コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

不動産投資を考えるならば失敗例も知っておきたい〜小林大貴『知らないと取り返しがつかない 不動産投資で陥る55のワナ』

仕事柄「どういう事故や失敗が起こりうるか」という視点からものを見ることが多い。本書も、不動産投資での失敗例について知るために読んだ。

著者は住友不動産出身で、現在は賃貸用不動産経営と不動産投資コンサルタントをメインに活動している。住友不動産時代に営業を経験したこと、不動産投資コンサルタントとしてさまざまな成功例と失敗例を知る機会があったために、本書でとりあげられている不動産投資でありがちな55のワナをまとめることができたという。

ワナはすべて【実例】に基づいている。もちろん実例を事細かく書くわけにはいかないので、かなり一般化されてはいるが、エッセンスはちゃんと込められている。どんな【実例】から「このようなワナがある」という教訓を得られたのか、想像してみるのもたいそう面白い。

ここで大事なのは、「“戦術”は“戦略”が決まらなければ設定できず、“戦略”は“目標”と“現状”が見えなければ設定できない」ということです。

(01 目標の決め方を間違える罠)

あくせく働くのではなく不労収入で楽々暮らしたい、不動産投資が流行っているみたいだからやってみたい、自分の年収より低いのに不動産投資で成功している人の本を読んで心が動いた、とにかくアパート一棟買えとあおる雑誌特集を読んだが実際のところはどうなのか……著者は無料相談やセミナーでこういうことを言われてきたのかもしれない。あるいは著者自身や業界仲間がこのような方法で投資家の心を動かしてきたのかもしれない。「目標」「現状」を深く考えず、ともかく不動産を買うことをめざしてしまうと失敗する。著者はそういう人々を見てきたのだろう。

あなたの目標(理想)が現実(相場や業界通念)と著しく乖離していないかどうかわからないといけません。そのために必要なのは、……不動産投資を生業とし続けている人に聞くことが一番です。一気に難易度が上がりましたね。実際に人と会って話さなくてはなりません。

(04 現実と理想をマッチングする過程での罠)

ここでの真意は「会って話すことは大切だが、盲目的に鵜呑みにしてはいけない」ということ。悪徳業者の営業トークにのせられるがままに不動産を買ってしまい、うまくいかなくなって、不動産投資コンサルタントに相談する人が後を絶たないのだろうか。あるいは業界噂話として「カモられた」ケースが耳に入るのだろうか。そんな想像をしてしまう。

大事なのは、「業者がリスクの説明をしていないのでは?」という疑いの頭を持つこと。また、リスクの内容を想定して自分からヒアリングできることです。投資をするからには、最低限自衛のための知識は必要です。

(16 提案内容にリスク面が入ってこない罠)

これにはしっかり事例が付けられており、紹介された物件が借地物件であったにもかかわらず、それとは説明せず、お客様が借地物件であることや借地権のリスクを知らないまま契約に至ってしまったケース。ちなみに借地権とは「建物は買主のものになるが、土地は買主のものにならず、地主から借りている」状態。地主には地代を払わなければならず(その代わり固定資産税は地主負担)、建て替えやリフォームには地主の許可が必要になる場合もあり、もちろん期限が来れば土地を返さなければならない。賃貸用不動産にとっては知らないでは済まない重要事項だが、これを説明しない不動産業者もいるのである。重要事項説明書にはもちろん(小さな字で)書いてあるが……。これ以外に築年数、再建築不可物件のこともぼかされやすいらしい。

「2016年◯月完成予定」という資料を鵜呑みにし、「ここで引き渡しがあるんだ!」と思い込んでしまうことがよくあります。しかし、この完成予定スケジュールは守られないことも多いのです。

(34 工期などあってないような認識の罠)

近所に建設中の集合住宅があるが、このまんまの状況である。大手不動産会社が手がけており、完成予定は今年春だったが、まったく完成する気配がなく、素人目で工事現場を見ても、新型コロナの影響がなくても一年以上予定オーバーするとしか思えない。建設業界ではそこまで珍しいことではないのかもしれない。

