コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 10 / 365> J.R.R.Tolkien “The Silmarillion”(邦題《シルマリルの物語》)

思いつきで英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日

本書はもはや説明不要のファンタジーの金字塔『ホビットの冒険』『指輪物語』のいわば前日譚にあたる『シルマリルの物語』。ファンタジーといえど神話研究者の手によるだけあり重厚緻密な歴史書のよう。英語表現は決して読みやすくない(しかも時々古語表現が入る)。しばしば邦訳の助けを借りなければならなかった。

ホビットの冒険』『指輪物語』がホビット、エルフ、ドワーフ、人間などの種族入り乱れた時代の物語であるのに対し、『シルマリルの物語』は創世記から始まる「神代」の物語。唯一神イルーヴァタールの思いから生まれ、それぞれの声部(パート)を与えられ、音楽を奏でる役割を課せられたアイヌル(アイヌア)たち、イルーヴァタールの音楽の主題から生まれたエルフや人間たちが、アルダと呼ばれる地上に下るのが世界の始まりである。やがて神々の間に戦争が巻き起こり、邪神メルコールが盗んだ光宿す宝石シルマリルをめぐって争いが繰り広げられる。

叛逆心に満ちたメルコールは、神々の戦争には敗れたものの、野心を燃やしてさらなるよこしまなたくらみをする。この辺の展開はミルトンの名作《失楽園》に近い。神に叛旗をひるがえしながら敗れて地獄にたたきこまれた堕天使ルシファーが、蛇に化けて神の創造物であるイヴとアダムを堕落させるのが《失楽園》の物語であるが、メルコールはイルーヴァタールの創造物であり子どもたちと呼ばれるエルフや人間、彼らが暮らす中つ国を堕落させ、支配することに執念を燃やした。

シルマリルとはエルフが創造した三つの大宝玉で、失われた神樹の汚れなき光を秘めている。これを盗み出したメルコール(〈黒き敵〉モルゴスと呼ばれるようになる)とかれを追うエルフの子らが物語の主軸なのだけれど、シルマリルを創造したエルフであるフェアノールは、アイヌルの光を宿すシルマリルに執着し、アイヌルに願われてもシルマリルを渡すことを拒否、盗まれたシルマリルをとりもどす旅の途中で同じエルフと諍いを起こしてついには同族殺害の大罪を犯すという、どこか〈一つの指輪〉に魅了されたフロドやゴクリを彷彿とさせる末路をたどる。イルーヴァタール以外はたとえアイヌルといえどその意志は絶対ではない、ということが強調されてもいる。

 

父親越え、父親殺しはあらゆる神話や伝説で繰返し語られるものであり、たとえばギリシャ神話では最高神ゼウスは父親クロノスを、クロノスはさらにその父親ウラノスを追放することに成功する。

しかし『シルマリルの物語』では唯一神イルーヴァタールは打ち倒すことのかなわぬ存在であると早々に明らかにされる。メルコールがイルーヴァタールの求める音楽の主題ではなく、彼自身の考えを音楽に織りこもうとして不調和音を起こしたときにイルーヴァタールが語る。

‘Mighty are the Ainur, and mightiest among them is Melkor; but that he may know, and all the Ainur, that I am Ilúvatar, those things that ye have sung, I will show them forth, that ye may see what ye have done. And thou, Melkor, shalt see that no theme may be played that hath not its uttermost source in me, nor can any alter the music in my despite. For he that attempteth this shall prove but mine instrument in the devising of things more wonderful, which he himself hath not imagined.’

「げにアイヌルは力ある者なり。アイヌルのうちにありて、この上なき力を持つ者はメルコールなり。されど、メルコールは知るべし。すべてのアイヌルは知るべし。われはイルーヴァタールなり。汝らが歌いしことを汝らに示さん。汝らが自らなせしことを、自らの目にて見んためなり。汝メルコールよ、いかなる主題であれ、淵源はことごとくわがうちにあり。何人もイルーヴァタールに挑戦して、その音楽を変え得ざることを知るべし。かかる試みをなす者は、かれ自身想像だに及ばぬ、さらに驚嘆すべきことを作り出すわが道具に過ぎざるべし」

ーー『シルマリルの物語』アイヌリンダレ

……なかなか亭主関白ならぬ父親関白である。もともとメルコールを含むアイヌルと呼ばれる霊的存在(キリスト教でいう天使)はイルーヴァタールの思いから生まれたのだから、イルーヴァタールの中には力とともに傲慢さや支配欲があり、それがメルコールという形をとったという気がする。イルーヴァタールは創世者にして絶対者としての力があるからメルコールを圧倒したが、メルコールを含むアイヌルたちを意志持つ存在(すなわち自分と違う意見をもったり逆らったりする存在)とみなさず、道具呼ばわりして絶対服従を求めたあたり、実は結構器が小さいんでは?

アイヌルとエルフ、人間が世界に下りたあと、イルーヴァタールは「アルダの歴史が終わった後、アイヌル、エルフ、人間により第二の音楽が奏でられるであろう」と話し、よほどのことがなければ傍観を決め込んでいる。トールキンの物語世界における自由意志についてさまざまなファンがさまざまな考察をしており、トールキン自身も見解を示しているけれど、私としては「結末は決まっているがそこに至るまでの道筋を選ぶことはできる」という説を採りたい。イルーヴァタールにより死すべき運命を与えられた人の子なれど、生あるうちをどのように生きるかを選ぶ自由意志もともに与えられている(ただし人の一生は短いからそれほど大きな影響力を及ぼすことはなく、いわゆるイルーヴァタールの音楽主題を逸脱することはまずありえないからこそ許されるともとれる)、というのがしっくりくる。