コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

[昔読んだ本たち]読書記録さまざま(三)

昔の記録類を片付けていたら出てきた読書記録を見直していく。気軽な読みものもそれなりに読んでいたが、人間関係の本に絞って読書記録を取っていた。なんかすごいラインナップでお焚きあげ供養したくなったが、記録破棄ももったいないので、10年以上前の自分が思考的に迷走しまくっていた記念としてブログにあげておく。

 

加藤諦三対象喪失の乗りこえ方』

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

 

対象喪失により誰もが傷つくが、その処理を間違え、自分の気持ちを抑圧したり現実から逃れようとしたりすると、それがツケとなっていつまでも囚われたままになってしまう。これを乗り越えることは最高の自分へ成長するきっかけとなるのに。まずはツケを払うことだ。傷と真正面から向き合い、悲しみ、断念することで前進することだ。

 

岡田尊司『パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか』

パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

 

この著者の本は何冊か読んでいるが、どれもいい考えるきっかけを与えてくれる本だ。ちなみに以前は「人格障害」という言葉が使われていたが、いつからか「パーソナリティ障害」になったところに、大人の事情があるのかと勘ぐってしまう。

パーソナリティ障害は、偏った思考・認知・行動パターンのために生活に支障をきたした状態である。自分に強いこだわりを持ち、とても傷つきやすいが、根底には自己愛障害がある。幼い頃親に認められなかったために昇華しなかった承認欲求が肥大化していたり、対象恒常性が育たずその場その場の対応をその人のすべてだと誤認する「オールオアノン」の考え方をするのだ。

 

加藤諦三『嫌いなのに離れられない人 人間関係依存の心理』

嫌いなのに離れられない人 人間関係依存症の心理

嫌いなのに離れられない人 人間関係依存症の心理

 

この著者の本は何冊か読んだが、依存心、家族関係をテーマにしたものが多い。

依存心の強い人には不満と敵意と恐れという三つの傾向がある。要求が多く、裏には常に支配性があるが、それを満たされないがゆえに不満と怒りを抱き、なのに相手に嫌われるのが怖くて表現できないのだ。この敵意や、敵意を隠したときに生じる心の葛藤がコミュニケーションを破壊する。

 

斎藤学『インナーマザー あなたを責めつづける心の中の「お母さん」』

インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」

インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」

 

この著者は精神科医で、親と子の関係、それから生じうる病理の臨床症例経験が豊富だ。

親の望む自分を演じ、一定の役割を果たすことを期待された子供は、親から離れても自分の中にとりこまれたインナーマザーが「こうしなさい」と命令してくる。親の教義に従って必死に生きているけれど、自分自身の中身がなく、本当の自分はとても空虚だ。それを埋める相手を急いで見つけるけれど、悲劇的なのは、自分が育ってきたのと同じような機能不全家族をつくりあげてしまうこと。そこは慣れ親しんだ環境であり、居心地良いと感じてしまうからだ。

 

斎藤学講義集『心のうちの子供と出会う』

心の内の子どもと出会う (斎藤学講演集2)

心の内の子どもと出会う (斎藤学講演集2)

 

同じ著者の講義集。親の虐待がテーマだ。

現実の親は子供を二通りのやり方で虐待できる。一つは侵入すること、もう一つは条件付きの愛で愛すること。この両方とも、親は愛しているつもりで虐待しているというのが著者の見解だ。

子供が生き残るにはやはり二つ方法がある。一つは感情を鈍麻させること。こうすると子供は記憶を失うことになる。なんの意味もないからだ。もう一つは自分の中にいじめっ子を育てて自分をいじめること。いじめられる方の自分は本来の自分だから、いくらいじめてもかまわず、自分を痛めつけてダメさをとことん証明できる。そうすることで「それを批判する自己」という、わずかに力を持った存在が生き残ることができるからだ。

著者は言う。この二つの方法をやめさせる。そんなことをしなくてもあなたはそのままで生きられると、教えるのが自分の仕事だ。

 

田中俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

男らしくあれ、弱音を吐くな、働いて家族を養え、競争に勝て。そう生きることを義務付けられることは実はとても疲れる。

卒業→就職→結婚→定年という一本道をたどるのが難しい時代となっているのに、こうすることが価値がある、男らしい、とされている。男性は「競争」を要請され、このような「男らしい」半面多様性がない生き方を強いられるところに生きづらさの原因がある、と著者は書く。ライフプランを見直し、ワークライフバランスを考えるべきなのだ。

 

タル・ベン・シャハー『ハーバードの人生を変える授業』

ハーバードの人生を変える授業 (だいわ文庫)

ハーバードの人生を変える授業 (だいわ文庫)

 

すばらしい行動するためのワークを列記した書。感謝する、習慣化する、運動する、意義を見出す、といったようなことを、心がけだけではなく実際に書き出したりしてワーク化しているところが、いかにもアメリカらしい。

 

[昔読んだ本たち]読書記録さまざま(二)

