コーヒータイム

18歳のわが子に読書をすすめるために、まずわたしが多読乱読しながらおすすめを探しています。英語書や中国語書もときどき。

ワクチン反対派はなぜ生まれたか〜P.オフィット『反ワクチン運動の真実: 死に至る選択』

 

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択

 

私はワクチン賛成派だ。ワクチンに限らずすべての医薬品は副作用を引き起こすリスクがあることを承知したうえで、麻疹や風疹や破傷風狂犬病で死ぬくらいなら、ワクチンを打つほうが何倍もマシだと考えている。だがそれはもちろん、ワクチンが副作用をもたらす可能性がじゅうぶん低い(と私は考えている)からこそだ。たとえば100人に1人の確率で後遺症が残るなどといわれたら、私はワクチンを打つことをためらうだろう。

本書でとりあげた人々は、まさにワクチンへの恐怖にとりつかれた人々である。ワクチンを打つリスクの方がメリットよりも高いと判断し、自分自身や子どもたちへのワクチン接種を拒否しただけではなく、まわりの母親たちにもワクチンを接種しないように説得してまわり、政府にワクチンを任意接種にするよう働きかけた人々だ。

本書は原書タイトル「Deadly Choices - 死に至る選択」からわかるように、ワクチン賛成派の立場から、反対派の運動を一つ一つ検証し、その主張には科学的根拠が欠けることを主張する。たとえば脳損傷、けいれん、知的障害などの後遺症が実際に特定のワクチン(百日咳ワクチン)によって引き起こされる科学的証拠はなく、逆に、これらの疾患が百日咳ワクチン接種後に有意に増えているわけではないという証拠は豊富にあるのに、反対派はそれを無視して、百日咳ワクチンの接種をやめさせようとしている、というのだ。

著者はワクチン由来の後遺症がまったくないとは言っていない。いくつかのワクチンについては、科学的検証の結果、まれに重篤な後遺症を引き起こすことがわかったと率直に認めている。だがワクチン反対派は、科学的根拠があるワクチン後遺症だけではなく、科学的根拠がないワクチンについても騒ぎ立てている。それこそが問題だというのが著者の主張だ。

ワクチンへの恐怖、その恐怖に基づいた選択、その選択の結果起こっていること、そしてそれに対する抗議の声がこの本のテーマである。

 

日本国憲法ではさまざまな自由が保証されているが、必ず「公共の福祉に反しない限り」というただし書きがつく。

日本国憲法を起草したのは当時日本を支配していたアメリカだが、アメリカでは公共の福祉のひとつとして、公衆衛生を守るためのワクチン接種があげられる。ワクチンを接種しない自由は保証されない、強制接種するための法律をつくることは許される、というわけだ。

だが本書には、80年代前半に一本のドキュメンタリー番組をきっかけに巻き起こった猛烈なワクチン批判を受けて、アメリカのかなりの州がワクチンを強制接種ではなく任意接種に切り替え、ワクチン会社は莫大な賠償金をおそれてワクチンから手を引き、80年代終わりにはワクチン供給が枯渇しつつあったことが書かれている。アメリカ政府は接種被害者救済制度を設立することでワクチン被害補償を肩代わりし、かろうじてワクチン製造会社を救った。

アメリカから先んじて、イギリスでもワクチン後遺症なるものが研究され、被害をこうむったと信じる親たちが訴訟を起こした。だがイギリスではワクチン反対派がアメリカよりもずっとはやく敗訴した。裁判を担当した判事が、「ワクチンにより異常が起こった」のか、「ワクチンを打ったあとにたまたま、もともとある異常が見つかった」のか、くわしく調査して、ワクチンによって異常が増えた証拠はみつからないと結論付けたからだ。

スチュアート・スミスは時間的関連ではぐらつくつもりはなかった。サミュエル・ジョンソンを引用して「私が恐れるのは、他の人を差し置いても医者が、連続して起きただけのことを因果関係があると間違うことである」と述べ、そして詳しく論じた。「百日咳ワクチンを打った場合と打たない場合の両方で起きうる、深刻な神経疾患や永続的な脳の損傷などの所定の影響が、ワクチンが原因か否かという判断、もっと正確に言えばリスク要因かどうかは、その病気の自然発生率を考慮してはじめて可能となります。ここで問うべきは、こうした影響は百日咳ワクチンの接種後に偶然起こるよりももっと頻繁に起こっているのかどうかです」

だがこういう理屈は、恐怖にとりつかれ、疑心暗鬼になった親には聞き入れられないだろう。どれほど説明されても不安は消えず、それどころかどんどん大きくなるようでは。

親が子どもに予防接種をしようと決める時、ある要素がカギを握っている。信頼だ。親がワクチンを打たないという選択は、ワクチンを研究調査し、認可し、推奨し、管理する人々、具体的に言えば、政府、製薬会社、医師を信頼しないという選択だ。

 

