コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

中学生になったら読んでみよう〜梅津信幸『あなたはネットワークを理解していますか?』

サイエンス・アイ新書というシリーズを見つけて、面白そうと思い、適当に手に取った一冊。「はじめに」を読んだだけで、きっと正解だと思った。

どのような技術にも、それが生まれた現場にはかならず、不便な現状に思い悩み、寝る間を削って理由を考え、何百回、何千回と試してうまくいく「答え」にたどり着いた人々がいたはずなのです。……

本書はまさにそういう人々の苦労を織りこみながら、どうやってネットワークがつくられて来たのか、なぜつくられて来たのかを、中学生程度にわかるようにやさしく説明している。中学生時代にこの本を読みたかった。

著者によると、ネットワークとは、コミュニケーションをするための現代的手段にすぎない。

コミュニケーションとは、離れた地点で情報を再利用すること

メモリとは、離れた時点で情報を再利用すること

……

この2つのどちらを重要視しているかで、1つのモノがコンピュータと呼ばれたり、ネットワークと呼ばれたりします。つまり、コンピュータとネットワークは表裏一体で、この2つを区別すること自体、原理的には意味がありません。

コミュニケーションの中身としては、写真、音楽、動画、文章、と、数限りなくあるわけだけれど、もともと写真は光が人間の目に入って脳に認識されたものだし、音は空気の振動が人間の耳に入ってやはり脳に理解されるものだ。これらをコンピュータは情報処理する……というのは簡単だが、一歩一歩進むのは実に困難だった。たとえば、

  • 情報を2進数(0と1)で表現する
  • 2進数があればすべての計算ができる
  • 情報量がどれくらいあるかを計算する
  • プログラムをコンピュータの中に保存する
  • パケット方式で情報をやりとりする

これ全部、いまでこそ常識となっているけれど、生み出された当時は画期的な考え方であった。さらに時代をさかのぼるならば、エジソンの蓄音器、ベルの電話、モールスの電気信号……などなど、試行錯誤してきた偉大なる先人たちが遺してくれた創意工夫があるわけで、コミュニケーションの手段としてのネットワークを、歴史的観点から見てみると、なかなか面白い。

中学生程度の知識があればすらすら読めるけれど、もっと調べたくなる面白い話題満載。ちなみに高校生になればブルーバックスシリーズも面白いのでぜひ。

 

母親が与えたものと娘が欲したものが、すれ違うとき〜山口恵以子『毒母ですが、なにか』

最後の一文まで読んで思ったこと。

「『アラビアの夜の種族』『82年生まれ、キム・ジヨン』より前に読めばよかった……」

 

小説のプロローグは1972年8月26日。

男女の双子を産み落とした直後、主人公のりつ子がもらしたモノローグは、小説のタイトル『毒母ですが、なにか。』とあいまって、不吉な予感を投げかける。

りつ子は大きく膨らんだ幸せではち切れそうだった。これですべてがうまく行くだろう。戦いは終わった。勝利を手にしたのだ。これからはきっと幸せになれる。お伽話のヒロインのように……。

りつ子は複雑な家庭出身だ。父親は日本有数の財閥の創立一族に生まれながら、戦時中に野戦病院で看護婦をしていた庶民出身の母親に惚れこみ、駆落ち。一人娘のりつ子が16歳になったある夜、両親は鉄道事故で他界し、残されたりつ子は父方の実家に引き取られた。あまりにも住む世界がちがう一族にりつ子は戸惑ったが、やがて「悲劇のヒロイン」としてふるまうことでしたたかに居場所を確保し、女優顔負けの美貌を武器に、旧公家華族の流れを汲む由緒ある一族の跡取り息子と結婚する。

しかし、結婚生活は順調ではなかった。りつ子夫婦と同居する姑はりつ子の血筋を(正確には母方の血筋を)見下し、りつ子はりつ子で、姑は自分の美貌に嫉妬しているのだと蔑みながらも、イライラするのを止められない。

そんな中、りつ子は男女の双子を出産。これでやっとすべてうまくいくと、りつ子は息を吐くが、物語はまだ始まったばかりだった……。

 

読み進めるにつれて息苦しくなってくる。

主人公のりつ子はいつもなにかに勝とうと悪戦苦闘している。りつ子にほかの孫ほどの愛情を注がない父方祖母に。うちの会社は東大出身者ばっかりよとささやく従姉妹に。りつ子を劣った血筋と決めつける姑に。いつもりつ子は「こうすれば幸せになれる」ものを必死で探してきた。大学に合格したら、結婚したら、子どもを産んだら、子どもがお受験に成功したら……!