昔の記録類を片付けていたら出てきた読書記録を見直していく。中には読んだことすら忘れているものもあって、我ながら呆れる。

 

シーナ・アイエンガー『選択の科学』

選択の科学

選択の科学

 

アメリカ人がこよなく愛する「選択」についての本。

さまざまな心理的・科学的実験から、〈選択すること〉を掘り下げていく。私達が〈選択〉と呼ぶものは、自分自身や自分の置かれた環境を、自分の力で変える能力のことで、これを持っているという認識が私達を元気づけ、選べるために力をつける動機となる。けれど人は心理的作用で選択を強制されるーー他人と同じものを頼みたくない、自分のイメージにふさわしいのはこれだ、などなど。時には愛する者の延命を続けるかどうかなどという残酷な選択を迫られることがあり、その代償として苦しむこともある。それでもなお私達は〈選ぶ〉ことができるのだと、本書は力強く説く。

 

西尾和美『機能不全家族

機能不全家族―「親」になりきれない親たち (講談社プラスアルファ文庫)

機能不全家族―「親」になりきれない親たち (講談社プラスアルファ文庫)

 

なんとなく心理学関係の本が続く。

この本は親が健全に機能するためのコミュニケーション方法を記した指南書だ。もう一度自分の人生を追体験するワークを読書記録にメモしている。(1) リラックス→(2) 子供の頃の体験をモノクロの映画スクリーンに映すイメージで見て、新しい発見を心にとどめる→(3)映画スクリーンに入りこみ、いま自分が学んだことを子供の自分に伝え、やさしくなぐさめる→(4)子供の自分に入りこみ、親に言いたかったこと、したかったことをするイメージをつくる、というものだ。

 

長山靖生『若者はなぜ「決めつける」のか』

若者論の一冊。ひねくれた見方をすれば「若者」というくくりがすでに決めつけにも思えるが、それはおいておく。

自己決定論には、実際には実行能力や権限がないにもかかわらず(ここ重要)、選ぶことを強い、それを自分のせいにするという側面がある。ゆえに若者は選んだことに対してどこか他人事のように感じて、それは同時にダメなところを認めない態度にもつながる、という内容。

 

犬山紙子『高学歴男はなぜモテないのか』

高学歴男はなぜモテないのか (扶桑社新書)

高学歴男はなぜモテないのか (扶桑社新書)

 

話つまらないから!  で終了しそうなタイトルだが、高学歴男の実際のところをとても丁寧に読み解いている本。

自己防衛心が強い、自己顕示欲が強い、頭の中でストーリーをつくり現実とのギャップに悩んでしまう、理屈で作戦をたてるあまり一番大事な「相手の感情」を無視してしまう…そんな自分中心の考え方をすると女性に見抜かれてモテない、と一刀両断にする。女性にびびらず実体験を積める打たれ強さが一番必要だと著者はいうが、これが高学歴男には一番難しかったりするから世の中上手くいかないものだ。

 

白川桃子『格付けしあう女たち

(010)格付けしあう女たち (ポプラ新書)
 

マウンティングという言葉が定着して久しい。港区女子、キラキラ女子、白金マダムなどが代表的か。

女同士が格付けしあうのは、否定されたくないという守りの気持ちからだと著者は言う。自分の実力ではなく夫や子供の出来で評価されるから、逆に不安になり、自信を持てず(自己承認につながりにくく)、自分の選んだことは本当によかったのかと心が揺れるのだ。だからこそ小さな違いで人を格付けし、自分の位置を確認し、これで良いのだと自己防衛せずにはいられない。著者はサバイバル方法として(1)複数の足場を持つ、(2)問題解決能力を持つ、(3)自分を肯定すること、が必要だと説く。

 

マリー・フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメント』

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

 

読み進めるのがきつい本。モラハラ人間は特別な性格の持ち主ではなく、誰もがそうなりえるという点で。

モラル・ハラスメントの加害者は自らの内心にある葛藤を外部に向けて、自分よりすぐれていると思われる他人を破壊し、自分に脅威を与えないレベルまで落とさないと生きていけない人間だ。初めから悪いのはすべて相手だと思っている。初めにはまず被害者を同情や罪悪感などて巧みに支配下におくが、そこにあるのは相手の持つものを羨ましく思い、手に入れるために支配しようという心理だ。だが被害者が抗おうとすると、加害者の羨望は憎しみに変わり、相手をその持ちものごと破壊にかかる。対話の拒絶、言葉と表情の不一致、ほのめかし…小さな悪意ある暴力を重ねて相手を混乱させ、破壊しようとするのだ。これは両者が離れるまで止まらない。

 

古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

 

居酒屋でよくポスターを見かけるピースボートに、筆者が乗ってみたという本。

若者は「市場とは異なる、相互承認を生み出しうる社会関係」を希求している。ここでは「承認の共同体」としてピースボートに乗る若者達をとりあげるが、彼らを見る筆者の目は冷ややかだ。彼らは世界を見たいというよりは、同じような人と集うことで共同体をつくる足がかりとしていると決めつけている。

