コーヒータイム

日々読んだ本を紹介しています。英語や中国語書も時々。面白そうだと感じる本があれば、ぜひあなたも読んでみてください!

[昔読んだ本たち]ノンフィクション編

エボラ出血熱の恐怖を描いた傑作ノンフィクション『ホット・ゾーン』を読み返して、昔読んだノンフィクションについていろいろ思い出した。『ホット・ゾーン』を読んだときは、エボラ出血熱に感染した人間がどのように破壊されるのか、事細かく描写しているのがどんな話より怖かった。身体中の内臓が激痛を伴いながら溶け出し、黒ずんだ血となってあらゆる穴から流れ出す感じだろうか。こんな死に方だけはしたくない。

シーツを真っ二つに引き裂いたような音がする。それは肛門の括約筋がひらいて、大量の血を排出した音だ。その血には腸の内層も混じっている。彼は自分の内臓まで壊死させたのだ。

ホット・ゾーン

ホット・ゾーン

 

 

私が初めてちゃんと読んだノンフィクションは、急性骨髄性白血病に侵された少女について書いた『お母さん、笑顔をありがとう!』だったと思う。この本について書いた読書感想文が賞をとったのがきっかけだった。真木というこの少女は白血病で父親を亡くしたあと、自分も白血病だと診断され、容態が悪化して骨髄移植を受けることもできなくなったころにようやくドナーが見つかるという不運さだったが、彼女がいつも明るくふるまい、希望を失わずにいる姿が強調されていた。この本はノンフィクションシリーズの一冊であり、同じシリーズで腎臓病の少女を扱った『母さんのじん臓をあげる!』と、目が不自由な少女と盲導犬の交流を書いた『盲導犬カンナ、わたしと走って!』も読んだ。

 

アメリ同時多発テロが発生したあと、雨後の筍のようにさまざまな本が出版されたが、私が読んだのは世界貿易センターのツインタワーに突入し、北タワーの崩壊に巻きこまれながらも生還した消防士が書いた『9月11日の英雄たち』だった。大きな火災、小さな火災、いつもの火災と戦う平凡な(?)一日を送るはずだった消防大隊司令官リチャード・ピッチョートは、狂ったように黒煙を噴きあげる世界貿易センターをテレビで見たとたん、素晴らしい一日が木っ端微塵にされたことを知った。

ノンフィクションの冒頭は、北タワーの窓のないホールで、空恐ろしい轟音がなすすべもなくリチャードたち消防士の耳を貫いてゆく場面から始まる。

私が恐怖に凍りついたのはあのすさまじい音のせいだった。そのあまりの力。それが私の体のど真ん中を駆け抜けたときの感覚。あんな音をたてるのがいったい全体何なのか、私には想像もつかなかった。

9月11日の英雄たち―世界貿易センタービルに最後まで残った消防士の手記

9月11日の英雄たち―世界貿易センタービルに最後まで残った消防士の手記

 

 

これもアメリカだが、女子体操選手とフィギュアスケート選手の真実を暴いたノンフィクション『魂まで奪われた少女たち』は、読んでいて気分が悪くなった。痩せなければ勝てないという強迫観念にがんじがらめになった少女たちは、絶食し、あるいは食べてすぐ吐くことで細い身体を維持し、手首や足首や腰などあらゆるところに怪我を抱え、激痛をごまかしながら競技に参加する。オリンピックのメダルを獲れればすべてが報われるが、そうでない少女たちはボロボロになった心身を抱えながら去り、長く拒食症に苦しむ一生を送る。果たしてこの状態は健全なのか?  作者は強い疑問を投げかける。

魂まで奪われた少女たち―女子体操とフィギュアスケートの真実

魂まで奪われた少女たち―女子体操とフィギュアスケートの真実

 

 

人間不信になりかねないノンフィクション。英国の精神科医が、警察に協力して、犯行現場から犯人の心理や動機をさぐり、犯人逮捕に役立つ助言をする内容。連続暴行殺人、幼児惨殺、母子殺害など、事件紹介にはぞっとするものがある。

このような活動は今ではプロファイリングと呼ばれているが、当時はまだそのようなことは一般的ではなく、警察も半信半疑で話につきあっている状態だったが、しだいに精神科医と警部に信頼関係ができあがっていく。

ザ・ジグソーマン 英国犯罪心理分析学者の回想

ザ・ジグソーマン 英国犯罪心理分析学者の回想

 

 

教養ある英語を書くための必読書『Elements of Style 2017』

 

The Elements of Style

The Elements of Style

 
Elements of Style 2017 (English Edition)

Elements of Style 2017 (English Edition)

 

