コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

逃げるのは役立つ『逃げ出す勇気 自分で自分を傷つける前に』

新垣結衣主演ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で、逃げることのネガティブイメージがちょっと薄くなってきた気がするけれど、いまだに「嫌なことでも3年間は我慢しろ」「逃げ出すのは弱いやつだ」などといった言い方も根強い。本書はそこをとりあげて「逃げることの大切さ」を精神科医の視点から書いている。

うつ病になる人が増えているというけれど、なにを言われたって気にならない性格の人はそもそもうつ病にならない。うつ病になるのは、まわりの人がああだこうだ好き勝手言うことを、まともに受け止めて、自分でも自分を責めてしまう真面目な人だ。自分を追いこめ、自分を打ち負かせるのは、究極的には自分しかいない。

本書はそんな人達向けに「逃げるのもひとつの手だよ、逃げるのはあなた自身を守ることであって、悪いことではないよ」と語りかける。具体的にはどうすれば良いのか、小ネタ集のようにまとめられていて読みやすい。ただし、ただ逃げるだけでは、逃げた先でも同じことをくり返してしまうだけなので、「学び」を大切にするよう呼びかけている。

一度逃げるのはよいのですが、その際に、

①そこから何を学んだか

②次はどうしようか

の二つを必ず考えるクセをつけましょう。反省と行動を伴わせることが大事です。

とくに悩みの原因第一位にあげられる対人関係では、「相手は変わらない。変えることはできないしその必要もない」と割りきって、相手への自分の接し方を変えることにエネルギーを使うことが良い、としている。

相手の「迷惑な性格」を解消するのはその人の課題であって、あなたの課題ではありません。相手を「改造」しようとするのは必ず徒労に終わるので、やらないに越したことはない。その分のエネルギーは「自分の気持ちの整理」や「自己変革」に向けてください。これが、「立ち向かう対象を変える」です。無駄なことはしないに限ります。

どうしてなのか、とくに近親者が迷惑な性格であれば、どうしてもその人に性格を変えてほしいがためにいろいろ行動しまう。それは、その人と気持ちよくつきあいたい、その人が変わってくれれば気持ちよくつきあえるのに、という願いがあるからだ。近親者や親戚とは、いろいろな場面で顔を合わさなければならない以上、気持ちよくつきあえる人々であると願うのはある意味あたり前ではある。

けれど、発想の転換で「近親者や親戚は、私が選んでつきあっているわけではない。たまたま血の繋がりがあってつきあっているだけ。だから気持ちよくつきあえない人が混じっていても仕方ないし、それ相応のつきあいだけにするしかない」と考えることもできる。そして、それ相応のつきあいを維持することにエネルギーを使う。これもまた「立ち向かう対象を変える」ということになるのだろう。

憂鬱な気分になったときに、この本を開いてみたい。気分をよくするためのヒントが、この本には隠れているかもしれない。

【おすすめ】小説ではなく人生そのもの『白銀の墟 玄の月』

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 性格は変えることができる、ただし多大な努力と、時には犠牲を払えば、と、前向きに考えるようになった。これまでは「私の性格のこの部分が嫌いだけど、この歳になれば多分もう変わらない」と諦めていた。
  • まずは自分がキャパオーバーになって追いつめられないために、ひとに任せることができること、お金で代行サービスを買えることは、外注するようにした。

 

小野不由美さんの〈十二国記〉シリーズのかねてよりのファンで、新作『白銀の墟  玄の月』全四巻も発売日まもなく買いに走った。

読み終わったときには、愕然としてしまった。

とんでもない物語を読んだ、という衝撃。えっアノ場面は書かないの?  という驚き。さまざまな感想が一杯になったが、とにかく一言でいうと、化け物としかいえない凄まじい小説だった。

 