不動産投資は大家業を兼ねることが多いけれど、街を歩いていると、この本で触れられているような失敗例に関係しそうなアパートや賃貸マンションを見ることがある。不動産投資を考えるなら、こういう本を読みつつ、自分の足で街を歩くことが必要だ。

お金のことを学ぶのは恥ずかしいことではない、早ければ早いほど良い〜ボード・シェーファー『マネーという名の犬』

家を買いたい、というのが夫がよく言うことだ。

どうやら親戚が東アジアの某国で買った投資用不動産が値上がりしており、その成功体験をよく聞かされ、「不動産を買いなさい」とせっつかれているらしい。

夫の希望は土地付一戸建て。土地付は譲れないらしい。

日本の不動産市場状況では、投資用不動産としての土地付一戸建てなんてよほどの都市部でもなければない、とくに新築なんてのは入居してすぐに資産価値2割減もざら、数年もすれば上物の資産価値はほぼゼロ、どうしても買うなら古くからの高級住宅街などで駅近築浅中古を狙え。

私はことあるごとに口を酸っぱくしてこう反論している。夫は耳を傾けてはいるものの、やはり親戚の成功体験も捨てがたいようで、それこそ路線価や不動産評価額を目にしなければ、ほんとうには納得しなさそうだ。(保育園もそうで、いくら住んでいるところは保育園激戦区だと説明しても、実際に保育園全落ちするまで、夫はどこか「保活なんて大げさな」という雰囲気だった。)

こういうわけでここのところ、お金について学びなおしている。お金、投資、不動産についての本を、入門書、専門書問わず読みなおしている。

 

本書は小中学生向けにお金について物語風に書いたもの。主人公キーラがある日、人の言葉を話せる白い犬「マネー」を飼うことになり、その犬から色々教わるお話だ。雰囲気としては『ソフィーの世界』に近い。主人公の女の子が、ある日突然出会っただれかから、大切なことを学びはじめるという設定が似ている。

『生涯投資家』を書いた村上世彰さんが本書を監修しており、前書きにこう書いている。

ぜひ、夢アルバムを作って、君の夢や目標について真剣に考えてみてほしい。そして夢貯金箱を作って、どうやってお金を貯めていくか、貯めるために何をして稼いでいけばいいか考え始めてほしい。そのときに、人が困っている問題を見つけること、その問題を解決するために自分に何ができて、何が得意で、何をしているときが楽しいのかということを、時間がかかってもいいから、いっぱいいっぱい考えてほしい。

そして何か考えついたら、ぜひそのアイディアを形にするために、努力と準備を進めてほしい。

夢アルバムも、夢貯金箱も、主人公のキーラがマネーのアドバイスを受けてはじめた子どもらしいことだ。まずはお金があったらかなえたい夢を決める。あまり多すぎず、一番大切な夢を3つくらいがいい。次に夢の数だけアルバムを用意して、そこにかなえたい夢についての写真や雑誌特集など、視覚化できるものを貼り、毎日見返して、自分が夢をかなえるところをイメージする。そして、夢の数だけ貯金箱を用意して、それぞれの貯金箱に、夢をかなえるためのお金を貯める。そこまでできれば、夢貯金箱にどうやってお金を貯めるのか、貯めるためになにをしてお金を稼げばいいのか、考え始めるときだ。本書ではお金を稼ぐために考えるべきことをズバリ言い切っている。

『いつもほかの人のために問題を解決しようとしなさい。そうすれば、どんどんお金をかせげるようになる。それから、自分が何を知っているか、自分には何ができるか、何が備わっているかをつねに考えなさい』

主人公のキーラは最初、お金とのつきあい方がわからなかったけれど、犬のマネーと出会い、マネーの飼い主であるゴールドシュテルン氏に出会い、大好きな犬のお世話をすることでお金を稼ぐようになり、少しずつお金について知っていく。キーラのいとこのマルセルもお金を稼ぎはじめていて、彼はキーラに大切なアドバイスをする。

