コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

21世紀の皇室外交〜君塚直隆『カラー版 王室外交物語〜紀元前14世紀から現代まで〜』

 

なぜこの本を読むことにしたか

イギリス王室のハリー王子とメーガン妃の王室離脱騒動といい、日本皇室の眞子さまの結婚騒動といい、21世紀に入ってから、君主制の「中の人」が自発的にその地位を捨てることが立て続けに報道されている。

日本では男系による皇位継承のみを認めているため、皇位はやがて秋篠宮さまやご子息である悠仁さまに受け継がれていくが、もし悠仁さまが姉である眞子さま(小室眞子さん)同様、皇室の一員としての役割に消極的な考え方をお持ちであれば? あるいは悠仁さまが予定通り皇位についたとして、世継ぎとなる男の子が産まれなければ? または、産まれた男の子が皇室存続に消極的であれば?

そんなことを考えてしまう時に、この本を読んだ。

 

本書の位置付け

現代における王室外交のあり方を考えるため、王室外交の歴史を初心者向けにやさしく解説した本。著者はイギリス王室を長年研究してきた専門家であり、イギリスをはじめとするヨーロッパの王家を、日本の皇室と対比させるという切り口で王室・皇室のあり方を浮かびあがらせる。

 

本書で述べていること

現在、君主国が(日本も含めて)28ヵ国しか残されていないという事実から入り、王室や皇室は「一見すると時代遅れの封建時代の遺物とも思われがち」だとした上で「二一世紀の現代においてもきわめて重要な意味を持ち、それが特に「外交」の側面において見られる」と論じ、そこから外交の歴史をたどりながら、王室や皇室が果たしてきた役割を紐解いていく。

 

感想いろいろ

なぜ皇室が存続しているのか。「中の人」たちはみずからの言葉で答えるだろうか。

眞子さまがあれほどの強い意志をもって、「眞子内親王」から「小室眞子さん」となることを選んだことが、皇室のあり方、なぜ皇室が存続しているのか、そのことを考えるきっかけになり、この本は考えるためのヒントをふんだんにくれた。

 

本書を読んで、一庶民として考えたことを、まとまらないなりにつらつらと。

外交を結ぶにあたってはお互いが対等関係にあることが重要であり、長らく中華王朝一強であり、朝賀を求められてきた日本と韓国、東南アジアなどでは「外交」は生まれなかったということが、私には意外に感じられた。これまでは朝賀などの主従関係も外交に含まれると思いこんでいたから。

外交を結ぶにあたって最も重要なのはお互いが「対等」な関係にあり、それをお互いが認め合っていることである。中央に強大な大国がありその周辺に属国が散らばっている、という状況では「外交」は生まれない。あとで紹介するとおり、そこには「朝貢」や「冊封」といった主従関係もしくは上下関係に基づく結びつきしか生まれないのである。

現代で皇室が担うのは「ソフトの外交」であるという指摘には深く納得できた。政府高官や外交官が行う「ハードの外交」ではつねに自国利益を最大化する「成果」を求められるが、王室や皇室外交はいわゆる「関係性を保つ」ことができれば良いという。心理学的にも、頻繁に顔を合わせる相手には好意を抱きやすいから、王室や皇室のメンバーたちは、お互い行き来するだけでも意味がある。

国境の画定や条約の締結など、国と国との間の「ハードの外交」を担うのが政府首脳や職業外交官たちの職務だとすれば、王侯が担うのは「ソフトの外交」ということになる。現在でも王侯自身が絶大な力を持つ中東諸国やブルネイなどを除き、ヨーロッパの王侯らは自分で勝手に他国と条約などは結べないかもしれないが、政府間の関係が気まずくなったときには、それを和らげてくれる「緩衝材」のような役割を果たしてくれる。

 

こうしてみると、やはり21世紀の皇室外交は象徴的な意味合いが大きいな、と思う。皇族の「顔を立てて」両国の外交官が同じテーブルにつくが、そこからの交渉に皇族は(表向き)口出さない。外交官のように外交上の成果があがらないのは当然で、そもそも外交上の成果を求めるべき存在ではない。

ようするに社交界の全世界版といえようか。君主がいなくなるのは貴族のお家断絶みたいなもので、以後、社交界のサロンに呼ばれたら執事(政府要人)が名代として出席するが、まだ存続している名家当主より格は落ちる。

いずれにせよ国家同士のつきあいでは「相手に会ってもらえる」ことがとても重要で、その意味では「会わないわけにはいかない」皇族の存在意義は大きい。

これが「なぜ皇室が存続しているのか」という問いへの答えであれば、もやもやが残る。しかしそれは「ソフト外交」が不要だというわけではなく、現代の日本社会では仕分けや外注がはびこり、コストパフォーマンスだの費用対効果だの効率化だのという言葉が飛び交っているから、『すぐには目に見える成果がでない』ものに対してもやもやするようになってしまっている。

ようするに私の考え方の問題だ。

 

皇室は効率化の対極にある存在だ。効率化が正義などというつもりはない。人はパンのみで生きるにあらず、という言葉が聖書にも出てくるほどで、コロナ禍でなかなか外出できない中、自宅で楽しめるオンライン配信動画や音楽などがどれほど心の慰めになっただろう。だが皇室になると、普段目にすることがないだけに、条件反射でもやもやしてしまう。

 

話は変わるが、皇族は「ソフト外交」の担い手であり、国際親善の潤滑油である、と言われれば、まあそういうものかもしれない、と、納得はできる。だけど、トルストイの《戦争と平和》やバルザックの小説に登場する貴族サロンなどが典型だけれど、格式と伝統と形式と予定調和と空気読め圧力に満ちみちていて、合わない人はとことん合わなさそうだとも思う。

中国ではここ数年清王朝の宮廷ドラマがブームで、私は時代考証がなかなかしっかりしていると評判の『如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』を見てみたけれど、皇帝の行動がいついかなるときでも儀式的で、すべてが前例主義、食事時でさえ「一品につき三口以上食してはならない」(食べ残しから皇帝の好物を推測されると、そこを狙って毒を盛られるリスクがあるから…らしい)といった調子で、ごはん美味しいですか? と聞きたくなる。

国際親善の担い手としてさまざまな儀礼に縛られなければならないのが嫌になる「中の人」もいるだろう、だから離れてしまうのかもしれない、と、想像する。