コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】日本の未来予想図『Chavs: the Demonization of the Working Class』

 

Chavs: The Demonization of the Working Class

Chavs: The Demonization of the Working Class

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

イギリスのニュース(主にBBC)、イギリスの福祉制度や社会問題等について書かれたオンライン記事などをよく読むようになり、日本社会の30年後の姿を自分なりに予測するようになった。あまり先行きが明るくないようだと、海外移住も考えるかもしれない。そう考えるきっかけとなった本の一冊。

 

Twitterで「イギリス現代社会のことを書いているけど、これって日本の未来予想図じゃね?」とコメントされていた本。電子書籍で読んでみた結果、序盤でどんよりとした気分にさせられたけれど「移民受け入れを決めた日本には確かに他人事じゃないわこれ」という感想。

 

Q: ほぼ同時期に、二人の幼い少女、マデリーンとシャノンが、それぞれ違う家庭から誘拐されました。マデリーン誘拐事件は大々的に報道され、各界著名人から援助の手がさしのべられましたが、シャノン誘拐事件はたいして報道もされず、援助も微々たるものでした。なぜでしょう?

A: マデリーンは常識ある中流家庭育ちだったのに対して、シャノンは喧嘩・暴力が日常茶飯事の貧困家庭出身だったから。

 

笑いごとではなく、現実にイギリスで起こった誘拐事件である。

二人の少女のうち、マデリーンはとうとう見つからなかったが、シャノンは一年後に見つかった。誘拐犯とされたのは母親の彼氏(母親は五人の男性との間に七人の子どもを産んでいた)の親戚だった。このことで母親への非難報道が巻き起こる。

数週間後、事件が母親による支援金目当ての狂言誘拐だったと報道され、非難はますます加熱した。母親本人のみならず、母親が「所属している」と思われた”Chavs”(ワルとかヤンキーに近い)に代表される貧困家庭、さらには貧困家庭の多い地域一帯が批判対象となった。生活保護世帯は子どもの数を制限すべきだというまことしやかな論調まで飛び出した。

 

この誘拐事件が日本で起こるとどうなるだろう?  やはり、狂言誘拐を起こした母親へのバッシング一色となるだろう。

だが、日本社会とちょっと違うのは、イギリスは本来、差別にものすごく厳しい社会制度をもつという点である。

イギリスでは、人種・宗教・LGBTなどを理由に不当な扱いをすれば、裁判所に訴えることができる。不当解雇などでは、企業相手に数億円規模の賠償金を勝ち取ることすらできる。だが同じイギリスでは、”Chavs” への差別にはまるきりブレーキがない。

その根底には、日本の「一億総中流」幻想とまったく同じ考え方がある。

...that we are all middle class, apart from the chav remnants of a decaying working class. ーー私たちはみんな中流であり、腐った労働者階層の “Chavs” のクズどもとは違う、という考え方だ。(意訳)

少女誘拐事件では明らかな報道格差があった。

労働者階層への無理解はメディアが片棒をかついでいる、なぜならメディア関係者はほとんどが中流出身だから、というのが著者の見解だ。これまた日本は他人事ではない。大手新聞社・テレビ局に入るのが一握りのエリートなのは、日本も同じ。

The fact that the British elite is stacked full of people from middle-and upper-middle-class backgrounds helps to explain a certain double standard at work. Crimes committed by the poor will be seen as an indictment of anyone from a similar background. The same cannot be said for crimes where a middle-class individual is culpable.

ーー英国のエリートが中流や、より上の階層出身者に占められているという事実は、ダブルスタンダードの存在を説明する助けになる。貧乏人がかかわる犯罪は、同様の貧乏人たちを誰彼構わず責めたてる口実にされる。だが、中流家庭の人間が犯罪に関わったとしても、同じように責めることはできない。(意訳)

著者は筆鋒鋭く、このような格差社会は、1970年代にサッチャー政権が推進した新自由主義政策がもたらしたと持論を展開する。

民営化、規制緩和成果主義個人主義

地域共同体への貢献よりも資産があるかどうかで評価される風潮。

貧富の差が拡大される一方で福祉費用は削られつづけ、あまつさえ「貧困は自己責任であり、貧困者は犯罪に手を染める可能性が高い」といった根拠なきバッシングまで巻き起こる。

Thatcherism’s attitude was that crime was an individual choice, not one of the many social ills that thrive in shattered communities.

