コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

蒙曼 《蒙曼说唐:武则天》

最近中国の人気テレビ番組《百家講壇》をよく見ている。さまざまなテーマについて専門家が一般向けにやさしく講義するもので、内容は主に歴史、文学、現代社会。画面下に字幕もついており、中国語聞取りにも歴史学習にももってこいだ。中国の歴史教育は「なぜこのように歴史は動いたか」「この出来事からなにを学ぶべきか」「もし歴史がこう動いていたら現代社会はどうなっていたと考えられるか」といった問いかけや記述問題が中心で、年号暗記などよりはよほど興味深い。

 

この本は《百家講壇》中で全32回、各回40分にわたり放送された武則天シリーズを担当した講師・蒙曼 (モン・マン) 中央民族大学副教授自らが、同テーマでまとめた著書だ。

武則天、または則天武后。中国史上唯一人の女性皇帝。日本にもかつて女性天皇である推古天皇持統天皇がいたが、武則天推古天皇持統天皇と違うのは、政治的状況から擁護されて帝位についたわけではなく、あまたの反対を策略や力づくで解決して、自らの手で帝位をつかんだことにある。

このため中国の歴史学習ではしばしば「なぜ武則天は中国史上唯一人の女性皇帝になりえたのか? なぜ武則天以降、女性皇帝はついに誕生しなかったのか?」という問いかけがなされる。本講義シリーズは軽妙な語り口、現代風の言葉で (「この人について歴史書では(難解な漢文)と書かれています。まあ今の言葉になおすと超絶イケメンですね」) 武則天の生涯、性格、政治的辣腕、時代背景などからこの問いかけの答えに迫る。

 

本書の書き出しがすばらしい。

历史是用文字记载下来的。而根据福柯的看法,文字中早已渗透了权力的改造。一切历史形象,也因此都在文字中扭曲、变形。

ーー歴史は文字で記述される。福柯(フー・カ)の見解によれば、文字にはすでに権威による改造が浸透している。このためすべての歴史的事象は、文字の中で歪曲され、変形している。

これは一般論ではなく、武則天のことを念頭においた書き出しである。武則天はその生涯においていくつもの漢字を造った。(ちなみに中国では新たな漢字を造るのは皇帝の特権といえる) ほとんどは彼女の死後使われなくなり、彼女が自分の名前としてつけた造字だけは、現在も武則天を語るにあたって登場する。

 

語られる武則天は、政治的辣腕に恵まれながらも、封建社会儒教通念ーー女子は政治に関わるべからず、女子は才無きこそが徳なりーーに最後まで抗いつづけた生涯だった。

武則天は唐の皇帝・高宗の寵姫として後宮入りした。後宮の権謀術数をかいくぐり、生まれてまもない娘の突然死(一説では武則天自身が手を下したとも)をきっかけに当時の皇后を追い落として自ら皇后となってから、皇帝の権威と皇帝本人の控えめな性格を利用してしだいに政治に関わるようになる。だがどれほど政治的才能を開花させても、武則天は女子の身であり、皇帝の一存で皇后位を追われかけるような存在であった。

武則天が皇后位にいたのは23年間。その間に政治的人脈と民の評判を勝ち取るために、祭典をはじめあらゆることを利用した。

皇帝崩御後、帝位についた息子達を次々退位に仕向けたのは武則天自身であったが、臣下や世論を味方につけた彼女が帝位につくためにはなお、儒教通念ーー女子は政治に関わるべからずーーをひっくり返すだけの思想的根拠が必要であった。

彼女が突破口を開いたのは仏教。仏教書をひっくり返して、女子の身で下界の王に生まれ変わった御仏についての目立たない記述をみつけ、自分こそがその生まれ変わりであると宣伝した。ここまでやってようやく臣下らに認められ、武則天は帝位につくことができた。その時60歳過ぎ。現代社会ならとっくに引退している年齢に、彼女は長年の夢をかなえた。

 