 

根本橘夫『「いい人に見られたい」症候群 代償的自己を生きる』

「いい人に見られたい」症候群―代償的自己を生きる (文春新書)

「いい人に見られたい」症候群―代償的自己を生きる (文春新書)

 

読み進めるとぐさぐさ来る本。

「いい人を演じている」という感覚、それゆえに「偽りの自分」を生きている、「本当の自分」は別にあるという感覚がある人は「代償的自己」を生きている。すなわち自分の生身の感覚、感情、欲求、願望、衝動をさておいて、外界から期待されている自分、外界が歓迎する自分として感じ、思考し、欲求し、行動しようとする自分のことだ。もっぱら外的要請に自分を譲り渡して発達していくのが「代償的自己」だ。

これについては耳が痛い。今していることは本当に自分が望んでいることなのか、それともそう期待されているからやっているのか?  考え始めるときりがなく、哲学的思考にまで落ちこんでいきそうな気がする。

 

アルテイシア『恋愛格闘家』

恋愛格闘家

恋愛格闘家

 

著者は人気ライターで、相当凄い人生経験の持ち主だ。これまでつきあった男は58人。59番目の男と一緒になり幸せになった著者が、これまで出会った男について書き、本気で愛し愛される人を見つけるまで、戦いのリングから下りないことを選んだのだと綴る。自分より強い男にしか弱いところを見せたくない筆者が、傷ついて別れて悟ったのは、本当に強い男は往々にして強く見せるのが下手ということだった。

 

石原加受子『「つい悩んでしまう」がなくなるコツ』

「つい悩んでしまう」がなくなるコツ

「つい悩んでしまう」がなくなるコツ

 

石原加受子さんの本はどれも読みやすい。

悩むのは自分を愛し足りていないから。悩みがあると、自分のどこを愛し足りていないかがわかる。悩むのは自分のマイナス感情を出せていない、自分を抑圧しているから。けれどマイナス感情を蓄積させていればいるほど、無意識に「人を傷つける言動」をとっていく。相手のことばかり考えて他者中心になると、発する言葉も「あなたは」から始まり、その多くが相手を責めたり、非難したり、上から目線の言葉になりがち。そうならないために、自分の感情をすなおに受けとめ、自分が楽になるように行動するのがコツだ。

 

今野晴貴ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)

 

『モラル・ハラスメント』の実践書と言っても言いすぎではない本。解雇できない正社員を退職に追いこむために企業はまさにモラハラの手法で若者をうつに追いこみにかかる。対抗するには戦略的思考をもつこと、自分が悪いと思わないこと。会社の言うことは疑ってかかり、簡単に諦めず、労働法や専門家を活用せよ、と筆者は言う。

この本を読むと、日本の正社員はおとなしいと思う。これがアメリカなら訴訟沙汰に違いないし、そもそもさっさと転職しているだろう。

著者はこの本の続きも執筆している。続きではブラック企業が解雇できない従業員を退職に追いこむ技を、より深く掘り下げている。

 

今野晴貴ブラック企業2  「虐待性管理」の真相』

 

 

 

[昔読んだ本たち]児童読みもの編

昔の読書記録を整理しているうちに、子供の頃読んだ本たちのことも思い出してきた。毎週図書室に通っていたけれど、大人になってからも覚えている本はそんなに多くない。記憶に残っている本は、それだけ印象深いものがあった。一つ一つ思い出してみたい。

それぞれの本には、印象に残っているフレーズがある。古い記憶ゆえ間違っているかもしれないけれど、覚えているままに書いた。

 

松谷みよ子「直樹とゆう子の物語」シリーズ

屋根裏部屋の秘密 (偕成社の創作(38))

屋根裏部屋の秘密 (偕成社の創作(38))

 

直樹とゆう子の兄妹が、ゆう子がまだよちよち歩きのころからしだいに成長しながら、さまざまなことを知ってゆく物語。全5冊あり、それぞれ原爆、公害、ユダヤ人虐殺、七三一部隊、太平洋戦争終戦をテーマとしている。私は小学生の頃読んだ。わかりやすい語り口で、子供向けゆえ必要以上に陰惨になることなく、けれども考えさせられる物語。

ぼくはーーぼくはその時、エリコの苦しみがわかったんだ。

 

岡本淳『選ばなかった冒険ーー光の石の伝説』

選ばなかった冒険―光の石の伝説 (偕成社ワンダーランド (17))

選ばなかった冒険―光の石の伝説 (偕成社ワンダーランド (17))

 

ごく普通の小学生たちが迷い込んだドラゴンとファンタジーの世界で、どうすればいいかわからないなりに必死に生還する物語。私が読んだ児童書で、初めて後味の悪さを感じた作品。

光の石に、願いごとを。

 

浜野えつひろ『電子モンスター、あらわる!』

電子モンスター、あらわる!―コンピュータゲームからの秘密通信 (創作のとびら)

