コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

教養ある英語を書くための必読書『Elements of Style 2017』

 

The Elements of Style

The Elements of Style

 
Elements of Style 2017 (English Edition)

Elements of Style 2017 (English Edition)

 

Twitterでたまたま “The Elements of Stile” という英語文章術のバイブルとも呼ぶべき本があることを知った。100年以上前に出版されたにもかかわらず、今なお英語圏で広く愛用されていると聞き、これは是非読んでみなければと思った。

さすがに古すぎて一部内容が現状にそぐわなくなってきている(らしい)ので、オリジナルに手を加えた改訂版も出ている。今回読んだのは改訂版の方。なお原書はインターネットで無料公開されている。

The Elements of Style by William Strunk - Free Ebook

 

この本を読みはじめたばかりのころは退屈するかもしれない。 “A, B and C” と “A, B, and C” のどちらが好ましいかというのは、特に非ネイティブにはどうでもいい違いにみえる。

だが、わたしはアメリカの出版物で、こんなささいな違いを大真面目に議論するシーンにしばしばぶつかる。ジェフリー・ディーヴァー作品では警察関係者が「セミコロン “;” を完璧に使える」という言い方で連続殺人犯が高等教育を受けているとほのめかしている。投資銀行の内幕を暴いたノンフィクションでは、カンマ “,” の位置をめぐって弁護士同士が胸ぐらをつかみあう寸前の大喧嘩になっている。

こういう一見どうでもいい違いは、いわゆるハイスペックエリートの世界ではとたんに重要になる。”,” や “;” を使いこなせるかどうかが、その人間の教育レベル、一緒に仕事をしても足を引っ張らないかどうか、などの判断基準に(恐ろしいことに)なってしまう。だからこそこのような本は長く読み継がれてきたのだろう。

 

 

 

【おすすめ】なぜ人は失敗から学べないのか?『Black Box Thinking』

 

Black Box Thinking: Marginal Gains and the Secrets of High Performance

Black Box Thinking: Marginal Gains and the Secrets of High Performance

 
失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 突発事態が発生したときに、極度に集中する認知ロック[認知の固着]が起こるために、視野が極端に狭くなり、よい判断ができなくなる可能性があることを胸に刻み、やらかしたときに「いま認知の固着が起こっていた」ことを自覚するようになった。
  • ひとの失敗を責めず「今どうするべきか」「これからどうするべきか」決めることに集中するようにした。

 

本書は失敗学の名著であり、邦訳『失敗の科学』として広く読まれている。

ジャンルとしては、私が以前読んだ『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』と同じだけれど、注目しているところは違う。複雑難解なシステムではなく、人間心理、文化的習慣などから、失敗の原因を探ろうとしている。

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか (草思社文庫)

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか (草思社文庫)

 

 

著者は「成功は、失敗への対応のしかたと分かちがたく結びついている」と言い切っている。

個人にしろ組織にしろ、かつてやらかした失敗とその結果を語ろうとしなくなった時、同じ失敗を拡大再生産する可能性がぐっと上がる。逆に、なぜ失敗したのか、痛みをともなう分析をとことん行い、得られた知恵をもとにこれまでの行動を変えることができれば、めざましい成長を遂げることができる。

実際にそうするのは難しい。なぜなら人間にとって、自分の失敗を反省するより、他人を責めることの方がはるかに簡単だから。

だがそうすれば、私たちが失敗から学ぶ貴重な機会をみすみす逃してしまう。たとえ本人が失敗を繰り返さなくても、誰かが必ず同じようなことをやらかしてしまう。

As Eleanor Roosevelt put it: ‘Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself.’

ーーエレノア・ルーズベルトはこう言う: 「他人の失敗から学びなさい。あらゆる失敗を自分でやってみるほど、長生きすることはできないのだから」

 

非常事態になると極度に集中する認知ロック[認知の固着]と呼ばれる人間心理が、しばしば登場する。今解決しようとしている問題に集中するあまり、ほかのことに気が回らなくなることだ。

パイロットが着地装置の不具合の原因をさがすことに夢中になりすぎて、燃料不足による墜落の危機がすぐそこまで迫っていることに考えが及ばなくなった事例があった。問題解決に使える時間にはかぎりがあるのだが、それを忘れてしまい、とにかく目の前の問題をどうにかしなければと躍起になってしまうのだ。

 

もう一つ、よく登場するのが[認知的不協和]と呼ばれる人間心理だ。

イソップ寓話「すっぱいぶどう」が一番有名だろう。キツネは「おいしそうなぶどうがある」と思ったから一生懸命取ろうとしたが、「自分はぶどうを手に入れられない」と気づいた。この時キツネの心は、相反することを突きつけられたことで「認知的不協和」が生じ、ひどい不快感を覚える。

それを解消するために、キツネは「おいしそうなぶどうだから手に入れよう」と行動したことをなかったことにして、「あのぶどうはすっぱいから手に入れなくてもよい」と変えた。本当にぶどうがすっぱいかどうかはキツネには重要ではない。認知的不協和を解消し、不安感からのがれることが大切だからだ。

これは失敗学でもよくとりあげられる。人間がさまざまな言い訳をして自分の行動を正当化しようとするのは、認知的不協和がもたらす不快感を耐えがたく感じるためである。

When we are confronted with evidence that challenges our deeply held beliefs we are more likely to reframe the evidence than we are to alter our beliefs. We simply invent new reasons, new justifications, new explanations. Sometimes we ignore the evidence altogether.