ーーサッチャーイズムの姿勢は、犯罪は個人の選択であり、閉鎖的なコミュニティにはびこる数多くの社会的病理のひとつではない、というものだった。(意訳)

まさに日本で、いま、現在、起こっていることではないか?

 

イギリスの現状が恐ろしいほど日本に似通っている気がしてくる一方、読み進めるにつれて、違和感もまた生じてくる。

著者は格差社会新自由主義政策のせいだと断じる一方、貧困層の怒りをエリートに向けようとしている。だがこれは共産主義者があおった階級闘争そのものに思える。そして、エリートから富を奪い、平等に再分配することで地上の楽園をめざしたはずの共産主義社会もまた、決して理想通りにはいっていないことを、わたしたちはすでに知っている。

一部の人間をーー独裁者であれ、政党であれ、民主的手段で選出した大統領であれーーリーダーに立てると決めた時点で、「持つ者」「持たざる者」が生じるのはもはや時間の問題になるのだと、わたしには思える。権力者のまわりには人や金が集まり「持つ者」になり、それを仲間内で分けあうからますます富む。なのに不思議とそういう人ほど成功を個人的行動の結果と思いこむ。

At the centre of Cameron’s political philosophy is the idea that a person’s life chances are determined by behavioural factors rather than economic background.

ーーキャメロン(イギリス前首相)の政治的信念の中核をなしてきたのは、人生の機会は経済的基盤よりも行動によって決まるという考え方だ。(意訳)

かなり絶望的に思えるが、実際にこれがイギリスの、日本の、アメリカの現状だ。貧困は自己責任、貧困者は道徳観念が欠落した犯罪予備軍だから取りしまらなければならないと考える「持つ者」が一定数居て、格差はますます広がる。

「蟻のコミュニティでは2割の働き蟻がよく働き、残りはなまけている。2割の働き蟻だけを取り出して新しいコミュニティを形成しても、なぜか、時間が経つとやはりそのうちの8割はなまけ始める」と聞いたことがある。人間社会も昆虫社会と同じように、自然に格差社会ができてしまうのかもしれない。

格差社会ができるのは人間社会の宿命なのだろうか?

考えても答えがでない問いを、考えずにはいられなくさせる。この本はそんな本だ。

タイトルがブラックジョークにしか見えない『弥栄の烏』

悲しみながらもぞっとする結末。「弥栄」とはますます栄えるという意味だが、全部読み終わったあとにこのタイトルを見ると、ブラックジョークに見える。

 

本書は八咫烏シリーズの六作目にして、第一部完結篇。舞台は八咫烏が支配する山内と人間界とを行き来する。第五作『玉依姫』を、八咫烏側から見た物語だ。

これまで八咫烏の天敵とされてきた大猿達だったが、『弥栄の烏』で大猿側の事情が明らかになったとき、わたしは大猿に強く感情移入せずにはいられなかった。第四作『空棺の烏』では身分差別を書ききった著者が、今作ではべつの理不尽な現実をとりあげた。

著者が思い描いているのは、おそらく、先住民と侵略者。

このことに気づいたとき、わたしが「先住民」と理解したのはなぜか、差別問題がくすぶるアイヌ民族アメリカンインディアンではなく、大和民族ーー日本人だった。

日本列島に古くから住みついてきた大和民族は、彼らなりの伝統や文化を育んでいたのかもしれない。彼らの言葉、彼らの叡智、彼らの文明があったのかもしれない。だがそれは、大陸からきた唐渡り人達がもたらした文化の激流に呑みこまれてしまった。今ではもう大陸文化の影響が強すぎて、古い古い土着文化を見分けられなくなってしまったーー。