電子モンスター、あらわる!―コンピュータゲームからの秘密通信 (創作のとびら)

 

あらゆるものが電子制御される電子都市が、政府によってつくられた。ある日電子都市に大雨が降り、メインコンピュータに落雷があった。同じころ、電子都市の主任の息子で、ゲーム大好きな小学生であるワタルが、ゲームの画面の中から勇者に話しかけられて仰天する。それは、落雷がきっかけで生まれた、意志を持つコンピュータプログラムだった。

ラストが悲しいお話。生きたいと願うコンピュータプログラムは、自分をウイルス扱いして消し去ろうとする電子都市の大人たちに反抗するために、原子力発電所のコンピュータに侵入してそこで増殖を始めた。原子力発電所の制御プログラムを破壊されれば原子炉が暴走する。電子都市が大混乱に陥るなか、ワタルは父の同僚である青木とともに原子力発電所に乗り込み、「友達」の説得にあたる、というお話。電子空間に生まれる意志あるもの、原子炉の暴走、危機管理、友達とのつきあい方と、読めば読むほど味わい深い作品。

だれよりも生きることを望んでいたのに…。

 

斎藤洋『ようこそ魔界伯爵』

ようこそ魔界伯爵 (偕成社おたのしみクラブ)

ようこそ魔界伯爵 (偕成社おたのしみクラブ)

 

主人公の小学四年生が、父母が会社の慰安旅行に出かけている間、叔母にあずけられることになったが、叔母が信じられないくらい大金持ちで、しかも運としか思えない方法でお金を簡単にかせぐのを見てびっくりする。やがて、叔母の家に集まる奇妙な人たちが、じつは魔界出身者であることを知り、自分が魔界伯爵の素質を持っていることを知る。物語の内容もさることながら、小学生の想像力の限界を駆使した贅沢品の描写がおもしろい。

「これは、値引きなしの現金価格一億円の特別注文のベンツで、エンジンの排気量は12500CCです。」

なんてボンネットに書いておいたとしても、誰も疑わないような車に乗って、…

 

村山早紀魔法少女マリリンシリーズ」

手書きで全文書き写してしまうくらい(!) 好きだった作品。美しい都を治めた伝説のお姫様、ユリアナがかけていた青い石の首飾りをめぐる冒険の旅。普段はなかなかうまくいかないけれどいざとなったらすごい魔法を使える少女マリリンが、酒場で出会った仲間たちとともに、王子様の依頼で魔物の森に踏みこむのは、まさにRPGの世界そのもの。

そうよ、わたしはあきらめない。

だって夏休みは、まだまだ終わらないーー

 

野村路子テレジンの小さな画家たち』

第二次世界大戦中のユダヤ人虐殺に、初めてふれた作品。テーマゆえどうしても残虐性にふれないわけにはいかないけれど、印象に残ったのは、収容所の中でも希望を失わず、子供たちに教育をしようと尽力する大人たちや、絵や詩を通して自分を大切にすることができた子供たちの姿だ。

あなたたちには名前があるのよ。ドイツ兵がどう呼ぼうと、番号をつけようと、あなたたちには、親からもらった大切な名前があるの。


『黄金の脳を持つ男』(世界こわい話ふしぎな話傑作集)

怖がりのくせに読んでしまった一冊。七編のふしぎな話を収録した短編集で、怖さの中にユーモラスがある物語集だ。最初にでてくるヘルモンティス姫のミイラの足の物語が一番好きだ。

ところが、どうだ。このわしの肉体は鋼のように硬い。わしはこの姿で、世界の最後を見届けてやるのだ。姫だって…いつまでもほろびないのだ。

 

中村妙子『クリスマス物語集』

クリスマス物語集

クリスマス物語集

 

表紙の美しさに惹かれた本。世界で読みつがれているクリスマスにちなんだお話を集めた短編集になっており、それぞれが遠い異国のクリスマスの雰囲気を味わせてくれる素敵な本。プレゼントにもぴったり。

それでこそ、私のかわいいゾフィーだ。りんごの貯金箱を持つにふさわしい、考え深い子さ。

 

フィリス・レノルズネイラー『さびしい犬』

さびしい犬 (世界の子どもライブラリー)

さびしい犬 (世界の子どもライブラリー)

 

犬がほしくてたまらない主人公マーティが、乱暴者の隣人ジャッドに邪険にされている犬にシャイローという名前をつけ、シャイローを自分の飼い犬にしたいと悪戦苦闘する物語。少年がシャイローを両親に見つからないように隠し、あれこれ手をつくしてエサを確保するさまが微笑ましい。

驚いたこは、物語の中で、マーティがまだ子供にもかかわらず、まわりの大人が対等に接していたことだ。乱暴者ジャッドでさえ、犬がほしいというマーティの願いを子供の戯言と聞き流すのではなく、正面切って向き合っていた。

おまえにも飼い犬ができたな。

 

マリア・グリーペ『自分の部屋があったら』

自分の部屋があったら (世界の子どもライブラリー)