ーー私たちがこれまで深く信じてきたことに反するような証拠を突きつけられたとき、私たちは自分が信じていることを変えるよりも、その証拠を違う視点から解釈しようとするだろう。私たちは単純に新たな理由、正当化、説明を編み出す。時にはその証拠を完全に無視する。(意訳)

 

こういうことを知るのは、あまり気持ちいいものではない。なぜならこの本を読んでいる私もまた、こういう心理活動をしているから。

自己正当化、認知的不協和、認知のゆがみ。他人が必死に言いわけしているのを見て、醜い、と感じたことはきっと誰にでもあるだろうけれど、自分がまったく同じことをしている、ということは都合よく忘れてしまいたがる。

でも、やっているのだ、誰もかも。

If it is intolerable to change your mind, if no conceivable evidence will permit you to admit your mistake, if the threat to ego is so severe that the reframing process has taken on a life of its own, you are effectively in a closed loop. 

ーーもしあなたの意識を変えることが耐えがたいなら、考えられるあらゆる証拠をもってもあなたが間違いを認められないのなら、エゴへの脅威があまりにも強いゆえに、証拠を違う視点から見て(自分に都合のよい方向に)解釈するといった心理過程が自然に起こるようになったのなら...…あなたはクローズド・ループにはまりこんでいる。(意訳)

 

後半になるとますます不愉快になる。

大ポカをやらかした会社内で「犯人探し」が行われ、犯人だと決めつけられた人々がクビにされる。上層部は「これで膿は出し切った」「我々が間違いに厳しくあたることを示せた。残された従業員たちも胸に刻み、今後は気をつけてくれるだろう」と胸を張る。しかし残された従業員は上層部の理想通りには動かない。ああなりたくないと考えて間違いを隠すようになり、間違いを恐れて無難なことしかやろうとしなくなる。隠蔽体質と前例主義がはびこる会社はじわじわと沈んでゆく…。

メディアで嫌になるほど見てきた顛末だ。

人を責めることは役にはたたない。間違いなく本人に問題があることもあるが(たとえば酔っ払っていたとかサボっていたとか)、それがはっきりするまでは本人を責めるべきではない。真の原因はたとえば仕事環境にあったり、システムにあったりする。これを改善しなければ、間違いはいつか、繰り返される…。

これだけのメッセージが、なんと難しいか。

責めてしまう。あわや大事故を起こしそうになったパイロットを、乳児虐待を見逃したソーシャルワーカーを、医薬品を取り違えた看護師を。時にはその家族までを。それを社会正義だと信じこむ人々がいる。

こうした姿勢がソーシャルワーカーなどのなり手を減らし、隠蔽体質を招き、彼ら自身に不利な状況をつくるという言葉は、社会正義に酔った人々の耳には届かない。ネットでの「炎上」がどれほど多いだろう。

果たしてこの本にあるように、間違いから学ぶことができる組織は根付くのか?  絶望的な気分になる。

 

 

秘密を守るために読む本『暗号技術のすべて』

ミステリー好き、小説好きであれば、本書の古典暗号の部分を読みながら「これ見たことある!」と嬉しくなると思う。文字を符号で置き換える手法はそのまんまシャーロック・ホームズの『踊る人形』だし、文字を別の文字に置き換えるのは『ダ・ビンチ・コード』に登場するアトバシュ暗号がいい例だし、聖書の章番号を利用して秘密を伝えるのも海外小説によく登場する。現代的なところでは、人造DNAの並びに暗号を紛れこませるなどということもできてしまうだろう。

それほど大げさなことでなくても、小学生や中学生のとき、仲間だけがわかる「秘密の合言葉」をつくって遊んだことのある人は多いと思う。先生や家族の目を盗んで回し読みされる手紙、机の下で打たれるメールには、発信者と受信者だけがわかる言い回しがたくさんあるだろう。初歩的な暗号はとても身近なのだ。

もちろん、コンピュータで使用される暗号はこれほど単純ではなく、複雑な数学的手法を駆使され、簡単には破られないようにする。だが暗号の根底には、秘密を共有するわくわく感が息づいていると思う。結局のところ、暗号によって守られるものが国家の軍事秘密だろうと放課後の寄り道先だろうと、誰も解読できない暗号を駆使して仲間内だけで秘密を共有するということは、とてもわくわくする、子どものような嬉しさと楽しさをもたらしてくれる遊びなのだと思う。

