コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 66 / 365> S. King “IT” (邦題《IT》)

英語の本365冊読破にチャレンジ。原則としてページ数は最低50頁程度、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2027年10月。20,000単語以上(現地大卒程度)の語彙獲得と文章力獲得をめざします。
もはや説明不要の恐怖小説の帝王スティーブン・キングは今年でデビュー50周年。彼の作品で好きなものをまずは語る。

呪われた町》ーー小野不由美さんの作品《屍鬼》が好きでたまらないのだが、《屍鬼》が《呪われた町》へのオマージュであると知りさっそく読んでみた。どこにでもある田舎村を舞台にした吸血鬼騒動。不可思議な転居者、異様な死、不安と恐怖にかられる中でしだいに芽生える疑惑。題材は同じでも、アメリカと日本で全然料理方法がちがうのがなかなか興味深い。どちらも最後までページをめくる手を止められない傑作小説。

《シャイニング》ーー〈かがやき〉と呼ばれる不思議な力をもつ少年ダニーとその両親が、冬の間管理人として住まうことになった雪に閉ざされたホテルで、ホテルに巣食うモノに追いつめられてゆく話。読了後怖くてしばらくホテルに泊まれなかった。

グリーンマイル》ーー殺人罪で死刑判決が下された黒人とその看守が、結末が近いことを知りつつも交流を深める感動作。映画のキャッチコピー「僕たちは、世界で一番美しい魂を、握りつぶそうとしていた」が素晴らしすぎて泣ける。ほんとこれ。

ミザリー》ーー交通事故で大怪我を負った流行小説作家をたまたま通りかかった女性が助けて自宅に連れ帰るが、女性は彼の小説の熱狂的なファンで、目覚めた彼を監禁脅迫してすでに完結した小説の続編をむりやり書かせる。怖い。なおキングはなにをしでかすかわからない狂信者じみたファンと実際に接触しているから、小説にはかなり実感がこもっているとか。

しかしキングの最高傑作と名高い《IT》は実は未読だったため、この機会に読む。

物語は1958年と1985年を行き来しながらすすむ。

始まりは1958年のある秋の日、メイン州のデリーという田舎町で、何日も降り続く大雨がもたらした洪水がようやく引こうとしていた。6歳のジョージ・デンブロウは、兄に折ってもらった折り紙のボートを冠水した道路に浮かべて遊んでいたーーそして殺された。下水道に潜むピエロに。左腕をチョウの羽かなにかのように引きちぎられて。(ここまでは映画の予告編にも出ていたから有名であろう)

物語にはアメリカの1950年代後半の郷愁をかきたてるような情景描写がふんだんに盛りこまれている。スクールカーストと不良(本人はナイフを振りまわす、頭のいかれた親父はショットガンをぶっ放す)、長蛇のような貨物列車とさびれゆく鉄道会社、家族経営の小規模農場と収穫期のご近所同士の助けあい、男の子たちの魚釣りや川遊びや廃墟探検。しかしあることをきっかけに出会った少年少女たちは、自分たちが住む町で恐ろしいものを見たことがあるという話を共有する。〈それ〉はさまざまな姿で現れ、子どもたちを殺すのだ。

27年後、当時子供だった面々はすでに成長してデリーを出ていた。しかし地元に残る幼馴染であるマイクがかけてきた一本の電話がすべてを変えた。ジョージを殺した〈それ〉がふたたび現れたのだ。かつての少年少女ーージョージの兄ビル、ビルとともに怪異を目撃したリッチィ、人ならざる怪物を見たベンとエディ、洗面所で不気味な声を聞いたベヴァリーーーはそれまでの生活をすべて投げ打ちデリーに戻る。幼い日に交わした約束を守り、〈それ〉と対峙するために。

 

設定としては綾辻行人の《Another》シリーズに似ている。特定の町限定で定期的に一定期間だけ起きる怪奇現象、しばらくたつとなぜか薄れる事件の記憶、ある年怪奇現象が急に途切れて、その原因を追うのが主人公たちの目的になる、というところだ。

しかし《Another》シリーズは怪異をある男子生徒の死をきっかけに起きた〈現象〉ととらえ、〈現象〉自体は意識も意志もなくただなにかの摂理により起こるだけ、犠牲者たちの死に方もいかにも不幸な事故風。一方《IT》では〈それ〉と呼ばれるものは〈外〉からやってきたなにかであり、主人公たちの前に現れるときは風船を持つピエロをメインとしたいわゆる怪物姿で挑発めいた言動を繰返し、犠牲者たちは引き裂かれるなどあからさまに襲われた痕跡を残す。《IT》の方がより具体的に敵の姿や人格をはっきりさせているのは、西洋文化では悪魔や魔女の方がヴィランとしてなじむからかもしれない。

ファンにはうれしいことに《シャイニング》の主要登場人物であるディック・ハローランが友情出演(?)している。マイクの父親ウィリアムの友人で、デリーの忌まわしい歴史、ブラックスポットの大火のときにウィリアムとともに生き延びる。こういうちょっとした楽しみがあるのもスティーブン・キング作品の持ち味。

かつての少年少女たちが〈それ〉と対峙する物語の主軸は陰惨で凄惨だが、やりきれないのは〈それ〉だけではない、むき出しの人間の悪意がこれでもかと物語の背景にぶちこまれているところ。幼い日に主人公たちを執拗にいじめる(というか傷害&殺人未遂レベル)不良3人組、ベヴァリーがさらされる父親や夫の家庭内暴力(少女時代のベヴァリーが迫り来る父親から逃げ出すところは恐怖そのもの)、ブラックスポットの大火の間接原因となった露骨な黒人差別、精神病院収容者への非人道的対応などなど、〈それ〉とは関係なく描写される。

スティーブン・キング作品の特徴として、はみだし者を主人公格に据えることが多いのだが、いわゆる弱者であるはみだし者たちの身に起きることを丁寧に描写することで、彼らをとりまく地域社会の雰囲気を浮かび上がらせる。弱者にどう接するかにこそ、人の本性がでるものだ。この小説はアメリカの地域社会の現実を浮き彫りにする。

とはいえ、少年少女が〈それ〉と対峙する背景となる地域社会に注がれるスティーブン・キングの視線は、批判的ながら、どこか慈愛と郷愁に満ちている気がするのはなぜだろうか。問題山積み、貧困と暴力と差別がはびこる1980年代ーー理想とはほど遠い現実を正面から見つめながら、希望を失わない姿勢が小説全体を貫いているように感じるのはなぜだろうか。〈信じる〉ことの大切さを強調するのはなぜだろうか。まあちょっとベヴァリーの扱いがひどいのは男性著者の限界かもしれないが、幾重にも問いかけてくるような、何度読んでもなんらかの力をもらえるような、そんな小説だ。