物語の舞台は、十二国と呼ばれる異世界。そこでは天が定めた条理のもとで十二の国家が存在し、十二の麒麟と呼ばれる神獣が天命ある王を選び、選ばれた王が国を治めている。

だが、十二国のうちのひとつ、戴国はここ6年間荒れていた。戴国の王である泰王と、泰王を選んだ泰麒が行方知れずになっていたのだ。泰王の代わりに臣下が治世にあたっていたが、自分に逆らう者、泰王の味方と思われる者は軍を出動させて一族郎党どころか街単位で皆殺し、そのくせ政治は無関心、という状態で、戴国の民は塗炭の苦しみをなめさせられていた。

『白銀の墟  玄の月』は、秋が深まろうとするころ、戴国の女将軍・李斎が、ようやく見つけた戴国の台輔・泰麒を伴って、戴国に戻るところから始まる。

戴国では冬越しがなによりも厳しい。雪に閉ざされた大地は凍りついて掘ることすらできず、秋に食糧と炭を蓄えることができなければ餓死か凍死するしかない。だが、荒れた国、疲れた民では、満足に作物を育てることもできず、いつ土匪や軍が襲ってくるのかびくびくしながら生き延びるのが精一杯だった。

そんな中で帰国した李斎と泰麒は、行方知れずの泰王を捜しながら、どうにか冬が来る前に民を救うことができないか模索する。だが二人にできることはあまりにも少なかった。身を隠しながらわずかな手がかりを追い、民間団体に助けを求め、泰王がまだ生きていることに一縷の望みをかける。やがて泰麒は李斎と別れることを決めて、麒麟としての自分にしかできないことをなすために王宮に乗りこむーー。

 

さまざまな登場人物が目まぐるしく変わっているから、誰を物語の中枢にするべきなのは人それぞれかもしれない。

小野不由美さんはかつて「どんな脇役にも人生があり、すべての登場人物にとっては自分こそが主人公である。だけどそれを書きこむと本の横幅より分厚い本になってしまうから書けない。だからそこは読者の想像力にすがりたい」というふうに言っていた。『白銀の墟  玄の月』でもそれが貫かれていて、どの登場人物も、それまで積み重ねてきた人生の上で、物語に登場するいまこの瞬間を生きている、と感じられる。

それでもあえて選ぶなら、私から見ると、この物語の中心はまぎれもなく泰麒だ。

泰麒は今作で、時には葛藤し、時には血を流しながら、これまで麒麟の本性とされてきたことをことごとく覆してみせた(麒麟は慈悲の生き物である、決して剣をとることができない、孤高不恭の生き物で決して王以外には膝を折らない、etc)。

麒麟の本性とされてきたものは、一部は麒麟として生まれてからの教育のおかげかもしれないが、一部は確かに泰麒の本性とも本能とも呼ぶべきもので、決して覆すことができないものだ。ーー本来なら。

それを覆した泰麒がそれだけ主上や戴国のために無茶をしたのだ、自分自身に打ち勝つことができたのだと、ヒーローのように崇め奉るのは簡単だけれど、私はここまで読んだとき、泣けてしかたがなかった。

 

ーーとうとう小野主上が『本性に逆らう』話を書いた。ということと。

ーー頼むから、ここまで過酷な経験に投げこまれないと本性を変えられない、なんてことを突きつけないでくれよ、ということを思って。

 

生まれついてのどうしようもない本性に葛藤する姿は、小野不由美さんのほかの小説にも登場する。

黒祠の島』の浅緋、『屍鬼』の沙子や律子がその典型だろう。浅緋は生まれついての本性を受け入れて「自分はこういう存在だ」と開き直っており、沙子は「こんな弱い生き物は嫌だ」と泣きながらも冷酷な摂理に立ち向かうことができずにいた。律子は「自分を嫌いになりたくない」と本性に逆らいつづけたが、その先には死あるのみであり、希望はどこにもなかった。

『白銀の墟  玄の月』では、麒麟として生まれついた泰麒が、一時的とはいえ、麒麟の本性に悖る行動をすることができた。登場人物のひとりはそれを「意思の力でやってのけたんだろう」と看破していたが、まわりの人々には効果絶大だった。