ワクチン反対派への批判を読んだからには、ワクチン反対派が書いた本も読んでみるべきだろうと思い、それらしきタイトルの本を適当に選んだ。内容はだいたい予想通りだった。インフルエンザワクチンに効果はない、とある大規模調査にもそのことは現れている、なのに国がワクチンをすすめるのは政治的判断だ、鵜呑みにしてはいけないーーこんなところだ。

ちなみにインフルエンザワクチン反対派の本でほぼ必ず参照される「前橋レポート」は、いろいろ不備があると解説しているサイトもある。

インフルエンザ予防接種について: 前橋レポートの中身(接種の有無による罹患率の差)

この本は「インフルエンザ・ウイルスとは、これからも共生していけばいい。私はそう思っています」という言葉で結ばれるが、著者は、インフルエンザではないけれどワクチンのない新型コロナウイルスが先進国を含めた世界中で猛威をふるい、肺炎患者が大勢入院して医療崩壊寸前になり、死亡率2〜3%がたたき出されている、この現実をどう思うのだろう。

信じていたものが根底から塗り変わる瞬間〜フラナリー・オコナー《フラナリー・オコナー全短篇(上)(下)》

 

 

尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」で推されていたから読んでみたけれど、初読は訳が分からなかった。

刺さる鈍器『フラナリー・オコナー全短篇』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

別の方の読書会のまとめを読んで、ほんのちょっと分かった。

フラナリー・オコナー『全短篇』(ちくま文庫)読書会まとめ|三柴ゆよし|note

敬虔なカトリック教徒であったというフラナリー・オコナーの短編は、性質的には、魯迅の中短編に似ている? あるいはホラー映画「SAW」シリーズ?

魯迅は小説の中で、中国近代社会の一庶民の生きざまやまわりとの関わりをあえて露悪的に書き、一般庶民、ひいては庶民が形作る中国近代社会の問題点をあぶり出し、批判した。根底にあるのは、魯迅が日本留学時代に見たという「中国人が外国のスパイとして打ち首にされようとするのを、屈辱だと思わず、むしろ好奇心満々に見物する」ような一般庶民の考えかたを変えたいという、切迫した思いであった。「SAW」シリーズは、ジグソウと呼ばれる連続殺人鬼が、ひとを生死をかけた「ゲーム」にかけることで、人間の業ともいうべきこれまでの過ちに気づかせ、多大な犠牲を払ってでも業を治すか、業深いままさらに多くのものを失うかという究極の二者択一を迫る。"Make your choice." ー「選択は君次第だ」が決め台詞。

フラナリー・オコナーの場合は、弱さも醜さも不完全さも持ち合わせた登場人物が、想像だにしなかった状況にさらされることで、宗教的ななんらかの「真実」にふれたりふれなかったりすることを書いている。根底にあるのはやはり、頭の固い人々の考え方を変え、神の御心にかなうふるまいをしてほしいという切なる願いだろうか。

短編集の最初の小説《善人はそんなにいない》は、アメリカのジョージア州に住むおばあちゃんが息子や嫁、三人の孫と自家用車で旅行にでかける話。おばあちゃんはどこにでもいるアメリカ南部のお年寄りという風で、カトリックを信仰し、ほがらかで話好きなものの悪気なく独善的、本人だけは自分をレディーだと信じて疑わない。そんなおばあちゃんがとある勘違いから、嘘をついて息子に寄り道させ、さらにその先で余計なことを口走ったために、一家はとんでもない状況に陥る。おばあちゃんはおろおろするばかりだったが、最後の最後にほんの一瞬、おばあちゃんが生涯信仰してきたイエス・キリストの御心を理解したかのようにふるまう。仏教でいえば「悟りの境地に達する」にあたるか。

有名な《田舎の善人》は風刺色が強い。アメリカ南部の田舎町に住むハルガという独身女性が、聖書を売るために家に来た青年とピクニックにでかける話。ハルガは自分が特別な知性の持ち主であり、青年はそこに惹かれたのだと思っていたが、青年にとってハルガがほかの人と違ったのは、彼女が義足をつけていたからだった。二人はピクニックにでかけた先で意見違いをし、残酷ながらどこか滑稽な結末を迎える。

《すべて上昇するものは一点に集まる》は、いかにもアメリカ南部らしい小説。主人公ジュリアンが母親を減量教室に連れていくべくバスに乗る話。ジュリアンの母親は没落した大地主の娘であり、財産をなくしているにもかかわらず、古き良き日々と同じように暮らそうとし、彼女の価値観では奴隷であるべき黒人と同じバスに乗るのをいやがり、ジュリアンに教育を受けさせるために自分を犠牲にしたと自己陶酔する。ジュリアンにはそれが腹立たしくてならない。彼はわざと母親を不快にさせるふるまいをして、これが教訓になればいいのにと願う。ジュリアンの努力空しく、母親は頑固に自分の考え方にしがみつきつづけたーーただし、ジュリアンには思いもよらなかった哀れな方法で。この短篇での母親は、宗教的な「真実」にふれることを拒んだ例……に見えるが、キリスト教は最初、聖書の記述にもとづいて黒人奴隷を正当化していたから、ある意味では古い聖書解釈を忠実に守り抜いたといえるかもしれない。

