コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

現状分かっていることを整理し、今後起こるかもしれないことを予測する〜花村遼、田原健太朗『新型コロナ 収束への道』

 

実は著者のひとりと面識がある。十年以上前のこと、向こうはとっくに忘れているはずだ。著書が出ることを近況で知り、面白そうだから買ってみた。

本書は現状分かっていることを整理し、今後起こるかもしれないことを予測するために書かれた。「アフターコロナ」の世界についてあまたの本や新聞記事やネット記事が洪水のように氾濫している中、著者らは「あらゆる未来予測は立案した機関のポジショニングによりバイアスがかかるものであるが、本書では極力それを排除するように努めた」と書いており、誠実さを感じる。

実際、本書にも書かれていることだが、新型コロナウイルスとその対抗策となるワクチン開発は、すでに情け無用の国際政治の舞台で、政治道具にさせられている。アメリカはコロナ発生源だと中国を罵倒し、中国はコロナが中国大陸発生ではないという宣伝に躍起になっている(中国国内向けにはすでに「武漢新型コロナウイルス感染が確認される直前に米中軍人が合同開催したイベントがあったが、その時アメリカから新型コロナウイルス武漢に持ちこまれた」と繰り返し報道しており、海外報道の視聴がシャットアウトされている環境下でそれを信じている中国国民も多い)。ロシアは秋頃にはワクチンを承認すると大言壮語し、アメリカ大統領選直後にファイザーがワクチン第3期試験完了を発表して「わざと発表を遅らせたのだ」とトランプ陣営から批判される始末。

本書では以下のように書いている。

2020年8月11日には大規模臨床試験前のワクチンがロシアで承認されたが、小規模な臨床実験しか実施しておらず、安全性・有効性に疑義が残る状態での承認となっている。そのため、ロシアの臨床研究組織協会からは承認の延期を求める声が上がっている。また、米国においてもワクチンの早期承認が大統領選挙の材料として利用される懸念があったため、それに対抗するように製薬企業が十分なデータなしに承認申請を行わない旨を声明で発表する事態となっている。

このような状況で、バイアスをかけずに新型コロナについて話すことはほぼ不可能であるが、本書ではかなり客観的にまとめられていると思う。ただ内容はそれなりに専門的であるため、峰宗太郎先生の対談を読んで下準備するくらいがちょうどいい。

 

本書はCOVID-19が人間社会にもたらした課題を3点に集約する。

我々はCOVID-19が人間社会にもたらした本質的な課題は、三つの点に集約されると考えている。それは、「医療資源の逼迫による局所的な医療崩壊」「いつ,どこで,が予測できない流行の拡大」「感染制御の方法が経済活動とトレードオフ」である。

ところで、なぜ「感染制御の方法が経済活動とトレードオフ」なのか、本書でも説明されているが、わたしなりにさらに深掘りすると。

  1. 新型コロナウイルスはヒトやモノを介して移動し、感染拡大する
  2. 感染制御するには、感染の可能性があるヒトやモノが他地域に移動するのを止めなければならない
  3. ヒトに限っていえば、無症状あるいは軽症状者が8割を占め、医学的検査では特定不可能
  4. モノに限っていえば、ウイルスが付着している可能性がある表面をすべて検査するのは現実的ではない
  5. したがってヒトもモノも、少しでも感染の可能性があれば移動を止めなければならない
  6. ヒトやモノの流れが滞れば、貿易をはじめとする経済活動が停滞する

だいたいはこの理屈だと思う。

ここで注意すべきなのは、ウイルスに感染しているヒトやモノだけを効率よく特定することは不可能だという前提が置かれていること。だからある程度大きな集団(『本国国籍を持たない者』など)をまとめて足止めしなければならない。もちろん足止めされる集団のスケールが大きくなるほど、経済活動への影響は大きくなる。

だから「感染可能性のあるヒトとモノを効率よく特定する方法がまだないから、感染制御の方法は大規模集団の移動制限という粗いものにならざるを得ず、大規模集団の移動を制限すれば経済活動に支障がでる。ゆえに経済活動とトレードオフ」というのが、より全面的な説明になるかもしれない。

しかし、この前提を覆したのが中国。

中国では、ウイルスに感染している可能性があるヒトをかなり精密に特定して、全員隔離することで、感染拡大を防ぐことに成功している。どうしているのかというと。

  • 陽性診断されたヒトの個人情報と行動履歴を容赦なくウェブサイトで公開し、同じ交通機関に乗り合わせた者、同じレストランなどで食事した者に名乗り出らせる
  • 街中にはりめぐらされている監視カメラなどを通して濃厚接触者を特定する
  • 地元出身ではない者の氏名、個人ID番号、電話番号などが記載されたリストを各自治体担当者に配布して、地域間のヒトの行き来を監視させる

こんな具合にヒトの流れを厳しく管理している。個人情報の詳しさたるや、氏名以外は全部公開されると思ってよい。「某氏、男性xx歳、xx会社勤務、x月x日xx時にxx駅発xx行きの電車に乗り、xx駅で下車、xxレストランで食事」という具合。日本でこれをやらかしたらプライバシーの侵害として猛抗議されること間違いないが、中国ではここまで公開出来る。

とすると、さらに見えてくるのは、「ウイルスに感染しているヒトを効率よく特定することは、プライバシーの開示とトレードオフ」という事実である。

実は、このトレードオフは目新しいものではない。エボラウイルスがアフリカで大流行したとき、感染経路特定のため、医療スタッフは患者の家族や友人に聞き取り調査をしなければならなかったが、家族や友人がどこまで正直に話したかは人それぞれだ。エイズウイルスをはじめとする、性交渉で感染するようなウイルスだと、当事者の口はさらに重くなる。