自分の部屋があったら (世界の子どもライブラリー)

 

この本は三部作の2冊目で、1冊目は『エレベーターで4階へ』、3冊目は『それぞれの世界へ』というタイトルだ。

母ひとり子ひとりの生活を送る女の子ロッテン。意地悪なラーションのおかみさんのところに住まわせてもらっていたが、ロッテンを嫌うおかみさんに追い出されるようにして母娘は家を出て、母親のエルサは住みこみの使用人の仕事を見つけた。

ロッテンは母の雇い主〈ご主人〉の娘マリオンと仲良くなり、美しく上品な女主人オルガを大好きになる。マリオンはお金持ちのお嬢様らしく多少わがままなところがあり、厳格な〈ご主人〉を好きではなく、〈ご主人〉は実親ではないと思いたがったり、ちょっとしたいたずらをしかけたりする。ロッテンともケンカしたり仲直りしたり、なんだかんだ友達付きあいをしていた。ロッテンはマリオンの家族とオルガにあこがれ、使用人部屋に母親と二人で住んでいる自分自身を顧みて「自分の部屋がほしい」と思い始める。

物語はお金持ち家族とその使用人の子供同士の友情についてではあるが、子供のころにはそんなことを気にせずつきあえる。だが3作目『それぞれの世界へ』というタイトルにあるように、いずれ道は分かれる。子供から大人へしだいに成長していき、世のせちがらさを知っていく二人の女の子を描いた、印象深い作品だ。

二クローネ銀貨が一枚、机の上で光っていた。…二週間に一度まとめてもらうのが、このお金だ。ロッテンは二クローネ銀貨を渡してくれるときのママの、おごそかな表情を思い出した。その銀貨を入れた貯金箱を振ってお金持ち気分になったときのことを、はっきりと思い出した。



[昔読んだ本たち]読書記録さまざま(一)

昔の記録類を片付けていたら、読んだ本たちをメモしたルーズリーフが出てきた。懐かしさのあまり見返してみた。

 

J. ディミトリアス『この人はなぜ自分の話ばかりするのかーこっそり他人の正体を読む法則』

この人はなぜ自分の話ばかりするのか―こっそり他人の正体を読む法則

この人はなぜ自分の話ばかりするのか―こっそり他人の正体を読む法則

 

友人知人のことを理解するための参考になる本。

極端な特徴、パターンに着目することで人を読む術についての本。

 

V.E.フランクル『夜と霧』

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

名著中の名著。

強制収容所の中でさえ、自分がどのような存在になるか決断出来る。与えられた過酷すぎる環境の中でさえ在り方を決定されることはなく、自分自身はどうふるまうのか覚悟して選ぶことができる。美しいものを愛し、楽しむことができる。過去の経験は誰も奪うことができず、苦しむことには、それ自体に意味があり、恐るべきは苦しみに値しない人間になることだ。


内藤誼人『人は暗示で9割動く!』

人は暗示で9割動く! (だいわ文庫)

人は暗示で9割動く! (だいわ文庫)

 

ちょっとした言葉遣いで、思う方向に仕向けることは日常的に誰もがやっている。

この本は相手の緊張をほぐし、安心させた上で意識・無意識双方にそのひとに受け入れられやすいように、上手にメッセージを伝えるのがコツと説いている。色々実験心理学に基づく考え方をまとめている本。

 

J.S.ニーレンバーグ『「話し方」の心理学』

「話し方」の心理学―必ず相手を聞く気にさせるテクニック (Best of business)

「話し方」の心理学―必ず相手を聞く気にさせるテクニック (Best of business)

 

会話力をあげたいと思っていた時期に読んだ本。

聞き手と話し手の心理をふまえた会話テクニックについての良書。聞き手と話し手の内面にある感情がつねに出てこようとして会話内容に大きな影響を及ぼすので、それをふまえた上で会話しなければならない。質問・反発が来たらそれは相手があなたの考えを受け入れることを検討しているサインだ。

 

架神恭介/辰巳一世『完全教祖マニュアル』

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

 

タイトルはアレだが内容はいたって真面目な本。

教祖とは人をハッピーにする人のこと。さあ教義を作り出そう、作り出したら簡略化して大衆にむけて唱え、現世利益をうたい、不安や困ったことをあおり(なければ作る)、救済を与えようーー書いてあることに笑わずにいられないのは、本当に面白いのと、うまく人心を操れそうな気がしてきてこわいから。人間の弱さを分析しつくして突けばここまで心酔してくれるのだと、猛暑にひんやりさせてくれる本。

 

石原加受子『「しつこい怒り」が消えてなくなる本』

「しつこい怒り」が消えてなくなる本

「しつこい怒り」が消えてなくなる本

 

仕事で苛立っていたときに手に取った本。他者中心で自分の感情をごまかしてもそれは決して消えずにすこしずつたまり、いつかはたまりすぎた感情でいっぱいになって話す余裕すら失われてしまう。そうなったのは子供のころから気持ち、感情、意志を大事にすることを否定され奪われるような言動を身近な人にされてきたから。

「どんな自分でも認める」

「どんな気持ちでも受け入れて味わう」

「誰よりも自分の意志を尊重する」

「自分のために自分を自由に表現する」

これから自分のために出来ることをして、感情を解消するようにふるまえば、やがて自分を認め優先でき、過去の怒りはとけてゆくだろう。

 

スペンサー・ジョンソンチーズはどこへ消えた?