私がもっとも衝撃を受けたのは《パーカーの背中》。信心深い女性と結婚したならず者のO. E.パーカーが、妊娠中の妻をよろこばせようとキリスト像の刺青を入れる話。パーカーは彼の妻サラ・ルースと気があわないことばかりで、なぜ結婚したのかと聞きたくなるくらいだが、サラ・ルースがパーカーの母親とおなじく信心深いこと、パーカーの刺青に魅力を感じなかったことが、逆にパーカーを「いかれさせた」らしい。この短篇の結末はただただもの哀しかった。おそらくパーカーは、信心深いサラ・ルースをよろこばせることで、彼女を通してなにかもっと大きな救いを得たかったのだろうけれど。

いずれの短篇も、中心人物がそれまで信じていたものが、なんらかのことをきっかけに根底から塗り変えられる。きっかけになるのはたいていは暴力的な行為や理不尽な言動だ。キリスト教的価値観を前提にしていることが多いので、一度読んだだけではすぐにピンとこないこともあるが、読み返しているうちに「ここ」だと感じるようになってくる。

「人間の価値観に根本的な変化が起こる瞬間」をテーマにした小説はあまたあれど、短篇でここまで鮮やかに描写するフラナリー・オコナーは凄まじい力量の持ち主だ。ティータイムに一本読めてしまう短さというのも嬉しい。少しの空き時間に、手に取るにはぴったりの良書。

極限状況でも人間らしくあってほしいと願う〜ジョージ秋山『アシュラ』

 

アシュラ 大合本 全3巻収録

アシュラ 大合本 全3巻収録

 

最初の1ページで逃げ出したくなり、最後の1ページまで目を離すことができなかった。

 

見開きで、泣き叫ぶ子どもの尻に男がかじりつき、肉を噛みちぎって喰おうとする。男の目は、鬼のそれだ。

飢饉がはびこる中世の日本、時代背景ははっきりしていないけれど、日照り続きで作物が育たず、餓死者が道端に倒れ、飢えた人々が幽鬼のようにさまよい歩いていた。屍肉を喰らう烏と蛆虫ばかりが肥え太る荒れ果てた土地で、半狂乱の女が男を殺してその肉を喰らう。女は孕んでいる。やがて産み落とされた赤子だったが、女は栄養不足から満足に乳が出ず、飢えに苛まれて赤子を焼いて喰おうとする。全身火傷を負い、川に流されながらも、赤子は生きていた……。

極限の飢餓にさらされた人間が、文字通り獣の所業に身を落とす。

「生まれてこない方がよかったのに」

生きることこそが地獄。そんな世の中をジョージ秋山は地獄絵図さながらに描き出した。

この作品のテーマは「極限状況でそれでも人間らしく生きることができるか」。だれもが心の中に獣をもち、その獣の本性をさらけ出すことがある。それでも人間である以上、獣の道を歩けば歩くほど苦しくなる。人間の尊厳を保ち、獣の道から己を遠ざけるのは、同族(人間)を食べないこと、ひとを憎まず己の中の獣を憎むこと、ひとを許せること。

この漫画の主人公、アシュラは怒りに満ちた獣のようになっている。父親に捨てられ、母親に火に投げこまれて喰われかけ、人としての言葉を教えてくれる者もなく、荒野で生きていくために人間を含めてあらゆるものを喰った。言葉を教えてくれたのは母親ではなく、怪我をしたアシュラをかくまってくれた若狭であったが、彼女もまたアシュラの求める「やさしい母」とはなりえない。こんな苦しみに遭ってなぜ人間らしくいなければならないのか、おれはなにをしてもいいんだ、おれは悪くない、生まれてこないほうがよかったと、言葉を獲得したアシュラは叫ぶ。

銭ゲバ』の蒲郡風太郎が自らを悪党だと決めたように、アシュラは自らを心のない獣だと決めた。だがアシュラが出会った法師はそれを否定する。

いいや人間じゃ。もっとも人間らしい人間じゃ。だから苦しいんじゃろうが。父の愛、やさしい母がほしいんじゃろうが。

だが人間の本性は獣じゃ。だれでも獣になってしまうときがある。獣になったひとをせめてもしかたがあるまい。人間のあわれと思うことじゃ。おまえの母の目を見たか。あわれなかなしい目じゃ。アシュラ! 戦うんじゃ! 獣と! おまえの中にある獣と戦うんじゃ。それが人間の道じゃ。ひとをにくむな! おのれ自身をにくめ、おのれの獣をにくめ!