公衆衛生のためにどこまで人権を制限するべきかーーこれはかなり重いテーマだ。本書では深くとりあげられていないし、そもそも著者らの専門分野外だが、個人的意見を聞いてみたいところ。

(また、感染爆発が起こっている国々を「国民の人権たる生存権をおびやかしている」と批判することがいかに的外れかもこれでわかる)

 

話がそれたが、本書では次のようにまとめている。

結論としては,いずれのシナリオにしても少なくとも2年、長期化すると5年もしくはそれ以上の期間にわたり、グローバルレベルでの移動制限や行動制限などの措置を取らざるを得ない状態が続くだろう。その間、一部地域では感染が制御できるかもしれないが、集団免疫が獲得できていない以上、常に再燃リスクを抱えることになる。

ここを出発点として、本書の後半では、経済状況改善のシナリオをいくつか提示していく。いずれも劇的な経済状況改善は望めず、数年かけてようやく底が見えるだろうという内容。どのシナリオを信じるかは読者次第ということであろう。

わたしにとって読み応えがあったのは本書前半。新型コロナウイルスとその治療法・予防法についてよくまとまっていて勉強になる。後半の経済シナリオはどんどん仮定が積みあげられていくので、仮定が現実にどれほど近づくか、おそらく時間がたたないとわからない。参考として読むぶんにはちょうどいい。

新型コロナについて自分で考え始めるために〜峰宗太郎,山中浩之『新型コロナとワクチン 知らないと不都合な真実』

 

とても楽しみにしていて、発売日当日早朝に電子書籍をポチった本。

本書は「日経ビジネス電子版」の「編集Yの 話が長くてすみません」というコラムで取り上げた全6回の連載を大幅に加筆したもの。

編集Yの「話が長くてすみません」:日経ビジネス電子版

このコラムは連載当時に何度も読んだ。専門家と編集者の対談形式をとっており、新型コロナウイルスが猛威を振るう今、そもそも新型コロナウイルス、正式名称「SARSCoV─2」とはなにかという基本知識から、PCR検査の感度・特異度、ワクチンの種類、「ワクチンが効く」とはなにか、日本が採るべき戦略までわかりやすく解説しており、「これだよ今知りたい情報は!!」と喜んだ。おかげでファイザーと中国研究機関が相次いでワクチン実用化を発表したときは、すぐに連載を読み直して、ふむふむ核酸ワクチンとウイルスベクターワクチンね、と復習していた。

著者の峰宗太郎先生はワシントン在住で、分子ウイルス学、免疫学研究者、病理診断医でもある。Twitterでは赤ちゃんのキャラで「ばぶ先生」と親しまれ、マシュマロで気軽に質問に応えてくれるお茶目な一面も。そんなばぶ先生のおすすめ本(通称「ばぶっく」)は数多けれど、ご本人の著作はほとんどなく、その意味でも楽しみにしていた。

私自身は、生命科学についてほとんど学んだことがない。高校は生物を選択せず、大学受験前の3ヶ月で泣く泣く生物を集中学習(後期試験で必須だったから)。入学後に生命科学基礎の授業があったものの半年のみ。生物実験を1回しただけ。

このように根性なし&ど素人だが、本書の内容はするする理解できた。嬉しい。

 

本書は連載当時の内容にさらに解説を加えたり、最新のワクチン開発状況などを加えたものになっている。連載当時、わたしが興味を惹かれたのはワクチンによる免疫向上のところだったが、もちろんしっかり載っている。

編集Y:で、ワクチンというのは、自然、液性、細胞性免疫を、何ていうのかな、どういう割合で刺激して、効果を得ているんでしょう。

峰:……それは、もう1度がっつり時間を取って、しっかり講義しないといけないくらいの大きなテーマなんですけど、実は、ぶっちゃけてしまうと、自然免疫と細胞性免疫の効果を、量として明確に計測できる技術って、今のところ存在しないんですよ。

編集Y:えー?

峰:事実です。

編集Y:だって、効果測定できないなら効くか効かないかって証明できなくないですか。

峰:液性免疫だけは計測できます。逆の言い方をすると、しっかりと妥当な状態で計測できるのは液性免疫だけです。

なんと。計測できないとはなんぞ?

そう思って読んでみると、液性免疫(体液中のウイルスを攻撃する免疫機能)だけは抗体の増加を検査できるが、自然免疫(ウイルス特異的ではなくとりあえず異物に反応する免疫機能)、細胞性免疫(感染した細胞を破壊する免疫機能)は計測できないらしい。マスコミが3ヶ月で抗体が減るといっているのは液性免疫の話だけ。なんだそりゃ。液性免疫なんて単語、峰先生の記事以外読んだ覚えはないぞ。

いろいろ知りつつ、ツッコミ入れつつ読むのは楽しい。

 

峰先生がとても心配しているのは、開発されたワクチンがもしも副反応を起こしたら、日本社会が「ワクチン害悪論」に染まってしまい、せっかく開発された新型コロナのワクチンのみならず、ほかのワクチン接種にも反対意見が強くなってしまうのではないかということ。

ワクチンの臨床試験に参加した者が、高熱や一時的な顔面麻痺などの副反応を起こしたというネット記事もすでにちらほら見る。自分が注射されたのがワクチンかプラセボ(偽薬)なのか知らされておらず、症状の激しさからワクチンを注射されたのだろうと推測しているにすぎない人もいるようだが。

