コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

聖なるものは欲望から生まれる《大聖堂》

 

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

 

 

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

 
大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

 

 

十二世紀のイングランドを舞台としたこの物語は、不思議な魅力に満ちている気がする。

パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちたことを写真や動画や記事で繰り返し見てきたからかもしれない。大聖堂建て直しというこの本のテーマに、ひどく惹かれる。

 

あらすじはとてもシンプル。

いつかこの手で大聖堂を建てたいーー果てしない夢を抱き、放浪を続ける建築職人のトム。やがて彼は、キングスブリッジ修道院院長のフィリップと出会う。かつて隆盛を誇ったその大聖堂は、大掛かりな修復を必要としていた。

読み始めると、まず十二世紀という舞台設定にひきこまれる。著者はかなり丁寧に、でもやりすぎない程度にその時代の街や荒野、貴族や庶民、市場や絞首台を描きだしていき、そこにいつのまにか読者が立っているかのように感じさせる。キリスト教の背景知識がある程度あるとなおのこと楽しめるだろう。

次に惹きつけられるのは、強さも弱さもある、腹のなかでさまざまなことをたくらむ、俗世の欲望まみれの登場人物たち。主人公の建築職人トム、運命に導かれるように修道院院長になったフィリップ、爵位を狙う乱暴者の田舎貴族ウィリアム、高慢な伯爵令嬢アリエナ、神や秩序というものをはなから馬鹿にしている無法者エリンとその息子ジャック。どの登場人物も時に応援したくなり、時に「なにを考えている!」とはり飛ばしたくなる。正義も邪悪もない「人間臭い人間」からますます目が離せなくなる。

 

建築職人トムは、己のもてる技術全てを注ぎこむにふさわしい大聖堂を建てるという夢をもち、安穏な生活を捨てて、家族とともに放浪を続ける。ある街から次の街へ、仕事を求めて旅を続けながら、二人の子供や、妊娠した妻を食べさせることに腐心する。

とはいえ、そもそも家族を食べさせるためであれば、どこかの街に落ち着き、城主お抱えの建築頭になればよかったのである。トムにはその実力と機会があった。にもかかわらず安定した生活を捨てて街から街へと放浪したのは、彼が大聖堂を建てるという考えのとりこになったからに他ならない。

そこで彼は、大聖堂の壁というのは、「よくできている」程度ではだめなのだ、と悟った。「完璧」でなければならないのだ。……トムの腹立ちは消え、かわりにこの仕事に取り憑かれてしまった。とてつもなく大掛かりな建築と、いかなる細部をもゆるがせにできない厳しさとの組合わせが、トムの眼を開かせ、技倆を磨く気を起こさせた。

十二世紀のイングランド、福祉制度などないに等しい時代。飢えれば修道院で一晩の宿と食事にありつくことはできるけれど、朝になればまた旅を続けなければならず、冬が来る前に蓄えをつくらなければ冬を越すだけの食べ物を得られない。仕事を得られず、厳しい冬の荒野をさまよいながら、トムとその家族は文字通り餓死寸前までいく。容赦のない貧乏暮しの中で、大聖堂を建てる欲望を抱きつづけるトムはどこか哀れでさえある。しかし、物語は決して希望を失わず、冬のあとに必ず春が来るように、運命がトムをキングスブリッジに導く。

 

誰かを踏み石にしてのしあがるのがあたりまえの社会で、登場人物はしだいに、自分のなしとげたいことを成功させるために手段を選ばなくなる。時には積極的に、時には切羽詰まって。

ある登場人物がそれまでのやり方を捨て、一線を踏み越える瞬間を独白する。

自分がどれほど軽んじられ、侮られ、牛耳られ、欺かれてきたかを考えると、怒りがむらむらと込み上げてくる。服従は修道生活の美徳であるが、いったん修道院の外に出ると、それは欠陥でしかなくなるのか。権力と富が幅をきかす社会では、他人を信用せず、おのれを強く主張することが要求される。

大聖堂という最も聖なるものを建てることを目的としながら、関係者たちはそろいもそろって俗欲まみれだ。キングスブリッジ修道院院長のフィリップでさえ、最初こそ堕落した大聖堂に義憤を覚え、これを建てなおすことが神の御心にかなうものと信じていたけれど、木材も、石材も、石工たちの賃金も、空から降ってくるわけではない。それらを手に入れるためにフィリップはしだいに政治闘争に身を投じていくが、本人は自分のしていることは正しいと信じて疑わない。その認知の歪みが、彼の語りにほんのすこしずつ混ぜこまれていき、気がつけば彼という人間としての欲望をむきだしにしてしまっている。

 

「信頼できない語り手」である当人の認知が歪んでいたり、重要情報を知らなかったりするせいで、時々途中で「おかしいな?」とわれにかえることがあり、それがまた物語を探偵小説のように面白くしている。

トムは息子アルフレッドのことになると明らかに甘くなるうえにそれを正当化することに余念がないし、フィリップは大聖堂のことになれば冷静さを保つのが難しくなり、ウィリアムは恋するアリエナのことになればまさに手がつけられなくなる。そこへ冷静な登場人物が冷水を浴びせて、ようやく読者は語り手の個人的思いこみに引きずられていたことに気づく。

 

物語は「現代ではない」ことをもうまく利用している。イングランド国王逝去などという大ニュースは、現代であれば半日もあれば地球上のすみずみまで知れ渡るだろうけれど、物語中では主要登場人物のひとりが、なんと一ヶ月間も知らずにいた。情報のやりとりは口コミや手紙でしかできず、しかも大多数の庶民はそもそも文字が読めない(建築職人のトムとその子供たちもほとんど読めない)。この時間差や情報格差をうまく利用して、相手を罠にはめることまで行われる始末。

また、現代では男女格差や経済格差をなくそうと先進諸国が努力を重ねているけれど、物語世界では格差がごくあたりまえに存在している。貴族は庶民の生活について滑稽なほどまでに無知であり、女性はあからさまに差別され、未婚の母などほとんど魔女扱いである。それをごくあたりまえのように受け入れる時代の空気が物語全体に漂い、そこから顔をあげたときに、自分の生きる現代社会に感謝したくなる。

 

さまざまな魅力があり、さまざまな読み方が可能だ。時代背景から、人間関係から、運命のようなできごとまで。

それらすべての渦の中心に「大聖堂」が立つ。

読んでいくうちに、聖なるものであるはずの大聖堂が、これほどまでに欲望まみれの人間たちの権謀術数の中で建てられていくことにがっかりしてきた。

上巻では大聖堂再建の計画が立ったばかりで、まだ着手さえしていないのである。それなのにもうこれだけの犯罪すれすれ、時にはまごうことなき犯罪行為が行われており、これでもかという私利私欲を見せつけられてしまっては、これらすべての上に建つ「美しい」はずの大聖堂は、果たして人々の信仰を集めるに値するのだろうか、と考えてしまう。

それとも、これこそが現実に存在する大聖堂の裏にあった物語なのだろうか?

そう疑いたくなるほどに、物語はリアルだ。

紆余曲折を経て建てられた大聖堂〈カテドラル〉と、それを取巻く人間模様の渦巻きは、理知と暴力、王権と教会、欲望と信仰などといったさまざまな対立を巻きこみながら最終章へと突き進み、プロローグから張られたすべての謎が明らかになり、物語は美しく閉じる。

途中で先が気になって仕方なくなり、一気に読まずにはいられない作品。明日の予定のない夜に、徹夜覚悟で読破しよう。