だがその対価は凄まじい。

まず、泰麒がそれを決断するまでに必要だった人生経験。泰麒はーーこちらの世界とあちらの世界でーー本人の望みにかかわらず事故や天災を巻き起こし、数えきれないほどの犠牲者を出した。麒麟は血を厭う生き物だけれど、自分で殺さないだけで、使令として使う妖魔に殺させるのであれば、結局変わらないことを嫌というほど思い知らされた(『魔性の子』『黄昏の岸  暁の天』にこのあたりの事情が丁寧に書かれている)。これだけの経験をくぐりぬけてきたゆえに、泰麒は、あまたの屍のうえに、それでも現在戴国に自分が在ることを選んだ、だからここで投げ出すことはできない、と、強く決意していた。

つぎに、本性に悖る行動をしたために払わされた代償。泰麒の行動は、望む結果を引きよせることができたけれど、そのために将来にわたって身体の不調が残ると宣言された。どのような不調が残るのか、物語では明らかにされていないが、最高位の神獣であり、穢瘁や失道以外にはほとんど病気一つしない麒麟に、一生ものの不調が残ること自体、とんでもないことだ。

ここまでの人生経験を重ねて、これだけの代償を支払って、ようやく本性に悖る行動をなしえるのか。逆にいえば、ここまでしなければ人間は己の本性に逆らうことができないのか。この物語はそれを赤裸々に見せているのか。

そう感じて、気持ちが沈んだ。

しかも、である。〈本性〉は一時なりとも逆らうことができるものとして書かれていたが、決して逆らうことができないものもまた登場する。〈天の条理〉と呼ばれるものだ。いわば神が定めた規則で、逆らえば神罰として死あるのみという厳しさだ。

物語の中では「変えられるもの」と「変えられないもの」が峻別されていた。泰麒が意思の力でねじふせた本性は「一見変えられないが、そう思いこまされていたところもあって、代償を支払えば変えられるもの」。神が定めた天の条理は「変えられないもの」。

ニーバーの祈りと呼ばれる言葉があるが、それをとことん突きつめている。

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed,and the Wisdom to distinguish the one from the other.

ーー神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

Wikipediaより)

ここまで「本性を変えること」を抉りさげた小説は見たことがない。麒麟という生き物はこういうものだ、という前提がこれまでのシリーズで明らかにされていたからこそ、ここまでの衝撃を与えられたのだと思う。

 

私は泰麒という登場人物から読んだが、この小説はさまざまな読み方ができる。泰麒が本性に勝つ物語、李斎が絶望的な状況の中でもあきらめない物語、国盗りを実行した臣下・阿選が泰王に勝とうとあがく物語、天の条理に触れんとした臣下・琅燦の挑戦物語、塗炭の苦しみの中でも精一杯生きた去思や朽桟や数多くの協力者の物語、子供を飢えで亡くしながらも泰王への恩を忘れずに弔いつづけた名もなき轍囲の親子たちの物語……あげればきりがない。きりがないほどに、それぞれの登場人物が生きている。

登場人物を生かすためのエピソードは惜しげなく盛りこむ一方、ふつうなら最大の見世場となるであろうエピソードも、必要ないとみれば歴史書の記述一行で済ませてしまうなど、恐ろしく合理的な判断もある。この辺は第4巻最後まで読んだ方であれば分かってもらえると思う。小野不由美さんは徹頭徹尾、人間が己の信念や必然によって動くことで物語が動くのであり、見世場をつくるために必要もないのに人間を動かすことはしない、という意思を貫いており、また、そうしても〈十二国記〉の読者は分かってくれる、という信頼も感じる。

とんでもない物語を読んだ。そうとしか言えない。18年ぶりの新刊だけれど、この物語を書くのにこれだけの年月が必要だったと腹落ちする。是非手にとってほしい。そして、それぞれの物語をじっくり何度でも味わってほしい。