新型コロナウイルスのワクチンは最新技術を利用して猛スピードで開発されているが、逆にいえば、前例がなく、実験に時間をかけていない。

峰:実は研究が猛烈に進む反作用といいますか、研究者・プロの間でも玉石混淆の情報があふれかえっていて、インフォデミック(誤った情報の拡散による社会的被害の発生)が起きています。ワクチンの開発も「アウトブレイクパラダイム」という超速スキームで進められていて、動物実験の結果が出る前に人間に投与したり、投与する容量を安全性と効果の見定めのために段階的に増やしていくところを、すっ飛ばしたりしています。5~6年かかるところを1年以内でやろうとすれば、倫理観、安全性がトレードオフにならざるを得ません。

編集Y:何が何でも特効薬を、ワクチンを、と考えると、別のリスクを抱え込む恐れが出てくる、ということですね。

実際、生命科学ど素人のわたしは、身体の細胞のどこか(どこ?)にウイルスmRNA(メッセンジャーリボ核酸、ウイルスの遺伝情報搭載)を打ちこんでウイルスタンパク質を生産させ、そのタンパク質に免疫機能を反応させて抗体を獲得するという核酸ワクチンの仕組みを聞いて、二の足を踏んでいる。

ウイルスタンパク質が合成されるのはmRNAが存在する間だけ? ずっとウイルスタンパク質を生産し続けていたり、細胞本来のDNAを傷つけたりしないよね?(エイズウイルスが持つ逆転写酵素でもなければこんなことは起こらないと思うけれど)

わたしは人生半ば近いからいいとして、細胞分裂と新陳代謝がさかんな子どもに核酸ワクチン打っていいの?(どのみちまだ子どもへの接種は承認されていないようだが)

漠然とした不安が、うたかたのように浮かんでは消える。

わたしはワクチン大賛成、麻疹風疹水疱瘡破傷風百日咳結核狂犬病おたふく風邪天然痘……などなど、書くだけで鳥肌立つような感染症に怯えることなく暮らせるようにしてくれたワクチンはもっとも偉大な発明のひとつだと思っているが、さすがに率先して核酸ワクチンを打つ気にはなれない。たとえ本書でもとりあげられているように、ワクチンを接種した人々の、いわば人体実験結果にフリーライドすることになっても。それならマスク、うがい、手洗い、3密回避を地道に続けて、不活性ワクチンを待ったほうがまだいい気がする。もともと引きこもり気味だからそれほど苦でもない。

そんなことを考えながら読み進めていくと、がっつりぶん殴られる。中でもこれは名言。

峰:Yさん、どこまでも基本から考えること。自分の思い込みからくる無自覚の前提を置かないこと。これが重要です。

峰:Yさん、大事なのは知識じゃないんです。それは聞けばいい。調べればいい。大事なのは考え方です。サイエンスを扱うならば、因果関係のショートカットはいけません。前後関係や相関関係と因果関係を混同してもいけません。

 

この本を最後まで読むと、情報リテラシー、自分で考えることの大切さが追加されていた。

編集Y:お話から敷衍すると、「これだけの読書を通してあなたは何を学んだか」といったら、要するに「自分の頭で考えないといつまでたっても安心はできない」ということですよね。そして、それに気付いたらこの本を読み終えた後、真っ先にするべきことはなにか、と。

あまりにタイムリーで頭がくらくらした。つい昨日、かなり厳しい叱責を受けたばかりだから。

「基本をふまえた理解ができていない」

「立ち位置=期待されている役割がわかっていない」

「やり方を変えないのならいまの仕事は向いていない」

ショックのあまり休憩時間にやけ食いしたが、どうして叱られたのかよくよく考えてみると、結局【理解が足りていないから、難しそうな専門業務を後回しにして、楽そうだけれども自分がやらなくてもいい業務に手を出し、しかも中途半端なところで行き詰まった】のを見抜かれたのだろうな、と。

理解が足りていないのが根幹で、それは【自分の頭で考えていない、深掘りが足りないから、話すことに説得力がない】ことにつながった。

だから自分の頭で考え続けなければならない。5年後には、今日わたしを叱責した人と同じくらいの深さの理解度と業務遂行能力を身につけたい。

 

とりあえずは、この本を読み終えたあと、核酸ワクチンについてわたしが漠然ともっている不安が、理にかなっているのか、ただの思いこみなのか、さらに深掘りしようと思う。

ちなみに経験上、こういうぼんやりした不安は9割方ただの情報不足によるもので、充分情報が集まったらいつのまにか不安は消えていることが多いが、今回はどちらだろう。楽しみ。

ロシア皇帝を意のままにしたという農民〜ラジンスキー『真説 ラスプーチン』

 

真説 ラスプーチン 上

真説 ラスプーチン 上

 
真説 ラスプーチン 下

真説 ラスプーチン 下

 

 

米原万里さんの書評集『打ちのめされるようなすごい本』の中で紹介された『真説ラスプーチン』を図書館で見かけたとき、絶対面白いやつだと確信した。なぜなら数百ページあるハードカバー上下巻の背表紙がどちらも斜めになっていたから。面白い本は一気に読まれるため、ハードカバーの背表紙が斜めになりやすい。そして期待は裏切られなかった。

 

わたしが初めてロマノフ王朝ラスプーチンについて知ったきっかけは、名探偵コナン劇場版『世紀末の魔術師』。ロマノフ王朝の秘宝をめぐる物語の中で、ニコライ皇帝一家破滅のきっかけをつくった「世紀の大悪党」ラスプーチンの名前は異彩を放っていた。