りつ子の「幸せ」とは「自分を見下してきた人々に勝つこと」であり、根底には「その人々に尊敬されたい、認められたい、大切にされたい」という悲痛な叫びがある。

まわりはりつ子にはどうしようもない出自だの血筋だのを理由にりつ子を蔑む。それでもりつ子はまわりに認められたい、ふさわしい扱いを受けたいという望みを捨てきれない。りつ子には両親も母方親戚もいないから。父方親戚、上流社会を鼻にかけてりつ子を脱落者と蔑む人々しか、りつ子にはいないから。だからりつ子はいつも「ここにはないもの」を探しつづけ、目の前にある幸せを踏みにじってきた。

りつ子が「幸せ」を得るために、自分自身ではなく子どもたちの出来不出来を利用するようになることで、子どもたちにとっての地獄の蓋が開いた。小学校受験のくだりはほとんどホラーである。そこからりつ子は、子どもたちを自分自身のために利用することにまったく良心の呵責を感じなくなる。そんなりつ子を、やがて家族も「毒母」として認識するようになる。

私はりつ子をまったく同情する気になれない。子どもの気持ちなど何一つ考えず、子どもを利用して自分自身が認められることばかりを考え、うまくいかなければヒステリックに怒るりつ子は、子どもには良い迷惑以外のなにものでもない。けれど、どこかで、なにかがほんの少し違っていれば、ここまでにはならなかったのではないか? そう思わずにはいられない。

美味しいエッセイをめしあがれ〜米原万里『旅行者の朝食』

旅先でのごはんは、海外・国内問わず旅行の楽しみのひとつで、美味しいものをつづったエッセイを読むとそれだけで現地までとんで行きたくなるけれど、本書はまさにそれ。

お菓子好きのわたしとしては、本書に登場するハルヴァを食べてみたくてしかたがない。中央アジア、近東さらにバルカン半島イスラム圏で食べられている甘いお菓子で、イランが発祥地。専門職人がたっぷりの砂糖と蜂蜜、ナッツ、香料などを丹念に泡立てて、「空気のように軽くて抵抗のない」絶品菓子を作る。北アフリカではさらにヌガーに似たお菓子をハルヴァという名前で呼んだりするが、似て非なるもの、最良のハルヴァはいまではイラン、アフガニスタン、トルコに残るのみ。

ロシア語同時通訳の第一人者である著者のすごいところは、このハルヴァというお菓子から壮大な文化的掛橋を展開してみせるところ。著者がトルコ蜜飴というものに出会うのは『点子ちゃんとアントン』というドイツ児童文学で、トルコ蜜飴を実際に食べるのは両親の仕事の都合で移り住んだチェコスロバキアの首都プラハ。こっちの方が美味しいわとハルヴァを持ってきてくれたのは、ロシア人の級友イーラ。たった一口食べたハルヴァの美味しさが忘れられずにウズベキスタンとモルダビアで似たお菓子を賞味し、やがてイーラのハルヴァの味を友人のギリシャ土産で再び見つける。美味しいハルヴァを忘れられずに探しまわる著者と友人たちの足跡に、壮大なイスラム圏文化が重なる。

そして、ヌガーとトルコ蜜飴とハルヴァと求肥落雁ポルボロンは血縁関係にあることをも確信した。これを思う時、古代から中世にかけて、ユーラシアの大地がさまざまな遊牧民や商人たちによって繋がっていた情景が浮かぶ。プラハの学校で、多民族の学友たちがハルヴァに舌鼓を打った光景は、その延長線上のひとつのエピソードにすぎなかったのだ。

本書のタイトルにもなった「旅行者の朝食」は、旧ソ連時代の缶詰の名前。著者はとても控えめに「一日中野山を歩き回って、何も口にせず、空きっ腹のまま寝て、その翌朝食べたら、もしかしたら美味しく感じるかもしれない」と書いているが、ようするにクソまずい。それを小咄好きのロシア人がネタにして、笑い転げているのだからたくましい。