だが法師の言葉は、怒りに満ちたアシュラをほんとうに変えるには至らない。飢饉に満ちた世の中、都でさえはなやかな暮らしをしているのは公家(貴族)だけで、ちまたには餓死者があふれ、都を逃れた人々が物乞いとなってさまよい歩き行き倒れる。そんな世の中でアシュラは獣のように生き続け、「生まれてこないほうがよかったのに」と呟き続ける。

極限状況でも人間は人間であることができるのか? それとも獣に身を堕とすのか? 一度獣に身を落としたひとが、人間に戻ることはできるのか?

作者が目指したテーマはあまりにも厳しい。

主人公アシュラは怒りに満ちた獣のように生きながら、言葉を獲得し、人肉を喰らうことをとまどうようになり、ラストシーンでは死んだ母親にすがりついて号泣し、母親の手を自分の顔にあてる。生きている母親に頰をなでられ、涙を拭われたかったのだろう。この瞬間こそアシュラはもっとも人間らしくなっていたのだと思う。アシュラの変化に、作者が人間たることにこめた希望の一筋が見える。

生きることこそが地獄。そういう状況でも「おれはなにをしてもいいんだ」と世を憎みひとを憎まずにいられるか。

そう突きつけられて本心から自信をもってうなずける人はそうはいない。正視に堪えない現実を突きつけ、おのれの中に獣がいると突きつけ、それでも人間らしく生きてほしいと願う、『アシュラ』はそんな作者の思いをこめられた作品だ。

まことの愛を欲しながら金しかさしだせない銭ゲバ〜ジョージ秋山『銭ゲバ』

 

銭ゲバ 大合本 全4巻収録

銭ゲバ 大合本 全4巻収録

 

ジョージ秋山の問題作『銭ゲバ』を一気読み。

 

銭ゲバ』は、土砂降りの中、死体の手が土から突き出ているところから、主人公である蒲郡風太郎が這うようにして逃げる場面から始まる。

舞台は1960〜1970年代の日本。風太郎の父親はバーの女性と駆け落ちし、母親は病で寝たきり。5円の金もない極貧暮らしで、母親が発作を起こし、風太郎がどんなに「おねがいだ、かあちゃんが死ぬズラ」と頼みこんでも、金がないからと医者はもう診てくれなかった。

風太郎が「となりのにいちゃん」と呼ぶ男性がなにかと気にかけてくれていたが、やがて母親は死ぬ。風太郎は「かあちゃんは銭があったら死ななかったズラ」「銭がほしいズラ」と思いつめる。車上荒らしをして現金を盗もうとする風太郎を、隣のにいちゃんは「ひとのものをとってはいけない」と止めようとするが、風太郎は勢い余ってにいちゃんをスコップで殴り殺す。土砂降りの中、風太郎はその死体を土に埋める。「銭のためにやったズラ」と呟きながら……。

「銭のためならなんでもするズラ」

風太郎の言葉が、この物語の中心となる。

にいちゃんの死体を埋める悪夢、そっぽをむく医者の記憶に苦しめられながら、金を見つめて風太郎は心を落ち着かせる。

ある日、風太郎はかねてより目をつけていた社長の車にわざとはねられ、社長の屋敷にもぐりこんだ。社長の椅子と三百億の資産を自分のものにする。そう決めた風太郎はあらゆる手を使って社長にとり入り、社長令嬢の三枝子に惹かれながら、足の不自由な三枝子の妹・正美に愛しているとささやき、「ひとり殺すもふたり殺すも同じズラ」と口にしながら、ついには望みをかなえて銭を手に入れる。

 

風太郎はとても独特な風貌をしている。生まれつき左目がつぶれてまなじりが垂れ下がっている。右から見た風太郎の顔は銭のためならなんでもする悪党面だが、左から見た顔は、悲しんでいるようにも泣き笑いしているようにも見える。

作中、意図的に右横顔と左横顔が対比されていることがある。悪党として生きてゆくしかないと思い定めた風太郎が、それでも捨てがたい人間らしい表情。悪党であると決めながらも、きれいだと心動かされた女性をその手にかけながらも、銭のためではないまことの愛を欲しがらずにはいられない、そんな風太郎自身を哀れんで、風太郎の左顔は、悲しむ表情をみせるようにできているのかもしれない。

作者はそのことを、作中人物の口を借りて語る。

この社会がほんとに清く美しかったら……彼、銭ゲバは生まれなかっただろう。ただの蒲郡風太郎だけだ。社会のせいにするわけではないが……現実にこの社会が彼を生みだしたんだからねえ。

彼の中にある狂暴さは生まれつきのものとしてもだ……もうひとつ、もっとも人間的な、人間としての彼がいるのだ。彼の悪、それは彼が人間的すぎるからだともいえる。

 