「でもな、大事なことを二つ言わせてくれ。第一に、一つの仕事だけをあてにしちゃいけない。おまえが思っているより早く終わりになるかもしれないからな。すぐに追加の仕事を探すことだ」

「第二に、きっと何か問題が起こる。予想もしなかったような問題がね。そのときに、おまえがまぬけ頭の意気地なしなのか、それともおれのようにお金をかせぐのにふさわしい人間なのかがわかる。順調なときは誰だってお金をかせげる。トラブルに直面したときにこそ、そいつがほんとうに持っている力がわかるんだ」

お金を稼ぐことははずかしいことではない。お金があればすべて解決出来るわけではないけれど、うまくいかないときにはどうしたってお金が必要になる。本書ではこのことが何度も繰り返される。小中学生向けのやさしい物語ながら、お金とのつきあい方を知らない大人たち、そんな大人たちを親に持つ子どもたちにメッセージをとどけるために。

小中学生向けであるから、得意なことをして両親やご近所からお小遣いをもらうことはよく出てくるものの、株式投資などはひかえめ……かと思いきや、ちゃんと出てくる。会社、配当金、株式市場、投資信託がやさしく説明されている。著者は投資信託推しだ。祖父母がキーラに「株なんてすぐにやめなさい」という場面もちゃんとでてくる。

お金があると心の余裕がちがう。やりたいことをできるようになり、やりたくないことをやらずにすむ。けれどお金を得るために、お金を失わないために、どう投資するべきなのかはきちんと学びつづけ、考えつづけなければならない。

本書は大人にはすこし物足りないかもしれないが、初めてお金について学ぶ小中学生にぴったり。夏休みの読書感想文にいかがだろうか。

ひねくれ者世にはばかる、そこが好き〜フミコフミオ『 ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』

フミコフミオ氏は有名なブロガーだというけれど、私は彼のブログを読んだことがない。この本を手にとったのをきっかけに読んでみた。うーん、今年入社したとある後輩のブログとどことなく雰囲気が似通っている。後輩くんも20年後にはこういうブログを書いているのかもしれない。

Everything you've ever Dreamed

 

この本『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』では、著者は40代になって人生半分過ぎたと意識するようになり、いい感じにひねくれている。好きだなあ、このひねくれ方。とくに「空気を読む」ことについて書いた章が好き。

雰囲気を察したうえで、察したことを大勢に宣伝して味方につけ、より大きな勢力をつくることで面倒な少数意見者に「うまく立ち回ろうよ」という圧力をかけて、場を収めていくのが「空気を読む」の意味するところである。僕に言わせれば、受け手に「読む」という行動を求めて、相手の主体性を尊重しているように見せかけているのがあざとすぎる。

議論は白熱したほうがいい。問題は解決したほうがいい。だが、こうしたケースでは白熱した議論や明確な結論は歓迎されない。つまり、空気読めは、有意義な議論や到達しなければならない結論よりも、集団としての秩序を保つことをヨシとする考え方。

このあたり、件の後輩くんのブログにも書かれそう(書いているわけではないが後輩くんが好みそうなネタだ)。まあ、私自身、素晴らしいお手本先輩だという気はかけらもない。どちらかというと反面教師だろう。ちなみに著者はその辺もちゃんと書いてくれている。情報過多なこの時代、わざわざ反面教師から無理に学ぶこともないわけで、私などは避けて通られるだけだろう……と、自己卑下してみる。

現実は、そういう学ぶべきことの多い素晴らしい人たちばかりではない。欠陥上司。不良先輩。無能同僚。かつては教材が不足していたので、そういうどうしようもない人たちの言動からでも何か学ばなければならなかった。そして生まれたのが反面教師。ところが現代はインターネットで知識も実例も検索できる時代。わざわざ問題のある人物たちから無理に学ばなくてもいいのである。