ある男が森の中で熊に出くわした。熊はさっそく男に質問する。

「お前さん、何者だい?」

「わたしは、旅行者ですが」

「いや、旅行者はこのオレさまだ、お前さんは、旅行者の朝食だよ」

さらにさらに、同時通訳として諸外国を渡り歩くうちに日本食が恋しくてしかたなくなる著者らしく、好きな日本食についてのエッセイもたっぷり。東海林さだおさんの「丸かじりシリーズ」をこの本で初めて知った。海外駐在の日本人はお米とタクアンとさつま揚げとお寿司などの日本食を食べたくてしかたなくなり、ラジオを聞いたり、本を読んだりしては身悶えてしまうそうな。わたしは海外に数ヶ月滞在することになったとき、まっさきに本みりんとだしの素とインスタント味噌汁を荷物に入れた(お米と醤油は現地で手に入った)。

美味しいエッセイを、めしあがれ。

お金を増やす方法の模範解答集(現在のところ)〜山崎元、大橋弘祐『難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!』

この本、「難しいことがわからなければこういうふうに返されますよ」の見本なの?なの?

読み始めてから10分で首をかしげたくなった。

たとえばこれ。

日本国債の買い手ってほとんどが日本国民だから、もし日本が国債の借金を返せなくなったら、お金をたくさん刷って、国民に返せばいいの。

それだと結局借金踏み倒されてますよね……?しかもそれやるとお金の価値下がるから、事実上、元本割れでは……?著者も「インフレにはなるだろうね」とすぐあとに書いているし……。

というのが初読時の感想。

けれど「銀行っていうのは、金持ちには投資させて手数料をもらう。貧乏人には借金させて金利をもらう。これが彼らのビジネスモデル。」とか、「72を『利率』で割ると『2倍になるまでにかかるおおよその年数』が出る」とか、良いことも言ってるしなあ……ベストセラーだし……と、とりあえず最後まで読んだ。

最後まで読んだところ、インフレによる価値目減りにもしっかりふれられているし、投資に関わるエッセンスはおさえているけれど、ほんとうに【難しいこと=原理原則】を書かずに、【お金の増やし方=模範解答的な結論】を書いている本だなあという感想。

投資信託は手間もかからないから、君みたいに金融知識が乏しくて、日中に仕事をしている人に合う。」

投資信託を買うポイントは5つある。運用管理費用(信託報酬)の安いものを選ぶこと、販売手数料の安いネット証券で買うこと、毎月分配型を選ばないようにすること、ファンドの資産規模や流動性を確認すること、過去の成績で選ばないこと」

こんな感じでズバリ答えており、受験勉強で求められる模範解答集を読んでいるような気分になってくる。知り合いの会社で確定拠出年金制度を導入したところ、大半の社員が日本国債を購入したらしいけど、この本の影響だったりして。自分で勉強せずに模範解答ばかり求める人こそ、本書でいう〈投資に向かない人〉だと思うのだが。

家族のあり方が国家政策に定められるということ〜メイ・フォン『中国「絶望」家族』

中国の一人っ子政策は、文化大革命によって経済学者・社会学者・人口学者達が粛清され表舞台から排除されたのちに、国防部門のロケット科学者によって推しすすめられたーー。

ここまで聞いたらもう、この政策がいかなるものか想像付くであろう。

本書はそのタイトルのとおり、中国の一人っ子政策がもたらした社会的歪みを丹念に取材している。そのほとんどは社会問題として中国社会でもすでに認識されているが、その背後に潜む原因を掘り下げるひとはほとんどいない。なぜか。現政権の政策批判は刑事罰に問われるからだ。

中国の現代社会に生きる大多数の人々は、経済発展のうまみを享受し、少数派の嘆きを「自分でなくてよかった」と無視するか、心が痛んでもそれを表に出さないすべに長けている。

うっかり本音を口にしたらどうなるか。つい数十年前にこの大地で起きた文化大革命は、年老いた親たちから子どもたちへひそやかに伝えられ、余計なことを口にしないようにと囁かれる。いま子どもたちから産まれた孫たちは、失われようとしている歴史のことなどなにも知らず、経済発展がもたらした豊かさを存分に享受しながら、過酷な競争圧力にさらされながら生きている。