風太郎はたしかに不幸ではあったが、彼は自身の目的のためにさまざまな人間を不幸に陥れてもいる。作中では風太郎の会社の主力工場から出る排水で近隣住民が水俣病によく似た病気にかかり、ある小説家が風太郎をペンの力で告発せんと立ちはだかる。彼は水俣病がどれほどの苦しみを患者にもたらすのか知っても顔色一つ変えない風太郎に業を煮やして、「あんたはこれよりもっと地獄をしってるとでもいうのか!」と声を荒げる。風太郎はそれを肯定も否定もせず、小説家を追い払う。

風太郎はとても理解しがたい行動をしばしばとる。金を手に入れるためのあれこれはまだしも、もうひとつ、銭目当てではない、きれいな女性からのまことの愛を手に入れようとする風太郎の悪戦苦闘は、むしろ彼を愛から遠ざけているよう。風太郎が金目当てで結婚した正美は、足が不自由で顔にあざがある自分に(たとえ嘘でも)愛していると言ってくれ風太郎をたしかに愛していたが、風太郎は彼女にはふりむかなかった。彼女がみにくかったからだ。実の父親からうまれそこない、ばけもの、とののしられた風太郎は、みにくいものを見ると、惨めな自分自身を思い起こして耐えられなくなる。風太郎はあくまでもきれいな女性にこだわったが、彼が銭で買えるのは夜の蝶たちだけ、彼は愛した三枝子を力づくで手に入れるが、逆に心底憎まれるだけだった。まことの愛を欲しながらも、事実、風太郎は銭を出すことしかしなかったし、できなかった。作中でも風太郎は「求めるだけで与えることをしない」と鋭く突かれている。

銭は命なきもの、手段にこだわらなければ手に入る。だが風太郎がほんとうに欲しかったのはまことの愛、銭がなくてもともにいてくれる女性、その女性と子どもとで送る平凡で幸福な家庭生活だった。自分がされたことを他人にすることで歪んだ復讐心を満足させることもある風太郎のこと、その家庭が長続きしたかはわからないが。ついにそれが手に入らないと悟ったところで、風太郎の物語は終わる。

 

風太郎を生みだしたのは社会のせいか? 貧困のせいか? 風太郎と母親を捨てて出て行った父親のせいか? それをさぐるのは無意味で、私は、風太郎は「銭のためにやさしくしてくれたとなりのにいちゃんを殺す」ことを選んだその瞬間に、その後の人生が方向づけられたのだと思う。風太郎が「銭のためならなんでもする、それを邪魔する奴はだれであろうと殺す」よう行動するとき、彼の左顔はとても哀しい表情を浮かべているけれど、彼はもうそのようにしか生きられなかった。銭と、まことの愛は、両方手に入れることができるのか? 少なくとも風太郎にはできなかった。そして彼は銭を選んだ。

悪党にも五分の理というのか、風太郎はたしかに人間的なものをもっていたけれど、それを捨てようとしたのは彼自身であり、最後まで手放せなかったのもやはり彼自身なのだから、風太郎が風太郎となったのは、彼自身の選択なのだと、私は思う。

【おすすめ】華やかに、挽歌として〜山本淳子『枕草子のたくらみ』

 

私がこれで読んできた中でもっともわかりやすく、もっとも人間味にあふれ、もっとも平安時代の人々の考えに寄り添った解説書。『枕草子』を見る目がより深くなる一冊。

 

枕草子はご存知清少納言がおよそ1000年前の平安時代に書き留めた随筆集で、高校の国語の教科書には必ず登場する。「春はあけぼの」という有名な一節から始まり、四季折々のうつくしさへの感心、女房(侍女)として仕えた才気煥発な中宮天皇のきさき)藤原定子への惜しみない賛美、当時の年中行事のさま、令和の世でもまったく古めかしくないちょっとした思いつき(「憎らしいもの。急用があるときに来て長話をする客人」)などをいきいきと書く。

清少納言は女子高生っぽい」「現代に生まれ変わったらブログとかツイッターめちゃくちゃ使いこなせそう」などといわれることもあるとか。同世代のもうひとりの才女・紫式部が書き残した「清少納言という人は得意顔ばかり、利口ぶって、そのくせたいして知識が深いわけでもない」という毒舌評価はあまりにも有名。


高校の教科書からもうすこし深く学ぶと、『枕草子』が書かれたとき、実は中宮定子はかなり悲惨な身の上であったことを知る。後盾だった父親・藤原道隆は亡くなり、兄である藤原伊周と弟の藤原隆家は大罪人として九州に左遷され、定子自身は絶望のうちに出家して尼となっていた。そんな定子をなぐさめるために、辛い現実を遠ざけ、華やかなりし日々のみを意図的に選んで書き留めたのが『枕草子』だったということを学ぶ。

だが本書『枕草子のたくらみ』はもっと深くまで立ち入る。政治的事情、漢文や和歌の素養、社会状況などに。これらのことをふまえて平安時代の人々は『枕草子』を読んだのだから、本書でもそれらを紹介して、現代の読者を平安時代の『枕草子』の読み手に近づけようとする。本書を読み進めると、ドヤ顔で利口ぶったエッセイなんてとんでもない、『枕草子』は思慮分別のある女性が、注意深く組み立てた作品集であったことが見えてくる。