Twitterでたまたま “The Elements of Stile” という英語文章術のバイブルとも呼ぶべき本があることを知った。100年以上前に出版されたにもかかわらず、今なお英語圏で広く愛用されていると聞き、これは是非読んでみなければと思った。

さすがに古すぎて一部内容が現状にそぐわなくなってきている(らしい)ので、オリジナルに手を加えた改訂版も出ている。今回読んだのは改訂版の方。なお原書はインターネットで無料公開されている。

The Elements of Style by William Strunk - Free Ebook

 

この本を読みはじめたばかりのころは退屈するかもしれない。 “A, B and C” と “A, B, and C” のどちらが好ましいかというのは、特に非ネイティブにはどうでもいい違いにみえる。

だが、わたしはアメリカの出版物で、こんなささいな違いを大真面目に議論するシーンにしばしばぶつかる。ジェフリー・ディーヴァー作品では警察関係者が「セミコロン “;” を完璧に使える」という言い方で連続殺人犯が高等教育を受けているとほのめかしている。投資銀行の内幕を暴いたノンフィクションでは、カンマ “,” の位置をめぐって弁護士同士が胸ぐらをつかみあう寸前の大喧嘩になっている。

こういう一見どうでもいい違いは、いわゆるハイスペックエリートの世界ではとたんに重要になる。”,” や “;” を使いこなせるかどうかが、その人間の教育レベル、一緒に仕事をしても足を引っ張らないかどうか、などの判断基準に(恐ろしいことに)なってしまう。だからこそこのような本は長く読み継がれてきたのだろう。

 

 

 

【おすすめ】なぜ人は失敗から学べないのか?『Black Box Thinking』

 

Black Box Thinking: Marginal Gains and the Secrets of High Performance

Black Box Thinking: Marginal Gains and the Secrets of High Performance

 

本書は失敗学の名著であり、邦訳『失敗の科学』として広く読まれている。

ジャンルとしては、私が以前読んだ『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』と同じだけれど、注目しているところは違う。複雑難解なシステムではなく、人間心理、文化的習慣などから、失敗の原因を探ろうとしている。

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか (草思社文庫)

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか (草思社文庫)

 

 

著者は「成功は、失敗への対応のしかたと分かちがたく結びついている」と言い切っている。

個人にしろ組織にしろ、かつてやらかした失敗とその結果を語ろうとしなくなった時、同じ失敗を拡大再生産する可能性がぐっと上がる。逆に、なぜ失敗したのか、痛みをともなう分析をとことん行い、得られた知恵をもとにこれまでの行動を変えることができれば、めざましい成長を遂げることができる。

実際にそうするのは難しい。なぜなら人間にとって、自分の失敗を反省するより、他人を責めることの方がはるかに簡単だから。

だがそうすれば、私たちが失敗から学ぶ貴重な機会をみすみす逃してしまう。たとえ本人が失敗を繰り返さなくても、誰かが必ず同じようなことをやらかしてしまう。

As Eleanor Roosevelt put it: ‘Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself.’

ーーエレノア・ルーズベルトはこう言う: 「他人の失敗から学びなさい。あらゆる失敗を自分でやってみるほど、長生きすることはできないのだから」

 

非常事態になると極度に集中する認知ロック[認知の固着]と呼ばれる人間心理が、しばしば登場する。今解決しようとしている問題に集中するあまり、ほかのことに気が回らなくなることだ。

パイロットが着地装置の不具合の原因をさがすことに夢中になりすぎて、燃料不足による墜落の危機がすぐそこまで迫っていることに考えが及ばなくなった事例があった。問題解決に使える時間にはかぎりがあるのだが、それを忘れてしまい、とにかく目の前の問題をどうにかしなければと躍起になってしまうのだ。

 

もう一つ、よく登場するのが[認知的不協和]と呼ばれる人間心理だ。

イソップ寓話「すっぱいぶどう」が一番有名だろう。キツネは「おいしそうなぶどうがある」と思ったから一生懸命取ろうとしたが、「自分はぶどうを手に入れられない」と気づいた。この時キツネの心は、相反することを突きつけられたことで「認知的不協和」が生じ、ひどい不快感を覚える。

それを解消するために、キツネは「おいしそうなぶどうだから手に入れよう」と行動したことをなかったことにして、「あのぶどうはすっぱいから手に入れなくてもよい」と変えた。本当にぶどうがすっぱいかどうかはキツネには重要ではない。認知的不協和を解消し、不安感からのがれることが大切だからだ。

これは失敗学でもよくとりあげられる。人間がさまざまな言い訳をして自分の行動を正当化しようとするのは、認知的不協和がもたらす不快感を耐えがたく感じるためである。

When we are confronted with evidence that challenges our deeply held beliefs we are more likely to reframe the evidence than we are to alter our beliefs. We simply invent new reasons, new justifications, new explanations. Sometimes we ignore the evidence altogether.