劇場版 名探偵コナン 世紀末の魔術師

劇場版 名探偵コナン 世紀末の魔術師

  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: Prime Video
 

 

ラスプーチンはロシア東部に残る民間信仰や旧信仰のうち「鞭身派」の信仰に影響されたというのが著者の見立て。

信者は文字通り身体を鞭打ち(マゾっ気のあるラスプーチンにはこれがハマったらしい)、敬虔な禁欲生活をする…ことになっているが、なぜか「禁欲=際限なく淫蕩にふける」「女性の裸体を前に自制心を失わない修行をする(?)」というワケワカラン(「いかにもロシアらしい、思いがけない」)ことがなされていた。

鞭身派では、AVを凌ぐ乱交パーティが宗教儀式として実際に行われ、農民や労働者の間に信者を多数獲得していた。さすがにペテルブルクの貴婦人たちを相手にここまですることはなかっただろうが、ラスプーチンに「無学の絶倫男」「既婚者を含む女性たちとつぎつぎにきわめて近しい関係を結んだ」というイメージがつきまとうのはこの辺りに原因があるらしい。

鞭身派の教えには、ロシア人の魂の危険な側面がよく現れている。それは罪を恐れない大胆さだ。鞭身派の教えはこんなふうに説いているーー敬虔な人間は、罪を犯すと、その後でいつもその罪ゆえの苦悩を味わい、それゆえ懺悔することになる。その結果、魂の大いなる浄化が起こり、罪人は神に近づく。このように大いなる罪と大いなる懺悔の間をいつも行ったり来たりすることにこそ、意味がある。(……)

罪を通じて罪から解放されるというこの鞭身派の理念、この「霊操」、罪を犯すことの重要さーーこういったことの理解なくして、ラスプーチンを理解することはできない。

うん、わけわからん。

しかしこの鞭身派ロシア正教会からは弾圧されていたものの、庶民の中では熱狂的信者がおり、レーニンはじめ共産主義者たちも「鞭身派は規模が大きく、メンバーは政府を憎んでいる」という理由で、鞭身派信者たちにひそかに近づいていたという。

 

ラスプーチンが生きたロシア社会の宗教感覚は複雑だ。

十世紀末にキリスト教東方正教がロシアに受け入れられたが、それまでの民間信仰は異教となって、森深いロシア東部やシベリアに息づいていた。十七世紀にはピョートル大帝とその父親が公認教会を皇帝の支配下におき、宗教儀式などを変えてしまう。それまでの信仰を守りたい人々が東部に流れ、古くからの宗教儀式を維持した。

ニコライ2世が革命の波にさらされるずっと前から、民衆はロシア正教会に根深い不信感を抱き、社会では公認教会を反啓蒙主義の代名詞のようにとらえ、知識人たちはペテルブルク宗教哲学会議を開いて公認教会に変化を迫った。虐げられた農民たちは救世主を待ち望み、さまざまな異教信仰とキリスト教を結びつけた奇妙な信仰を編みだした。

本書を読むと、なぜ「キリストがパン、奇跡、権威という信仰理由を人間に与えなかったために、かよわき人間たちは自由意志でキリストの信仰を守らねばならないこと、それ自体に苦しみつづけている」と断じてみせた《カラマーゾフの兄弟》がロシアで書かれなければならなかったのか、その片鱗を見ることができる。

 

公認教会を支配しているニコライ皇帝はといえば。

皇帝自身は内気で気が弱く、ほとんど皇后アレクサンドラ(アリクス)の言いなりだったという。

皇后はもともと「人を信じる能力がある」性質であり(一見良い性質のようだが、読みすすめると、思いこみが激しく人のいうことを聞かないという意味だとわかってくる)、神秘主義に関心深かった。そのうえ、なかなか世継ぎにめぐまれないことに苛立ち、やっとのことでもうけた息子のアレクセイ皇太子に遺伝病があることに心を痛めて、「息子の病気を治してくれるよう救い主」を探していたという。

奇妙なことに、皇帝と皇后は公認教会ではなく、一般庶民、それも貧しい農民の中にこそ真の信仰と救いがあると考えた。農民出身でろくに読み書きもできないラスプーチンが皇帝夫妻にすんなり受け入れられたのは、ラスプーチン自身のカリスマ的魅力もさることながら、この考えに「ムジーク」(農民)ラスプーチンがぴったり一致したためでもあるらしい。

この辺、現在世間を騒がせている眞子さまの結婚問題に通ずるものがあると思う。人間、自分がよく知るものには退屈さを覚えるが、「これまで会ったことがないタイプ」には新鮮な魅力を感じるもの。「よく知らないがいいものにちがいない」と思いこむことがある。育ちが良いからこそ、この罠にかかりやすい。

ニコライ皇帝一家も例外ではなかった。皇后はまもなくラスプーチンに精神的に依存するようになり、彼の祈りにより皇太子と自分自身の病気が良くなると本気で信じこんだ。ニコライ2世もラスプーチンを長老と呼び、彼に精神的支えを求めた。

 

ラスプーチンと皇帝一家のつきあいは秘密にされていたが、しだいに噂話やささやきが広まった。宮廷人たちはラスプーチンが皇帝夫妻に強い影響力をもつことが気に入らず、主教たちはラスプーチンが本当に信仰心深いのか疑い始めた。そりゃそうだ、ラスプーチンが女性たちと風呂をともにしたなどという怪しげな噂が立っていたのだから。