不思議なことに、最初に脳裏に浮かんだのはこのことだった。

終盤に書き付けられた言葉のせいかもしれない。不気味にひびいて、ぞっとする結末のまま幕引きする言葉。先住民の最後の生き残りから、侵略者の末裔に向けた渾身の言葉。

「なあ。自分の罪を、自分にとって不都合な部分をすべて忘れた生き方は、楽しかったか?」

残された人々は、それでも、愛する者たちを守りながら生きていかなければならない。八咫烏第一部は徹底的なすれ違いを残したまま終わり、第二部の悲劇的展開を予感させる。

現代中国を理解するための良書『中国2017』

ぜひ読んでほしい一冊。

著者は中国籍の女性経済学者、ジャーナリスト。中国国内で政治的に敏感な話題に踏みこむ言論活動を貫いたため、国家安全当局による常時監視、尾行、強制家宅捜査をはじめとするさまざまな圧力を受け、二〇〇一年に中国を脱出してアメリカに渡り、プリンストン大学等で研究活動をする一方、ブログや寄稿等を通して情報発信を続けている。

本書は彼女の2017年度の寄稿記事をまとめて、日本語訳したもの。いわゆる深層分析が多く、経済学者兼ジャーナリストならではの鋭く独特の視点、中国とアメリカ双方の政治・経済・社会構造を熟知した洞察、客観的で偏りのない調査・研究結果に基づく内容、読みごたえある文章が持ち味。

彼女の記事が中国国内で読まれることはまずない(アクセス不可)。記事の中で理由の一端に触れることができる。

米のNGOフリーダム・ハウス (Freedom House)は、 2016年の中国宣伝主管部門が下部に命じた文書を分析し、政府がコントロールを重視する順位は、中共と官僚の名声、健康と安全、外交、官僚の誤った行為、メディアと審査、公民社会、経済の順だとしました。

(2017.1.3付Voice of America記事)

ルールの抜け穴に落ちたとき『黄昏の岸 暁の天』

本作の主題はきっとこれ。

「絶対者が定めた、逆らえば死罰が下る〈理〉に支配されながらどう生きるか」

私たちはさまざまな法規制や社会規則に縛られながら生きている。人間社会がうまく回るためにはルールが必要だからだ(殺人が犯罪にならない社会を想像できるだろうか?)。

だが、ルールに抜け穴があったら?修正できず、破れば死刑になるとしたら?

本作はそんな異世界の物語。読めば読むほど気分が沈んでくるが、読まずにはいられない陰惨な魅力をもつ物語。

 

舞台は地球ではない異世界。十二の国があるため、十二国と呼ばれる。そのうちの一国〈慶国〉には、日本から異世界に渡った女子高生・中嶋陽子が女王として君臨していた。

ある日、〈戴国〉の女将軍が利き腕に深い傷を負った血まみれの姿で慶国王宮に転がりこんだ。王と宰輔が行方不明になり、空位をいいことに臣下が暴虐無道のかぎりを尽くしている、生き地獄同然の戴国を助けてほしいと嘆願するために。

戴国の宰輔は、同じく日本から異世界に来た少年、高里要。陽子は彼を捨ておけず、できるだけのことをしようとする。しかし、そこに立ちはだかったのが「条理」だった。

十二国には〈天〉と呼ばれる存在があり、遵守すべき条理が定められている。そこには他国への手出しを禁じられている。破れば、不可思議な力により、陽子は即座に死ぬ。女王である陽子が死ねば慶国は荒れ、民は苦難を舐めることになる。

「天帝がいるのかどうかは知らない。だが、世界には条理がある、これは確かだ。そして、それは世界を網の目のように覆い、これに背けば罰が発動することも確かだ。しかもこれは事情を忖度しない。…いわば天綱に書かれている文言に触れたか触れなかったか、ただそれだけの、自動的なものなんだよ」

どんな理由があろうとも抵触すれば自動的に死の罰が下される「理〈ことわり〉」が明らかになるにつれて、陽子は戦慄せずにはいられない。逆らうことができぬ〈天〉は、戴国の惨状にもかかわらず、条理がないからなにもしない。同じ〈天〉が、戴国を助けようとする陽子達の前に、条理があるからという理由で死罰とともに立ちはだかる。