ーー私たちがこれまで深く信じてきたことに反するような証拠を突きつけられたとき、私たちは自分が信じていることを変えるよりも、その証拠を違う視点から解釈しようとするだろう。私たちは単純に新たな理由、正当化、説明を編み出す。時にはその証拠を完全に無視する。(意訳)

 

こういうことを知るのは、あまり気持ちいいものではない。なぜならこの本を読んでいる私もまた、こういう心理活動をしているから。

自己正当化、認知的不協和、認知のゆがみ。他人が必死に言いわけしているのを見て、醜い、と感じたことはきっと誰にでもあるだろうけれど、自分がまったく同じことをしている、ということは都合よく忘れてしまいたがる。

でも、やっているのだ、誰もかも。

If it is intolerable to change your mind, if no conceivable evidence will permit you to admit your mistake, if the threat to ego is so severe that the reframing process has taken on a life of its own, you are effectively in a closed loop. 

ーーもしあなたの意識を変えることが耐えがたいなら、考えられるあらゆる証拠をもってもあなたが間違いを認められないのなら、エゴへの脅威があまりにも強いゆえに、証拠を違う視点から見て(自分に都合のよい方向に)解釈するといった心理過程が自然に起こるようになったのなら...…あなたはクローズド・ループにはまりこんでいる。(意訳)

 

後半になるとますます不愉快になる。

大ポカをやらかした会社内で「犯人探し」が行われ、犯人だと決めつけられた人々がクビにされる。上層部は「これで膿は出し切った」「我々が間違いに厳しくあたることを示せた。残された従業員たちも胸に刻み、今後は気をつけてくれるだろう」と胸を張る。しかし残された従業員は上層部の理想通りには動かない。ああなりたくないと考えて間違いを隠すようになり、間違いを恐れて無難なことしかやろうとしなくなる。隠蔽体質と前例主義がはびこる会社はじわじわと沈んでゆく…。

メディアで嫌になるほど見てきた顛末だ。

人を責めることは役にはたたない。間違いなく本人に問題があることもあるが(たとえば酔っ払っていたとかサボっていたとか)、それがはっきりするまでは本人を責めるべきではない。真の原因はたとえば仕事環境にあったり、システムにあったりする。これを改善しなければ、間違いはいつか、繰り返される…。

これだけのメッセージが、なんと難しいか。

責めてしまう。あわや大事故を起こしそうになったパイロットを、乳児虐待を見逃したソーシャルワーカーを、医薬品を取り違えた看護師を。時にはその家族までを。それを社会正義だと信じこむ人々がいる。

こうした姿勢がソーシャルワーカーなどのなり手を減らし、隠蔽体質を招き、彼ら自身に不利な状況をつくるという言葉は、社会正義に酔った人々の耳には届かない。ネットでの「炎上」がどれほど多いだろう。

果たしてこの本にあるように、間違いから学ぶことができる組織は根付くのか?  絶望的な気分になる。

 

 

【おすすめ】秘密を守るために読む本『暗号技術のすべて』

ミステリー好き、小説好きであれば、本書の古典暗号の部分を読みながら「これ見たことある!」と嬉しくなると思う。文字を符号で置き換える手法はそのまんまシャーロック・ホームズの『踊る人形』だし、文字を別の文字に置き換えるのは『ダ・ビンチ・コード』に登場するアトバシュ暗号がいい例だし、聖書の章番号を利用して秘密を伝えるのも海外小説によく登場する。現代的なところでは、人造DNAの並びに暗号を紛れこませるなどということもできてしまうだろう。

それほど大げさなことでなくても、小学生や中学生のとき、仲間だけがわかる「秘密の合言葉」をつくって遊んだことのある人は多いと思う。先生や家族の目を盗んで回し読みされる手紙、机の下で打たれるメールには、発信者と受信者だけがわかる言い回しがたくさんあるだろう。初歩的な暗号はとても身近なのだ。

もちろん、コンピュータで使用される暗号はこれほど単純ではなく、複雑な数学的手法を駆使され、簡単には破られないようにする。だが暗号の根底には、秘密を共有するわくわく感が息づいていると思う。結局のところ、暗号によって守られるものが国家の軍事秘密だろうと放課後の寄り道先だろうと、誰も解読できない暗号を駆使して仲間内だけで秘密を共有するということは、とてもわくわくする、子どものような嬉しさと楽しさをもたらしてくれる遊びなのだと思う。

