二種類の人間を探していた。著者自身がCEOをつとめるスタートアップに金を出す人間。または、そういった人間を紹介してくれる人間。

日本企業が投資決定権のない社員をシリコンバレーに送りこんで情報収集させたところで、うまくいかない原因がこのあたりによく現れている。シリコンバレーの起業家にとっては、その場で、あるいは数日以内に、数十万ドル単位の小切手を書ける立場にある者でなければ、会うのは時間の無駄になるからだ。

 

この流れにしたがって、著者は会社をTwitterに売却した一方で、起業仲間と別れてFacebookにもぐりこんだ。そのときの腹の探りあいはちょっとしたスパイ映画並み。

「買収話をターゲットにもちかけながらなかなか進めずにいるなら、ターゲットを宙ぶらりんの状態にしておき、競合他社との買収話を進めにくくさせる戦略かもしれない」

「最初に出してくる買収額はたいてい買い叩いているから、気を持たせつつ断れ」

「ほかの会社とも買収交渉をしているとハッタリをかませろ。なに、どうせ将来的には本当になることだ。Twitterから声がかかったと知れば、ほかの会社も放ってはおかない」

「ほかの会社に売りこんでいることをTwitterに知られてはならない。Twitterにはその会社の出身者がいるが、あのポジションの人間が引き抜かれる際には元の会社との人間関係が悪化しているものだ、そいつに情報が流れる恐れは低い」

とまあこんな調子である。

海千山千の投資家連中にアドバイスを受けながら、ときにはアドバイスをくれる投資家本人を「信用出来るのか?」と疑いながら、著者は最終的にスタートアップ売却を決め、起業仲間ごと切り離して売り払う。この辺り、自分のキャリアを優先させた著者の判断は容赦ない。

 

本書のところどころに、容赦なさがにじみ出ているのは、本書の最大の魅力のひとつだろう。著者は起業仲間と袂を分かつところで、必要以上に感傷的になったりはしなかったし、Facebookを退職すると決めたときも、ビジネスライクを徹していた。シリコンバレーは食うか食われるかの競争であり、著者は誰かに蹴落とされることもある一方、確実に誰かを蹴落としてきてもいる。

そういう点も包み隠さず書いて「これがシリコンバレーのゲームルールだ」とさらけているところに、「こういう人間がシリコンバレーで生き残るのだ」という迫力がある。……まあ日本人にはちょっと馴染みづらいところだが、要するに勝てば官軍なのだ。

シリコンバレーでの成功というのはこういうことなのだ。基本的には思いつきベースで、多少のプロダクト構想と会社が信じる価値観をもとに、一〇のアイデアを試してみる。……そして最後の一つが、変革を起こすほどの大きな成功を収める。成功の理由は後になってみないとわからない。忘れやすいITメディアは講釈の誤りをおかし、冷徹な目でプロダクトのコンセプトを考えるところから完璧かつためらわずに技術面を実行に移すところまで、一連のできごとを仕立てあげる。

実力勝負、成果主義とはこういうことだ。

文章の向こうから、そんな凄みが伝わってくる。

美味しいお刺身盛合せのような物語『県庁おもてなし課』

県庁観光振興部おもてなし課。高知県庁に実在する課である。

この小説は、おもてなし課に所属する主人公・掛水和貴と、掛水の誘いでおもてなし課に加わることになった明神多紀の淡い恋愛を中心に、おもてなし課が高知県観光を盛り上げようと悪戦苦闘する物語。

 

ーーというが、よくもここまでお役所の硬直性と前例崇拝と事なかれ主義をギッタギッタに容赦なく書いたなあ、と、感心してしまう小説。

そもそも小説の誕生のきっかけが、著者・有川浩さん本人の「いきなりイベントで県庁関係者から『高知県出身のよしみで観光特使をしてくれませんか、観光名所をアピールする名刺を配ってくれませんか』と頼まれたものの、そこから一ヶ月音沙汰なしで、てっきり話が流れたと思っていたら、まさかの名刺作りの真っ最中だった」という実体験である。

呆れ果てた有川浩さんだったが、おもてなし課担当者がわざわざ講演会に参加してくるなどの熱意は認めて「格好良く書きません。ギッタギッタにしますよ」と宣言したうえで、この小説を書き始めたという。一ヶ月音沙汰なしで放置されたエピソードとそれへの抗議は、小説の冒頭で作家・吉門喬介の口を借りてしっかり書きこまれている。

 

とはいうものの、この小説は、高知県観光名所ガイドとしても結構参考になる。

三百年の歴史をもつ高知城下町の日曜市を散策するシーンでは、多紀と一緒にイモ天が売られていないことを残念がってしまうし、吾川スカイパークでのパラグライダー体験では掛水と一緒に爽快感全開の空の旅を楽しみ、村全体をブランド化することに成功した馬路村での一泊二日旅行では、珍しい川魚の刺身の味、名産品のゆずの香りを想像してしまう。

さまざまな観光名所を小説で読んでいるうちに「これを生かせていないなんて勿体ない!」という気持ちになってくる。気分はすっかりおもてなし課の一員だ。

 

有川浩さんの小説は、結末こそ前向きなものにもっていくけれど、そこに至るまでに一切情け容赦がない。登場人物がいきなり都合良く心変わりしたりしないし、現状がドラマティックに変わったりもしない。

人間、本心から考え方を変えるにはそれだけの理由が必要で、たいていは現実に打ちのめされ、もがいてあがいて現実逃避して、それでも自分が間違っていたと認めざるを得ない状況に追いこまれて、ようやく考え方を変えることができる。有川浩さんはそこを省略せず書く。だから登場人物の成長に説得力がある。そこがたまらなく好きだ。