本書は中国社会で失われようとしている歴史、なかったことにされようとしているできごとを取材している。一人っ子政策を推しすすめるために妊婦狩りを行い、強制堕胎に付き添った当事者たちはいまや年金生活に入り、言葉少なながらみずからの体験を著者にむかって語る。ああするしかなかったのだーー呟きは重い。

この本を読んでいて、以前書いたことを思い出した。

 

中国ではなくカンボジアでの話だが、石井光太氏の著書『物乞う仏陀』に象徴的なエピソードがある。

カンボジアで障害者がどのように生きているのか知ろうとした著者は、ある先天性障害者に会った。その人は旅行者の案内などもする社交的な人だったが、昔のことや生い立ちは決して話さない。著者には理由がわからない。通訳がうんざりしたように、強い口調で言った。

「お前、何人殺して助かった?」

ポル・ポト政権下では、障害者はユートピア建設の足手まといとされて粛清対象だった。粛清とはすなわち虐殺である。先天性障害者が生き延びるすべはただ一つ。障害者の隠れ家を当局に密告し、その手柄と引きかえに見逃してもらうこと。

現地人の通訳はそのことを知っていた。だから脂汗を流すその先天性障害者に容赦なく問う。「障害のある人間が、密告しないでどうやって生き延びたっていうんだよ。カンボジア人を何人売ったんだ?」と。

生き延びたこと自体が、加害者側であった証。そうみなされる時代が、実際にある。

 

一人っ子政策は、数十年にわたって中国本土で施行されてきた。どんな政策でもそうだけれど、これほど長期にわたって存続する政策は、それ自体がすでに社会システムの一部分となってしまう。

本書でも実例があちこちに登場する。一人っ子政策管理のためにつくられた政府直属組織には全国で数千万人の公務員が従事し、二人目を出産した家庭に課せられる多額の罰金は地方政府の主な収入源のひとつとなる。男尊女卑の伝統ゆえにただひとりの子どもとして男児を選ぶ家庭が多数であったゆえに、成長した男性たちは嫁探しに大苦戦し、社会問題になるほど。たったひとりの子どもに親は惜しみなく教育費を注ぎこみ、教育産業の過熱と教育費の高騰は、親たちが二人目の子どもをもつことに二の足を踏むほどになっている。

すべて、中国現代社会のシステムの一部として、簡単には取りのぞけない事実だ。これらのことを中国人は、親戚、友人、隣人の体験として、生々しい現実として知っている。

著者は一人っ子政策に批判的であり、一人っ子政策がそれほど経済発展に役立たなかった一方、急速な高齢化という形で、将来にわたる火種をもたらしたと書いている。もしも一人っ子政策がなかったら、現代中国社会はどうなっていただろうかーーこうした問いに答えることは誰にもできない。わかっているのは、かつてない勢いで高齢化が進むであろうということ。それを支える福祉政策がまだまだ未熟であること。14億人という膨大な数の人間が、その影響をもろに被ること。そして中国との経済関係をますます強める近隣諸国にとっては、対岸の火事ではありえないということだ。

 

 

【おすすめ】コンピュータサイエンス専攻必携の教科書〜パターソン&ヘネシー『コンピュータの構成と設計(第5版)』

 

パタヘネの愛称で知られる、コンピュータサイエンス専攻必携教科書。非常にわかりやすく書いてあるため、想像力をフル回転させれば、コンピュータについて基本事項を一通り知りたい読者が読むにも良い。一方で、欧米で使用されている基礎教科書の例にもれず、余裕で人を殴り倒せそうな分厚さである。眠れない夜に少しずつ読むのにぴったり。

私はコンピュータ専攻ではないから、パタヘネは一般教養としてパラパラ読んでみた(そして第四章あたりでついていけなくなった)のだけれど、なかなか面白い。電脳と呼ばれることもあるコンピュータの「頭の中」をのぞきこんでみて、大まかなイメージをもっておくことは、ビックカメラで新しいノートパソコンを選ぶときに役立つ、かもしれない。

 

本書の副題は「ハードウェアとソフトウェアのインターフェース」だが、中心的テーマを引用する。

いかなるコンピュータでも、根底にあるハードウエアは基本的に同じ機能を遂行する。それは、データの入力、データの出力、データの処理、データの記憶である。これらの機能をどのように実行するかが本書の中心的なテーマであり、以降の章はこれら4つの機能に関してそれぞれ異なる側面から説明するものと言える。