本書では古典暗号から、コンピュータで使用されている最新暗号まで、あらゆる暗号技術を説明している。意味のあるメッセージをバラバラにしたりして、一見意味のない文章をつくるという点で、コンピュータがやっていることは文字を利用した古典暗号と同じである。一つ違うのは、コンピュータで扱うのは「0」「1」のみであるから、コンピュータ暗号は本質的なところで「秘密にしておきたい情報を表している (0, 1) のカタマリを、秘密鍵などを用いて、前後逆転したり行列演算したりして撹拌し、一見ランダムな(0, 1) のカタマリと見分けがつかないようにする」ことを目指している。ランダムな(0, 1) のカタマリは意味をもたないが、暗号化された(0, 1) のカタマリは、限りなくランダムに近いように思えながら、暗号解読鍵をもつ者であれば、複雑な数学計算を経て、意味のある情報に復元できる。この数学計算をどのように設計するかが、暗号開発者の腕の見せ所だ。

暗号技術に使われる数学手法はとても難しいが、本書ではさまざまな暗号技術を図示することで、高校生程度の確率・統計の数学知識があれば読めるようになっている。分厚さゆえにとまどうかもしれないが、暗号というものにわくわくする読者であれば、手にとってみて損はない一冊。

子育ては、あわてず、あせらず、マイペース『子どもへのまなざし』

 

子どもへのまなざし (福音館の単行本)

子どもへのまなざし (福音館の単行本)

 

有名な子育て書。著者は30年以上小精神科医をしてきており、本書はおそらく著者が出会ってきたであろうお父さん、お母さんや、世間一般の父親、母親に語りかけるように書かれている。不思議とやすらげるような文章は、著者自らか書いているように「子どもを幸せにするには、まず親を幸せにしなければならない」という考えから、押しつけがましくなく、控えめすぎず、けれども経験に裏打ちされた自信をもって、語りかけているからかもしれない。

語られることはたくさんあるけれど、核心となるメッセージはそれほど多くない。手を変え、品を変え、繰り返し語りかけることで、いつのまにかメッセージが頭に残るようになっている。

「乳幼児期は人格の土台をつくりあげる時期で、この時期に子どもの望むことを望むだけかなえてあげることができれば、子どもは他人への信頼と自分への信頼を育むことができ、安心して次のステージに行くことができます」

「発達には段階があって、ひとつできなければ次へはいけません。厳しくしつけたり、急かしたりして、一見早く進んだように見えてもそれは見かけだけで、いずれやり直しをしないと次の成長段階へはいけないようになっています」

「しつけは焦っても急かしてもいけません。繰り返し教えながら、子どもができるようになるまでのんびり待つのが一番です。あまり急かすと、子どもに『これができないとお母さんは自分をほめてくれない、好きになってくれない』というメッセージを伝えることになり、そうなったら最悪です。条件つき愛情になっては、子どもは大人の顔色をうかがうばかりになり、自主性が育ちません」

おそらくこれは、普段著者が子どもたちの親に語りかけている方法をそのまま使っているのだろう。子どもが問題行動を起こして手がつけられないと、子どもを精神科医に引っ張ってくるような親は、いきなり「あなたの子育てではこの発達段階をうまく子どもにクリアさせることができなかったんです」と、問題が自分自身にあることをつきつけられても受け入れられるはずがない。特に母親は、子どもが荒れていることですでに十分責められていることがほとんどで、精神科医に来てまで責められるのかと思った時点で、ひどく警戒してしまうだろうことは想像に難くない。

だから著者はなんども同じことを語りかける。語り口がとても上手だから、同じ話を聞かされていると感じて退屈になることなく、いつのまにか言いたいことがちゃんとわかるように、文章も順番も考え抜かれている。

本書を読むと心地よく感じるのは、そういうところかもしれない。

 

あえていえば、この一節が、本書の言いたいことをほとんどすべて含んでいるだろう。

要求のある子どもには、その要求を満たしてあげなければ、つぎのステップにはいけないのです。一時的にはみせかけの前進というのをしますが、残念ながら本当の発達ではないのです。そういう意味では、子どもが健全に育っていくためには十分に依存体験をする、自分の望みを十分かなえてもらうことによって、人を信じ自分を信じ、自立をしていくという、最初のステップがあるということです。

 

私は、本書でいう「人を信じることができないから、自分を信じることができず、豊かな人間関係を築くことができない子ども」だったと思う。

私は両親のことを信用していないと自覚している。なぜなら私のほしいものではなく、自分たちが「これがほしいはずだ、ためになる、役立つ」と思うものを押しつけられた記憶しかないから。