ラスプーチンが皇帝夫妻に及ぼす影響力が強ければ強いほど、貴族階級や国会、長老たちが彼に向ける憎しみは増した。ニコライ2世はラスプーチンエルサレム巡礼の旅に向かわせたり、宮廷ではなく皇后の侍女の家でラスプーチンに会ったりと、さまざまな方法で状況を変えようとしたが、憎しみを解くことはできなかった。

君主制が敷かれている国で「皇帝にいうことを聞かせられる読み書きもろくにできない農民の邪教信者」がどういう感情を向けられるか、今日のわたしたちにも想像がつく。現代でいえば韓国の朴槿恵前大統領がいい例。当時のロシアでは皇帝を罷免できないから、憎しみはすべてラスプーチンに向いた。

幾度もの暗殺計画や暗殺未遂が重ねられ、ついには、ニコライ皇帝の親族であるドミートリー大公やフェリックス・ユスーポフによるラスプーチン暗殺計画につながっていく。ラスプーチン暗殺の状況はまるで推理小説だ。ユスーポフの回顧録(もちろん本人の都合のいいように書かれている)、ユスーポフ邸近くにいた巡査たちの証言、ラスプーチン家にいた人々の証言から、著者は丹念に読み解いていく。暗殺実行日にいったいなにがあったのか、誰がとどめを刺したのか、なぜ当事者たちはいくつもの嘘や隠蔽をしなければならなかったのか。

 

ラスプーチンが殺されたあと、皇后アレクサンドラの表現を借りれば「まるであの方が殺されたことに対する神の罰のように」、皇帝一家の運命は破滅に向かって転がり落ちていく。わずか2ヶ月後に二月革命が起き、ニコライ皇帝は退位を余儀なくされる。やがて皇帝一家はラスプーチンの生まれ故郷であった寒村を通ってエカテリンブルクに送られ、地下室で一家全員殺されることになる……。

 

ラスプーチンとは何者だったのか。彼はロマノフ王朝の崩壊を早めたのか、それとも彼は命運尽きたロマノフ王朝ラストエンペラーにたまたま気に入られてそばに仕えただけなのか。性的解放を含む鞭身派の教義、ラスプーチン自身の異様なカリスマ性、ソビエト連邦成立後に破棄された膨大な記録が、ラスプーチンを謎めいた人物に仕立ててきた。

だがこの本を読んだわたしは、ラスプーチンロマノフ王朝滅亡の原因をつくったとはいえないと思う。度重なる大臣や貴族たちの反対にもかかわらず、ラスプーチンを信じて助言を求めていたのはアレクサンドラ皇后であり、皇后の言いなりになっていたのはニコライ皇帝なのだから。皇帝一家の破滅の運命は避けられず、ラスプーチンは、もしかすると、それをすこし早めたかもしれないというだけ。「王はみずから倒れるもの」ーーなのだから。

人工知能の可能性について、世界最大手のIT企業のトップが考えていること〜リ・ゲンコウ『智能革命』

本書は中国最大の検索エンジンであるBaidu(百度)創業者、会長兼最高経営責任者である李彦宏/リ・ゲンコウ、ロビン・リーが、みずからが考える人工知能の来し方行く末についてまとめた本。

共同執筆者に陸奇/ルー・チー(執筆当時のBaidu最高執行責任者、現在はスタートアップインキュベーターMiraclePlus代表)、劉慈欣/リュウ・ジキン(SF小作家。ベストセラー『三体』シリーズの著者)を迎え、さらにはBaiduが開発した人工知能百度大脳」まで執筆に加わるという試みがなされているのが面白い。邦訳は出ていないから、中国語原文で読んだけれど、クラウドファンディングで邦訳を出そうとする動きもあるらしい。

中国・百度 創業者が描くAI・自動運転の未来、書籍「AI革命」を翻訳出版 | レスポンス(Response.jp)

 

一読したところ、まるで著者とさし向かいになって、月明かりを肴に美味なお酒(またはお茶)をちびちび味わいながら、古今東西人工知能についての歴史、進展、今後の展望について、ほろ酔いかげん、つれづれなるままに縦横無尽に語りあかしたものをそのまま一冊の本にしたよう。

著者のロビン・リーはインターネット黎明期からIT産業にかかわり、また、かなり早いうちから人工知能に注目していたというから、話題も多彩だ。画像認識技術から無人運転機械学習からディープブルー(チェスの世界チャンピオンを破った人工知能)、投資コンサルタントのAI版までなんでもござれ。

著者自ら、大学時代からコンピュータハードウェアにはあまり興味をもてなかったと言っており、本書でも量子コンピュータなどのハードウェアの話題は少なめ。逆に人工知能機械学習ビッグデータなどについては話題が尽きない。

ときには著者の愛国心が顔を出す。中国がインターネットや人工知能に政府の威信をかけて取り組むことを自慢げに語り、かならずや素晴らしい成果を得られるだろうと満足げにうなずく。競争相手のGAFAGoogle, Apple, Facebook, Amazon)があげた成果を称賛しながら「わが百度もこの領域ではどんどん前進している」とつけたすのを忘れない。GAFAの成果は具体的製品名まであげるのに対して、百度の前進については、奥歯にものがはさまったようなあいまいな言い方をしているのが物足りないが、企業秘密もあるだろうから仕方ないところ。この辺り、著者の人間味が感じられて面白い。

良くも悪くもロビン・リー個人の考え方が濃厚に出ているので、

人工知能がもつ能力を判断する、あるいはシステムが『本物の』人工知能かどうかを判別する基準は変わっていない。人類がより多くを知り、成し、体験するのに役立つかである」(私訳、一部意訳)