もうひとつ好きなのは、見慣れているはずの現実に「こういう見方もあるのか!」と膝を打ちたくなるような視点を示してくれることだ。爽快感と解放感がすばらしい。

この小説の肝のひとつに「高知県民は自分たちが持っているものを『見慣れている』と気に留めずにいて、観光資源としてどれだけ価値があるか分からない」ということがあるが、これは人間なら誰でもはまる罠だ。

小説自体からは少し外れてしまうけれど、ここ最近の国際問題など見ていると、この一文に思わずほろりときてしまう。

全ての業務にマニュアルがあり、即応性を求められる事柄も手続き論で停滞する。それは、手続きで縛らなくては信用できたいという前提を背負わされているからだ。

つまり、役所のシステムにはそこで働く者の堕落が織り込まれている。お前たちは堕落する者だと最初から決め打ちされたシステムの中で、能力を発揮できる人間がどれだけいるだろうか。

ーーこの一言が出てくる国家がどれだけあるか。このシステムが硬直性と引き換えにどれだけ国民を守っているか。小説の中では高知県県庁関係者の硬直性を批判するものとして出てきた言葉だが、この一言が出てくるだけで、とても恵まれている。

 

高知の観光名所と、お役所あるあると、それを変えようとする若者の成長と、じれったくもほろ苦い恋愛物語。

高知名物のカツオをメインにした刺身盛り合わせのように、さまざまな美味しさを盛りこんだ一冊を、どうぞ召し上がれ。

[昔読んだ本たち]ノンフィクション編

エボラ出血熱の恐怖を描いた傑作ノンフィクション『ホット・ゾーン』を読み返して、昔読んだノンフィクションについていろいろ思い出した。『ホット・ゾーン』を読んだときは、エボラ出血熱に感染した人間がどのように破壊されるのか、事細かく描写しているのがどんな話より怖かった。身体中の内臓が激痛を伴いながら溶け出し、黒ずんだ血となってあらゆる穴から流れ出す感じだろうか。こんな死に方だけはしたくない。

シーツを真っ二つに引き裂いたような音がする。それは肛門の括約筋がひらいて、大量の血を排出した音だ。その血には腸の内層も混じっている。彼は自分の内臓まで壊死させたのだ。

ホット・ゾーン

ホット・ゾーン

 

 

私が初めてちゃんと読んだノンフィクションは、急性骨髄性白血病に侵された少女について書いた『お母さん、笑顔をありがとう!』だったと思う。この本について書いた読書感想文が賞をとったのがきっかけだった。真木というこの少女は白血病で父親を亡くしたあと、自分も白血病だと診断され、容態が悪化して骨髄移植を受けることもできなくなったころにようやくドナーが見つかるという不運さだったが、彼女がいつも明るくふるまい、希望を失わずにいる姿が強調されていた。この本はノンフィクションシリーズの一冊であり、同じシリーズで腎臓病の少女を扱った『母さんのじん臓をあげる!』と、目が不自由な少女と盲導犬の交流を書いた『盲導犬カンナ、わたしと走って!』も読んだ。

 

アメリ同時多発テロが発生したあと、雨後の筍のようにさまざまな本が出版されたが、私が読んだのは世界貿易センターのツインタワーに突入し、北タワーの崩壊に巻きこまれながらも生還した消防士が書いた『9月11日の英雄たち』だった。大きな火災、小さな火災、いつもの火災と戦う平凡な(?)一日を送るはずだった消防大隊司令官リチャード・ピッチョートは、狂ったように黒煙を噴きあげる世界貿易センターをテレビで見たとたん、素晴らしい一日が木っ端微塵にされたことを知った。

ノンフィクションの冒頭は、北タワーの窓のないホールで、空恐ろしい轟音がなすすべもなくリチャードたち消防士の耳を貫いてゆく場面から始まる。

私が恐怖に凍りついたのはあのすさまじい音のせいだった。そのあまりの力。それが私の体のど真ん中を駆け抜けたときの感覚。あんな音をたてるのがいったい全体何なのか、私には想像もつかなかった。

9月11日の英雄たち―世界貿易センタービルに最後まで残った消防士の手記

9月11日の英雄たち―世界貿易センタービルに最後まで残った消防士の手記

 

 

これもアメリカだが、女子体操選手とフィギュアスケート選手の真実を暴いたノンフィクション『魂まで奪われた少女たち』は、読んでいて気分が悪くなった。痩せなければ勝てないという強迫観念にがんじがらめになった少女たちは、絶食し、あるいは食べてすぐ吐くことで細い身体を維持し、手首や足首や腰などあらゆるところに怪我を抱え、激痛をごまかしながら競技に参加する。オリンピックのメダルを獲れればすべてが報われるが、そうでない少女たちはボロボロになった心身を抱えながら去り、長く拒食症に苦しむ一生を送る。果たしてこの状態は健全なのか?  作者は強い疑問を投げかける。

魂まで奪われた少女たち―女子体操とフィギュアスケートの真実

魂まで奪われた少女たち―女子体操とフィギュアスケートの真実

 

 

人間不信になりかねないノンフィクション。英国の精神科医が、警察に協力して、犯行現場から犯人の心理や動機をさぐり、犯人逮捕に役立つ助言をする内容。連続暴行殺人、幼児惨殺、母子殺害など、事件紹介にはぞっとするものがある。

このような活動は今ではプロファイリングと呼ばれているが、当時はまだそのようなことは一般的ではなく、警察も半信半疑で話につきあっている状態だったが、しだいに精神科医と警部に信頼関係ができあがっていく。

ザ・ジグソーマン 英国犯罪心理分析学者の回想

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