チーズはどこへ消えた?

チーズはどこへ消えた?

 

ベストセラーになった本。私のチーズはどこへ行ってしまったのだろう?

 

山田昌弘/白河桃子『「婚活」時代』

「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)

「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)

 

生涯未婚率が上がりつつあるこの時代を読み解くための本。1980年頃まで出会いは少なく(職場と学校が圧倒的)、つきあい慣れず自分の好みもよくわかっていないため、出会った人を好きになり、結婚後のライフスタイルや経験水準が予測可能だったちめ、結婚しやすい社会的システムが整っていた。ところが今や出会い機会そのものに格差があり、つきあい慣れているため好みもうるさく、結婚後のライフスタイルの多様化によりすりあわせ努力や交渉が必要になり、経済的不安が大きいため見通しがたちにくい。これで従来のように待っていればいい人が来るなどはありえない。自分の欲しいものを把握し、どこに行けばそれがあるのか調べ、自ら狩りにいく行動力が求められる。

 

田嶋陽子『愛という名の支配』

愛という名の支配

愛という名の支配

 

タイトル通りなかなか強烈な本。女性は構造的に差別され、夫や子供のためにのみ生きることを許されていると説く本。母親自身が自分の世界を楽しめない状況に置かれていて、しかも、自立体験もないのだから、子供の自立も自律性も信じられず、やたら干渉せずにはいられない、という主張だ。

 

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

名著中の名著、第二弾。

人間はあらゆることにかかわらずーー困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、行動により、愛により、そうでなければ避け得ぬ運命を受け入れて苦悩することにより、自分のありかたを決め、人生に意味をもたせ、人生にイエスと言うことができる。人生は一瞬一瞬ごとに問いかけ、私達は選択することでそれに応える。その時他のあらゆる選ばれなかったものはすべて存在しないという宣告を下され、永遠に存在しなくなるが、私達が決断したことは、私達とまわりの事物の将来に対して、たとえわずかであっても、かかわるものなのだ。

明日からの世界を生きるために知っておこう『昨日までの世界(下)』

昨日までの世界とは、現代西欧社会とは違う伝統的社会のこと。伝統的社会と現代社会を比較して、お互いから学べることを見つけたいというのが本書の主旨で、下巻の宗教について書かれた章でもっともよく生かされている。

21世紀に起こったさまざまな出来事を見て、こう考えた人は多いのではないだろうかーー

なぜ宗教は人を殺人に駆り立てるのか?

なぜ宗教は報復合戦を引き起こすのか?

なぜ宗教は汝の敵を愛せよと説く一方、異教徒には情け容赦ないのか?

著者はそれらについて説明を試みている。

そもそも、干ばつ、嵐、洪水など、およそ人間の力ではどうしようもないことについて、それでもなにか理由を見つけたり、働きかけられる手段を見つけずにはいられなかった(さもなくば座して餓死や溺死を待つばかりである)、人間の心理活動が、宗教を生み出したのではないかという。宗教は自然現象を説明してくれる。自然現象に働きかけるための儀式を教えてくれる。儀式を執り行うことで、少なくともなにかをした気分になる。それゆえに宗教は生まれ、必要とされた。

だが、首長制国家にシフトしていくにつれて、宗教の役割は変わってしまった。首長たちはまず、自分の地位確立のために宗教を利用したーー自分は神そのものである、神の子孫である、神の声を聞くことができるといった具合に。次に治安維持のために宗教を利用した。狩猟民族時代では、見知らぬ人は敵対部族のメンバーとして殺されることが多かったが、それをやめさせるために、見知らぬ人であっても、同じ信仰をもつ者を愛せよと説いた。最後に、敵対国家との戦争ーー殺人行為ーーを正当化した。神を信じぬ異教徒どもを殺せ。そうすれば神はお喜びになり、死後天上でもてなしを受けることができる。

なぜ宗教戦争は絶えないのか。こう考えるとある程度説明にはなる。もともとそうなるように決められているものだからだ。八百万の神々に代表される民間信仰には、異教徒攻撃などというルールは薄い。異教徒攻撃をすすめる宗教は、それだけ政治的に利用されてきたといえるかもしれない。

つい先日、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の教祖を含むメンバー数人の死刑が執行されたというニュースがあった。オウム真理教でも教祖は過去・現在・未来を見通せる超能力があるとされており、非信者らを攻撃するためとしてサリン事件を起こした。この本で書かれた宗教の特徴そのまま。「昨日までの世界」で学べることは、今も繰り返されている。

