コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

英国貴族の執事たる者の矜持〜カズオ・イシグロ『日の名残り』

ノーベル文学賞を受賞したことで、日本で一躍脚光を浴びたカズオ・イシグロ氏の代表作。

一読してみたところ、日本でいう王朝平安文学のイメージに近い。優美な衣装を身にまとい、雅なあそびに興じる貴族たちに仕える使用人が、筆をふるい、華やかな日々を思うままにつづる文章。ただし『日の名残り』は、第二次世界大戦後、没落した貴族が屋敷がアメリカの金持ちに売り渡されたあとも屋敷にとどまりつづけた執事が一人語りする内容。語られていることは、実際にはすでに失われつつある。

【矜持】という言葉は「自分の能力を信じて抱く誇り」という意味であり、そこには「自分を抑え慎む」意味も含まれているという。この【矜持】という言葉が、『日の名残り』の主人公である執事スティーブンスを語るのにもっともふさわしいと思う。

 

物語の舞台こそは20世紀半ばのイギリスだけれど、主人公スティーブンスの口から語られる、由緒ある貴族屋敷に仕える執事としての品格、こまやかな気遣いとその裏にある緻密な職務計画、伝統にこだわる一方でアメリカをはじめとする新興勢力への対応を決めかねてとまどう様子などは、現代日本で、「昭和的価値観」で育った人々が、平成、令和の世にとまどい、ときには適応できずにますます古い価値観にこだわる姿とほとんど同じに見える。

たとえば、スティーブンスは貴族屋敷でのある重要な国際会議の給仕に忙殺されるあまり、まさに同じ屋敷の中で倒れた父親を見舞うこともままならず、ついにはその死に目にもあえず、しかも回想の中でさえ「国際会議のあの夜を振り返ると、その成功に大きな誇りを感じる」と言ってのけた。「24時間戦えますか」がキャッチフレーズとなるほどの猛烈な働き方がはびこり、それこそ親の死に目にあえなかった人々も多かったであろう高度成長期の日本と、奇妙に重なる。

しかも。国際会議の成功に誇りを感じるというのは、あくまで執事としてうまく貴族屋敷の環境をととのえることができたという意味であり、国際会議自体の是非は、主人であるダーリントン卿が判断することであり、執事の領分にない、という意味のことを物語後半でほのめかしている。

主人の命令にただ従うスティーブンスのやり方は、スティーブンスの独白にしばしば登場する女中頭ミス・ケントンの言動を借りて反映される。ミス・ケントンがスティーブンスに向ける言葉と態度は、スティーブンスが本人の思う「品格ある執事」で在ろうとするあまり、時に滑稽なまでに人情を無視したふるまいをしていたことを映し出す。

たとえばダーリントン卿がユダヤ系の女中を解雇するよう命令したとき、スティーブンスは反対するミス・ケントンに「主人の命令に従うべきです」と言い放った。だが数年後、ダーリントン卿が女中の解雇を後悔するような言葉を口にすると、同じミス・ケントンに「解雇は正しいことではなかった」と言う。それをーー少なくとも独白の中ではーーおかしいと言わず、主人の命令に忠実に従うことこそが品格ある執事のするべきことだと断ずる。

その自覚のなさが滑稽で、不気味だ。

物語終盤でスティーブンスは突然自分の不覚を語りはじめるが、なおさら「じゃあこれまでの独白は全部自己欺瞞だったの?」という気分になる。

 

イギリスと日本がさまざまな点で似ていることはよく指摘される。島国であること、伝統的な王室を維持していること、前例を重視することなど。『日の名残り』は、イギリスと日本の伝統的価値観が似ているところにまさにスポットをあてているから、日本の読者にはわかりやすい。

だが、私がこの作品を好きなのはそれだけではなく、「滅びの美学」が貫かれているからだ。

「滅びの美学」は、日本文学でいえば太宰治の『斜陽』あたりが代表だと思う。スティーブンスが語る貴族屋敷で執事としてすごした日々はすでに過去のものとなりつつある。屋敷の主人はジョークひとつ言うのにも苦労するアメリカ人になった。かつて女中頭ミス・ケントンと交わした、置物だのフォーク磨きだのシーツだのについての会話は隅々まで覚えているのに、現在の主人に代わってからの仕事についてはほとんど詳細が語られない(スティーブンスが老齢にさしかかり、前ほど記憶力が良くなくなったことを示唆しているのかもしれないが)。

哀惜をともなって語られる古き良き日々が、現在それが失われつつあることを残酷に反映する。沈みゆく夕陽に、大英帝国の落日を重ねながら、スティーブンスが語る貴族屋敷での日々は、真昼の太陽のように華やか。現在と過去の陽光が織りなすみごとなタペストリーのような小説を、ご賞味あれ。