枕草子』は清少納言が定子に献上した作品集だ。不運にみまわれた定子をなぐさめるだけではなくーーこの指摘は目からうろこだったがーー定子を目の敵にしていた藤原道長が、定子を賛美する『枕草子』の抹殺にかからないよう、内容には細心の注意を払わなければならなかった。道長が定子らにした数々の嫌がらせを批判しているととらえられないように、非常に敏感な政治的存在であった定子の子どもたち、とくに敦康親王のことにふれないように、清少納言は用心深く筆を進めなければならなかった。そのため『枕草子』は読まれることを許され、今日まで伝わる。清少納言が少しでも道長の怒りに触れるようなことを書いていれば、言論の自由などない社会のこと、『枕草子』は歴史の闇に葬り去られていただろう。

 

道長への忖度をきかせながら書くはめになったが、もともと『枕草子』は中宮定子がまだ華やかだった時代に構想され始めた。当時高価だった和紙の冊子を兄・伊周より与えられた中宮定子は、初め、格調高い和紙にふさわしく『古今和歌集』でも書き写させようとしたが、清少納言とのやりとりの中で「では清少納言に取らせます。なにを書くかはあなたが決めてください」と、冊子を清少納言に与えたのだ。

清少納言ははりきったことだろう。敬愛する中宮定子のためにも、贅沢品であった和紙を無駄にしないためにも、下手なことは書けないと気張ったことだろう。だからこそ『枕草子』は「春はあけぼの」から始まらなければならなかった。本書ではそれを『古今和歌集』の構成とともに説明する。

実は『古今和歌集』に、「春」と「朝」の取り合わせが何度も記されている文章がある。和歌の力と歴史を記し和歌文化を高らかに謳った「仮名序」、文字通り仮名で書いた序文である。……(枕草子の序文は)むしろ『古今和歌集』「仮名序」を知っていてこそ、それを革新させた機知である。「枕草子」の冒頭、まさしく『古今和歌集』にとっての「仮名序」の位置にこれを置くことで、『古今和歌集』の向こうを張った企画『枕草子』の心意気を、清少納言は示したのだ。

春、夏、秋、冬と四季が続くのも、『古今和歌集』から続く勅撰和歌集の伝統であり、四季穏やかな世の平和、平和な御代を体現する中宮定子を象徴しているという。さらに中国のしきたりに従って「天象」である陽、月、雲、雨、雪、霜をとりあげているが、これは清少納言と定子の双方に漢文の素養があってこそで、当時漢文は男の学問であり最高の教養とされていたから、暗に定子の才覚をたたえている。さらにさらに天皇の特別さを演出する「紫だちたる雲=瑞雲」まで入れている。これらはみな、一条天皇に愛された中宮定子のことを連想させる、清少納言の演出だ。

このように『枕草子』初段は、短い一段の中に幾度も重ねて定子その人を盛り込んでいる。斬新な雅びを切り拓いた、後宮文化の指導者として。その文化の賜物である作品を献上される、権威ある存在として。和漢の素養を持つ才女として。そして何よりも、世の平和を象徴する瑞雲、中宮として。

だが、実際に『枕草子』が執筆されたのはずっと後、定子の身に不運がふりかかった後ではないかと著者は解説する。道隆が亡くなり、伊周と隆家が暴力沙汰を起こして罪を問われながらも九州送りを嫌がって逃げまわり、あろうことか、妊娠中の定子が滞在していた屋敷に伊周が身を隠したものだから、検非違使(警察)は定子を屋敷の外にとまらせた牛車に移させてから屋敷を大捜索、あまりの屈辱に定子は髪を切り出家してしまった。

この一連の騒ぎで、暴力沙汰を道長に知らせた藤原斉信はじめ、道長方の人々ともかねてより親しく付き合っていた清少納言はおそらく同僚たちに「道長に通じている、定子様に忠実ではない」と陰口をたたかれたのだろう。あれほど慕っていた定子のそばに出仕することをやめ、自宅に引きこもってしまった。

枕草子』が執筆されたのは、この引きこもり期間だったのではないかというのが著者の解説だ。だとすれば『枕草子』が定子賛美をメインテーマとするのは必然になる。絶望の中で出家し、第一子である脩子内親王を出産したばかりの定子に、清少納言が見聞きしたかつての華やかな日々を思い起こさせて、すこしでも心をなぐさめてもらうために。そして、清少納言の同僚たちに身の潔白を主張するために。

このときに『枕草子』という作品は一度成立したはずだが、『枕草子』はその後も書きつづけられた。出家したために本来中宮たる資格を失ったはずの定子が、一条天皇に強く求められて御所に戻った。道長の娘である藤原彰子の入内がまもないとき、定子はふたたび妊娠した。産まれたのが待望の男児敦康親王であった。『枕草子』にはこのころの中宮定子も登場する。注意深く、政治的話題も、不都合な事実も、定子の立場を連想させるようなあらゆるものを避け、愛情深く才覚豊かな定子の姿が、『枕草子』に留めおかれた。