中国公務員を知るための必読書《候衛東官場筆記》

中国の小説は、ビジネス小説と公務員小説が人気ジャンルになっているが、この本は公務員小説の草分け的存在であり「公務員を目指すなら必ず読め」と言われている名作。シリーズは何冊も刊行されており、登場人物304名、84件の内部闘争、66の公務員期間、23回の微妙な人事異動が、1人の公務員の運命に織りこまれているというふれこみだ。

中国公務員の内部闘争は露骨で激しく、職場は文字通りの生き残りをかけたサバイバル場である。作者は現役公務員や元公務員であることも多く(そのためペンネームが普通であり、作者紹介でも詳細紹介はない)、細部がものすごくリアルである。もちろん実在の事件を小説に書くわけにはいかないので、架空の都市、架空の事件を書くが、リアリティがすごいので面白い。

 

舞台は90年代な中国。主人公の候衛東(コウ・エイトウ)が大学の政治法律系学科を卒業する前日から、物語が始まる。

候衛東は卒業したその足でつきあっている彼女の実家に赴くも、国営企業勤めの彼女の両親は、候衛東が国営企業のある市に配属されないことを理由に、就職後は遠距離恋愛になると反対する。意気消沈してバスターミナルに戻った候衛東は、ヘルス嬢にしつこくからまれて喧嘩沙汰になり、警備室に逃げこむ。警備室の警官がたまたま大学のOBだったため候衛東はあっさり放免されたが、その警官がもう一人の警官と口喧嘩するのに居合わせてしまう。地下賭博場のタレコミをつかんだOB警官が急襲をもくろんだのに、地下賭博場のオーナーとつきあいがあったもう一人の警官が捜査情報をもらしたために空振りに終わり、以来二人が犬猿の仲であることを、候衛東は知るよしもない。

冒頭のたった数章で、すでに90年代の中国らしさがこれでもかとつめこまれていて面白い。国営企業勤めの職員の傲慢さと地元愛、遠距離恋愛へのマイナス感情、バスターミナルにたむろする違法営業とみかじめ料をせしめて私服を肥やす警官、同僚同士の足の引っぱりあい。2010年代の今ではかなり変わってきているらしいが、当時の中国はまだいわゆるグローバリゼーションによる高度成長期に入っておらず、国営企業は勝ち組、金儲けのためならなんでもあり、という、ある意味小説にもってこいの、混沌とした時代背景があった。

 

候衛東の不運はこれだけでは終わらない。人事担当者の虫の居所が悪かったために、ほとんど八つ当たりでど田舎にとばされ、公務員とは名ばかり、自分がするべき任務も与えられないまま、ネズミのフンがちらばる部屋に住むことを余儀なくされたのである。意気消沈して腐ってもあたりまえの境遇だが、候衛東は「三年以内に彼女がいる都市に異動して結婚を認めてもらう」という目標を胸に死にものぐるいであがき、ど田舎が道路建設に欠かせない石材資源に恵まれていること、なのにまともな道路が通っていないせいで開発できずにいることに気がついた。候衛東は道路建設に乗り出し、同時に、ずる賢くも石材採掘場の共同経営を信頼できる地元民に持ちかける。法律系学科出身である候衛東は、公務員が商売するのは違法行為であることを熟知しており、母親や姉名義にすることも忘れない。こうして候衛東の大逆転劇が始まった。

 

法律知識を駆使して、違法行為すれすれ(アウト)のことを繰り返しながら大金持ちになっていく候衛東は、現代でいう半沢直樹のように、不運な境遇から一歩ずつのしあがっていく。読者はそんな候衛東の姿に勇気づけられ、また彼のやり方から公務員についてあれこれ学ぶことができるというわけだ。