おかしいなと感じ始めたのはおそらく思春期ごろで、そのときはすでに親に対する反抗心を持つことをほとんどあきらめ、言われたとおりにただ流されている日々だった。親の過干渉は勉強や進学先に集中していたが、時には衣食住に及んだ。私に許されたのは、押しつけられたものを好きじゃないと思えばその辺に放置して二度と目を向けないことくらいだったように思う。

その頃から今まで、なにかあっても母親に相談などしたくないし、結婚したいなどという重大事であっても、ぎりぎりまでひっぱってから報告するにとどめた。私にとって、大人になるということは、「もう母親を喜ばせるためにやりたくもないことをしなくてよくなる」ことだった。

だが、姉妹は私とは違う感情を親に抱いているらしい。自己評価が低いことはおなじだけれど、姉妹は母親にいろいろ相談するし、かなり繊細な悩みも打ち明けるようだ。

なぜ姉妹でこんな違いが生じたのか、私にはわからないが、いつだったか母親が「あんたは厳しくしつけたけど、あの子のときはあんまりかまわなかったわね」と言っていたから、姉妹には、「ほしいものをもらえず、ほしくもないものを押しつけられた」経験が少ないのかもしれない。

私が両親、とくに母親からなにをほしがっていたのか、高校生のころにははっきりわかっていた。

私を信頼してくれること。

私に自分で判断させてくれること。

私に意見を押しつけないこと。

おかしなことだけれど、私は成人してからの一時期、間違いをおこすことをわざとやっていた。実家にいたころは母親があらゆることに先回りし、私がしようとすることを否定して「こうするのが正しいのよ」と押しつけてきた。だが私は、自分で判断を下すことや、そのために生まれるであろう間違いまでを経験することを望んでいた。それが「あとから考えるとわざと間違えたとしか思えないようなミスをする」行動に結びついたのかもしれない。

こうして見ていくと、私は本書でいう「ほしいものをほしいだけかそれ以上に与えられる過保護」ではなく、「過干渉」によって育てられた子どもだと思う。成人した今でも、自分がしたかったことを母親の強権でさせてもらえなかったことが強い恐怖体験として記憶の奥底にこびりついている。還暦をすぎて気力体力ともに私に及ばなくなった母親が、もはや私になにかを強いることは難しいことを十分分かりつつも、実家にそうたびたび戻る気にはならないし、戻ったとしてもほとんど日帰りだ。母親は、いまだに私がなぜ辛かったのかを理解できずにいる(「あんたは子どもなんだからどうせ間違いをする、そうなる前にどうすればいいのか教えてあげることのなにが悪いの?」)から、私もいまだに母親とあまり話したくない。

一方で、かつてやりたかったこと、ほしかったことを追いかけて「やり直し」をせずにはいられない。私は幸運にも良い出逢いにめぐまれたが、振り返れば、大人になってからの乳幼児期の「やり直し」は、想像を絶するほど難しかった。私の「やり直し」はまだ終わっていない。自己判断だからどこまで正確かはわからないが、今は幼稚園児〜小学児童時期の「やり直し」をしているというのが一番しっくりくる。

 

自分のようにはなってほしくないから、子育てには気をつけようと思う一方、自分が子どもをもったら、母親と同じことを無意識のうちにしてしまうかもしれないという恐怖はつねに心の中にある。不安でたまらなくなったとき、私は「自分が子どものころに感じていたけれどもうまく言えなかった」ことを書いてくれている本を読む。本書『子どもへのまなざし』は、私のような育ち方をした人々が、自分の子育てをするにあたって、何度も読み返したくなる本の一冊だと思う。

親になったら起こる良いとは限らないこと『子育てのパラドックス』

 

子育てのパラドックスーー「親になること」は人生をどう変えるのか

子育てのパラドックスーー「親になること」は人生をどう変えるのか

 

私はこういう「子育ては最上の喜びである」「親と子は本能的な愛情で結ばれる」などといったジジババの石器時代からのお説教を、科学的手法に基づいた研究結果で反論する本が大好きだ。

「子育てはときに辛いものだし、そう感じることは少しも恥ではない。母性本能なんてのが全人類に備わっているのなら、乳幼児虐待死がこれほどたびたびニュースになることはありえない。子育てにはもちろん楽しみがあるだろうけれど、苦しいと感じることも決して間違いではない」

こういえばジジババ世代から猛烈な反撃を食らいそうだが、常識で考えて、連続して3時間以上眠れない生活が続き、やりたいことを我慢してすべてを子供優先でスケジュールを組まざるをえなくなることを、慣れないうちに、辛いと感じない人間などいるはずがないんである。

