コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】リアルな英国医療現場をさらけ出す傑作ノンフィクション〜A. Key “This is Going to Hurt”

 

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は③。イギリスの国民保険サービスNHSで働いていたジュニアドクターが書いた赤裸々日記形式のノンフィクション。Amazonの評価と人気にひかれて購入。

 

本書の位置付け

医療従事者によるノンフィクション物。この手のノンフィクションはそこそこ読んだことがあるけれど、かなり読みやすい方だと思う。

イギリスのNHSで働くジュニアドクターが、医療現場の日々を(守秘義務にふれない程度で)書いているのはもちろんだが、ドクターがおかれている過酷な現状や、それをもたらした医療制度、政府方針の弊害についての主張をこめている点で、いわゆる告発本にも近いかもしれない。

 

本書で述べていること

医師が日々直面している激務、精神的圧力、友人恋人との関係維持のむずかしさ、理不尽な医療制度、無理なコストカット、やっかいな患者などを、日記形式でブラックユーモアたっぷりにつづっている。

もちろん全員匿名。訴訟リスクを回避するため。偽名をハリー・ポッターシリーズの「マイナーな登場人物」から採用するという粋なことをしているので、ハリポタファンとしてはフレッチャーやらロックハートやらの名前を見てニヤニヤする楽しみも。(ポンコツ魔法使いで、自慢話と自伝書きだけは大得意のロックハート教授が『マイナーな登場人物』に該当するかどうか、是非著者の意見を聞いてみたい)

 

感想いろいろ

本書は英語原文にチャレンジしてみた。英語表現は英語特有のイディオムや笑いを取るためのわざとらしい言い方がふんだん。文章はむずかしくなく、日記形式だから一日分がそれほど長くなく、重要な医療用語にもていねいに解説をつけているから、思ったほど苦労しないという印象。医療用語を辞書でひくわずらわしさを我慢出来れば、英語で読んだ方がさまざまなギャグ、ユーモア表現、(時に際どい)言葉遊びを思い切り楽しめる。

たとえばこんな感じ。sssssssはタイプミスではないーー念のため。(余談だが、ハリー・ポッターシリーズでも、主人公ハリーにはロンという親友がいる)

...after dinner and drinks and drinks and drinksssssss with Ron and his wife Hannah.

(意訳)(著者の友人の)ロンと彼の妻ハンナと夕食をとり、飲んで飲んで飲みまくったあと…

読み始めてみると、くすりと笑わせてくれる日記もあれば、イギリスお得意のブラックユーモアでもなかなか和らげることができない厳しい現実が、王蟲の大海嘯のごとく文章から迫ってくる日記もあって、読んでいてだんだん息苦しくなってくる。

余命宣告され、愛する家族を思って涙する患者がいた。診察中にいきなり大量吐血し、著者のシャツにまで血を飛び散らせた患者がいた。「患者の止血バルブを探す? 喉にキッチンペーパーを詰めこむ? バジルを浮かべてガスパッチョにする?」とおどけてみせるものの、結局患者は死亡した。

さまざまな患者や病院スタッフとのやりとりのほかに、イギリスの医療制度及び医師の待遇についての記述もたくさんある。13日間連勤で代休無し、夜勤中に5分おきにコールされる、コストカットで病院用ITシステムを導入したけれどポンコツで結局手間が増えただけ、サービス残業も多いから時給換算すれば駐車場のパーキングメーターほどにも稼げない、年単位で病院配置換えがあるからうっかり家を買うこともできない、仕事が忙しすぎて親友の冠婚葬祭にほぼ出席できず絶交されそうになる、新婚旅行さえ直前で予定変更せざるをえなかった、といったこと。著者は産婦人科医であるが、激務&低賃金はどの診療科の医師でもあまり変わらないだろう。最後に著者が聴診器を置いたきっかけとなった瞬間は、涙なしでは読めない。心が折れた、ポキリという乾いた音が聞こえてきそうなほど。

この本を読んだ人がもし医療スタッフだとしたら、我が身に起こったことのように感じるだろう。そうでない人々が、次に病院にかかるときに、医療スタッフに少しでもより優しくできることを願わずにらいられない。あたりまえすぎて誰もが忘れそうになるけれど、相手は白衣を着たサイボーグや人工知能や「すべてを犠牲にするのが当然の白衣の天使」ではなく、喜怒哀楽のある人間なのだから。

 

あわせて読みたい

ときどき本文にFワード、医療以外の性的表現(ぶっちゃけると "erect" 。意味は「勃起」)、特定信仰団体攻撃(「輸血」というキーワードでわかる人にはわかる)、人種差別用語(「昔はこういう言葉もあった」という文脈だが)がでてくるので、邦訳ではどうなっているのか確かめてみたところ「特殊状態」「突拍子もない考え」「時代遅れの言葉づかい」といったマイルド表現になっている。

児童番組から暴力や性的表現を一掃するようなもので、悪いとは言わないけれど、こういう自主規制があることを示し、考えさせてくれる本が必要なのはこういうときだと思う。おすすめ2冊はこれ。