物語は美しい風景が連なる山道を走っているように、決して観客を退屈させることなく、次々とおもしろい景色を読者の目の前に広げる。候衛東がさまざまな難題にどうぶつかるか、それをどう解決していくか。どの難題も面倒この上なく、候衛東がそれらに正面切ってぶつかる姿も決してスマートではない。

当時の中国はまだ法治社会がきちんと機能しているとはいえず、ましてや田舎では拳でものをいうのもよくあることだった。候衛東はそのやり方に馴染めたからこそ、地元住民の心をつかんだ。泥臭く、人間臭く、時には実力行使に出ざるを得なくなる。それをしっかり書いているため、物語に勢いがあり、一気に読ませる。

候衛東が田舎を脱出して、都会に異動になってからは、物語は政治闘争寄りになる。わたしは前半部分の田舎編の方が好きだけれど、政治闘争が好きな読者には、後半の方が面白いかもしれない。こういうバランスの良さもこの物語の魅力の一つだ。

感想がひどく書きづらい、なんともいえない読後感『黒祠の島』

 

黒祠の島 (新潮文庫)

黒祠の島 (新潮文庫)

 

一度めに読み終わったあと、消化不良感が残り、もう一度最初から読んだ。

「信頼できない語り手」というのか、登場人物それぞれが曖昧で思いこみ混じりの記憶を持ち寄り、隠されたことにたどり着こうとしているものだから、もう一度読んでも、煙に巻かれたような気分は消えない。

なるほど、物語冒頭で「夜叉島」という古い地名がすでに地図の上では使われなくなり、平凡な名前に書き換えられたとあった。町村統合などで古い地名が消えることはよくあるから気にもとめなかったが、後で読めば、それは作者から読者へのヒントのひとつだったのか。

なるほど、こういうことなら、あの写真を見たあの人はこう考えたことだろう。見せた側はそれを全く意図していなかったわけだが、思いがけない効果があったわけだ。

もう一度読むとどう煙に巻かれたのかが少しだけわかるが、それでも家系図を書きながらでないとちょっと厳しい。もう一つ、島の人々が主人公式部の言葉をどう理解したのかも、整理する必要があるだろう。

物語の舞台は、九州近郊の海に浮かぶ、近代国家が存在を許さなかった”邪教"を祀る「黒祠」を代々伝える、夜叉島。

作家が執筆する際の参考資料探しや現地調査などを仕事とする式部剛は、失踪した作家・葛木志保を探して、夜叉島を訪れた。港の船乗り場では葛木が友人とおぼしき女性とともに島に渡ったという証言を得たが、島に行ってみると、住民たちは二人の女性を見たことがない、という。

「黒祠」を祀る島であるゆえに余所者を警戒することが身についている住民は口を閉ざし、妨害する。それでも式部は一縷の手がかりをたどり、しだいに住民たちが口を閉ざす理由に近づいていく。

やがて島で起こった殺人事件が式部の知るところになる。惨事の名残を留める廃屋。神域で磔にされていた女。祀られた「黒祠」の正体は裁定者だった。罪ある者を示し、条理に背いた者に激烈な罰を与える神。果たして島でなにが起こり、葛木はどこに消えたのか。それは「罪ある者が裁定された」ゆえなのかーー。

 

閉鎖的な村を舞台にしたミステリー仕立ての小説という点で、『黒祠の島』は同じ作者が書いた小説『屍鬼』と比べられることが多い。最大の違いは、「ソト」から見た物語か、「ウチ」から見た物語かの違いだろう。

黒祠の島』は余所者である式部から見た物語であるゆえに、夜叉島の人々の心のうちに踏みこむことはできない。それゆえ、言動からある程度胸の内を推測することしかできず、夜叉島側の事情についても式部が自らの知識に基づいて推測したことが大半で、実際の祭事などはそこまでくわしく書かれていない。