本書では古典暗号から、コンピュータで使用されている最新暗号まで、あらゆる暗号技術を説明している。意味のあるメッセージをバラバラにしたりして、一見意味のない文章をつくるという点で、コンピュータがやっていることは文字を利用した古典暗号と同じである。一つ違うのは、コンピュータで扱うのは「0」「1」のみであるから、コンピュータ暗号は本質的なところで「秘密にしておきたい情報を表している (0, 1) のカタマリを、秘密鍵などを用いて、前後逆転したり行列演算したりして撹拌し、一見ランダムな(0, 1) のカタマリと見分けがつかないようにする」ことを目指している。ランダムな(0, 1) のカタマリは意味をもたないが、暗号化された(0, 1) のカタマリは、限りなくランダムに近いように思えながら、暗号解読鍵をもつ者であれば、複雑な数学計算を経て、意味のある情報に復元できる。この数学計算をどのように設計するかが、暗号開発者の腕の見せ所だ。

暗号技術に使われる数学手法はとても難しいが、本書ではさまざまな暗号技術を図示することで、高校生程度の確率・統計の数学知識があれば読めるようになっている。分厚さゆえにとまどうかもしれないが、暗号というものにわくわくする読者であれば、手にとってみて損はない一冊。

聖なるものは欲望から生まれる《大聖堂》

 

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

 

 

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

 
大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

 

 

十二世紀のイングランドを舞台としたこの物語は、不思議な魅力に満ちている気がする。

パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちたことを写真や動画や記事で繰り返し見てきたからかもしれない。大聖堂建て直しというこの本のテーマに、ひどく惹かれる。

 

あらすじはとてもシンプル。

いつかこの手で大聖堂を建てたいーー果てしない夢を抱き、放浪を続ける建築職人のトム。やがて彼は、キングスブリッジ修道院院長のフィリップと出会う。かつて隆盛を誇ったその大聖堂は、大掛かりな修復を必要としていた。

読み始めると、まず十二世紀という舞台設定にひきこまれる。著者はかなり丁寧に、でもやりすぎない程度にその時代の街や荒野、貴族や庶民、市場や絞首台を描きだしていき、そこにいつのまにか読者が立っているかのように感じさせる。キリスト教の背景知識がある程度あるとなおのこと楽しめるだろう。

次に惹きつけられるのは、強さも弱さもある、腹のなかでさまざまなことをたくらむ、俗世の欲望まみれの登場人物たち。主人公の建築職人トム、運命に導かれるように修道院院長になったフィリップ、爵位を狙う乱暴者の田舎貴族ウィリアム、高慢な伯爵令嬢アリエナ、神や秩序というものをはなから馬鹿にしている無法者エリンとその息子ジャック。どの登場人物も時に応援したくなり、時に「なにを考えている!」とはり飛ばしたくなる。正義も邪悪もない「人間臭い人間」からますます目が離せなくなる。

 

建築職人トムは、己のもてる技術全てを注ぎこむにふさわしい大聖堂を建てるという夢をもち、安穏な生活を捨てて、家族とともに放浪を続ける。ある街から次の街へ、仕事を求めて旅を続けながら、二人の子供や、妊娠した妻を食べさせることに腐心する。

とはいえ、そもそも家族を食べさせるためであれば、どこかの街に落ち着き、城主お抱えの建築頭になればよかったのである。トムにはその実力と機会があった。にもかかわらず安定した生活を捨てて街から街へと放浪したのは、彼が大聖堂を建てるという考えのとりこになったからに他ならない。

そこで彼は、大聖堂の壁というのは、「よくできている」程度ではだめなのだ、と悟った。「完璧」でなければならないのだ。……トムの腹立ちは消え、かわりにこの仕事に取り憑かれてしまった。とてつもなく大掛かりな建築と、いかなる細部をもゆるがせにできない厳しさとの組合わせが、トムの眼を開かせ、技倆を磨く気を起こさせた。

十二世紀のイングランド、福祉制度などないに等しい時代。飢えれば修道院で一晩の宿と食事にありつくことはできるけれど、朝になればまた旅を続けなければならず、冬が来る前に蓄えをつくらなければ冬を越すだけの食べ物を得られない。仕事を得られず、厳しい冬の荒野をさまよいながら、トムとその家族は文字通り餓死寸前までいく。容赦のない貧乏暮しの中で、大聖堂を建てる欲望を抱きつづけるトムはどこか哀れでさえある。しかし、物語は決して希望を失わず、冬のあとに必ず春が来るように、運命がトムをキングスブリッジに導く。

 

誰かを踏み石にしてのしあがるのがあたりまえの社会で、登場人物はしだいに、自分のなしとげたいことを成功させるために手段を選ばなくなる。時には積極的に、時には切羽詰まって。

ある登場人物がそれまでのやり方を捨て、一線を踏み越える瞬間を独白する。

自分がどれほど軽んじられ、侮られ、牛耳られ、欺かれてきたかを考えると、怒りがむらむらと込み上げてくる。服従は修道生活の美徳であるが、いったん修道院の外に出ると、それは欠陥でしかなくなるのか。権力と富が幅をきかす社会では、他人を信用せず、おのれを強く主張することが要求される。