ジジババ世代が「子育ては辛いこともあるもの」ということを頑固に否定するのは、嫌な記憶を忘れて良い記憶を残しやすい人間の心理的傾向が働いているか(本書にもその記述がある)、自分が辛い思いをしたのだからこれから親になる人々も同じ思いをするべきだと無意識に思っているか(そうでなければ、自分はしなくてもいい苦労を無駄にしたことになる、そんなことは断じて認められない)、どちらかだろう。

それでも子供がほしいと決めたのなら、本書の副題にあるように、「親になることは人生をどう変えるか」ということを、親になる前に多少たりとも知っておいて損はない。良きにつけ悪しきにつけ、親になると人生は思ってもいなかった方向に変わる。本書は「実際には体験してみないとわからない」とことわってはいるものの、親になるということについて、あらかじめ多少の知識をつけるのにうってつけだ。

 

【小さい子供がいる家庭】と言われて最初に思い浮かぶのはなんだろうか。乳幼児期の夜泣き、少し大きくなってからのイヤイヤ期、一秒も目を離せない子供の気まぐれさ、どうしてそうしたいのかさっぱりわからないさまざまなふるまい(たとえば水溜まりでわざと泥だらけになってみる)などだろうか。

子供が聞き分けが悪いと、親のイライラゲージはたまる一方になるが、著者によれば、残念ながらこれが子供にとってあたりまえの状態らしい。

大人が幼児の行動に苛立つ理由には、生物学的な根拠がある。額のすぐ内側にある脳の一部、前頭前皮質が、大人の場合は完全に発達しているのに対し、幼児ではほとんど発達していない。前頭前皮質には実行機能、つまり考えを整理し、行動を管理する機能がある。これが働かないと、人間は意識を集中することができない。小さな子供と接するときにストレスのたまる原因はここにあるーー子供の注意力は散漫なものなのだ。

子供はお着替えをしてもすぐに脱いでしまったり、服をおもちゃに遊び始めたりして、まったく集中できない。朝、出かけるときに子供がちっとも言うことを聞かないため、焦った親がついつい声をはりあげるのはよくあることだ。

また、子供ができると、夫婦関係もそれまでと変わる。生活が子供中心になり、大人が我慢を強いられることが増えるだけではなく、しつけをめぐって夫婦喧嘩することも増えてくるからだ。

著者によると、これはたんなる夫婦間の意見対立よりも根が深いという。子は親の背中を見て育つ。そのことを知っている親は、無意識のうちに「どういう姿を子供に見せるべきか?」ということを判断基準としてしまうことがある。たとえば夫が帰宅後、靴下を脱ぎ散らしたまま片付けようとしなかったりすると、妻は「やめてよ、子供が真似しちゃうでしょ」と文句を言いたくなる。逆もしかり。

(子供が生まれてからけんかが増えるのは)単に仕事上の習慣やしつけの方法について争っているだけではないのだ。未来をめぐるーー自分たちがどういうロール・モデルであるべきか、どういう人間になりたいか、子供にどう育ってほしいかについてのーーけんかなのである。

このようなことは、実は子供が思春期になってからの方が強烈だ。小さい子供はただ親の真似をするだけだが、反抗期のティーンエイジャーは、親のすることが好ましいかそうでないかを情け容赦なくジャッジし始める。 子供に向き合うのは、体力的にも精神的にもタフなことになる。子供は一番身近な親に似るものだが、ときに親の方が自分自身そっくりのふるまいを見せつけられていたたまれなくなる。

子供は、わたしたちの最も恥ずべきおこないやひどいまちがいの目撃者になる。たいていの親はそうした悪癖やエピソードをーーそしてそれが引き起こした苦痛をーー厳密に語ることができる。思春期の子供が親の欠点やまちがいに対してしばしば辛辣で過酷な観察眼を持っているのもつらいところだ。この観察眼は子供が親を遠ざけるため、自分と切り離すために使う道具となる。

 

このように本書では、親の変化、悩み苦しみ、葛藤はあってあたりまえだということを、さまざまな研究結果や、実際に著者が知り合った親子たちへのインタビューでつづっている。それぞれの悩みは親であればよく経験することにも思えるけれど、当の本人にとっては自分一人の深刻な悩みのようにも思えるときがある。

本を読みながら、私自身の子供時代や、子育てをしている友人たちを思い浮かべてみた。

幼稚園の頃のやんちゃ、親に口答えはしょっちゅう、なんとかして親の目を盗んでつまみ食いをしようとする、アイスクリームをほしがって泣きわめく、ごはんを残しては叱られる、夜遅くまでなかなか寝ない、などのエピソードがすぐさま思い浮かぶ。私自身そうだったし、友達やその子供たちもそういうエピソードが必ず一つ二つでてくる。当時はそれがあたりまえだと思っていた。我慢する意味がわからなかった。