一方、『屍鬼』は村の内側から見た物語だ。しかも村丸ごとが物語の舞台であるから、登場人物もかなり多い。登場人物らの胸の内がそれぞれ語られ、村の事情についても、祭事、有力者の住民たちへの影響、家同士の込み入った人間関係など、かなりくわしい描写があり、重厚長大な物語になっている。個人的にはこちらの方が読み応えがある。

屍鬼〈上〉

屍鬼〈上〉

 

 

この『黒祠の島』には、作者である小野不由美さんがしばしば別の作品でも言及するテーマが登場する。

「罪に対する罰とはなにか」

「殺人は罪か」

「事情があれば人を殺しても良いのか」

このテーマは『黒祠の島』『屍鬼』そして十二国記シリーズの中編『落照の獄』に登場するが、この問いを投げかけた人間の立場がまったく違うのが面白い。時には殺した側であり、時には殺人者を裁く側であり、苦悶の表情を浮かべて、あるいはどす黒い笑みを浮かべて、この問いは投げかけられる。

それぞれの立場を違えて同じテーマを書くことで、作者もまた、なんらかの回答を探し続けているのかもしれない。どうしても人を殺さずにはいられない事情を登場人物に用意しているのに、それでもなお、人を殺してもいいのか問わずにはいられない性格をも登場人物に与えた。それ自体が作者の迷いであり、登場人物の最大の悲劇であろうと感じられる。

丕緒の鳥 (ひしょのとり)  十二国記 5 (新潮文庫)
 

 

「罪に対する罰とはなにか」

「殺人は罪か」

「事情があれば人を殺しても良いのか」

この問いはあまたのミステリー小説で繰り返されてきたことだが、答えは人それぞれであるし、たとえば平凡に生きてきた人々と、被害者遺族、加害者遺族の答えは違うかもしれない。私もまた答えを持たない。答えを出さずにすむことこそが、恵まれている証かもしれない。

この小説は一読だけでは理解が難しいだろう。読めば読むほど、味わいが出てくるはずだ。二度三度味わってみて、自分なりの美味を見つけだすのが、良い。

21世紀情報戦争の一部としてとらえるべき『フェイクニュース 新しい戦略的戦争兵器』

これまでフェイクニュースといえばデマや風評被害のようなもので、すぐにネットで検証されてウソがばれるから気にしなくてもよい、程度の認識しかなかった。

その認識がものすごく甘いことを、読書開始後3分でつきつけられた。

ネット世論操作は近年各国が対応を進めているハイブリッド戦という新しい戦争のツ ールとして重要な役割を担っている。ハイブリッド戦とは兵器を用いた戦争ではなく、経済、文化、宗教、サイバ ー攻撃などあらゆる手段を駆使した、なんでもありの戦争を指す。この戦争に宣戦布告はなく、匿名性が高く、兵器を使った戦闘よりも重要度が高い。

戦争という言葉が出てきたことも驚きなら、著者がフェイクニュースをここまで重大にとらえていることにも驚いた。

だが、しばらく前に、イギリスのEU離脱の背後にあった大規模なビッグデータ解析とSNS情報操作をとりあげた映画を見たことがあったから、フェイクニュースの重大さはともかく、ネット世論操作の威力を小さく見てはいけないことについては、その通りに思えた。

読み進めるにつれて、フェイクニュースネット世論操作の一手段にすぎず、ほんとうに気をつけるべきは政府主導のネット世論操作、SNS操作、言論統制による民主主義の死だ、ということがわかってきた。

同時に、ユーザーが個人的なものと信じきっているSNSを利用すれば、これほどまでに簡単に個人の意見を操ることができるのか、と、絶望的な気分にもさせられた。

 

誰もが身覚えがあるだろう。テレビで流していることにはあれこれ文句をつけるくせに、親戚や友人に同じことを言われたら「そうかもしれない」という気がしてしまう。新聞で読んだことよりも、「誰かがそう言っていたらしい」という伝え聞きの方をなんとなくありそうだと思ってしまう。新聞やテレビのような、メディアが編集した二次情報よりも、個人が経験した、いわゆる「ナマの情報」を、わたしたちは信用しやすい。

