コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

家畜の安寧に甘んじるなという叫び〜魯迅《小説集・呐喊》

ノルウェー・ブック・クラブが選出した「世界最高の文学100冊」(原題:Bokkulubben World Library)の一冊。選出されているのは "Diary of a Madman and Other Stories" だが、"Diary of a Madman"(邦題《狂人日記》)は魯迅の小説集《呐喊》(中国語で「叫び」の意)に収録されているため、この小説集を読んだ。

Library of World Literature » Bokklubben

小説を読む前に背景知識をすこし学んだ。

魯迅(1881-1936)は中国のサイト「百度」では「文学家、思想家、革命家、教育家、民主主義戦士、新文化運動の重要参加者、中国現代文学の基礎をつくった一人」とされている。清王朝末期に日本の仙台で学び、公開処刑を見世物としてむらがる中国民衆のあさましい記録映像を見て、激しいショックを受け、愚かでみにくい民衆の姿をみせつけ、目を覚まさせるために小説を書き始めたという。

魯迅が生きた時代は辛亥革命民主化運動、欧米日本の中国侵略、植民地化が次々起こった激動の時代であった。政権が日々変わり、中国や外国勢が入り乱れた勢力闘争が繰り広げられた。このような混乱状態のさなか、ペンの力で現実を告発しようとする者はつねに危険にさらされてきた。魯迅も例外ではなく、政権批判によって指名手配され、潜伏を余儀なくされた。魯迅の小説は20世紀中国に多大な影響を与え、毛沢東は「魯迅の目指す方向が、中華民族新文化の目指すべき方向だ」という高評価を与えている (*1)。

(*1) 日本語版Wikipediaではこのことについて「国民党との奪権闘争を通じて、かれは中国共産党にとって人民に愛される反政府的な愛国主義を宣伝する代弁者として非常に利用価値の高い存在だったからである」と書かれている。

《呐喊》には全十四篇の小説が収録されているが、この背景をふまえて読むと、いずれも政治的・思想的意図がはっきりしており、いわば現代の寓話として書かれたことがわかる。大人気漫画『進撃の巨人』と同様、「家畜の安寧に甘んじるな!!考え続けろ!!戦え!!」という〈叫び〉がすべての小説にこめられている。

以下それぞれについていろいろ感想を。

 

狂人日記

儒教倫理、及びそれに支えられた封建的家族制度の虚偽を暴露することを意図して書かれた処女作。

中国には「家天下」ということばがある。「家庭を治めるように天下を治めよ」という意味だ。父母が子を支配することは、政治においては君主が臣下を支配することに通じる。儒教論理はこの思想を根幹としており、絶対的な権力をもつ君主がしばしば臣下に理不尽なことを強制するように、家庭においては父母が子にどのような犠牲を要求しても親孝行という名のもとに正当化される思想的土壌があった。これこそが《狂人日記》の告発対象である。

主人公は被害妄想狂になった男で、中国歴史は「四千年の食人の歴史」であり、自分もそのうち食われるという妄想に取り憑かれている。しかし主人公が挙げた「食人」エピソードは、政府公認の正史に実際に書かれているーー

  • 易子而食(《春秋左氏伝》)ーー籠城戦で極度の食糧難になり、城内では子どもを交換して食ったという歴史記録。
  • 易牙(《史記》)ーー春秋時代の料理人で、美食家だった主君の斉恒公が、天下の美味を味わいつくしたが、幼児の肉を食ったことはないなと漏らしたとき、我が子を調理して主君にさしだしたというエピソード。

正史ではないものの、親の病を治すため、子が太ももの肉を削いで薬味としたエピソードなどもでてくる。これを礼賛するような家族制度と儒教倫理を、魯迅は被害妄想狂の口を借りて徹底的に批判する。古いしきたりに盲目的に従うなという〈叫び〉がここにある。

魯迅の死後、中国は共産党政権下において文化大革命を発動し、古いしきたりを徹底的に否定・破壊した。しかしそれに代わるような思想的基盤ができることはなく、己の〈来し方〉を見失うだけの結果に終わったように思える。一部の中国人は、伝統的価値観に徐々にもどろうとしているよう。魯迅が生きていたら、この現状をどう見るだろう?


