コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】ワクチン開発競争と政治の壮大な駆け引き〜メレディス・ワットマン『ワクチン・レース』

 

本書は1964年から65年にかけてアメリカで起こった風疹の大流行と、その後に続く風疹ワクチン開発についてのノンフィクション。

風疹は感染症の一種で、発熱、発疹、リンパ節の腫れなどをもたらす。特に注意すべきなのは、妊娠初期の母親が風疹に感染すると、胎児の死産、流産、早産、先天奇形等の異常を起こす可能性があるということだ。先天奇形には視覚障害聴覚障害、心臓奇形などが含まれる。これを先天性風疹症候群という。

この本によると、先天性風疹症候群が存在するかもしれないという論文が発表されたのが1941年、ウイルスが分離されたのが1960年代、風疹ワクチンが接種されるようになったのは1970年代初めである。わずか50年前まで、妊娠初期に風疹にかかった母親は、人工中絶するかどうかの選択を迫られていたのだ。ワクチンがこのような苦渋の決断から母親たちを救った。

現代の日本では、風疹ワクチンは(麻疹との混合ワクチンとして)1歳児全員に接種され、また妊娠初期で風疹抗体価検査が行われる。ここ最近では、昭和37年4月2日から昭和54年4月1日までに生まれた男性には風疹ワクチンが接種されておらず、流行が始まっていることを受け、厚生労働省が風疹抗体調査及びワクチン接種助成を広く行なったことが記憶に新しい。

 

本書ではウイルスとはなにかから始めて、ワクチンはどのように開発されるか、なぜワクチン開発で細胞が非常に重要な役割を果たすのか、丁寧に解説している。

ウイルスとは、細胞に侵入してその機能をハイジャックし、増殖する、感染性のある微小な病原体だ。(......)予防接種の原理はシンプルだ。ごく微量のウイルスーー殺したウイルス、もしくは弱毒化させた生きたウイルスーーを注射もしくは経口で投与すると、体内ではそのウイルスに対抗する抗体が作られる。予防接種を受けた人が将来、自然発生した病原性のあるウイルスにさらされると、この抗体が侵入者を攻撃し、病気の発生を防いでくれるというわけだ。

中学生物程度の知識があれば、少なくとも前半部分を理解するのはそう難しくない(私がそうだ)。後半部分はDNAの複製だのテロメアだのが出てくるから多少難しくなるけれど、読み飛ばしても本筋にはそれほど影響しないーー細胞の所有権をめぐる研究者と政府の法的闘争についての物語には。

この本の目玉は、ウイルスやワクチンについての科学知識だけではない。その科学知識を得るためにウイルス研究者レオナルド・ヘイフリックが行ってきた研究をたどり、科学的側面だけではない、ワクチン認証機関による政治的妨害、宗教的批判、人間関係のこじれ、そのすべてをできるだけ全面的に見せている点こそが、この本の真髄だ。ウイルスは人間社会の都合など忖度してくれない。だが人間がウイルスについて理解するために行うアプローチには、人間社会の都合が色濃く反映される。

 

人間社会の都合の最たるものとして、まずひとつのシンプルな質問から始めよう。ーーワクチンやその基礎技術となる細胞培養でもうかったカネは、誰が手にするべきか?

莫大な利益を前に心動かない人間は稀であり、研究者も例外ではない。かくして本書は、さまざまな当事者の利権闘争に切りこむ。あまりにも利権闘争が激しくなりすぎて、ヘイフリックは彼が培養した細胞群を抱え、当時勤務していたウィスター研究所から逃げ出したほどだった。逃げ出した先はアメリカ大陸反対側にあるスタンフォード大学研究室で、彼は細胞群を取り戻そうとするかつての上司と熾烈なやりとりをすることになる。

もう一つシンプルな質問を重ねよう。ーーヒトに対するワクチンの有効性はどうやって調べればよいのか?

第二次世界大戦終戦後から20年、1960年代前半まで、医学実験ーー人体実験ーーのハードルは低かった。囚人、未熟児、知的障害児、孤児院の子どもたちが医学実験の対象となった。そのおかげで何億人もの人々を救うワクチンが開発された。

本書に登場するワクチン開発に使用されたヒトの実験細胞自体、人工中絶された胎児の一部から培養された。理由は、当時ワクチン開発に使われていたサルの腎細胞は未知のウイルスに汚染されている可能性があるが、健康な母親の子宮の中で守られていた胎児はウイルスに汚染されている可能性が低く、「より安全な」ワクチンを生産できることが期待されたからだ。実際、サルの腎細胞を汚染しているウイルスのなかには、ヒトにとって致死性のものもごく稀ながらあった。1967年に発見されたマールブルグウイルスというウイルスは、あのエボラウイルスの親戚で、人間の致死率は20%を超えるとされる。マールブルグウイルスの発見物語はエボラウイルスについての優れたノンフィクション『ホット・ゾーン』に詳しい。

もちろん、ワクチンを接種する側にとっての「安全」であり、当の人工中絶された胎児が声をあげることは永遠にない。

 

医学の進歩はよく「人体実験」の是非と結びつけられて議論される。本書でとりあげられた中絶胎児細胞からのワクチン製造もそうだし、アメリカが第二次世界大戦勝利後、枢軸国で行われていたさまざまな医学研究ーーナチスユダヤ人を利用して行っていた人体実験の記録や、原爆投下後の広島・長崎で採取したデータなどを含むーーをまるまる手に入れたという黒い噂も根強い。現代では、新薬や治療法開発のための治験を行うためには、まず計画書を提出して、倫理審査委員会の審査をパスしなければならない決まりだ。本書でも、今なお中絶胎児細胞を使用してワクチンを製造していることには、根強い反対意見があることが述べられる。だがそのワクチンが、人体実験が、数十億の人々の生命を救ってきたのもまた事実である。

倫理的問題もあろう。犠牲者たちの声なき声を忘れてはならないだろう。それでもわたしは健康に生きていたい。わたしの子どもにも健康で生きていてほしい。だからワクチンを接種し、病気になれば病院に行く。わたしは単純にそう割り切っている。

 

ワクチン開発競争、経済的利益、特許、所有権、倫理的問題、政府機関との駆け引き……本書は「人間としての研究者たち」の物語である。

是非読んでほしい。

これほどの物語がそれぞれのワクチンの背後に隠されていること、いま接種が進んでいるすべての新型コロナウイルスワクチンの背後に隠されていることに、思いを馳せながら。