武則天についてはどんな言葉でもまとめることができないように思う。この本を読み終えた今、私も武則天をどう思うのか考えがまとまらないでいる。いずれまとまったらこのブログに追記するかもしれない。

武則天の墓地には石碑が建てられているが、その石碑にはついに文字が刻まれなかった。女性の権利が声高に叫ばれる現代、歴史上唯一人帝位についた女性である武則天への評価は高まっているが、いずれまた変わるかもしれない。

アジアの隼 (黒木亮著)

この小説は著者の第二作にして、実際のベトナム勤務経験をベースに「書かずにはいられなかった」経済発展が勢いづくアジアを活写した。

物書きは最初の数作が最も書きたいこと、最も勢いあるものであり、その後は書き慣れてきて表現が落ち着くとともに、最初の数作の内容を手を替え品を替え繰り返すか、新たに書きたいことを次々見つけるかに分かれていくと私は考えている。この小説には文筆業に慣れなくとも書かずにはいられなかった著者の勢いが息づいており、実体験からくる描写の細やかさもあって、読みごたえがある。

 

勢いは物語冒頭からはじける。1994年11月のある日曜日、主要登場人物のひとりが香港の砂浜で仲間に檄を飛ばす場面。

「お前ら、いい暮らしをしたくないのか ! ?でかい家に住んで、美味いもの食って、上等な酒を飲んで、いい女を抱きたくないのか ! ? ……俺たちの『アジアの夢』をそんな簡単にあきらめていいのかよ!」

1997年年始、香港。アジア市場の証券市場で、上昇気流に乗って舞いあがる隼のごとく、業績を上げて突き進んでいく香港の地場証券会社ペレグリン。その債券部長、若き野心家の声から物語は始まる。

 

イラン革命を契機に中断したプロジェクトを書ききった『バンダルの塔』と同じく、この小説もまた、歴史的出来事をからめた経済小説だ。1997年という時期設定から、あるいはタイバーツ建契約が為替リスクのほとんどないものとして小説に登場してすぐに、この後起こることに思い当たる読者も少なくないだろう。アジア通貨危機

1997年7月、機関投資家のタイバーツ空売りによるバーツ暴落をきっかけに、アジア諸国で通貨下落が次々起こり、後にアジア通貨危機と呼ばれる金融危機が巻き起こる。一方でバブル崩壊後の不景気から立ち直れない日本では北海道拓殖銀行破綻、山一證券自主廃業などの大事件が続く。

だがもちろん1997年始時点で、小説の登場人物達はそんなことを知るよしもなく、ペレグリンは「アジアの隼」としてわが世の春を謳歌している。一方で欧米投資銀行もアジアに資金投入し、日本の長期債銀行もベトナムに事務所を開こうと躍起になる。

物語は長期債銀行の真理戸、ペレグリンの韓国系アメリカ人リー、ハノーバートラストのベトナム出身で後に日本国籍を取得したシンの3人を中心に展開される。アジア通貨危機パキスタン政変に巻き込まれながらも懸命にビジネスチャンスをつかもうとする彼らの奮闘が生々しく、小説を血の通ったものにしている。時々警句のようにビジネスの心得が挿しこまれるのも醍醐味の一つで、作者の深いビジネス経験が窺い知れて、面白い。

そうだった。彼は違うのだ。仕事に不平をたれたり、適当に手抜きをしても会社にさえ来ていれば給料がもらえると信じて疑わない日本の甘ったれた終身雇用のサラリーマンではないのだ。彼はなぜ会社が自分に給料を払ってくれるのかを常に意識している。そして自分の給料の妨げになるものに対しては全力で立ち向かってくる。それが欧米人なのだ。

カンボジアで出会いたい100人 (西村清志郎著)

カンボジアで10年間住んだ著者が、カンボジアでお世話になった在住日本人、出会ったさまざまな魅力的な日本人を紹介した一冊。大雑把にいえば、プノンペン編、シェムリアップ編などに分かれており、首都プノンペンでは大使館・外務省関係者などが政治的背景や歴史にからめて自分自身の経験を語る一方、シェムリアップではもっと気軽にカンボジアの自然・文化に魅せられてやってきた人々が頑張ってきた半生を振り返る、といったところ。職種も経験もカンボジア移住理由も実にさまざまで、なにやら職業紹介図鑑を見ている気さえしてわくわくしてくる。