《孔乙己》

主人公である孔乙己は科挙に合格できずに落ちぶれた男である。科挙のために勉強してきたことを鼻にかけているが、まわりは孔乙己の貧乏な身なりやおかしな言動を笑いものにするばかり。生活できなくなった孔乙己は窃盗を繰返すが、つかまってひどく殴られることも多く、やがて足が不自由になり、人々の前から姿を消したーー困窮の果てに野垂れ死んだのかもしれない。

この小説は清王朝までつづく科挙制度の弊害を告発したものであり、後の《白光》とおなじテーマである。科挙は数百年の歴史がある中国の公務員試験で、貧しい家の子でも挑戦できることから公平性があるとされる(しかし勉強用の書籍も教師報酬もふつうの庶民には手がでないほど高額なので、ある程度経済的にめぐまれている家庭の子が受験するのがほとんど)。一方、中国古典に精通しなければ受からないため、科挙合格者はえてして中国古典の思想を無批判で受け入れ、前例主義に凝り固まるという批判も根強い。

孔乙己はまさに「本の虫」であり、実際にはつけ払いをしないと酒も飲めないほど経済的に行き詰まっているにもかかわらず、本に書いてある枝葉末節で役立たない知識をふりかざして得意となっている。しかし孔乙己は科挙制度に対応するために勉強しつづけてこうなったのであり、真に改革しなければならないのは科挙制度のほうだ。

制度や社会構造は変えられる。支配される側が声をあげて行動すれば。魯迅は旧態依然とした社会制度のもとでおかしなふうにゆがんでしまった人々を繰返し小説に書くことで、このことを告発している。


《藥》

狂人日記》に勝るとも劣らない不気味な作品。

ある茶館の主人が、肺結核にかかった息子のために「薬」になる人血饅頭ーー文字通り饅頭(中国風蒸しパン)を人間の血にひたしてかまどで焼いたものーーを求める。人血饅頭の血は(作品中でははっきり書かれていないが)辛亥革命前後に清王朝を打倒するために立ち上がり、逮捕されて死刑となった若者のものであった。しかしそんなもので肺結核が治るはずもなく、結局茶館の息子は病死してしまう。

狂人日記》では被害妄想狂が歴史書での食人記録をあげつらっているが、この小説ではほんとうに登場人物が人血をすする。しかも茶館の主人のために人血饅頭を手に入れてきた男はそのことを得意げにふれまわり、高い代金を要求する。

若さを保つために処女の血を浴び続けたエリザベート伯爵夫人のように、人間の血と肉に特別な効果を見出すことは洋の東西を問わずにみられるものの、そのようなことを真に受けてしまう民衆の愚昧さを、魯迅は告発せずにはいられなかったのだ。


《明日》

このお話にも重病にかかる子どもがでてきて、さすがに人血饅頭は登場しないものの、母親が手を尽くしたにもかかわらず、子どもは死んでしまう。

この小説で告発対象となるのは、夫と死別し、貧困にあえぐ母親に対する近隣住民の冷酷なまでの無関心であり、迷信や民間療法にすがるうちに子どもを病死させてしまった愚かな母親の悲劇であり、このようなことが起こるままにまかせる社会の不条理さである。

しかしこのようなこと清王朝が倒れればなくなるわけではない。山奥の寒村では皇帝の威光よりも古くからの慣習が根強いのはよくあることであり、皇帝が中華民国政府になったところでなんら変わらない。個人的には、この物語をもって清王朝打倒すべしと主張するのはちがう気がする。

このような母親たちを救うためには、信頼できる医療制度と教育制度の整備が必要不可欠であり、21世紀になったいまでも、中国の重要なテーマのひとつである。


《些細な事件》

五四運動(1919年のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した抗日、反帝国主義を掲げる学生運動)のころに発表された短い作品。

ある人通りのない寒い朝、男が雇った人力車の車夫がうっかり老女をひき倒してしまう。男は老女に怪我がなさそうだと見て車夫に道を急ぐように言うが、車夫は老女を助け起こして警察署に自首し、男はみずからの言動を恥じるという物語。

高慢ちきな知識階級が、字も読めない労働階級にすばらしいヒューマニズムを見出し、己の身を省みる物語は共産主義国家にかぎらずちらほら見える(トルストイの名作《戦争と平和》もそのひとつ)。「素朴な」「頭でっかちでない」「生活の工夫や知恵にあふれた」「力強く生きる」農民や労働階級にこそ学ぶべきだという理想論だ。

この物語も、このような流れの中に位置づけできるだろうが、個人的には農民や労働階級を美化しすぎていてあまり好きではない。むしろ張平の小説『凶犯』に描かれた農村の方が実態に近いと思う。ブログ記事参照。

法治社会ははるか遠くに〜張平『凶犯』 - コーヒータイム -Learning Optimism-

 

《風波》

激動な時代に流されるまま右往左往する庶民を皮肉ったブラックコメディのような短篇。

主人公はある農民の男。清王朝では全員弁髪を強制されていたが、王朝を打倒した革命軍は逆に街行く人々の弁髪をむりやり刈っていた。主人公もそうして弁髪を刈られたひとりだったが、王朝が復活した噂を聞き、弁髪をなくしたことで死刑になるかもしれないとおびえ、しかし噂が沈静化するとまた気持ちが楽になる。

私としてはこの男を「自分の頭で考えずに流されるばかり」と批判するのは気の毒にも思える。専制君主や革命軍という圧倒的暴力に、たかだか髪のことで死刑を覚悟で立ち向かえる人がどれほどいるだろう?

