コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

古色蒼然としたものたちに息づくモノたち〜小野不由美『営繕かるかや怪異譚』シリーズ

 

死んだ叔母から受け継いだ築年数も定かでないほど古い町屋、その奥庭に面するあかずの間の襖は、何度閉めてもいつのまにか開いている。

苦労を重ねて年老い、足腰が弱まり寝ていることが多くなった母親が暮らす古色蒼然とした平屋、その屋根裏を誰かが歩き廻っている、という。

絹糸のような雨が降る日、古い町並みにチリンと澄んだ鈴の音がひびき、黒い和服の女が姿をあらわす。見てはいけないものだと分かるその女はどこを目指すのか。

 

営繕とは建物の新築、増改築、修繕、模様替えなどを意味する言葉であるが、本シリーズでは新築や建てなおしは工務店の仕事として、営繕屋は主に増改築、修繕、模様替えなどを手がける。これらが必要になるのはもちろん新築ではなくある程度人が住んでいた家で、いつのまにかそこにさまざまな人ならざるモノがまぎれこみ、怪談となる。そこに住む生きている人々、そこにまぎれこんだ人ならざるモノたち、それらを見守りながら家を手入れする仕事を請負う「営繕かるかや」の尾端ーー彼ら彼女らをめぐる一話完結式の短編小説集が本シリーズ。

そのようなモノを営繕屋は祓わない。それは神職や僧侶の仕事である。営繕屋はそのようなモノが住む人を怖がらせてしまわないよう、悪意あるモノなら被害を及ぼさないよう、古い建物を手入れする。

「自分でもときどき、怖い話を書いているのか、懐かしく愛おしいものについて書いているのか、分からなくなります。自分にとっての怪談は、そういうものなのかもしれません。読者の皆さんにも、同じように感じていただけたら幸いです。」

作者・小野不由美さんが営繕屋シリーズに寄せた言葉は、このシリーズの心をこの上なく的確に表している。

西洋怪異は怪談といえば吸血鬼だの狼男だのゾンビだのの怪物のイメージが強いが、おそらくそれは宗教的観点から「神の御心にかなう善なるもの」と「神にそむく悪なるもの」の対比が常に意識されているからであろう。これに対して東洋怪異といえば「人の理から外れたモノ」ではあるけれど、ただちに善悪判断できるものではない。

本シリーズに登場するモノたちも、明らかに悪意をもつモノもあれば、反対に守ってくれるモノもあり、悪意も善意もなくただ生前の想いそのままにとどまってしまったモノもある。そこには人の営みが、重ねた時間が、過ごした日々が、黒光りするほどに使いこまれた床板や濃い木陰を落とす茂みとともにある。それは恐怖をもたらすものではあるけれど、その背後にある人の望みはまた、懐かしくも愛おしいものと呼ぶにふさわしいのだ。