明日からの世界を生きるために知っておこう『昨日までの世界 (上)』

寝苦しい夜に目覚めて、夜明けまでの退屈しのぎにこの本を読んでいる。

昨日までの世界とは、現代西欧社会とは違う伝統的社会のこと。人類は300万年前にチンパンジーから進化し、1万1千年前にしだいに古代文明を発展させた。現代社会の礎ができたのはつい数百年前のこと、それまではさまざまなしくみの伝統的社会が世界各地に存在し、ときにはぶつかりあって、互いに征服しあってきた。著者は伝統的社会で行われていたことを研究することによって、現代社会に取り入れる価値があることを学び、また現代社会のすぐれているところを再確認するためにこの本をまとめた。

その意義を著者は、研究者の見方から簡潔に述べている。

伝統的社会は、人間の生活を組織するために1000年単位の時間をかけておこなわれた数千もの自然実験を体現している。今日存在する何千もの社会を設計しなおし、何十年も待ってからその成果を観察する方法でこれらの実験を繰り返すことはできないので、われわれはすでに実験が行われた社会から学ぶほかない。

 

上巻の内容は、戦争、子育て、高齢者。高齢者についての「昨日までの世界」では、姥捨山にみられるような冷酷な記述もあり、読み進めるにはすこし胆力がいった。

読み進めるにしたがって、この本が親世代やその上の世代がもつ価値観を理解するためのとてもすぐれた本であることにも気づいた。たとえば、なぜある家庭でのいざこざに隣近所があたりまえのように口を出すのか、なぜある人が起こした問題はその人だけの問題ではなく、その人の親兄弟や親戚の問題と思われるのか、なぜ地域によっては警察よりも自治体会長のいうことを聞くのか、といったことである。

著者は「昨日までの世界」ではこういったことがごくあたりまえだったと紹介する。国家司法が裁判を肩代わりするようになったのはここ数百年から数千年のことで、それまでは部族間でいざこざを解決していた。親戚縁者間はお互いに行き来があったり貸し借りがあったりするのが普通で、利害関係が複雑だし、問題が起こり、それが一族以外の集団であれば、報復対象は本人、本人が逃げればその家族、家族に手出しできなければその一族、という風に広がっていく。つまり本人同士の問題だけではなく、文字通り「自分たちも無関係じゃない」のだ。だから口を出し、仲介役を買って出る。その名残がいまでも続いている。

今、自分が生きている世界と「昨日までの世界」を比べてみること。そうすることで両親の、祖父母のもつ価値観をよりよく理解できるだけではなく、これから未来にむけてどのような社会をつくっていきたいか、考えるきっかけになる。素晴らしいきっかけをくれる本だ。

 

稀代の悪女、それとも?『西太后秘録』

 

西太后秘録 上 近代中国の創始者 (講談社+α文庫)
 
西太后秘録 下 近代中国の創始者 (講談社+α文庫)
 

【上巻】

歴史に名を残す人物の評価はたいてい時代とともに変わり、最初から一貫していることは、ごく一部を除いてあまりない。そもそも人間の性格とは複雑なもので、残された記録がたまたま (あるいは理由があって) その人の性格のある一面を現すものばかりだったのでもない限り、たいていは二面性かそれ以上を示す記録が見つかるものだ。ローマ帝国の悪名高き皇帝ネロなどはその最たる例で、容赦ない肉親殺しの罪に手を染めながら、ギリシャ悲劇を鑑賞しては感動してさめざめと泣いていたという。

世界三大悪女にしばしばたとえられる清の西太后・慈禧(じき) について書かれた本書は、すでに評価が定まっているとも思える女性について、本当にそうであったのか、歴史文書などの手がかりから客観的に読み取ろうとしている。

 

本書は慈禧太后を、古い考えにとらわれていた清王朝の内部にありながらそれらと戦い、外国貿易を積極的に推し進めて列強諸国との間によい外交関係を築き、中国の近代化になくてはならない功績をもつ女性として描いている。失策もあったが、それは彼女が理性的判断よりも感傷を優先させたためであったり、充分な情報を与えられていなかったり、政治的発言権がなかったりしたためで、慈禧太后は誰よりも政治的展望が開けており、彼女なくしては清は列強に食い荒らされるばかりであっただろうとの印象を、本書から受けた。

 

近代化に貢献したすぐれた政治家であったのなら、なぜ、慈禧太后は悪女扱いされたのか?