という、深く納得できることも書いてあれば、

たとえば、医療分野と教育分野は人工知能を応用できるポテンシャルが非常に大きい。いずれも本質的にはデータの問題だからだ。レベルの高い教師も、長年医療にかかわってきた老医師も、その能力は経験(データ)の蓄積によるものである。将来的に我々は、機械にデータを自動分析させ、医師をサポートして個別最適の治療をしたり、教師をサポートして個性化教育を行うことができるようになるだろう。(私訳、一部意訳)

という、首を傾げたくなることも書いてある。医師や教師の場合、データだけではなく、ふれあい、思いやり、共感力といった「数値化できない」人間としての力も大切だと思うのだが。中国の医師の社会的地位は日本とは比べものにならないほど低く(ほぼ低収入の代名詞扱い)、教師の質低下(宿題丸付けなどを保護者に丸投げしている教師も多い)も問題視されるようになってきたので、ある意味国情に沿っているのかもしれない。

似たような話題は投資コンサルタントのAI版(著者によると、投資者個人のSNS含むあらゆるデータをAIが解析して、最適な投資計画を出力するサービス)でもでてくる。ロビン・リーは、個々人のSNSなどのビッグデータを解析することで、人間の投資コンサルタントによる聞きとり調査よりもよほど投資家本人にふさわしい投資計画を立てることができ、「コンサルタントの聞きとりのために時間と手数料をかけることが少なくなる」という。医師、教師、投資コンサルタント。彼にとって、これら人々とのコミュニケーションは、ビッグデータ解析で代替可能なのだ。

 

本書を読んでいると、面白いテーマが浮かぶ。

医師、教師、投資家などの専門家は、きめ細かく聞き取りをすることで顧客の要望を見極め、顧客個人にもっともふさわしいサービスを提供することで信頼を得ているわけだが、これはAIで代替可能だろうか? いますでに金持ちは専任投資顧問、専属医師、専属家庭教師を雇えるわけだが、それだけの人間を雇う金がない中流家庭は、同様のオンラインサービスを受けることができるだろうか?

もしイエスなら、歴史を通して繰り返されてきたことーーもとは一部特権階級専用だったものが庶民にも手がとどくようになり、爆発的に広がるーーが、これまでにないほどの大規模で起こることになるだろう。だが特権階級専用だったものが庶民にも広まるとき、質が落ちるのがふつうだ。たとえばイギリス貴族御用達のナニー(子守)の能力は、そこらの大学生がバイトでやるベビーシッターとは比べものにならない。人工知能はこの差をどこまで縮めることができるだろうか?

 

もう一つ面白いテーマも思い浮かぶ。

映画『ターミネーター』や東野圭吾の小説『プラチナデータ』ですでに描かれてきたように、情報時代の特権階級は【他人(国民)のデータを支配する】と同時に、【自身のデータはにぎらせない】ことを特権とするだろう。

情報時代では、【他人(国民)のデータを支配する】、すなわち支払いを含むオンラインサービスへのアクセスを許可したり遮断したり、個人情報を取得したり行動を追跡したりすることが、スターリンあたりがうらやましさのあまり墓地から黄泉返りそうな規模で実現出来る。すでに中国では刑事罰に「WeChatペイアカウント停止」を取り入れているという。キャッシュレス大国で日常生活のほぼすべてをWeChatペイなどの決済サービスですます中国では、現金決済のみの生活を強制されることそのものが刑罰となりうる。同じく中国で、顔認識機能を搭載した人工知能「天網」が道路交通監視のために実用化され、指名手配犯の逮捕、徘徊老人の身元特定、誘拐被害者の捜索に役立てられている。(「天網」の名前は「天網恢恢疎にして漏らさず」の故事成語から名付けたのだろう)

ターミネーター』ではスカイネットが自我に目覚めて人類を抹殺にかかったが、現実世界では、スカイネットのログイン権限をもつ者が、かつてないほどの強固な支配力をもつだろう。プラットフォーム構築分野で熾烈な競争が繰り広げられているのはこのため。データが集まるプラットフォームを制した者が、21世紀の覇権を制する。

 

これらはいずれも本書ではふれられていないが、ロビン・リーにかぎらず、GAFAからスタートアップ企業まで、危うさには気づいているだろう。

だがそれでも、ロビン・リーが本書で語る未来は魅力的だ。この魅力的な未来を実現し、享受するために、人々はさまざまなデータを対価としてさしだし、日常生活をさまざまなオンラインサービスに依存する。

わたしは性善説を信じない。どんなに人類発展のためを思って開発された技術でも、必ず、最悪の使い方をする人間が現れるだろうと思っている。人類の歴史を通して実例は腐るほどある。ダイナマイトはもともと土木工事用に開発されたもの、爆薬製造法はもともと化学肥料生産のために開発されたもの、という具合。原子力は言うに及ばず。AIだけが例外ではありえないだろう。だが、オンラインサービスが便利すぎ、逆にオンラインサービスを利用しないと日常生活が不便になりすぎるのもまた確か。

このようなことをつらつら考えると、無力感を覚えるから、わたしは今日も四六時中iPhoneを手にAmazonで買いものをし、GoogleやBaiduで検索をし、LINEやWeChatでメッセージをやりとりし、FacebookTwitterにアクセスして友達の投稿を読む。