先進国にある「良いもの」で「カンボジアにはまだないもの」をカンボジアに持ちこみ、ビジネスとして成立させようと試みている人、戦乱の中で失われようとしているカンボジア伝統工芸品を復興させようとしている人、孤児院経営や貧しい農村の起業支援をしている人。カンボジアでの活動はさまざまだ。共通しているのはカンボジアに日本にない可能性を見出していること。カンボジア司法省で法整備プロジェクトに関わっていた方の言葉が深い。

カンボジア人は「できない」のではなく、不幸な歴史により教えられる人がいなくなってしまったために「できるようになる教育を受けてこられなかった」だけであって、我々日本人が持っている知識経験をシェアすれば、自ら学んで成長します。

カンボジアの不幸な歴史は、ポルポト政権、クメールルージュなどのキーワードとして、断片的にではあるが日本でも知られていると思う。この本を読むにあたって少し調べた。ベトナム分断時代、アメリカなどの介入でカンボジアでも内戦が起こり、クーデターにより国王が追放された。内戦は激化し、極端な共産主義を掲げるポルポト書記長をリーダーとするクメールルージュ政権樹立。この時代に数百万人が生命を落としたとされる。何代もの政権が前政権を打倒しては立ち、また倒れ、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施されてようやく、少しずつ落ち着いていった。

この本で、この時代にカンボジアにとどまっていた人は少なく、その時代のことにわずかでもふれている人はもっと少ない。だからこそ、言葉のとてつもない重みがある。

 

【おすすめ】『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』(松尾豊著)

良書は目の前の霧をパッと晴らしてくれる。

もやもやしていた感覚を明快な言葉で示してくれる。

つながりが見えなかったものごとの関係を示して、全体像とそれぞれの位置付けを見せてくれる。

本書はまさにそうした良書だ。

 

本書は、人工知能の入門書として真先に名前があがるロングセラーである。

本書では人工知能の技術紹介だけではなく、そもそも知能とはなにかという問いかけや、歴史的観点からの分析もある。著者は、人工知能というものが社会システムの中にどう組みこまれ、それが受け継がれてきた人類の進化の歴史にどういう影響をもたらすのか、ひとつの見方を示そうとしたのかもしれない。

たとえば知能について、著者はある意味理系らしいともいえる回答をしている。

生物に知能があるのも、人間に知能があるのも「行動が賢くなると、生き延びる確率が上がる」という進化的意義によるものであろうから、「入力に応じて適切な出力をする(行動をする)」というのは、知能を外部から観測したときの定義として有力といえる。

それでは学習は?  ここでも著者の主張は明快だ。

そもそも学習とは何か。どうなれば学習したといえるのか。学習の根幹をなすのは「分ける」という処理である。ある事象について判断する。それが何かを認識する。うまく「分ける」ことができれば、ものごとを理解することもできるし、判断して行動することもできる。「分ける」作業は、すなわち 「イエスかノーで答える問題」である。

 

これ以上本書の内容に踏み入れるのはやめようと思う。読むのが一番だ。ただ、読みながら思ったことをこのブログに書き留めておこう。

 

読み進めていくと、日本で取り沙汰されている「機械代替が不可能な職人技とか熟練工の経験」は、実は、特徴表現学習ができていないだけではないのだろうかと思う。キーとなるのは温度なのか、角度なのか、滑らかさなのか、あるいはその組合せなのか。それを明らかにする手段がこれまでなかっただけで、キーは確実に存在する。

著者がいうように、視覚分野で人工知能による特徴表現学習、ディープラーニングが先行しているけれど、人間には五感があるわけで、残り四感ではまだ特徴量抽出が進んでいない(聴覚についてはSiriなどの音声認識技術があるが)。つまり、なにをモニタリングすればいわゆる「職人技」を再現できるのかがわかっていないのだ。