少し大きくなり、親に勉強や習い事を強制されると「やりたくないけど親のためにやってやっている」気分になった。思春期になると服装や趣味に口を出してくる親との衝突が増えた。親子喧嘩で母親が泣き出したことも一度ではない。自分が母親を泣かせることができることを私は承知していた。非行に走ることこそなかったが、反発心は常にあった。

本の中で母親側が語る子育てエピソード。かつては母親たちがそれらのエピソードの主人公だった。私もまた、子供をもてば、かつての自分自身を遠くの棚の上に放り投げて、子供がいうことを聞かないとこぼすかもしれない。

本書の題名「子育てのパラドックス」は、そういう意味がこもっているのだと思う。かつて自分自身がやっていたことを、子供にやり返される。自分の恥ずべきふるまいを子供にそっくり真似される。腹立たしくなる一方、自分自身が通ってきた道だと思うとおかしくもなる。ときには自分自身がうまくできなかったことをうまくこなしてみせた子供に腹を立てたり、子供が若さゆえに間違いをおかしてもやりなおせる時間があることを羨ましく思うこともあるかもしれない。けれど、子供は親とは違う存在なのだし、結局のところ、完璧に親の望んだとおりに子供が育つわけでもない。

子育ては苦しいこともある一方、本書では「子育ての楽しみは科学的に測ることがとても難しい(したがって楽しみが多いか苦しみが多いかわからない」という表現で、子育ての喜怒哀楽をまとめている。良きにつけ悪しきにつけ、子供は親の人生の一部となるのだから。

【おすすめ】聖なるものは欲望から生まれる《大聖堂》

 

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)

 

 

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)

 
大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

 

 

十二世紀のイングランドを舞台としたこの物語は、不思議な魅力に満ちている気がする。

パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちたことを写真や動画や記事で繰り返し見てきたからかもしれない。大聖堂建て直しというこの本のテーマに、ひどく惹かれる。

 

あらすじはとてもシンプル。

いつかこの手で大聖堂を建てたいーー果てしない夢を抱き、放浪を続ける建築職人のトム。やがて彼は、キングスブリッジ修道院院長のフィリップと出会う。かつて隆盛を誇ったその大聖堂は、大掛かりな修復を必要としていた。

読み始めると、まず十二世紀という舞台設定にひきこまれる。著者はかなり丁寧に、でもやりすぎない程度にその時代の街や荒野、貴族や庶民、市場や絞首台を描きだしていき、そこにいつのまにか読者が立っているかのように感じさせる。キリスト教の背景知識がある程度あるとなおのこと楽しめるだろう。

次に惹きつけられるのは、強さも弱さもある、腹のなかでさまざまなことをたくらむ、俗世の欲望まみれの登場人物たち。主人公の建築職人トム、運命に導かれるように修道院院長になったフィリップ、爵位を狙う乱暴者の田舎貴族ウィリアム、高慢な伯爵令嬢アリエナ、神や秩序というものをはなから馬鹿にしている無法者エリンとその息子ジャック。どの登場人物も時に応援したくなり、時に「なにを考えている!」とはり飛ばしたくなる。正義も邪悪もない「人間臭い人間」からますます目が離せなくなる。

 

建築職人トムは、己のもてる技術全てを注ぎこむにふさわしい大聖堂を建てるという夢をもち、安穏な生活を捨てて、家族とともに放浪を続ける。ある街から次の街へ、仕事を求めて旅を続けながら、二人の子供や、妊娠した妻を食べさせることに腐心する。

とはいえ、そもそも家族を食べさせるためであれば、どこかの街に落ち着き、城主お抱えの建築頭になればよかったのである。トムにはその実力と機会があった。にもかかわらず安定した生活を捨てて街から街へと放浪したのは、彼が大聖堂を建てるという考えのとりこになったからに他ならない。

そこで彼は、大聖堂の壁というのは、「よくできている」程度ではだめなのだ、と悟った。「完璧」でなければならないのだ。……トムの腹立ちは消え、かわりにこの仕事に取り憑かれてしまった。とてつもなく大掛かりな建築と、いかなる細部をもゆるがせにできない厳しさとの組合わせが、トムの眼を開かせ、技倆を磨く気を起こさせた。