こうして読むと、著者が最後に指摘した「『枕草子』は挽歌だったのだ」ということが胸に迫る。挽歌というよりも弔辞かもしれない。清少納言は1000年後にも読み継がれることになる弔辞を、不遇と無念の中で死んだ定子に捧げるため、定子の鎮魂のために書いた。

そう思うと、『枕草子』を読むときの目が大きく変わる。「をかし」(素晴らしい、興味深い)のなかに隠された複雑な気持ちを感じとることができ、『枕草子』という作品を、さらに深く理解することができる。

 

テーマのある旅に出よう〜成瀬勇輝『自分の仕事をつくる旅』

たまには旅行記を。

この本はただの旅行記ではなく、「自分」という個人商店で売ることができるものを仕入れるという明確な目的を持った「テーマのある旅」の記録。売るものは形ある商品ではなく、誰かが「お金や時間を支払ってでも知りたい、読みたい」と思えるような言葉、情報、経験談。それを仕入れるために現地に行くのだというはっきりした目的と情熱を持ち、仕入れたあとは、それを広めて新しいネットワークのきっかけとする。それが本書ですすめる「テーマのある旅」だ。

この手のもので最も有名なもののひとつが、マルコ・ポーロ『東方見聞録』ではなかろうか。人々が『東方見聞録』を読んだのはひまつぶしのためではない。はるか東方の地に進出できる可能性があるかどうか、考えるための貴重な情報として読んだことだろう。

著者は「テーマのある旅」のメリットを6つあげた。

  1. キャリアにつなげることができる
  2. ひとつのプロジェクトマネジメントを経験できる
  3. マネタイズができる
  4. 会いたい人に会うことができる
  5. 通常は行けない場所に行くことができる
  6. 発信力がつく

 

マネタイズは、クラウドファンディングやスポンサー探しなどの旅行資金集めのこと。旅行で得た情報や経験談をお金に変えるやり方については、ウェブマガジンや雑誌でのコラム執筆、SNSやブログ発信、報告会開催、企画書を企業に売りこむことくらいで、それほど深入りしていない。どちらかといえばやりがいや趣味重視なのが日本人らしい。

本書の著者は「世界のノマド起業家たちに会いに行く」ことをテーマに旅を組んだ。ノマドとは企業や国家の枠組みを越えて、世界を舞台に個人で活躍するフリーランスのこと。なかなかいいテーマだと思う。起業家のいるところにはビジネスの可能性があり、彼らの話を聞くことでその地域のビジネス環境をさぐることができる。また、小さな起業であれば地域密着型である可能性が大きく、地元の生活状況についても知ることができる。本書で紹介されている十数人のノマド起業家たちの物語は、それぞれの性格や特色がでていて魅力的だ。

(どうでもいいことながら気になったのは、「オリンピックには204ヵ国が参加している」という表現があったこと。正確には204ヵ国・地域。地域には台湾・香港などが入る。これわりと敏感なところでは…?世界を旅すると言いながらあまりチェックしていない…?と、気になった)

移民に呑みこまれた欧州、呑みこまれるかもしれない日本〜ダグラス・マレー『西洋の自死』

欧州は自死を遂げつつある。少なくとも欧州の指導者たちは、自死することを決意した。

私が「欧州は自死の過程にある」と言うのは…「私たちの知る欧州という文明が自死の過程にある」という意味である。英国であれ西欧の他のどの国であれ、その運命から逃れることは不可能だ。

この一文から始まる序章を読み始めたときには、この本が死に瀕しているとする「欧州文化」なるものがなんのことなのか、私には分からなかった。欧州と一括りにされてもピンとこなかったのだ。西欧と東欧は全然違うし、西欧の中でもどういう人々を「同じ文化」に属するとみなすのかよく分からない(ドイツがいい例)。そもそも文化は他国との交流によって変わっていくもの。いまある「欧州文化」は100年後には見る影もなく変容しているかもしれないが、全部消え失せることはありえない。エリートの間では古代ギリシャ・ローマの書物がこれからも読み継がれてゆくだろうし、パルテノン神殿も、ローマの遺跡も、美しい歴史的建造物の数々も(ノートルダム大聖堂のように火災などに遭わなければ)次世代への遺産として受け継がれてゆくだろう。それでは「欧州文化」としては足りないのだろうか? 著者は欧州大陸の哲学や歴史、法の支配、基本的人権、民主制度といったものに誇りを抱いており、それが失われようとしていると嘆いているが、実際にはどんなものが失われようとしているのだろう?