となれば、触覚情報が取りこめるようになれば一気に人工知能による特徴量抽出が進むかもしれず、熟練工が頼りにしている微妙な手触りなどが、いずれデータ化されるかもしれない。

 

日本ではビッグデータの利用を過度に警戒する傾向がある。(ちなみにお隣中国では逆にビッグデータ利用の垣根がきわめて低い。理由は説明不要かと)

だが、人工知能の根幹がデータ学習である以上、このことはデメリット以外のなにものでもない。著者はこのことに警鐘を鳴らしている。技術的優位性を確立されればどうなるかはすでに前例がある。コンピュータのOSをMicrosoftに事実上独占されていたことがそれだ。一度プラットフォームが確立されればそこから巻き返すのは至難の技だ。そして世界規模では、ビッグデータの利用範囲をのんきに議論している時間さえも与えられないほど、動きは早い。

 

著者によれば、最後まで人間の仕事として残る可能性があるのはふたつ。総合的判断と人間に接するインタフェースだ。さて、あなたはどちらのスキルを身につけるだろう?

1440分の価値 (ケビン・クルーズ著)

面白いことに、この本に従うならば、私はきっとこの本をこの先二度読むことはないだろう。なぜなら「一度しか触らない」ことが時間節約に有効なのだから。

 

本書では「時間は最も貴重かつ最も希少な資源である」ことを思い出させるとともに、時間をどう活用すべきか、さまざまな億万長者、トップアスリート、優秀学生達に聞いたことを著者の経験とともにまとめている。

著者が紹介する時間活用方法で、私がとくに役立ちそうだと思ったのは二つ。「先延ばし癖克服法」「スケジュール組入れ」だ。

「先延ばし癖克服法」とは「後でやる」の「後」での自分を信用するなという教えである。その時になればめんどうになってなんだかんだと理屈をつけ始めることはわかっているからだ。このことは私自身よく経験している。「そら、面倒になってきたぞ」と自覚するくらいよく。ならば思いついたばかりで一番やる気がある今、始めない理由がどこにあるだろう? 著者はこのことを秘訣として言いきる。

先延ばし癖を克服したければ、未来の自分に打ち克つ方法を見つけること。未来の自分は、正しい行動を取ると信用できる相手ではない。

スケジュール組入れは、タスクはToDoリストではなくスケジュール表に書きこみ、それをやるための時間をブロックしてしまうという教えだ。たとえば昼休みに20分間運動時間を入れるならば、この時間にほかのことは一切やらない。ランチに誘われれば話は別だが、著者は誰かと一緒にランチをとる時間を、毎月最後の金曜日だけにすると決めている。しかもスケジュール表に書いていれば、その時間までそのことを忘れることができる。脳の容量を、ほかの重要なことに振り分けられる。

たったこれだけのことで心が解き放たれ、ストレスが減り、認知能力が高まる。フロリダ州立大学の研究によれば、ツァイガルニク効果(未完了のタスクによって意識的・無意識的に悩まされる現象)は、タスクを達成するための予定を立てるだけで克服できるという。実際にタスクそのものを終わらせる必要はないのだ。

この本にはこれ以外にもさまざまな時間活用方法が載っており、どれも今すぐに始められることだ。私は今朝、30分読書時間をとった。なにしろ、未来の自分は読書するかどうかわからないのだから。

人生ドラクエ化マニュアルII 人生の敵攻略編 (JUNZO著)

一冊目の『人生ドラクエ化マニュアル』を読んだのは随分前だが、本を開けば、一冊目を読んだときのワクワク感がよみがえってきた。まずは人生ゲーム化理論のおさらいから始める安心設計がうれしい。