後輩くんと彼のブログはおいておくとしても、この本はなかなか面白い。中年管理職あるあるを、ひねくれた(ただしひねくれすぎてはいない)文章でまとめている。ひねくれ度合いでいうと、もうひとり、私が記事を愛読している借金玉さんほど強烈でも突き抜けてもいないけれど、いい塩梅。私が著者と同じ40代後半であったなら、きっともっと繰返し読むだろう。そんな気がする。

子を持つ親が自省するためにこそ読んでほしい〜岡田尊司『子どもの「心の病」を知る』

子育てのための参考書として読み始めたけれど、読みつづけるにつれて「これ私のこと!」という気づきがどんどんでてくる。

 

いわゆる「心の病」は、見た目や検査で異常がわかる身体の病とはちがう。統合失調症自閉症など、脳の機能自体に異常がある精神疾患もあるけれど、それ以外に、誰もが多少持ち合わせている精神活動や性格的特徴が、社会的活動が困難になるほど強くなってしまったものも「心の病」にあたることがある。たとえば、好かれていると確信できない相手と対人関係を結ばなければならないとき(代表的なのは嫁と姑)、誰もが多少緊張を強いられるもの。けれど、この緊張が高くなるあまり、自分が好かれていると確信できる相手でなければ対人関係を結べなくなると、回避性パーソナリティ障害の疑いがでてくる。

生まれついての機能障害ではない「心の病」は、そのひとの赤子のころからの経験に根付くことが多い。ときには経験自体が脳の構成に影響する。本書の著者はもちろん、さまざまな子育て本が口をそろえて「小さい頃の性格形成は一生影響する」と言っているのは、理由があるのだ。

生後数カ月まで、脳ではシナプス(神経と神経のつなぎ目)が過剰に形成されるが、そのうちの使われるものだけが生き残り、使われないものは失われていく。「刈り込み」という現象である。青年期の終わりに脳が完成してしまうまでに、どのシナプスが生き残るかは、その子の成長過程での体験と学習にかかっている。つまり、体験と学習が脳を作っていくのである。

……

ことに四、五歳頃までの脳の可塑性、吸収力は極めて大きく、その時期に身につけたものが生涯を支配するといっても過言ではない。この極めて吸収力の高い時期を「臨界期」と呼ぶ。

そう考えると、子育てというのは責任重大である。

小学生になれば、学校や友人などまわりの環境の影響がどんどん大きくなるけれど、それよりも幼い頃、保育園や幼稚園の頃は、両親、家庭環境がほぼ決め手となる。

だいたい六歳の誕生日より前に身についたものが生涯を支配するといい、この時期を過ぎてから身についたものを変えるのは多大な努力を支払わなければならないというのなら、幼児教育だ英語教育だとさわぐ前に、まず情操教育からはじめるべきだ。

だが、これこそがもっとも難しい。

子は親の背中をみて育つもの。親が意図的に教えこもうとすることよりも、親が無意識のうちにしていることこそを、子どもは吸収してしまう。過干渉、無関心、ほめることが多い、叱ることが多い……親にとってはいまさら意識することもない日々の習慣こそが、子どもの生涯を支配するというのなら、親自身が変わるしかない。だがそれができる親がどれほどいるだろう? 

私自身、かつてあれだけ親に反発心を覚えたにもかかわらず、自分自身が子を持つと、疲れているとき、余裕がないとき、気づけば私自身の親が私にしたのと同じように、我が子への態度がおざなりになることがある。そのことに気づいて愕然となるが、すぐに「いまは疲れていただけ」「一度くらいなら大丈夫」と、軽く考えようとする。だが、本当に影響が軽いかどうか、決めるのは我が子であって私ではないと思い直し、葛藤に陥る。自分自身の行動をいちいち振りかえったり反省したりしているうちに、疲れてしまう。