大聖堂という最も聖なるものを建てることを目的としながら、関係者たちはそろいもそろって俗欲まみれだ。キングスブリッジ修道院院長のフィリップでさえ、最初こそ堕落した大聖堂に義憤を覚え、これを建てなおすことが神の御心にかなうものと信じていたけれど、木材も、石材も、石工たちの賃金も、空から降ってくるわけではない。それらを手に入れるためにフィリップはしだいに政治闘争に身を投じていくが、本人は自分のしていることは正しいと信じて疑わない。その認知の歪みが、彼の語りにほんのすこしずつ混ぜこまれていき、気がつけば彼という人間としての欲望をむきだしにしてしまっている。

 

「信頼できない語り手」である当人の認知が歪んでいたり、重要情報を知らなかったりするせいで、時々途中で「おかしいな?」とわれにかえることがあり、それがまた物語を探偵小説のように面白くしている。

トムは息子アルフレッドのことになると明らかに甘くなるうえにそれを正当化することに余念がないし、フィリップは大聖堂のことになれば冷静さを保つのが難しくなり、ウィリアムは恋するアリエナのことになればまさに手がつけられなくなる。そこへ冷静な登場人物が冷水を浴びせて、ようやく読者は語り手の個人的思いこみに引きずられていたことに気づく。

 

物語は「現代ではない」ことをもうまく利用している。イングランド国王逝去などという大ニュースは、現代であれば半日もあれば地球上のすみずみまで知れ渡るだろうけれど、物語中では主要登場人物のひとりが、なんと一ヶ月間も知らずにいた。情報のやりとりは口コミや手紙でしかできず、しかも大多数の庶民はそもそも文字が読めない(建築職人のトムとその子供たちもほとんど読めない)。この時間差や情報格差をうまく利用して、相手を罠にはめることまで行われる始末。

また、現代では男女格差や経済格差をなくそうと先進諸国が努力を重ねているけれど、物語世界では格差がごくあたりまえに存在している。貴族は庶民の生活について滑稽なほどまでに無知であり、女性はあからさまに差別され、未婚の母などほとんど魔女扱いである。それをごくあたりまえのように受け入れる時代の空気が物語全体に漂い、そこから顔をあげたときに、自分の生きる現代社会に感謝したくなる。

 

さまざまな魅力があり、さまざまな読み方が可能だ。時代背景から、人間関係から、運命のようなできごとまで。

それらすべての渦の中心に「大聖堂」が立つ。

読んでいくうちに、聖なるものであるはずの大聖堂が、これほどまでに欲望まみれの人間たちの権謀術数の中で建てられていくことにがっかりしてきた。

上巻では大聖堂再建の計画が立ったばかりで、まだ着手さえしていないのである。それなのにもうこれだけの犯罪すれすれ、時にはまごうことなき犯罪行為が行われており、これでもかという私利私欲を見せつけられてしまっては、これらすべての上に建つ「美しい」はずの大聖堂は、果たして人々の信仰を集めるに値するのだろうか、と考えてしまう。

それとも、これこそが現実に存在する大聖堂の裏にあった物語なのだろうか?

そう疑いたくなるほどに、物語はリアルだ。

紆余曲折を経て建てられた大聖堂〈カテドラル〉と、それを取巻く人間模様の渦巻きは、理知と暴力、王権と教会、欲望と信仰などといったさまざまな対立を巻きこみながら最終章へと突き進み、プロローグから張られたすべての謎が明らかになり、物語は美しく閉じる。

途中で先が気になって仕方なくなり、一気に読まずにはいられない作品。明日の予定のない夜に、徹夜覚悟で読破しよう。

バラ色の未来を夢見るのは勝手だが、現実は無情である『熊とワルツを』

 

熊とワルツを - リスクを愉しむプロジェクト管理

熊とワルツを - リスクを愉しむプロジェクト管理

 

タイトルだけではなんの本やらわからないが、副題「リスクを愉しむプロジェクト管理」でなんとかテーマがわかる本。でも内容は大真面目。

「熊とワルツを」という言葉は童謡からとられていて、凶暴な熊とワルツを踊るというのはとてつもなく危険だから、転じてリスクをとることを意味しているらしい。

 

本書はITプロジェクトにおけるリスク管理がテーマ。

ITといえばデスマーチに代表される無茶苦茶な仕事ぶり、短すぎる開発スケジュール、仕様を度々追加する顧客など、とにかく「やりにくい」ことで悪名高い。著者らはこういった炎上プロジェクト管理、リスク管理を専門とするコンサルティング会社の経験豊富な共同経営者である。

「マネジャーたちはプロだ。簡単なことばかりに目を向けて、ほんとうの危険を無視するはずがない」

この、一見部下を信頼しているように見える、経営者にありがちな考え方に、著者らはとてつもなく辛辣な返しをする。

結構なことだ。唯一の問題は、この考え方は、「企業文化」に組み込まれ、埋め込まれたあらゆる阻害要因を無視していることだ。阻害要因とは、やればできる思考、失望させたくないという感情、バラ色のシナリオが色あせることを許さない圧力、不確定性を口に出すことに対する恐怖、(実際にはとうに手に負えなくなっていても)事態を掌握しているように見せかける必要、政治的権力によって現実を打破したいという誘惑、あらゆる人間活動をむしばむ近視眼的思考などだ。