さらにコンピュータは、機械として、電気信号のONとOFFしか認識できないため、すべての機能はこのことを考えて実行されなければならない。

このことをふまえて、まず本書では、コンピュータのハードウェアの「32ビット」がどのように利用されているかを徹底的に解説する。32ビットとは機械でいえばONまたはOFFの電気信号を出すスイッチセットが32個あること。この32個のスイッチセット(レジスタと呼ぶ)を32本使用して、あらゆる指示をコンピュータに出せるよう設計されているのが、MIPSと呼ばれるコンピュータ言語である。

とはいえこのMIPSは機械が実行しやすいように設計されているぶん、人間の言葉からかけ離れているので扱いにくい。実際には、より人間の言葉に近いC言語だのJavaだのでプログラミングしてから、MIPSに「翻訳」することがほとんど。逆にいうと、MIPSに翻訳さえできれば、人間のプログラマーは使用するプログラミング言語を自由に選べる。英語しか理解できないひとに、日本語しかできないひとがなにかを伝えたいとき、日英通訳を雇うようなものだ。もとの言葉が中国語でもフランス語でもスワヒリ語でも、それを正確に英語に通訳できるひとがいればいい。

MIPSに翻訳されるプログラミング言語にも、それぞれ特徴がある。実際の言葉である英語や日本語にそれぞれ特徴があるのと同じだ。よくいわれるのは、日本語では「私」「僕」「俺」「わたくし」「我」「自分」「吾輩」「拙者」などなどバラエティ豊かな一人称が、英語では全部味気ない「I」になってしまうこと。プログラミング言語も同じで、ある操作を表現するやり方がちょっとずつ違い、それがバグの原因になることもある、らしい。

文字列の長さを示す方法は3通りある。(1)文字列の最初の文字を文字列の長さを示すために使用する。(2)付随する変数に文字列の長さを保持する(データ構造として)。(3)文字列の最後の文字に文字列の終端を表す特定の文字を使用する。C言語では3番目の方法をとっており、(......)Javaでは1番目の方法がとられている。

 

言語の解説が終われば、本書ではいよいよ構成を詳しくみていく。

コンピュータはどんどん進化し、建物サイズの真空管のお化けから家庭用パーソナルコンピュータ、ノートパソコン、さらにはスマートフォンタブレットに姿を変えてきたわけだけれど、本書のタイトルにも含まれる『構成』要素は変わらない。人間の脳が古今東西問わず大脳・小脳・脳幹からできているのと同じく、コンピュータの古典的な5つの構成要素は【入力】【出力】【記憶】【データパス】【制御】。データパスと制御を合わせてプロセッサと呼ぶことも。

人間の脳の場合、構成要素はわかっても、それらがどうやってお互いに働きかけているかは、なかなか解析がむずかしい。また、人間の脳をどう効率よく働かせることができるかもよくわかっていない。世間では『記憶術』だの『思考法』だのの本があふれているが、ほんとうに頭の回転が速いひとはそれほど多くない。一方で本書では、コンピュータ構成について「こうすれば少ないエネルギーで多くの仕事ができる」というアイデアがすでにまとめられている。

コンピュータ・アーキテクチャにおける8つの主要なアイデア

  • Mooreの法則の設計
  • 設計を単純化するための抽象化
  • 一般的な場合を高速化する
  • 並列処理による性能向上
  • パイプライン処理による性能向上
  • 予測による性能向上
  • 記憶階層
  • 冗長性による信頼性向上

ちなみに主要アイデアにさらりと含まれている「並列処理」は、実はかなり革新的なやり方らしい。

並列処理はコンピュータ処理の性能にとって常に重要であったが、それが表に出てこないことが多かった。(......) ハードウエアの並列性を明示的に意識して、それに合わせてプログラムを組み直すようプログラマに強いることは、コンピュータ・アーキテクチャ上の「タブー」であった。(......)最終的にはプログラマが明示的な並列プログラミングへの転換に成功するだろうという見込みに、IT業界全体が将来を賭けたことは、驚きである。

