コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 2/100> G. Deutscher “Through the Language Glass”

思いつきで英語の本100冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2023年3月末まで。

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は②。言語のちがいが考え方や感じ方のちがいの原因となるのかどうかという興味深いテーマを論じる。バイリンガルとしては「なる」というのが直感的答えなのだけれど、立証するのはなかなかに大変であるというお話。

 

本書の位置付け

「言語のちがいは考え方や感じ方のちがいを招くだろうか?」という問いかけに対して、専門家たちの間では「ノー」という答えが主流である。しかしこの本の著者は「イエス」の立場をとり、その理由を主に人類学的視点から説明している。

著者が最初に特記しているように、この本はどの言語が、あるいはどの言語の話者の考え方が「優れている」かを論じるものではない。この本は言語、文化、思考がどのように結びついているかを解き明かすための試みであり、あまりにも深いゆえにほとんど意識にのぼることさえない結びつきを見つけるための探究である。

やや専門的内容ではあるが、外国語学習者や、2カ国語以上を操ることができる話者にとっては興味深い話題がたくさんあり、専門家でなくても楽しんで読むことができる。

 

本書で述べていること

言語のちがいについてはさまざまな俗説がある。たとえばユダヤ教聖典タルムードでは「ギリシャ語は歌に、ラテン語は戦に、シリア語は挽歌に、ヘブライ語は日常会話にふさわしい」と書いてある。しかしもう一歩踏みこんで問いかけてみよう。言語のちがいは思考そのものに影響するだろうか? あるいはこうも言い換えられるーー言語はヒトが生まれもつものであろうか、あるいは人間が社会慣習として学ぶものであろうか?

この点についてもっとも活発に議論されているのは色彩であろう。古代ギリシャの偉大な詩人ホメーロスは《イーリアス》《オデュッセイアー》で海を「葡萄酒色の海」と形容している。後にイギリスの首相となるグラッドストンはこのような色彩形容を徹底的に分析し、「ホメロスと同時代人たちは世界を白黒に近いものとして知覚していた。ホメーロスが『葡萄酒色の海』と表現したのは、葡萄酒と海水の明度が似ていたためであり、色彩の赤紫色と青色は区別出来ていなかった」という結論を出して論争を呼んだ。のちに未開地の民族をふくめてさまざまな研究がなされたが、未開地の民族が話す言葉には「青」にあたる単語がなかったり、青いものを見せても緑色のものや黒いものと同じように表現したりすることが観察された。しかし、目の生物学的機能にちがいはなく、実際に青と緑のカードを見せたら、ちがう色であることは認識されていた。(日本語の「青信号」「青りんご」がどう見ても緑色寄りであることものちに例として出てくる)

このように、ある言葉で表現されるものの区分方法は自明ではなく、あきらかにその言葉が属する社会的/文化的慣習の影響を受ける。著者は、これまでの研究では、言語及び知覚におよぼされる文化的影響力が過小評価されてきたと主張する。

では言葉はどのように思考に影響するか。ここからの論理展開はとても慎重に行われている(残念ながらこのテーマが特定言語、ひいては特定社会の優位性を論じるために利用されてきたのはまぎれもない歴史的事実)。

著者が強調しているのは2点。

①ある言葉、たとえば「青色」が存在しないことは、その言葉が表現するものを認識出来ないことを必ずしも意味しない。

②ある文法規則、たとえば未来形がないからといって、その言葉の話者がそれを理解出来ないことはない。未来形がなくとも「未来」という概念は理解出来るし、表現を変えて語ることはできる。

考え方としては、ある言語体系はその話者が「表現出来る」ものではなく「表現しなければならない」ものを規定したと考えるべきであり、もし言語体系が話者の思考に影響するならば、特定事項を表現しなければならないゆえに、それについて考えることを習慣化付けられる点が挙げられる。(たとえば英語では立場が上だろうと下だろうとすべて "I" "You" 呼ばわりだが、日本語では話しかける相手と自分の立場を考慮して「わたし」「ぼく」「おれ」「あなた」「きみ」「おまえ」などを使い分けなければならないようなもの)

 

感想いろいろ

  • 外国文学作品のすこし古い日本語訳で、教会関係が「寺院」「僧侶」と訳出されている。
  • 中国ではDemocracy(民主主義)にあたる言葉がなく、最初は頭文字をとって「ミスターD」という意味の「徳先生」という訳をつけていた。
  • 英語では里芋を熱帯のタロイモと区別せずに "taro" と呼称している。

私が見聞きしただけでもこれだけある。ひとつの言語体系にあるものを、それがない言語体系で表現しようとして四苦八苦する例である。

しかしこの本はこのように表層的で具体的なところに終わらない。もっと一般的、客観的なことを述べようと努めている。複数の言語にまたがる特徴について述べ、なぜこのような特徴が(思いこみではなく)あるといえるのか、とことん掘り下げている。言葉というものはあまりにも身近だけれど、その分、研究においては主観が入りすぎないよう慎重にならなければいけないことを深く印象付けられる。

トリビアだが、「他人」のことをまわりくどく "a complete stranger who doesn’t know you from Adam" 「あなたのことをアダムの時代(=旧約聖書でアダムとイブがつくられた世界の始まり)から知っているわけではないまったくの他人」と表現している箇所が新鮮でおもしろかった。著者はときどきこのようなわざとらしい言いまわしや言葉遊びでくすりと笑わせてくれるから、なお面白い。

 

あわせて読みたい

序章にて、人間の本質的思考は遺伝子に刻みこまれている、人間の考えることは言語によって左右されない、という本書のメインテーマとは逆の学説が登場するけれど、この根拠となりそうなのが『千の顔をもつ英雄』。世界各地の神話や伝説には、ふしぎなことに、ある共通の原型がみられると論じた本。ジョージ・ルーカスがこの本を参照してスター・ウォーズの脚本を完成させたことで有名。

『トルコのもう一つの顔』も必読。日本の言語学者による、トルコの少数言語のフィールドワークの記録。政治的考慮から「トルコは単一民族国家である」と主張するトルコ政府から国外退去処分を受けながら、フィールドワークの結果を論文として発表し、のちにトルコ政府が少数民族の存在を認めざるをえない下地をつくった。

ブログ記事を参考までに。

トルコの建前と本音を解体してみせたすごい本〜小島剛一『トルコのもう一つの顔』 - コーヒータイム -Learning Optimism-

本文中にもでてきたけれど、「言葉がなくなればそれが表すものを語ることもできなくなる」のをやってみたのがオーウェル1984》。検閲や記録訂正を日々させられ、都合悪い言葉を削除したり意味を歪めたりした辞書を編纂させられる人々が登場する。

ブログ記事を参考までに。

身震いするほどの不快感〜ジョージ・オーウェル《1984》 - コーヒータイム -Learning Optimism-