めちゃめちゃグサリとくる。

著者はこういった【人間臭い】要素を「企業文化」とまとめているけれども、わたしは、嫌なことを耳にしたくないのは人間の本能の一部だと思う。古代ギリシャの時代から、不吉な予言をする予言者は徹底的に嫌われ、有力者に罰せられないと保証してもらえなければ話せなかったのだから。

わたし自身、リスク管理の仕事に関わったことがある。その時嫌というほど思い知った。

  • 上層部は「起こるかもしれないし、起こらないかもしれないこと」には、たとえそれがどれほどプロジェクトに影響があっても、「起きていない段階から」お金と時間をかけることを本気で嫌がる。
  • 上層部は「解決策が思いつかないこと」(たとえば官庁申請がうまくいかずに予想以上に時間がかかるかもしれない)は、それを解決するためのお金と時間を確保することはせず、「そうはならないだろう」と、根拠のない楽観的思考に逃げる。

「マネジャーたちはプロだからバラ色のシナリオをうまく実現してくれるはず」と信じて、上層部や経営者が思考停止するのは、わたしから見ると、童話「裸の王様」と同じだ。【バカ者には見えない】服を着て歩いている王様や見物人たちは、「王様は裸だ」とうっかり口にすればバカ者扱いされるから、「なんて素晴らしい服なんだ」と、ありもしない服を褒めたたえることに全力を尽くす。同じく、「このプロジェクトの納期は現実的ではない」と発言すれば社長に睨まれるから、「きっとやりとげてみせます」と部下は心にもないことを繰り返す。

きっと、わたしだけでなく、こうしたことに心当たりがある方はそれなりにいるだろう。

 

この本で、著者らはこれらの悪しき習慣にメスを入れようと悪戦苦闘している。

著者らが言いたいことは二つ。

「信じる権利があることだけを信じるべき」

「締切日をふくめて、ものごとには不確定性があるのがあたり前」

この二つを頭の固い上層部に理解してもらうだけでもとてつもなく大変だ。

まず、信じる権利があることとは、客観的証拠があり、合理的であると考えられることだ。たとえばあるボロ船の船主が「これまでこの船はなんとか無事に港に着くことができたのだから、今度もなんとかなるだろう」と信じて、ボロ船を出港させて、結果、船か沈没したとする。この時、船主は責任を問われるべきだ。船主が「きっと船は無事航海を終えられるはず」と信じたのは、きちんと船の状態を調査したうえでの結論ではなく、ただ船主が根拠もなしにそう信じたがったためだからだ。この場合、船主には「船は無事航海を終えられる」と信じられる権利はない。

著者らはこのことを一言でまとめる。

信じる権利があるものだけを信じることを「リスク管理」という。

 

次に、ものごとには不確定性があるのがあたり前、という項目。

なぜか「すべてが奇跡的にこの上なくうまくいく」ことを前提にして締切日を設定されたことのある人は少なくないだろう。そうではないのだ。締切日は、不確実なさまざまな出来事で引き延ばされる。なにかを見落としていたかもしれないし、途中でビジネス環境が変わって製品の仕様を変えなければならなくなるかもしれない。これらはみな「リスク」と捉えるべきだ。

「リスク」とは、今はまだ表に出てきていないけれど、いったん出てきたらプロジェクトに大きな影響を与えることすべてである。表に出てくるまで、リスクは上層部の嫌う「起きるかもしれないし、起きないかもしれないこと」そのものである。

すべてのリスクには移行指標がある。これを監視するのがリスク管理の一部だ。たとえば「チームメンバーが会社を辞めて、プロジェクトが立ち行かなくなる」というリスクを考えよう(実際良くある)。5人辞められたらプロジェクトに大きな支障が出るならば、たとえば2人辞めたところで残りのメンバーを引きとめる手を打った方が良いかもしれない。逆に、どのようなリスクがあるかも、その移行指標がなにかも考えずに「まあなんとかなるだろう」と根拠なく構えているのは最悪だ。人手不足で大炎上するのがオチである。

 

これを【企業文化レベルで】実施するにはどうすればいいだろう。わたしは、ギリシャ叙事詩イーリアス』の一幕が参考になると思う。うろ覚えだがこういう話だ。

はるか昔、古代ギリシャ。スパルタ軍とトロイア軍は10年間にわたる戦争のさなかだった。

ある日、スパルタ軍内に疫病がはびこった。当時、疫病は太陽神アポロンが怒りのために下す神罰だと思われていた。なぜアポロンは怒っているのか、総大将アガメムノーンが予言者に助言を求めた。予言者は「私は答えを知っていますが、さる尊きお方の怒りを買うやもしれません。身の安全を保証されなければ話せません」と言い、スパルタ軍No.2のアキレウスの保護を取りつけた。

「アガメムノーン殿が、太陽神アポロンの神官の愛娘をさらって我がものとしたのみならず、貢物を携え、娘を返してほしいと哀願した神官を手酷く追い返したため、アポロンの怒りを買ったのです」