SNSはその最たるものだ。本書では繰り返しフェイスブックが登場するが、フェイスブックは個人的投稿そのものだ。フェイスブックで発信されたことは「誰かがそう言っていた、ナマの現地情報」なのであり、わかりやすく、信用されやすい。

だが、その内容がどのような意図で発信されたのか、どのくらいの事実を切り取っているのかは、本人しかわからないことだ。実際、実生活ではお金に困っているのに、フェイスブックやインスタグラムには旅行だの高級レストランだのの写真を数多く投稿し、セレブな生活を演出している利用者もいる。

これをより意図的に行っているのがネット世論操作であり、一部ではビジネス化までされているという。政府に都合のいい情報を人海戦術で流す一方、都合が悪いニュースはフェイクニュースだと言いはって強制的に削除させたり、発信者を逮捕させたりすることは、すでにアジアの国々では珍しいことではない。

インターネットがなかった時代、新聞やテレビが世論操作に利用されてきた。新聞やテレビの偏向報道と、表現の自由を求めて戦ってきた人々の物語はたくさん伝えられており、しだいに新聞やテレビは信用できないものと考える人々が増えてきた。インターネットはその代わりにすぎないのかもしれない。より高速に、より効果的に、世論操作を行うために。

最近のレポートによれば世界の四十八カ国でネット世論操作が行われており、その全てが現政権維持を目的のひとつにしている。同時にネット世論操作産業とも言うべきものが勃興している。政府や政党あるいは政治家のためにネット世論操作を立案し、実行するビジネスだ。

 

さらに絶望的なのは、「だまされて投票してはならない方に投票する方が悪い」といわんばかりの意見があることだ。

過程はどうあれ、イギリスのEU離脱国民投票で決まったことであるし、トランプ氏の大統領当選は正規の選挙結果だ。投票そのものに不正があったわけではなく、ただ、投票した人々の判断をフェイクニュースなどで惑わせただけなのである。実際には、人々は、これこそが最善だと信じて投票したことだろう。そのための判断材料が「わざとそう判断するように与えられた」ものであっただけ。

それを容赦なく批判する「エスタブリッシュメント」もいるが…はっきり言うと傲慢以外のなにものでもない。

ひとことで言うと、無知だったり、偏っていたり、およそ理性的、論理的ではない人々が投票していたらその結果は悲惨なものとなる。…誰にでも等しく選挙権が与えられるのではなく、ふさわしい人が持つべきであるとしてエピストクラシー(賢人による統治主義)を提唱している。

絶望的な気分にさせられる本だが、踊らされていることを恐れて判断自体をしなくなるわけにもいかない。地道に教育をして人々の情報リテラシーを高めていくこと、判断を下せばあとはそれを信じることくらいしか、出来ることはないかもしれない。

光が強いほど、影も濃い『アメリカ下層教育現場』

世界一の軍事大国、イノベーションの源泉、最先端テクノロジーアメリカン・ドリームなどなど、アメリカを形容する華やかな表現はたくさんある。

一方で貧富差が激しく、銃規制が進まずたびたび殺傷沙汰が起こり、医療保険や福祉制度の質が低いゆえに緊急入院で自己破産に追いこまれかねない、などマイナスイメージもたくさんある。

どちらもアメリカの本当の姿であり、一面にすぎない。

この本で書かれているのはアメリカの負の側面。本業はアメリカのボクサーをメインに取材するフリースポーツライターであり、三流大学出と自嘲する著者が、恩師の依頼を受けて、ネヴァダ州の高校で臨時教師を務めたときの経験をつづった体験記だ。

レインシャドウ・コミュニティー・チャーター・ハイスクールというその高校は校庭や体育館などの施設がなく校舎のみ、すぐそばにドラッグ売人がたむろする通りがあり、著者のクラスを受講する20人近い生徒のほぼ全員が片親または里親、大学進学率は一桁という劣悪な環境だった。