過去においては、欧州のアイデンティティは極めて限定された、哲学的にも歴史的にも厚みを持った基盤(法の支配や、この大陸の歴史と哲学に由来する倫理)に帰することができた。ところが今日の欧州の倫理と信念(事実上の欧州のアイデンティティイデオロギー)においては、「敬意」と「寛容」と(何よりも自己否定的なことに)「多様性」が重視されている。そのような浅薄な自己定義でもあと数年はやっていけるかもしれないが、社会が長く命脈を保つために不可欠な深い忠誠心を呼び起こすことはとても望めないだろう。

 

だが、本書を読み進めるにつれて、問題はそこにはないことに気付き始めた。

ジャーナリストとしての著者が問題視しているのは、移民そのものよりも移民がもたらすマイナス影響を討論できない「空気」であり、どういう文化が失われるかよりも失われるものを議論しようとしない「無為」であり、移民がもたらす多様性よりもその多様性を賛美せよと強いる「同調圧力」だ。

欧州は反差別政策を次々打ち出している。ひとを人種、国籍、宗教、性別、性的指向、政治的信念などで差別したと訴えられれば、ときには数百万ユーロにもなる慰謝料を支払うはめになる。たとえばロンドンではすでに白人住民が少数派になり、伝統的なパブよりもカレー屋やらケバブ屋やらが多くなっているにもかかわらず、そのことを公の場で口にするとたちまち「人種差別」「ファシズム支持」「心が狭い」などとレッテルを貼られて社会的立場が危うくなりかねないから、誰もが沈黙している。

そんな重苦しい「空気」がまかりとおっているのなら、多様性を賛美しすぎて逆にそれ以外の言論を封殺してしまうのなら、それは方向性を変えた言論統制以外のなにものでもない。人々は気づいている。「異国から来た異質な人々」がいつのまにかご近所や職場で多数派を占めるようになったことに。だが、それを公に議論することは「できない」。

ロンドン中心部のスタジオで形成された“進歩的な”コンセンサスからは、一般家庭に身を置く大多数の人々の目に映るものがほぼ完全に欠け落ちていた。それを公然と口にしたがる人々はほとんどいないのだ。移民のプラス面について話すのは容易になった。それらに同意することは、偏見のなさや寛大さ、心の広さといった美徳を表現することだ。しかし移民のマイナス面にうなずいたり、まして公言したりすれば、心が狭い、不寛容、外国人嫌い、人種差別主義を隠そうともしないなどといった非難を招くことになる。そのため国民の多数派の意見が、ほとんど表出できなくなった。

著者がこの本を書いたのはこのためだ。移民がもたらす影響ーープラスだけではなくマイナスもーーを白日のもとにさらし、そのような議論を抑圧する「不寛容さ」を告発し、名誉殺人や不信仰者迫害や女性蔑視をごくあたりまえだと考えるような人々が隣人になることもあるのだということを暴き、移民が押しよせることによって失われつつあるものをきちんと考えようと呼びかけるために。

読み進めるにつれて息苦しくなった。民主主義、すなわち多数決を政治体制の根幹とする西欧の国々で、アフリカからの移民たちが多数派になろうとしている。彼らがその気になれば「正当な手段で」彼らが住む国々の政治に介入できる。私はパリ郊外でほとんど黒人ばかりが歩いている街区を見た。ミラノの観光地でたむろする黒人物売りたちを見た。ロンドンの公立病院は医師も薬剤師も看護師も移民ばかりでなまりが強すぎて英語のコミュニケーションすらむずかしくなっているという声を聞いた。移民たちが彼らだけのコミュニティをつくりあげて頑なに彼らの伝統文化をまもり、移住先に「同化」しようとしないという嘆きを聞いた。

それでもなお移民を受け入れねばならないのか? 労働力としてというなら、失業率が高止まりしている南欧の若者を雇えばよいではないか? 多様性を欲するというのなら、いったいどこまで他国文化を受け入れ、その分自国文化が消滅するのを受容すればよいのか? ほかの国々を植民地化した負い目、ナチスユダヤ人絶滅政策をとった負い目があるというのなら、代償になにもかもさしだすことを強いられなければならないのか? なにより、なぜこれらの重要な問題が議論さえされることなく無視され続けるのか?

著者は次から次へと鋭い質問を浴びせかける。なぜ最初から移民を無制限に受け入れることのみをよしとするような結論にもっていこうとする、なぜ不都合な部分に目を向けない、と。ことはファシズムとか人種差別とかそういうごたいそうな問題ではない。あるコミュニティで現地出身者よりも移民の数が多くなりつつあり、彼らの間には無視しえない価値観の差がある、これに尽きる。

議論しなければならない、移民について。受け入れるという結論ありきではなく、移民を受け入れることの現実的なプラス面もマイナス面も。

本書はこのことを呼びかけるために書かれた。私には内容もさることながら、【言論の自由】を根幹のひとつとするはずの社会で、このような本が出版されねばならなかったことがなによりショックだった。著者のいう「欧州社会」には、すくなくとも移民問題については強すぎるほどの同調圧力がある。それを知ることができた意味で、読んで良かった。