予言者の回答にアガメムノーンは激怒した。しかし、スパルタ軍の疫病を止めるのが先だという部下の言葉を聞き入れて、予言者の提案通りに娘を父親の元に帰した。代わりにアキレウスがアガメムノーンの八つ当たりで罰せられ、腹を立てたアキレウスは戦場放棄してテントにこもってしまった。最終的にはアキレウスが損をしてしまったが、スパルタ軍内の疫病はこれて収束した。

  • リスクを唱える者に味方する有力者がいる(アキレウスは予言者を守ると約束した)
  • 誰も反論できないような形でリスクが表現される(疫病は太陽神アポロン神罰だと全員が信じていた。物語ではすでに疫病が起こった後だったが、起こる前であれば完璧なリスク管理となっていただろう)
  • 多少対価を払ってもそのリスクを軽減したほうが得だと皆がきちんと判断できる(アガメムノーンは娘を返し、またこの一件で勇将アキレウスとの仲が悪化した)

この辺りのふるまいができる企業であれば、リスク管理はうまく働くと思う。

 

ところで、わたしはこの読書感想を通勤電車の中で書いているが、隣のサラリーマンが、社内限定文書とおぼしき業務マニュアルを、わたしに丸見えの角度で広げて勉強している。業務マニュアルを紙で配布し、できるだけすぐに身につけるようにと命令したであろうこの会社は、サラリーマンが通勤電車の中で勉強することで、内部情報漏洩リスクがあることを想定したのだろうか?

 

【おすすめ】素晴らしく分かりやすいコンピュータのルールブック『世界でもっとも強力な9のアルゴリズム』

 

世界でもっとも強力な9のアルゴリズム

世界でもっとも強力な9のアルゴリズム

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 新しいものの見方を身につけた。インターネットなどのIT技術を利用するとき、アルゴリズムはどのように働くのか、という角度から考えるようになった。
  • 素因数分解やら量子コンピュータやら、これまでなんの役に立つのかよくわからなかった数学分野や物理分野が、実は日常的に使用されるオンラインショッピングを支える暗号技術に関わることを知り、暗号技術について書かれた本に手が伸びるようになった。

 

誰もが一度は思ったことがあるだろう。

「検索トップにきているサイトはどうやって選んだのだろう?」

「今自分がネットショッピングで入力したクレジットカード番号は安全だろうか?」

「コンピュータがフリーズしたせいで最初からやり直しだ(怒)フリーズしないアプリはないのだろうか?」

この本はこれらの質問に答えてくれる。素晴らしいことに、コンピュータの前知識なしでもわかるような説明で。

本書をたとえるならば、学研漫画の「ひみつシリーズ」のようなものだと思う。本書は漫画でこそないものの、わかりやすさは同じくらいだ。コンピュータアルゴリズムという数学の塊のようなシロモノを噛み砕き、たとえ話にして、小学生の算数程度の理解力と想像力があればなんとなくわかるようにしてくれている著者の仕事は、ただただ素晴らしい。

著者自身、こんなことを最後の方に書いている。

この本の著者として私がとても驚いたのは、(偉大なアルゴリズムである)これら大きなアイデアは、どれもコンピュータプログラミングやコンピュータ科学の予備知識を一切必要とせずに説明できることだ。

有毒動物のひみつ (学研まんが ひみつシリーズ)

有毒動物のひみつ (学研まんが ひみつシリーズ)

 

 

小学生の算数程度の理解力があれば本書を楽しめると書いたが、中学生程度の数学能力があればなお面白くなる。

たとえば中学数学で学ぶものの中でもなんの役に立つのかよくわからない「素数」「素因数分解」。わたしは素因数分解を学んですぐ忘れ去ってしまった。だが素因数分解が、あなたのクレジットカード番号を、第三者に読み取られることなく安全にオンラインショッピングサイトとやりとりできる「公開鍵暗号法」のアルゴリズムのうち「RSA法」の根幹をなすものだと知れば、もう少し面白がることができるのではないだろうか。

あるいは、超高速でさまざまな可能性を総当たりできる量子コンピュータが、機密保持されている情報の「鍵」を破れる日がくるかもしれないと知ったら?  「量子コンピュータなんてなんの役に立つの?」と聞いてくる人に、「大げさに言えばあなたのオンラインクレジットカード取引や銀行取引の情報が盗み放題になります」と言えば、一発で分かってくれるだろう。(実際に利用されている公開鍵暗号法はもっと複雑なので、量子コンピュータが実用化されてもすぐに破られることはないだろうが)

 

本書で紹介されているコンピュータアルゴリズムの多くは、人類が昔から使用してきたものにヒントを得ている。たとえば検索トップにくるサイトを決めるために、学術書でよく見かける「索引」「引用」を利用しているし、秘密保持のために使用するのは「合言葉(に近いもの)」だ。著者はこのほかにも多くの素晴らしい例え話を使って、アルゴリズムを解説している。