しかし並列処理がでてくるまえに、本書ではまるまる一章をかけて、小学校で習う加減乗除がコンピュータでどのように計算されるかが説明される。

たぶんエクセルを使ったことがある人であれば目にしたことがあるだろうけれど、コンピュータの数値計算はたまにおかしなことになる。ひとつの数字を32個(もっと精度がほしければ64個)のスイッチセットで表現しようとしたら、どうしても丸めなければならないからだ。おかげでいちばん単純な分数である1/3も表現に気をつかわなければならない。ちなみにコンピュータでは指数表現を利用して、32個あるスイッチセットのうち8個を指数用に割り振ることで、より大きな数字を表現出来るようにしている。この説明をしてからようやく並列処理の説明で、複数の計算を同時に行うやり方を、コンピュータにそもそも実装されている命令とともに説明している。

 

こういうふうに本書では、最初から最後まで、ONまたはOFFの電気信号を出すスイッチセットがコンピュータの実体だということを読者が忘れないように念押ししながら、コンピュータに色々仕事をさせるための命令について解説する。

数量に限りがあるON/OFFスイッチセットを相手に、プログラマは暗黙の了解を利用してデータを最適化したり、速度をあげるところとあげないところを判断したり(基本的によく使う機能は速度をあげる)、速度なり計算結果精度なりをアップさせるためにアルゴリズムを工夫したり、情報処理にかけられる時間とメモリを検討したりしているわけだ。

スマホでもタブレットでも、普段使用しているソフトウェアもアプリでも、いまこうして書いているブログでも、すべてはON/OFFスイッチセット、インプットとアウトプット、メモリの処理であると考えるのはなかなか新鮮。面白半分に学んだことのない領域の基礎教科書を読むのはなかなかない経験だが、心底読んでよかったと思う。

 

【おすすめ】社会生活のあらゆるものは「システム」の一部である〜C.クリアフィールド&A.ティルシック『巨大システム失敗の本質』

 

 

必読。システムというものがコンピュータの中だけではなく、電力、ガス、上下水道などのライフラインだけではなく、社会生活のすべてにわたって考えられなければならないことを明らかにする書。

だが副題「たった一つの方法」は言い過ぎかもしれない。本書ではいくつもの具体的方法を紹介している。ざっくりまとめるならば「複雑さを減らして結合を疎に(弱く)しよう」なのだけれど、それを試みるための方法は種々様々で、ひとつ試してみて合わなかったらもうひとつ、と、色々選択できるのも本書の良いところ。

 

以前、同じようなテーマを扱った『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』を読んだときに書いたことを、ここでもう一度思い出す。

失敗学について学ぶとき、私は昔読んだ雑誌掲載の素晴らしい短編小説をよく思い出す。たった数ページの小説だ。ある平穏な海域で沈没事故が起こり、乗員全員海に消えた。救助船は現場でガラス瓶を見つけた。中には33名の乗員全員の名前と短い書き付けがあった。「x月x日。私は⚫︎⚫︎港で電気スタンドを購入しました。」「x月x日。私は『その電気スタンドは重心が高くて倒れやすいね』と言いましたが、それ以上注意を払いませんでした。」から始まり、見回りで部屋の中まで確かめなかった、消防設備点検のためスイッチを切った、ブレーカーが落ちたがその意味を深く考えず上げた、と、小さな出来事を並べ、最後に船長の名前でこう書いてあった。「19時30分、事態を把握した時には、電気火災で船員部屋が二つ焼け落ちていた。我々は懸命に努力したが消火できず、ついには船全体に火がまわった。我々一人一人が犯した間違いは小さなものだった。だがそれが取り返しのつかない大きな間違いに発展してしまった。」

本書もそうだ。些細なこと、常習化したちょっとした例外、時間節約のために省いたほんのすこしの手続き、日常に紛れて気にならなくなったことが、やがて大事故にむすびつく。

「システム思考」という言葉をビジネス書のタイトルで目にしたことがある。ものごとを単独で考えるのではなく、つながり、因果関係をもつひとつなぎの巨大なシステムの一部として考える、くらいの意味だったと思う。結局のところ、システムがうまくまわっている間は、それがどうやって働いているのかだれも気にしない。トラブルが起こり、一見関係なさそうなことが深刻な打撃を受けたとき、「こういうつながりがあって、こういう影響が及ぶのか!」と、驚きとともに理解する。福島第一原発津波が襲ったとき、非常用電源自体は高所にあって一部被害を免れたものの、非常用電源から原発本体に電気を送る中継点が低所にあって海水をかぶってしまったために、全電源喪失となった、という例が本書に登場する。