知らず知らずのうちに、子どもに寂しさや悲しみを味わせているかもしれない。そう思うといてもたってもいられなくなるが、どうすれば良いのかわからずに、結局、慣れ親しんだ行動様式を繰り返してしまう。子どもがやがて答えを教えてくれることを待ち望み、同時に、子どもから責められることを恐れながら。

十分な愛情と保護を与え、見守り続ける必要がある。この子はしっかりしているから大丈夫、などと思ってはいけない。甘えるのが下手な、我慢する子ほど、気をつけておかねばならない。小さい頃に我慢して愛情をもらいそびれたツケが、思春期になって回ってくることは非常に多いのである。

 

本書を読んでいて思ったのは、私自身の思春期にはきっと「無意味に反抗する」ステージが足りていなかったのだろうということ。思春期には、たとえそれがどんなに正しいことであっても、自分自身が納得するまで反抗することが必要だったが、私は親との関係の中でその反抗経験をすることができなかった。社会に出てからこのツケを十年近くかけて払わされた。決して愉快な経験ではなかったーー私自身にとっても、巻き込まれた同僚たちにとっても。

一見理由のない、無意味に思える反抗にも、ちゃんと大切な理由があるのだ。それは、自分自身になろうとしているということである。親から与えられた既成の殻を破って、自分自身を獲得しようとする試みなのである。そのためには、まず、既成のものを否定する必要があるのだ。それが、どんなに正しかろうと、自分が自分の力でそこにたどり着いたものでなければ、一旦、それを疑ってかかり、打ち消し、もう一度自分で発見し直さなければならないのだ。そうして初めて、それは自分の考えになる。

さまざまな葛藤を乗り越えて、人間は社会性を獲得していく。そのうちいくらかは本来持つ本能的反応に逆らうことを強いる。そのことを知っていれば、あがり症も人前での緊張も「まあ仕方ないよね」で済ませることができ、ちょっとだけ心が楽になる。

人はなぜ人を恐れるのか、という問いは、おそらく反対であるべきなのだ。なぜなら、多くの動物は、同じ群れの仲間以外には、激しい恐怖や敵意を感じ、攻撃性を剥き出しにして、縄張りを守ろうとするからである。むしろ、人はなぜ人を恐れないのかと問われるべきだろう。

......

本能的には感じるはずの恐怖や緊張を克服できるのは、幼い頃からの体験と学習の賜だと言えるだろう。人は恐れるべきものではないということを、長い時間をかけて学ぶわけである。

 

本書は子育て世代のみならず、すべての人に読んでほしい。子育ての悩み、子どもの「心の病」を治すためではない。子どものふるまいの多くは親自身に根源をみつけることができると学び、親自身のふるまいを反省するために。

子どもと話すことは学ぶべきスキルである〜アデル・フェイバ&エレイン・マズリッシュ『子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方大全』

子どもとの話し方、子どもの話の聴き方は、努力して身につけるべきスキルだ。

それが著者の教えである。

私たちはつい、大人に話すのと同じように子どもに話そうとしたり、子どもに話してほしいと期待したりするけれど、子どもはそもそも気持ちをうまく言葉にできないうえ、自分の気持ちを受け止めてもらえているかどうかにとても敏感。子どもの心が傷ついているときは、切り傷だとか擦り傷だとか、身体が傷ついているときとおなじイメージで向かいあうのが大切。

シンプルなようでいて、親が睡眠不足でイライラしていたりするとなかなかできない。無視したり、否定したり、質問攻めにしたり、はたまたアドバイスしたりしたくなる。

そのどれもが、親たちがかつてその親たちに言われてきたこと。言われた当時は、こんな言葉を望んだわけではないとがっかりしたり、反発心を覚えたりしたはずだ。だが親たちはなぜか、自分がそれを望んでいなかったことを忘れたり、同じことを自分の子どもに言ったりしてしまう。子どもが望むのは親が自分の気持ちをわかってくれること、子どもが自分の気持ちをわかるための手伝いをすることなのに。