生徒たちのレベルはどん底で、50分間集中することができない、読み書きや理解能力はその年齢にあるべきものよりも低い。だが、高校卒業の資格がこれから社会を渡っていくのに必要であること自体は理解しており、性根自体は素直であった。ただ、劣悪な住環境、教育の大切さを理解しない保護者のもとにあって、高校の教育水準についていけなくなっただけ。

それがこの本を読んで、私が受けた印象だった。

著者は一時期プロボクサーを目指しており、必要があれば生徒たちに怒鳴ることもいとわず、授業の初日に一番体格がいい生徒と相撲を取っても引かない体力を見せつけている。おかげで「なめられなかった」のが、著者がなんとかうまくやっていけた原因のうち、かなりを占めるという気がしている。隣のクラスで喧嘩が起こり、流血した生徒が逃げこんできたり、公園で生徒同士の小競りあいが起こって警察が呼ばれることはあったようだが、著者のクラスではおおむね平和だったように思う。

だが現実は厳しく、著者が臨時講師をやめてから、教え子の半分がさまざまな理由で退学してしまったという。

ニュースを見ると、日本の底辺高校や夜間高校でも、これに似た光景が見られるらしい。アメリカの現在は日本の30年後だという。淡々とした論評のない文章は、30年後にはもはや報道されることすらなくなっているのかもしれない。

お茶請けにおすすめの甘い一冊『日本百銘菓』

和菓子好きにはたまらない、日本全国のすばらしい和菓子を写真付きで紹介した一冊。

著者は旅を中心とするフリーライターで、四〇年に及ぶ日本全国取材の旅で、のべ五〇〇〇種類もの銘菓を口にしてきたという。その著者が選ぶ、忘れられない和菓子。

定番中の定番から知る人ぞ知る銘菓まで、饅頭から落雁までなんでもあり。手元に薄いお抹茶とこの本を用意しておけば、これだけでお茶の時間を楽しめてしまいそうだ。

そんな著者が選んだ和菓子の中から、いつか食べてみたいものをピックアップした。

 

【名菓舌鼓(山口県山口市・山陰堂)】

本書のトップバッターを飾る和菓子。見ためは皮が半透明のお饅頭。中身は白餡。

皮と餡の区別がつかないほど、食感も甘さも溶け合う餅菓子で、真っ白で透き通るような皮は、赤ん坊の耳たぶほどやわらかい。

 

【上り羊羹(愛知県名古屋市・美濃忠)】

この本で初めて名前を聞いた和菓子だが、蒸し羊羹にかけてはこれの右に出るものはないという。見ためは美しい薄小豆色の、さほど密度が高いとは思えない羊羹で、実際、水分が多めで、舌の上でゆっくりとろけるという。

 

【栗甘美(新潟県長岡市・越乃雪本舗大和屋)】

栗そのものの濃厚な美味しさを味わえる、栗に目がない私にとっては見逃せない和菓子。見ためは栗羊羹だけれど、寒天を一切入れないため羊羹とは呼ばないのだという。

 

【栗饅頭(長崎県長崎市・田中旭榮堂)】

栗好きには見逃せない和菓子そのに。栗そっくりの饅頭で、餡と大粒の栗が丸ごと一個入れられ、窯で焼き上げられている。祝いごとには欠かせない菓子として地元ではお馴染みらしい。

 

【どら焼(京都府京都市・笹屋伊織)】

たまたま百貨店の京都フェアで見つけて、その独特な見ためをおもしろがって買い、食べてみてすっかりファンになった和菓子。どら焼きといっても普通のどら焼きのように銅鑼の形はしておらず、棒状である。もちもちの皮はほのかにしっとりとした甘みをもち、中身のこしあん京菓子らしい上品で控えめな甘さ。毎月二〇日〜二二日だけ販売するという物珍しさも嬉しい。