 

《頭髪の故事》

これも弁髪関連のお話。ある男が、弁髪を刈ったことで冷遇されてさんざんな目にあったが、ある時期に(おそらく学生運動に参加するために)学生たちが何人も弁髪を刈ったことを知り、複雑な気持ちになったことをひたすら愚痴る。

理想に燃えて髪を切ったところで、まわりの古い考えが変わらなければ不幸になるだけ、なら髪を切ることにどんな意味があるのか、と、ぐだぐだ言う男の口を通して「形式から入るのではなく考え方そのものを変えなければならない」と訴えかける物語。「考え方そのものを変える」のはまさしくその通りだと思う。簡単ではないし、一歩間違えれば洗脳まがいになるのが難点か。

 

《故郷》

国語の教科書によく掲載されている作品。裕福な家庭で育った「私」は農民の子と友情をはぐくんだ。しかし成人後に再会したとき、かつて友達だった子供は生活苦にくたびれた農民となり、「私」のことを「だんな様」と呼んだ。一方的な思いこみとも思える身分差(しかし、彼にそう思わせるだけの生活経験があったのだ)ゆえに、友情をとりもどすのが不可能になったという喪失感がこめられた傑作。


《阿Q正伝》

ブログ記事参照。

魯迅 《阿Q正传》 - コーヒータイム -Learning Optimism-


端午節》

公務員兼教師の男が主人公。事なかれ主義で、兵士が道ゆく人を殴りつけるところを目撃しても「殴られている側も、立場が変われば人を殴るにちがいない」とうそぶく、給料が遅れても同僚たちの抗議になんだかんだ理由をつけて参加せず、家計が火の車だと妻に言われても「給料がでるまでつけ払いにしておけ」と現実を見ようとしない。

これは作品が発表された時代の知識階級の実際の姿であり、尻に火がついても動かない彼らを風刺した作品とされる。事なかれ主義の公務員や教師はどの時代にもごまんといるわけで、この作品は現在読んでも味わい深い。


《白光》

科挙に十六年落ちつづけたあげくに狂死する男の物語。《孔乙己》でも科挙の弊害にふれたが、魯迅は前例主義を批判するのではなく、科挙に落ち続けて身を滅ぼす男を主人公にしたことで、よりわかりやすい形で批判しているといえる。


《兎と猫》

ペットの白ウサギのつがいと、ウサギやその子どもをつけねらう野良黒猫のお話。ウサギを善良な弱者、黒猫を凶暴な強者のシンボルとする読み方が一般的のようだけれど、魯迅の初期小説にはめずらしく、あからさまな政治色はあまりない。


《鴨の喜劇》

盲目のソ連詩人ヴァスィリー・エロシェンコが北京に滞在したときのエピソードを下敷きにした小説。東南アジアを旅した経験をもつエロシェンコにとって北京は「砂漠のように」静かでもの寂しく感じられ、気を紛らわせるためにオタマジャクシを中庭の池に放してカエルの鳴き声を楽しみにしたり、ヒヨコを飼ったりしていたが、ある時買いこんだアヒルのひながオタマジャクシを食べてしまう。コメディチックで政治色薄めであり、風景描写に重ねて登場人物の心理をあらわすことに力を入れている。


《村芝居》

主人公「私」が北京で見た芝居をうるさくつまらないと感じる一方、子どもの頃、母方の祖母が暮らす農村で見た村芝居をなつかしく思い出すお話。

描写をみれば子どもの頃見た村芝居もたいしたことがなかったように思えるが、同年代の農村の少年たちが夜遅くに小川を船でたどって芝居を見につれていってくれたこと、帰り道で空腹に耐えかねて川沿いの豆畑からこっそり豆を盗んで食べたことは、たとえばマーク・トウェインの《トム・ソーヤーの冒険》《ハックルベリー・フィンの冒険》のように少年の冒険心をおおいに満足させ、村芝居自体もすばらしいものであったという印象をもたらしている。これも政治色薄め。