私などは、子どもに「どうしてこんなことをしたの?」と質問することで、子どもの意見を尊重したつもりになっていたが、実はそれこそがやってはいけないこと。子どもは自分が責められていることを敏感に察知して頑なになってしまうか、そうでなくても、子どもは質問の答えを探すことに集中してしまって、うまくものごとを考えられなくなってしまう。

子どもは、誰かに質問されたり、責められたり、アドバイスされたりしているときには、明確に、または建設的なものを考えられないのです。

ただ「まあ、あらあら…」とか、「そう」と言うのは、大いに役に立ちます。こういった言葉を心配そうな態度で口にすると、子どもに自分の考えや気持ちを探らせることになり、子どもは自分で解決法を見つけられるようになるのです。

また、これも私がやりがちなことだけれど、言うことを聞かない子どもには罰を与えたり、「こうしなければこうなるよ」などと口走りたくなってしまう。けれどもそれも、子どもの目を本来考えるべきことからそらしてしまう。どうやったら今後罰を受けないですむのか考えてしまうのだ。

博士は、子どもは自分の過ちの結果は経験すべきだが、罰は受けるべきではない、と答えました。

……

ギノット博士は、罰の問題点は、それ自体に効果がないこと、罰は注意をそらすものであること、子どもは、自分のしたことを後悔してどうしたら改められるだろうと考える代わりに、報復の空想で頭がいっぱいになってしまうこと、などだと言いました。

言い換えれば、子供を罰することによって、私たちは、子どもが自分自身の過ちに直面するという大切な内的過程を、奪ってしまうのです。

一方、子どもを効果的に褒めるにも、くふうをしなければねらない。

  1. 大人が、(評価しないで)自分の見たこと感じたことを、尊重の意を持って言い表す。
  2. 子どもは、その言い表された言葉を聴いた後で、自分自身をほめることができる。

子どもとの会話はとても繊細なものだと、この本はさまざまな実例から教えてくれる。子どもの注意力をそらすことなく、本題に沿って話すのは、とても神経を使うことなのだ。つい叱ったり、罰を与えたり、子どもを質問攻めにしたくなったりしたときに、この本の内容を思い浮かべて、踏み止まりたい。

 

タイトルからすでに親にとってはどこか他人事〜押川剛『「子供を殺してください」という親たち』

「子供を殺してください」

って、民間移送業者(病識がないため医療機関に行きたがらない精神障害者を病院につれていくお仕事)を前にして口走るか?

タイトルを見た第一反応はこれ。

読み進めるにつれて、こういう言葉を口走るほど、当事者が追いつめられていることが嫌というほどわかる。第一章のドキュメントに登場するのは、万引きを繰返す統合失調症患者、父親相手に刃傷沙汰を起こしたアルコール依存症患者、家庭内暴力を繰返す患者……と、いずれも「このままだと殺すか殺されるかしかない」と、思いつめた家族が、著者が経営する精神障害者移送会社の事務所を訪れる。

だが、この本が真に言いたいのは、「家族は無辜な犠牲者などではないこともある」ということだ。

この本、裏側の内容解説に「究極の育児・教育の失敗ともいえる事例」という言葉が登場するが、著者のところにやってくる頃には、問題行動を起こす子供の親も万策尽きており、親自身が治療やカウンセリングを必要とする状態にあることも少なくない一方、「この親にしてこの子あり」という言葉が思い浮かぶような親も(著者はなるべく言葉を選んでいるが)確かにいる。

たとえば第一章には家庭内暴力を繰返す男性が登場するが、この男性は幼い頃から暴力的傾向があり、母親もあらゆる専門機関に相談してきたものの、「自分の納得いく病名を子供につけるために必死になっている」と著者には感じられた。いつのまにか、子供のためではなく、自分の子育てと責任から目をそらすために、母親は行動するようになっているのではないかと。父親はすでに亡くなり、遺産や年金などで母親が何不自由ない生活をしながら、息子と同居してお金を与えていることも、著者には「共依存」に思えた。息子が入院したら母親は安心しきり、対応をもうひとりの子供にまかせきりで放置。息子が退院するかもしれないと聞くなり半狂乱になり、「生涯入院させてくれないならいっそ殺してくれればいいのに」と口走る。どこまでも自分自身しか見ていない母親の姿に、著者は、子供の人格が荒廃した理由を見たような気がしていた。