一つだけ紹介してみよう。またクレジットカード番号の安全問題に戻るが、一番の問題は、あなたのことをなにもしらないオンラインショッピングストアに、どうやってあなたのクレジットカード番号を読み取るための「合言葉」を知ってもらうかである。クレジットカード同様、「合言葉」も機密情報であるけれど、インターネットでは基本的にすべてが公開されるから、「機密情報を読み取るための合言葉」を安全に伝えるために、別の機密情報保持方法が必要になる。こうなっては鶏が先か卵が先かという話になってしまう。

では「合言葉」をどう伝えるか。著者はこれを「絵具の色を伝えるゲーム」でうまく説明している。

伝えたい秘密は、絵具を混ぜて作った特定の色だと考えるようにしよう…自分が混ぜた絵具を誰が持っていくかは予測できないということになる。このルールは、実際には通信はすべて公開されていなければならないというルールを拡張しただけのものである。

あなたがオンラインショッピングサイトに伝えるべき「合言葉」は、「共有された秘密の混合色」にたとえられる。第三者に作り方を教えることなく、あなたとオンラインショッピングサイトが「同じ秘密の混合色」、すなわち「合言葉」を作ることが目的だ。著者はこれを次のステップにまとめた。

  1. あなたと秘密を伝えたい相手が、それぞれ自分の「秘密色」を選ぶ。たとえば、あなたは青色、相手は赤色としよう。
  2. あなたか、秘密を伝えたい相手が、新しいこれらとは異なる色を公開する。たとえば黄色としよう。この黄色の絵具が入った壺は公開場所に置かれており、あなたと相手だけではなく、通りすがりの誰もが好きに持っていくことができる。
  3. あなたと相手が、それぞれ公開色1壺と秘密色1壺を混ぜた絵具を作る。あなたは緑色、相手はオレンジ色になるはずだ。あなたと相手はそれぞれの色を「公開秘密混合色」として公開する。この絵具もまた、誰もが好きに持っていくことができる。
  4. あなたは相手の色(オレンジ)を持ち帰り、それに自分の秘密色(青色)を1壺混ぜる。混合色は茶色になるだろう。相手も同じことをする(相手は緑色に赤色を混ぜる)。やはり茶色になる。
  5. というわけで、あなたと、あなたが秘密を伝えたい相手が持つべき「合言葉」は茶色だ。あなたか相手の秘密色を手に入れない限り、第三者は公開された情報(オレンジと緑色と黄色)だけでは、「赤・青・黄が1:1:1で混ぜられた茶色」という「合言葉」を得ることはできない。

素晴らしい!  実際には、絵具は数字となり、絵具を混ぜることは数値計算となり、(かなり乱暴に言えば)混ぜられた絵具を分析して、もとの絵具を突き止めるやり方が素因数分解となる。

この仕組みやほかの仕組みを利用することで、わたしたちは個人情報や機密情報をオンラインでやりとりできる。オンラインショッピングやネットバンクが現代社会にどれほどの影響を与えたかはもはや説明不要だろう。ひとつのアルゴリズムが社会丸ごと作り変えてしまった。文字通り「世界を変えた」のだ。

 

技術が「世界を変えた」ことは、これまでの人類の歴史で何度もあった。というより、高校以前の数学や理系教科書に載っているようなことは、ほぼすべてが「発明当時の世界を変えた」ものであると言ってもおおげさではないと思う。たとえば鉄道輸送。化学の戦争といわれた第一次世界大戦でドイツを支えた「空気から爆薬を作る」方法(窒素からアンモニアをつくるハーバー・ボッシュ法。なおこれは化学肥料の生産方法でもある)。飛行機技術。原子力発電と核爆弾。これらはいずれも目に見える大型機械を必要とするし、それがなにをするのかも見てわかる。

一方、コンピュータアルゴリズムは、普段目に見えないところに組みこまれた、形がないものであり、その働きに人々があまりにも慣れたために、強力さに気づくことが難しい。

著者はコンピュータアルゴリズムの強力さと偉大さを、とてもわかりやすく覗き見させてくれる。覗き見たアルゴリズムの世界に魅了され、もっと見たいと思う人々が、数学知識を身につけてどんどんその世界に深入りしていく。だが最初の扉を開けることがなによりも肝心で、本書はその役割を素晴らしい形で果たしている。

アメリカで働きたいなら読んでみよう『エンジニアとして世界の最前線で働く選択肢』

アメリカでソフトウェアエンジニアとして15年働き、面接される側もする側も両方経験した著者が、アメリカで働くことを考えている日本人向けにまとめた渡米・面接・転職・キャリアアップ・レイオフ対策までの実践ガイド。

実践ガイドと銘打っているだけあって、無駄に煽るような文句はなく、アメリカで働くことのメリットとデメリットを淡々と双方公平に述べている。内容はめちゃくちゃ具体的で、ソフトウェアエンジニアではないわたしでさえ、面接状況や職場環境をまざまざと想像できるほど。これに加えて著者自身の面接体験やレイオフ体験のエピソードがこれまたくわしく書かれているから、読み物としても面白い。