十二世紀のイングランド、福祉制度などないに等しい時代。飢えれば修道院で一晩の宿と食事にありつくことはできるけれど、朝になればまた旅を続けなければならず、冬が来る前に蓄えをつくらなければ冬を越すだけの食べ物を得られない。仕事を得られず、厳しい冬の荒野をさまよいながら、トムとその家族は文字通り餓死寸前までいく。容赦のない貧乏暮しの中で、大聖堂を建てる欲望を抱きつづけるトムはどこか哀れでさえある。しかし、物語は決して希望を失わず、冬のあとに必ず春が来るように、運命がトムをキングスブリッジに導く。

 

誰かを踏み石にしてのしあがるのがあたりまえの社会で、登場人物はしだいに、自分のなしとげたいことを成功させるために手段を選ばなくなる。時には積極的に、時には切羽詰まって。

ある登場人物がそれまでのやり方を捨て、一線を踏み越える瞬間を独白する。

自分がどれほど軽んじられ、侮られ、牛耳られ、欺かれてきたかを考えると、怒りがむらむらと込み上げてくる。服従は修道生活の美徳であるが、いったん修道院の外に出ると、それは欠陥でしかなくなるのか。権力と富が幅をきかす社会では、他人を信用せず、おのれを強く主張することが要求される。

大聖堂という最も聖なるものを建てることを目的としながら、関係者たちはそろいもそろって俗欲まみれだ。キングスブリッジ修道院院長のフィリップでさえ、最初こそ堕落した大聖堂に義憤を覚え、これを建てなおすことが神の御心にかなうものと信じていたけれど、木材も、石材も、石工たちの賃金も、空から降ってくるわけではない。それらを手に入れるためにフィリップはしだいに政治闘争に身を投じていくが、本人は自分のしていることは正しいと信じて疑わない。その認知の歪みが、彼の語りにほんのすこしずつ混ぜこまれていき、気がつけば彼という人間としての欲望をむきだしにしてしまっている。

 

「信頼できない語り手」である当人の認知が歪んでいたり、重要情報を知らなかったりするせいで、時々途中で「おかしいな?」とわれにかえることがあり、それがまた物語を探偵小説のように面白くしている。

トムは息子アルフレッドのことになると明らかに甘くなるうえにそれを正当化することに余念がないし、フィリップは大聖堂のことになれば冷静さを保つのが難しくなり、ウィリアムは恋するアリエナのことになればまさに手がつけられなくなる。そこへ冷静な登場人物が冷水を浴びせて、ようやく読者は語り手の個人的思いこみに引きずられていたことに気づく。

 

物語は「現代ではない」ことをもうまく利用している。イングランド国王逝去などという大ニュースは、現代であれば半日もあれば地球上のすみずみまで知れ渡るだろうけれど、物語中では主要登場人物のひとりが、なんと一ヶ月間も知らずにいた。情報のやりとりは口コミや手紙でしかできず、しかも大多数の庶民はそもそも文字が読めない(建築職人のトムとその子供たちもほとんど読めない)。この時間差や情報格差をうまく利用して、相手を罠にはめることまで行われる始末。

また、現代では男女格差や経済格差をなくそうと先進諸国が努力を重ねているけれど、物語世界では格差がごくあたりまえに存在している。貴族は庶民の生活について滑稽なほどまでに無知であり、女性はあからさまに差別され、未婚の母などほとんど魔女扱いである。それをごくあたりまえのように受け入れる時代の空気が物語全体に漂い、そこから顔をあげたときに、自分の生きる現代社会に感謝したくなる。

 

さまざまな魅力があり、さまざまな読み方が可能だ。時代背景から、人間関係から、運命のようなできごとまで。

それらすべての渦の中心に「大聖堂」が立つ。

読んでいくうちに、聖なるものであるはずの大聖堂が、これほどまでに欲望まみれの人間たちの権謀術数の中で建てられていくことにがっかりしてきた。

上巻では大聖堂再建の計画が立ったばかりで、まだ着手さえしていないのである。それなのにもうこれだけの犯罪すれすれ、時にはまごうことなき犯罪行為が行われており、これでもかという私利私欲を見せつけられてしまっては、これらすべての上に建つ「美しい」はずの大聖堂は、果たして人々の信仰を集めるに値するのだろうか、と考えてしまう。

それとも、これこそが現実に存在する大聖堂の裏にあった物語なのだろうか?

そう疑いたくなるほどに、物語はリアルだ。

紆余曲折を経て建てられた大聖堂〈カテドラル〉と、それを取巻く人間模様の渦巻きは、理知と暴力、王権と教会、欲望と信仰などといったさまざまな対立を巻きこみながら最終章へと突き進み、プロローグから張られたすべての謎が明らかになり、物語は美しく閉じる。

途中で先が気になって仕方なくなり、一気に読まずにはいられない作品。明日の予定のない夜に、徹夜覚悟で読破しよう。