子供がいつ、どんな行動をしたか、思い出して記入することができますか。問題行動が起きたのはいつ頃で、どんなことだったか。そのとき自分は、一体何に心を奪われ、何を中心に生活していたか。おそらく、子供のことよりも優先していた「何か」があるはずです。それを子供の問題行動と照らし合わせてみると、内容、時期とともに、自らの人生とリンクしているものが見つかるのではないでしょうか。

また、自分が何にどんな価値観を持ち、生きてきたのかを考えてみると、子供の言動と一致するものがあることが分かるはずです。特に「人」「物」「金」といった事柄に対する価値観は、親の背中を通じて子供に色濃く受け継がれるものです。

一方著者は、日本の精神保健制度の不完全さ、限界についても、実体験からさまざまな問題提起をしている。3ヶ月以上入院することが難しい医療報酬制度になっている、医療機関や保健所が比較的対処しやすい患者しか受け入れたがらず、本当に自傷他傷の危険性がある患者は対処が難しいとして受け入れたがらない、保護者専任制度が撤廃されたから家族のひとりが入院させたがっていてもべつの家族が退院請求できるようになった、など。

精神障害者知的障害者身体障害者ともちがう。第三者がいるところではそれなりに落ち着いてみえたり、調子が良ければ社会活動もできたりする。異常性や暴力性が家族にのみ向けられる場合は、医療機関につなげることも難しい。一方、精神障害者が事件を起こすたびにーー最も有名なのが大阪教育大学附属池田小学校で起こった無差別児童殺傷事件だろうーーまわりから白い目で見られるし、親はますます心配になる。

どうすればいいか?

著者は、精神障害者の問題の多くは、親と子供が真剣に向きあえば、前に進む道がひらけるものだと書く。だが、第一章に登場する親たちの多くは、子供と真剣に向きあうことがほんとうに理解できないか、やろうとしない。子供は親の背中を見てここまで育ってきたのであり、子供の問題行動のうちかなりの部分は、実は親自身の行動をなぞっているだけ、という事実を受け止めることができないからだ。ならいっそこのまま精神障害者の被害者ぶることで同情を買い続けるほうがよい。深層心理ではそう感じているのかもしれない。

親になったからこそ、私は「子供と真剣に向きあうとはどういうことだろう」と、常に考えている。最悪ケースを見せつけられるこの本を読むのは苦痛だけれど、子供と真剣に向きあうことを、考えるためのヒントもまたふんだんに与えてくれる本だ。

あなたが知っているつもりになっていることは、実は……〜S.スローマン&F.ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』

この本の冒頭にはどきりとさせられた。1954年に起こったアメリカの水爆実験による第五福竜丸の被曝と、このことがきっかけで死亡した久保山愛吉さんの事例から、本書はスタートしたのだ。そして、第五福竜丸や、水爆実験場付近の環礁に住んでいた人々が被爆したのは、アメリカの科学者たちが水爆の爆発力を過小評価したこと、風向きの予測を誤ったことが原因だと結ぶ。水爆の仕組みを十分理解していないのによくもまあ「思いあがって」躊躇なく爆発させてみたものだといわんばかりだ。

(本文中には久保山愛吉さんの実名は出てこない。後の研究によれば、直接の死因は「死の灰」による放射線障害ではなく、急性放射線障害を治療する際に受けた輸血から肝炎ウイルスに感染したためと推定されているらしい)