新型コロナが公共衛生及びそれを支える社会システムに猛烈な一撃を加え、経済活動が停滞しているいま、いまある社会システムの脆弱性、因果関係について、じっくり考えてみるよい機会だと思う。

 

複雑なシステムで、ひとつのできごとが間をおかずにまわりに広まると、あっというまに深刻な状態に陥ることがある。逆にいうと、複雑で相互作用が強いシステムでは、大事故が起きるのは時間の問題、ということもできる。対策はシステムをシンプルにして、相互作用を弱めること。だが現代社会は真逆の道を突き進んでいる。ものごとはどんどん複雑になり、予算カットやスケジュール短縮などで余裕はどんどん削減され、それが賛美される。

ペローはこの種のメルトダウンを、「ノーマルアクシデント(起こるべくして起こる事故)」と名づけた。「ノーマルアクシデントとは、安全を期すためにどんなに力を尽くしても、(複雑な相互作用のせいで)複数の失敗の間の思いがけない相互作用が、(密結合のせいで)失敗の連鎖を招いてしまうような状況をいう」と彼は書いている。そうした事故を「ノーマル」と呼ぶのは、頻繁に起こるという意味ではなく、あたりまえで避けがたいという意味だ。

面白いことに、「密結合」ーーあるできごとがすぐに別のできごとを起こす状態ーーシステムとして、本書ではSNSがあげられている。いわゆる「炎上」だ。誰かの不注意な一言がツイートや動画としてあっという間に拡散され、コメント欄が批判や攻撃であふれ、当事者が謝罪に追いこまれる。ここまでたいてい数日間もかからない。

ではどうすればいいか。本書の7割はこのために割かれている。ようするに、複雑さを減らし、結合を疎にすればよい。だが現実としてシステム自体を変えることは不可能に近いーー銀行勘定系システム、電力インフラ、郵便局、農協、医療システム、税金体系、etc、etc、いずれも容易に手がつけられるものではない。

ゆえに本書ではシステムではなく、システムを相手取る人間がどうふるまえばいいかを考える。たとえば気象予報士のように意思決定の結果について頻繁なフィードバックが得られる(窓の外を見てみればよい)環境にある人は、適切な経験を積み、判断能力を鍛えるができる。だが、警察官や判事や医師のように、フィードバックを得るのが難しく、立場上間違いを認めづらい(誤認逮捕や冤罪判決や誤診は起こらないのが理想で、万が一起こったら当事者たちは徹底的に責めたてられる)人々は、判断能力がなかなか磨かれないかもしれない。ならば適切なフィードバックを得られるよう、なんらかのーー複雑すぎないーー仕組みが役に立つかもしれない。たとえば病院内部で日々のちょっとしたミスやミス未満を報告するなど。

面白いと感じたのは、本書で「死亡前死因分析」と呼んでいる手法だ。水晶玉をのぞきこんであるプロジェクトが2年後だか5年後だかに【失敗した】ことがわかったことにして、失敗原因、動向、出来事を【プロジェクト開始前に】考えるのである。いわば後知恵の先取りのようなもので、【失敗した】と想像することで想像力が刺激され、思いもかけないようなリスクをあぶり出すことができるという。プロジェクト開始前に【どうすれば成功できるか】と考えるのとは真逆に【もし失敗するならどういう原因が考えられるか】と考えるのだ。

実は、私たちはこういう想像を毎日行なっている。「スーパーを見たら子どもがアイスクリームを欲しがって泣きわめくから、スーパーを通らないようまわり道をして帰ろう」といったことだ。これを複雑なシステムにも応用できる、と説明するのが本書。ほかにもいくつか面白い方法が紹介されているが、どれもすぐにできることだ。だが、それをやらない組織のいかに多いことか。

組織が改善するのを待つのではなく、本書で紹介するさまざまな方法を個人で始めてみよう。習慣化すれば、思いがけないほどの効果があるだろう。中国の故事にあるように、最高の名医とは、ひとの生活習慣を改善させ、病気を未然に防ぐ医師だ。