心情的に納得できるはずもない理不尽さを、小野不由美先生は書く。解決策はない。どのように選択するのか決めるのみ。無力感と絶望感に苛まれながらあがく陽子を、強い意志をもって書ききる。

次回作は十二国記完結編。舞台は戴国。不条理にどのような決着がなされるのか(あるいはなされないのか)、待ち遠しい。

 

絶対者が定めた〈条理〉に翻弄される人々は、小野不由美先生の前作『屍鬼』でも重要なテーマとなっていた。終盤、努力ではどうすることもできない冷酷な摂理を突きつけられた少女の悲嘆が、痛々しく響く。この物語は最低限救いがある結末だったが、十二国記はどう終わるのか。

「これが神様に見放される、ということよ…」

屍鬼〈上〉

屍鬼〈上〉

 
屍鬼〈下〉

屍鬼〈下〉

 

少年の成長する音『風の海 迷宮の岸』

小野不由美先生の十二国記シリーズはかねてより好きだ。

さまざまな人々が登場する群像劇だが、中心となるのは二人。そのうち中嶋陽子の物語は読破したものの、もうひとり、高里要の物語はきちんと読んでいなかった。

12月に入り、本編最終作となるはずの原稿が小野不由美先生より講談社に出されたと聞いた。刊行は2019年中。舞台は〈戴極国〉という。となれば高里要が中心になるはずなので、予習のためにこれまでの物語を読み返すことにした。

高里要の物語は、本来なら本書『風の海 迷宮の岸』の前に『魔性の子』があるのだが、「異端」とみなされた主人公がしだいに地域社会から排斥されていく物語は、重苦しく、精神的にきついため、後回し。

 

十二国は地球ではない異界。雰囲気としては古代中国に近い。しかし、ごくまれにあちらとこちらが「混ざる」ことがあり、天変地異(湖の底が盛りあがって跡形もなくなるなど)とともに、人々が巻きこまれてもう一方の世界に飛ばされることがある。高里要もその一人。十二国の〈黄海〉に生まれ落ちるはずが、現代日本に飛ばされた。本来ならば二度と戻れないが、彼は特別だった。人ではなく、麒麟だったのである。

麒麟は神獣。十二国、一国につき一人の王がおり、麒麟は天啓を受けて王を選ぶ役目をもつ。彼は10歳前後の頃、十二国の一、〈戴極国〉の王を選び、王に仕えるべく呼び戻された。

けれど、呼び戻された高里要ーー麒麟としての名前は泰麒ーーは戸惑うばかりだった。もといた世界でまわりにうまく馴染めなかったのは、自分がもともと異界生まれだと思えば案外すんなり納得できたのだが、王を選ぶにはどうすればいいかわからないし、麒麟の姿に転変することもできない。なにもできず、なにもわからないまま、自分に求められることにただ困惑するばかりだった。

 

本書は高里要が泰麒として〈戴極国〉の王を見つけ、王が即位するまでを描く物語である。まだ小さい子供でしかない泰麒が、一生懸命にまわりの人々の期待に応えようとするあまり、必死に背伸びし、時になにもできない自分自身を否定してしまうのは、見ていて痛々しい。神獣としてよりも、無力な、思春期前の男の子としてしか見ることができない。

悩み抜いて王を選び、ようやく役目を果たすことができたとほっとするところまで、著者は丁寧に泰麒の心理的葛藤と成長を描写する。読み終えたとき、わたしは知らずつめていた息を吐いたがーー泰麒の過酷な運命は、王を選んだ後にこそ始まる。

小野不由美先生は、十二国記シリーズで「生きることの難しさ」を書こうとしているという。苦しみ、悩み、選び、学び、生きる。泰麒の心理過程は、まさにこれに沿っている。生き悩んだ思春期前後の子供に、読んでほしい一冊だ。