法治社会ははるか遠くに〜張平『凶犯』

本書も米原万里さん『打ちのめされるようなすごい本』で紹介されたもの。絶賛されているので読んでみた。

小説自体はとても面白い。中村医師が『アフガニスタンの診療所から』で、アフガニスタンの内情について、古くからの部族法や慣習法に従うのがふつうであり、国家は取ってつけたような存在で、国家権力も法律もあまり気にされていない、というふうに書いていたけれど、このような事情は中国の田舎でも変わらないことがよくわかる。

ベトナム戦争で片足を失った退役軍人である狗子(ゴウズ)は、国有林監視員として、妻子とともにある山村に派遣される。そこでは地元のゴロツキ四兄弟が歴代監視員をワイロ漬けにして国有林の木材を盗んで売りさばき、村ぐるみで分け前にありついていた。正義感に燃える狗子は盗伐の実態を告発しようとするが、報告書は村役所や区役所に握りつぶされる。狗子が言うことをきかないことに業を煮やした四兄弟は狗子を村八分にし、さらに容赦なく電気と水のインフラを止める。飲料水と生活用水がなくなることは狗子一家に大打撃を与えるが、村人たちは国有林盗伐からあがる金がなくなることを恐れ、見て見ぬふりをするか、狗子を積極的に排除にかかる。ある午後、ささいなことをきっかけに狗子は村人から凄惨なリンチを受ける。動けることが不思議なほどの大怪我を負った狗子は這って自宅に戻った。愛用の旧式軍用銃を手にするために…!

閉鎖的な自治体、地元有力者と役所の癒着、金をばらまかれて加担する村人達。中国の山村が舞台とはいえ、内容自体は案外日本の読者にもわかりやすいのではないかと思う。物語は殺人事件後と事件前を行き来して、狗子=殺人犯の独白と、事件を捜査する老刑事視点からの状況を交互に語り、しだいに事件の背景、真相、その裏にある官民癒着にせまっていくスタイルは映像向き。

米原万里さんの書評はいささか褒めすぎ、おおげさすぎ、文学の力に期待しすぎた感がある。

驚きなのは、自身のことを「実地の取材をしなければ書けない作家だ」と語る張平は、もちろん、本書も実際に起きた殺人事件を丹念に取材して書いていること。つまり、本書の内容はほとんどノンフィクションということで、中国国内でよくぞここまで国の恥部というか気の遠くなるような都市と農村の落差、権力の救いようのない腐敗と犯罪をえぐり出す作品が刊行されたことに新鮮な衝撃を受けた。言語統制をも突き破る文学の力があることに、心強い思いをした。

この小説が「言語統制をも突き破」ってなどいないことは、著者の張平が政府から中国国家一級作家に認定され、山西省人民政府副省長、山西省作家協会主席までのぼりつめたことを見るとよくわかる。小説でとりあげた「権力の救いようのない腐敗」はしょせん貧しい山村のゴロツキが監視員と村役所を抱きこんで国有林の木材をコソドロしていただけのこと。村役所ごときを切り捨てたところで中央政府には痛くも痒くもないし、当事者はすでに殺人事件の加害者や被害者となって事態は沈静化しているから、小説に書かれることにも寛容になれただけだろう。

ちなみに小説のベースとなったのは呂梁山(リョリョウザン)という山のふもとにある寒村で実際に起こった殺人事件。狗子のモデルとなった国有林監視員は、村八分に耐えかねて地元有力者(四兄弟ではなく三兄弟だったらしい)を射殺、殺人犯として死刑判決が下ったという。現実は小説よりもさらに残酷。

 

想像力を求められる読書〜中村哲『アフガニスタンの診療所から』

米原万里さんの書評集『打ちのめされるようなすごい本』の中でとりあげられていた中村哲医師の著者『アフガニスタンの診療所から』は、ずいぶん前に買ってそのまま積読状態だったが、この機会にとうとう読んだ。

本書は中村医師の十数年にわたるパキスタンアフガニスタンにまたがる現地活動について書かれたノンフィクション。中村医師がアフガニスタンで兇弾に倒れたあと、ちくま文庫から緊急発刊されたのを購入した。

 

一読して思ったのは、決して読みやすくはないということ。

ソ連侵攻下のアフガニスタンに隣接するパキスタン、難民が押しよせるペシャワール。物資が欠乏し、欧米諸国の思惑とわたりあい、患者や現地スタッフ間の対立の中に身を置きながら、癩(らい)病患者に立ち向かう中村哲医師。

日々困難の中で十数年をすごした記録だというのに、本書は意外なほどに薄い。ちくま文庫版で224ページ。苦労など売るほどしているし、「ドラマチックな」体験にはこと欠かず、書こうと思えば数百ページのハードカバーだって書けるはずなのに、中村医師はむしろ読者がそれを望むことをけしからんと思っているようだ。

筆舌に絶する苦労も、理不尽なできごとへの怒りも、爆弾テロや砲弾にさらされる危険も、そっけないほどに終始淡々とした一人語りにくるみこんでいる。言葉の背後にあるものをつかむためには、読者の方で想像力をかきたてなくてはならない。

 

らい。医学的正式名称はこれだが、日本ではその差別的歴史からハンセン病と呼ばれることが多い。ただし中村医師はらいと呼び、その理由を本文中で明かしている。

らいは感染症だが、治療法はすでにある。ただパキスタンアフガニスタンのような地域では、長期間にわたる投薬はなかなかできない、足を傷つけないための履物もいろいろ事情があって難しい、そもそも専門家がほとんどいない、という状況であり、中村医師はじめ支援団体が現地活動をしている。