このように、人間が「聡明であると同時に愚かである」ことが本書のテーマ。著者らは認知科学の方面から、人間がいかにわかっていないか、その一方でいかにわかったつもりになっているのかを説明する。このあたりは以前読んだ『ファクトフルネス』に似ている。『ファクトフルネス』では、人間が陥りやすい思いこみを10の「本能」にまとめていた。過大視本能、単純化本能、焦り本能など。そのうえで、これらの本能がいかに人間の世界に対する見方をゆがめているのかを解説した。

認知科学によって得られた知見の多くは、一人ひとりの人間のできないこと、すなわち人間の限界を明らかにしてきた。

……

おそらくなにより重要なのは、個人の知識は驚くほど浅く、この真に複雑な世界の表面をかすったくらいであるにもかかわらず、たいていは自分がどれほどわかっていないかを認識していない、ということだ。その結果、私たちは往々にして自信過剰で、ほとんど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している。

だがこの本はここでは止まらない。さらに「知識のコミュニティ」について解説する。人間一人ひとりがもてる知識はひどく限られているから、日常生活に必要な知識のほとんどをアウトソーシングするようにできているというのだ。

私たちは食べ物、衣服、家具、水道、食器用洗剤、マスク、水洗式トイレ、その他もろもろの作り方を知っている人のおかげで快適な日常生活を送ることができる。私たちの頭蓋骨の中側と外側の知識はシームレスにつながっている(と私たちは錯覚している)。頭蓋骨の外側にある知識はまわりの人々や本やインターネットが保持しており、私たちはいつでもそれらにアクセスできることで、まるでそれらが自分の頭蓋骨の内側にあるかのように勘違いする。このため私たちは自分自身の無知を知覚しにくい。実際には、私たちが頭蓋骨の内側にもつ知識はごく限られており、思考や判断は、自前でもっている知識以外に、身のまわりのものや人に大きく左右される。常識とか社会通念とか生活習慣とか、そういう言葉で表現されるものだ。

ではどうやって頭蓋骨の内側と外側にある知識を区別するのか? 意外に簡単だ。

知識の錯覚を解くのは驚くほど簡単だ。では説明してくれ、と相手に頼むだけでいい。

たとえば目を閉じた状態でいま自分がいるリビングのインテリアを説明してもらう、水洗トイレの仕組みを説明してもらう、など。

ちなみに私も試してみたけれど、毎日見ているにもかかわらず、テーブルクロスの色と柄すら全然思い出せなかった。本書によると、これらは「外側にある知識」で、いつでもアクセスできるから覚えている必要はないと脳が判断したものらしい。なるほど、テーブルクロスの色と柄は、リビングにいれば見ればわかるし、リビング以外にいるならスマホで写真撮っておけば済む。わざわざ「頭蓋骨の内側にある知識」として記憶する必要性はまるでない。

 

私たちが知識のかなりの部分をアウトソーシングしているとわかったところで、著者らはさらに一歩進む。頭蓋骨の内側にある知識と外側にある知識を区別できないために、私たちの社会が抱えるさまざまな問題が生じている、という。

たとえば、私たちの考えはコミュニティのそれと分かちがたく結びついているために、考えを変えることは、コミュニティとの人間的つながりに影響する恐れがある。だれでも親戚に頑固なお年寄りが居るはずだ。お年寄りがくだくだ話すことを古臭くて時代遅れだと感じても、それを真正面から言ってしまえば親戚付合いに影響が出る。一人や二人であれば適当に聞き流せばいいが、お年寄りが多数派であれば困ったことになるだろう。なるべく会わないようにするためには、実家を離れて一人暮らしするしかないかもしれない。こういうふうに、私たちが自分の意見だと思いこんでいることの多くは、実は頭蓋骨の内側ではなく外側にある。コミュニティの意見だったり、コミュニティと反対の意見だったりするのだ。

この本を読み進めるのはあまり愉快なことではなかった。自分が無知であるとどんどん思い知らされるから。だが、読み終えたあと、ちょっとだけマシな気分になれたのもまた確か。ソクラテスではないが、少なくとも私は「自分が無知であることを知る」ことができたから。