時々著者自身の仕事やアメリカ転職に対する考え方もでてきて、参考になる。たとえば最初のこの記述にはハッとした。

「ソフトウェア開発の本場で働きたい」

ベンチャー企業のメッカで挑戦したい」

「一生、エンジニアとして働きたい」

「納得のいかない習慣が存在しない環境で働きたい」

それらの思いが言語の壁、習慣の壁、文化の壁を乗り越えてチャレンジするに値するものなのかと問われたら、迷わずYesと言える人もいれば、最終的にNoとなる人もいると思います。…自分がそれを体験しているところを想像しながら読んでみてください。そして、「自分もやってみたい」と思うか、それとも苦労してまでやりたいとは思わないか、考えてみてください。

年齢を重ねれば重ねるほど、持っているもの、守りたいものが増え、チャレンジするためにはそれらの一部なり全部なりを対価としてさし出さなければならないという事実の重みが増す。

著者のこの言葉には、「あなたにとって、アメリカへのチャレンジにはそれだけの重みがあるか?」と、一度足を止めて考えさせられる。

 

この心理的関門をすぎて、アメリカで働くことを本格的に考え始めるならば、次々待ち受けているのは現実問題だ。

労働ビザはどう取るのか。留学後に現地就職、日本で就職後に移籍、日本から直接雇用のどれを狙うのか、またどれが狙いやすいのか。電話面接と対面面接では、ソフトウェアエンジニアであればコーディングをさせられることが多いが、どのような環境を使うのか。コーディングの前提条件をどのように面接官から聞き出すべきなのか。どのように面接官に今考えていることをアピールすべきなのか(黙って考えこむだけなのはやめた方がいい)。

著者はひとつひとつ丁寧に、自分自身の経験をからめながら説明する。

運良く志望企業に入れたとしよう。同僚とはどうつきあうか(仕事後に飲みに行く文化はないが、同僚とはなるべくランチに行ったほうがよい)。人事評価の仕組みはどうか。反対意見はどう表明すべきで、それが通らなかったらプロフェッショナルとしてどうふるまうべきか。

「自分はその方針に反対であり、そういう話もした。しかし、チームとして決断が下されたので、チームの一員としてその方針にコミットする。その方針の実現に全力をつくす」

こういったことに自分は向いていそうか、それを自問自答しながら読み進めていく。

 

本に書かれていることで、わたしが難しいと感じたのは、同僚との問題や、マネージャーの管理の仕方、仕事の割り振りなどに不満がある場合に、

「わたしはこのことが問題だと思っている」

「わたしはこのような現状に満足していない、なぜならこうだからだ」

「自分でも改善するように努めるが、こういう問題があることだけわかってほしい」

「彼がどういう理由でそういうことをするのかわからない。マネージャーとして彼に聞いてほしい。こちらでできることがあれば喜んでする」

などと、人事権を握るマネージャーに直談判することだ。日系企業では、仕事の不満を論理立てて上司に説明し、改善を希望するなどという機会はそうそうないから、単純にこうしたことに経験値が足りないし、心理的にもやりづらい。

これをやらなければならないのなら、アメリカでうまくやっていくためにわたしは相当苦労しなければならなそうだ。これがわたしにとっての心理的関門になるだろう。案外すぐに慣れるかもしれないが。

 

アメリカでの就職を選んだ理由として、著者は「レイオフは避けられない、だったら次が見つけられる可能性が高いアメリカで働こう」と考えたそうだ。

この言葉は、日本社会にもあてはまりつつある。

つい最近、トヨタ社長が「終身雇用制度の維持は難しい」と発言して話題になった。NECでは45歳以上の正社員を対象としたリストラが始まった。今後、こういう経営姿勢を見せる大企業は増えてくるだろう。バブル崩壊から20年、景気回復を果たせない中で日本企業はさまざまな効率化をすすめてきたが、ついに「人件費」に手をつけてきたということだろう。

終身雇用制度崩壊は、数十年前にアメリカやイギリスがすでに通ってきた道であり、日本はその後追いにすぎないという意見があるけれど、わたしはこの意見に賛成だ。国としての文化的歴史はどうあれ、経済的歴史は、意外にどの国も似たような道をたどる気がしている。わたしは歴史学者ではないから本当になんとなくではあるが。

たとえば今の中国はしばしばバブル時代の日本と比べられるし、日本の終身雇用制度はアメリカの1970年代、大企業のホワイトカラーが終身雇用だったころと比べられる。少なくとも経済分野では、ある国は数十年遅れでほかの国がたどった道のりをたどっているように思う。

では日本もアメリカのような超格差社会、転職社会になるのかといえば、アメリカほどひどくならないのではないかと思う。アメリカは移民国家でそもそもお互いに自由で没干渉でも問題なし、一方日本は人間関係がウェットで協調圧力がかかるから多少は均質さが残るのではないか。それでも現在から見れば格差は広がるだろうし、安定したポジションにつける人数は確実にぐっと減るだろう。アメリカほど広がりも減りもしないだろうというだけの話だ。

その「安定したポジションにつける人」であり続けることができるかが、課題になる。