終始淡々とした一人語りだが、本文中にただ1箇所、現地スタッフとの対話を長々と書いているところがある。深夜にニュースを聞く場面。

「日本の国会は国連軍に軍隊を参加させることを決定し、兵士に発砲できる許可をあたえました。これにたいして韓国が強硬な反対声明を出し…」

そこに集まっていたJAMSのスタッフも皆、私を気にしてだまっていた。だれもコメントはしなかった。私は気まずい場をとりつくろうために大声でいった。

「ばかな!こいつはアングレーズの陰謀だ。日本の国是は平和だ。国民が納得するものか。納得したとすれば、やつらはここアフガニスタンで、ペシャワールで、何がおきているかごぞんじないんだ。平和はメシのタネではないぞ。平和で食えなきゃ、アングレーズの仲間に落ちぶれて食ってゆくのか。それほど日本人はばかでもないし、くさっとらんぞ」

アングレーズは地元語で英米のこと。現地人の憎しみの対象だ。スタッフと中村医師の対話がつづく。やりきれない心情ながら、中村医師への尊敬の念から、なんとか日本をかばおうとするのが痛々しい。

だが、これこそが国際協力だ。中村医師は書く。

少なくともペシャワールでは、もっともよく現地を理解できる者は、もっともよく日本の心を知る者である。自分を尊重するように相手を尊重しようとするところに国際性の真髄がある。

米原万里さんも著書『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』の中で書いているが、さまざまな国家、民族、地域出身者が入り乱れるところでは、みずからの出身や信念に誇りを抱く者が尊敬され、そうでない者は流されやすい軟弱者と軽蔑される。みずからに誇りを抱く者は、他人の誇りを理解し、尊重することもできる。現地スタッフとやりとりするにあたっては、現地のやり方を尊敬することがなにより重要だ。外国人はしょせんよそものなのだから。

中村医師もまた、確固たる信念をもって活動し、アフガニスタンで尊敬を集めた。兇弾に倒れたあと、棺にはアフガニスタン国旗をかけられ、大統領自らが棺をかつぎ、中村医師へのこの上ない尊敬の念を示した。

日々ニュースやワイドショーでショッキングな映像をただ見て満足している人々には、本書の内容は刺さらないだろう。反対に、本書の淡々とした語りの背後に、現地の壮絶さ、誰も悪くないのに状況が悪化することへのやるせなさ、燃えたぎる怒り、確固たる信念を感じ取り、想像できる読者であれば、この本は手放しがたいものになると思う。

ロシア、東欧、中央アジアのことを知るために読む本を探す〜米原万里『打ちのめされるようなすごい本』

著者の米原万里さんは、日本共産党常任幹部会委員の娘として生まれ、1959年、父親のチェコスロバキア赴任に伴って渡欧、9歳から14歳まで、外国共産党幹部子弟専用のソビエト大使館付属学校に通ったというめずらしい経歴の持ち主。ロシア語同時通訳の仕事柄、ロシアのVIPをはじめ、現代ロシアに暮らすさまざまな人々のふるまいを直接見聞きすることができる。その一方で大変な読書家であり速読が得意、日に7冊も本を読むことができた。

そんな米原万里さんの書評や、週刊文春に連載されていた読書日記をまとめたのが本書。読書日記の連載時期が米原万里さん自身のがん闘病と重なっていたこともあり、ところどころにがん関連の書籍が顔を出す。

米原万里さんが紹介する、ソビエトをはじめとする共産圏についての本はどれもいますぐにでも手に取りたいほど魅力的で、読みながらとった書名メモがあっというまにどんどん長くなっていった。

たとえばラジンスキー『赤いツァーリ』『真説ラスプーチン』。前者は数千万人ともいわれる大量粛清を実行しながら国民に支持されて生涯を閉じ、その死も病死なのか謀殺なのか謎めいているスターリンの、後者は無教養で絶倫、皇后始め数々の貴婦人を魅了してついには皇帝まで影響下においた怪僧ラスプーチンの生涯を綿密に解き明かすとして絶賛している。ムラギルディン『ロシア建築案内』は、建築物とそこに暮らす人々の文化、習慣を結びつけて活写する「建築史や都市計画のみならず、歴史や宗教、文学についてもやたら蘊蓄と毒がある文章」。塚田孝雄『ソクラテスの最後の晩餐』のように、古代ギリシャ語を読みこなす著者による、当時のアテネの人々の暮らしがそのまま見えるかのような本も紹介されていて、野次馬根性からすぐに読みたくなる。

一方でがん闘病過程ででてくる民間療法関連本のタイトルや内容が、あまりにもひどく、その落差にショックを受ける。

たとえば活性化自己リンパ球療法。米原万里さん自身が試すも結局がんは転移し、のちに、がん細胞は正常細胞が変異したもので「非自己」ではなく、リンパ球療法でがん細胞を攻撃させる考え方はそれ自体に無理がある、と知って落胆している。それでもあきらめられない米原万里さんは、その後も温熱療法などに手を出している。彼女が参考とした本が読書日記に出てくるが、民間療法紹介ばかりであることを奇妙に感じた。三大療法(放射線治療、外科手術、抗がん剤)を使わずにすむ道をさぐっていたのだからあたり前かもしれないが。

複雑怪奇きわまりないロシアについて、さまざまな読み応えある本を紹介する聡明な著者が、がん闘病では怪しいうえに高価な民間療法に手を出さずにいられない、矛盾。書評集なのに書評を書く本人の人間としての苦悶、葛藤、歓喜がいちばん印象に残る。