中国人が「民族に刻まれた永遠の痛み」と表現するできごとがある。第二次アヘン戦争での円明園焼き討ちだ。

円明園とは、北京北西部に広がる、数百年の歴史ある壮麗な離宮であった。第二次アヘン戦争のさなか、清が交渉のため北京に赴いた英仏使節団のメンバーを拷問死させたことで英仏の怒りを買い、北京にさし迫る大軍に恐れをなした皇族が逃亡した。北京に進駐した英仏軍は、報復のために円明園を掠奪、焼き払った。

そもそものきっかけが英仏使節団の拷問死だったにせよ、アメリカ人にとっての「リメンバー・パールハーバー」のように、「円明園焼き討ち」は国辱として中国人の心に刻まれ、列強諸国への憎悪を呼び起こす。

慈禧太后の名前がここに登場するのが、おそらくは彼女が中国人民に憎悪される理由の一つだと思う。慈禧があとさき構わず逃げ出した、だから侵略者はやすやすと北京に進駐でき、中国近代建築の粋であった円明園を破壊しつくしたのだ、と。

 

本書の解釈は異なる。当時慈禧は皇帝の側室にすぎず、そもそも政治や皇帝の行動に口をはさむことが許されない立場にあった。その上、当時の大清帝国はまだ列強諸国の実力を知らず、頑なに近代化を拒み、大砲などすらまともに持たないありさま。そんな状態ではどのみち列強諸国の進軍を止められるはずもなく、皇帝一行が都落ちしたのは必然的であった。英仏連軍が円明園を焼き討ちにしたのは使節団メンバーを殺した報復のためで、使節団への残酷な仕打ちを命じたのは皇帝自身である。したがって、一連のできごとで慈禧に責任を求めることはできない、という説だ。

この説は客観性があると思えるが、正しいかどうか私には判断できない。ただ言えるのは、この説は慈禧太后を国辱と結びつけて考えている人々にはひびかないだろう。中国歴史学者による検証も難しく、正しいかそうでないか、明らかにするためにはさらに長い年月が必要になるだろう。

ちなみに下巻には、2度目の北京占領では連合軍は紫禁城頤和園には手を出そうとせず、むしろ軍を割いて警護した、また頤和園の皇太后居室には立ち入らないなど礼儀をわきまえたという記述がある。円明園を破壊しつくしてしまったことで多少なりと心にしこりが残ったためかもしれない。歴代皇帝が築き上げた最高の芸術品たる紫禁城が助かったのは、ある意味、円明園の破壊が先立ったためかもしれない。そう思うとなんという皮肉だろうか。

 

【下巻】

上巻で形になっていた著者の主張は、下巻でますますはっきりする。日清戦争の敗戦や大清帝国の滅亡の原因が西太后慈禧 (じき) にあるという通説は根拠がうすく、慈禧太后に対する世界三大悪女との非難は不当であると言わざるをえない、という立ち位置だ。

西太后は不当に貶められてきたと著者は言う。功績は過小評価され、あるいは別の誰かのものとされ、彼女を非難する声ばかりが残ってしまったと。だが彼女こそが中国近代化を推し進めたのであり、鉄道、教育、政治体制、メディアなどは彼女の統治下で一新されたという。

中国の近代海軍を創設したのは慈禧だという事実を忘れてはならない。海軍の蓄えのごく一部を慈禧が使ったということはあっても、軍費がそのまま頤和園の建設に流れたのではなかった。日本との戦争に慈禧が積極的に関わらない期間が長かったのは、大寿の準備に熱中していたからではなく、光緒帝が慈禧を関与させまいとしていたからだ。それに、融和どころか、日本の講和条件を退けて戦争を続けるよう明確に主張したのは、朝廷で慈禧ひとりだった。

西太后慈禧をテーマにすることで、この本は中国近代化の道のりを描き出そうとしている。茨と血の道を。

世界最大級の領土、聖人君子の教えである儒教、複数の朝貢国。このすべてに君臨する「あまねく天下の支配者」である皇帝。「万里の長城の外からやってきた野蛮人ども」(列強諸国のこと) が、技術、教育、政治体制などでよりすぐれていると信じられるはずがない。連合軍を北京の喉元に突きつけられてなお現実を受け入れられなかったとしても、無理なからぬこと。だがこのために、自身を守るすべをもたない大清帝国は列強諸国に食い物にされた。

皇帝の現実否認が、逃避が、ようやく変わらねばならないと腰をあげてからは機に乗じてのし上がろうとする者につけこまれる様が、本書では余すことなく描き切られている。結局のところ、人間、認めたくないことは見ようとしないし、変化を嫌がるし、変えようとする人がいればまず全力で止めにかかるのである。個人であれば呆れるだけで済むが、これが皇帝であれば国家存亡がかかるのだから笑えない。

慈禧太后はそのすべてと戦ってきた、というのが本書の語るストーリーだ。そのために彼女は死の床についたとき、日本に利用されることのないよう、光緒帝毒殺まで決断したという。慈禧太后の治世は失敗も多く、清の滅亡を止めることはどうあってもできなかったが、それでも近代化については評価されるべきであるし、史実を無視して非難されるべきでないと、著者は本書全体を通してメッセージを送っている。

 

著者のユン・チアンの前著二冊は、いずれも中国国内では出版禁止である。この本も同じ運命をたどる可能性が高い。本書への歴史的評価は、数百年後を待たなければならないかもしれない。だが、丹念に記録を調べ、一冊のわかりやすい読み物にまとめた著者の才覚となみなみならぬ努力には、ただただ頭が下がる。