<人生ゲーム化理論>

血湧き肉躍る目的を自ら設定し、

本当のゲームルールを創造的に活用しながら、

敵との闘いを楽しめば、

人生はゲーム化できる。

この本ではさまざまなモンスターが紹介される。モンスターといってもスライムなどのドラクエモンスターではない。死の恐怖、不安の影、見栄世間体などなど、現実世界で出現するモンスターだ。著者はそれらの一見強そうなモンスターたちをどのようなコマンドで倒したり仲間にしたりしたのか、楽しく紹介してくれる。

本書の中で強調されていたのは、モンスターの倒し方よりも、意外なことに、難易度調整だった。著者によると、目的を設定したら敵は自動生成される。つまりあまりにも大きな目的を設定してしまうと、障害となる敵もとんでもなく手強くなり、心が折れてしまうのだ。

多くの人が、大きなゲーム目的を設定したはいいが、そこから一歩も前に進む事ができない主たる原因は、この敵の難易度のバランス調整作業を自分でやっていない事にある(大きなゲーム目的を設定したと同時に、目前に巨大な敵が現れ、戦闘意欲がなくなり、先に一歩も進めなくなる)。

つまり、ゲームを続けるには、適度な難易度調整が不可欠だ。ヒノキの棒しかもたない勇者の前にいきなり魔王が現れるようなゲームがそもそも成り立たないように、「今の武器でギリギリなんとかなるかもしれない」敵になるように目的調整する。なんとかなりそうだと思うと、挑戦心が湧いてくる。そうなればやる気が生じる、というわけだ。

目的を設定したと同時に自動生成される敵の攻略難易度は設定した目的の規模により自動調整されている。つまり、規模の大きなゲーム目的を設定した場合、手強い敵が自動生成されてくるし、規模の小さなゲーム目的を設定した場合、弱い敵が自動生成されてくる。

さて、あなたのゲーム目的はなんだろう?  ちなみに私は、ウルトラマラソン完走が当面のゲーム目的だ。

空棺の烏(阿部智里著)

八咫烏シリーズの四作目。舞台は人ではなく八咫烏が支配する世界。金烏(きんう)と冠する族長宗家が君臨し、東西南北の有力貴族の四家がそれぞれの領地を治める。

前作で猿に襲われた故郷と若宮の心のありようを知った雪哉が、決意を秘めて勁草院の扉をたたく。勁草院とは宗家の近衛隊たる山内衆(いわばエリート武官)の育成機関だ。だが長引く若宮派と兄派の政治対立により、勁草院の中でも静かな変化が進んでいた…。

 

これまで貴族寄りだった物語が、出身を問わず実力勝負の勁草院に移ったことで、一転、庶民側にスポットライトがあたるようになった舞台設定は見事だ。

中央貴族は「宮烏」、庶民は「山烏」と呼ばれて区別されているが、それがいつしか蔑称になり果てている。意識の隔たりはあまりにも大きく、とくに宮烏側はそのことがあまりにも自然に感じられるせいでもはや差別に気づかない。

さらにえげつないのは、差別される側が実際に獣同然に貶められる仕組みがあることだ。

八咫烏は通常人形ですごし、自由に鳥形に姿を変えられる。しかし、八咫烏にある三本目の足を斬り落とせば、二度と人形になれず、「馬」と呼ばれ、大車を引くための家畜として文字通り飼われる一生になる。刑罰としてそうなる者もいれば、貧しい家族のために身売りする者もいる。大車は貴族御用達の乗り物だが、貴族の姫君などは「馬」が元々は自分たちと同じ八咫烏であったことすら知らないこともある。

勁草院でさまざまな出自をもつ院生と知りあい、このことに気づける貴族もいれば、目の前に突きつけられても理解できない貴族もいる。本作は残酷なまでにそれを見せる。もしあんたが山烏として生まれていたら同じことが言えるか、という血を吐くような詰問も、生まれてから特別待遇があたりまえだった貴族には届かない。単純に想像できないのだ。

公近は本気で意味が分からない、という顔をした。

「何を言っているんだ。私は、山烏などではない」

差別を描ききった舞台設定も見事ながら、終盤近くで物語が大きく動きだすことで、ますます目が離せない。