神の世界に迷いこんだ人間『玉依姫』

八咫烏シリーズの五作目。舞台は八咫烏が支配する世界から人間界に移る。普通の人間である志帆が、山内村に住まう伯父を訪ねるところから物語は始まる。

村総出で歓迎された志帆だったが、伯父が志帆を呼び戻したのは、山神の生贄にするためだった。なすすべない志帆の前に、大猿に抱えられ、八咫烏を従えた、醜い赤子のような姿をした「山神」が現れた。志帆は大猿から、これを母親として育てよと言われるーー。

 

はっきり言って、志帆は感情移入が非常に難しい主人公だった。不可思議な力が働いていたためとはいえ、紆余曲折ののちむしろ積極的に「山神」に母親として接し、志帆を救おうとやってきた祖母をも追い返したのだから。しかもそうすることにさほど心理的葛藤を見せないまま。

作中指摘されたことだが、志帆はみずからの意志を持とうとせず、他人が言うことを鵜呑みにして、他人が喜んでいればいいと思うような危険なまでのお人好しだ。最終場面で「みずから玉依姫たることを選んだ」と言われても、どこか腑に落ちないところは残る。

わたしは知っている。みずからの意志がなく、他人が喜んでいればそれでいいと思うような人間が実際にいることを。そういう人間は、他人を利用することをなんとも思わない人々の格好の餌食になり、その人を大切に思う友人家族に多大な負担をかける場合すらあることを。だから余計に、志帆が好きになれない。

一方で、作中に登場する八咫烏がシリーズ前作の誰なのか、想像するのはとても楽しい。作中、八咫烏が一羽、大怪我をするのだが、彼に付き添う八咫烏の名前を知ってすぐにそれが誰だか分かった。瀕死の重傷とはいえ、助かるのが目に見えた状況だったこともあり、一瞬、「あいつか!」と膝を打ちたくなる爽快感があった。

 

兄と、弟と、父親の陰《熊と踊れ》

いつも参考にさせていただいているブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人が選ぶ極上の犯罪小説《熊と踊れ》を読んでみた。

極上の犯罪小説『熊と踊れ』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

この本はただの犯罪小説ではない。1990年代初頭にスウェーデンで実際に起きた連続強盗事件が背景にある。

正体不明の強盗団は、軍事作戦にも思える統率のとれたやり方から"軍人ギャング"と称された。彼らがついに逮捕されてみると、誰もが仰天したーー中心となっていたのは二十歳前後の三兄弟とその友人達で、前科もなければ裏社会とのつながりもないと判明したから。

著者のひとり、ステファン・トゥンベリは、逮捕された三兄弟の実の兄弟である。年齢でいえば次男。

兄弟が強盗を計画していることを彼は知っていた。強奪された軍用銃の隠し場所や紙幣を見た。兄弟が逮捕されたあと、彼は二年の歳月をかけて、共著者アンデシュ・ルースルンドに語った。二人は時間をかけて実際の出来事を練り直し、小説として書き上げた。

この意味では、この本は完全なる犯罪小説ではない。ステファン・トゥンベリにとってはある意味で家族史であり、スウェーデンの人々にとってはある意味でノンフィクション。銀行強盗を実行する場面では、断片的と言えるほどに描写は控えめである。だが、スウェーデンの読み手にとっては、充分すぎるのだろう。

 

小説は、父親が三兄弟ーーレオ、フェリックス、ヴィンセント(小説には登場しないが、ステファン・トゥンベリはレオのすぐ下)ーーが母親と暮らすアパートを訪れる場面から始まる。奇妙なことに、そこには「匂い」がある。誰かがドアを開け、入ってきた父親が母親を殴り倒す。家庭内暴力で家族から引き離された父親は、暴力を抑えることができない。

場面が変わり、成長したレオが、動員用武器庫から軍用銃を盗み出そうと息をひそめる。レオは父親から学んだ「過剰な暴力」と「恐怖」を使いこなすようになっていた。父親のように過剰な暴力におぼれるのではなく、利用する。

かつてレオが幼かったころ、いじめられていたレオに父親は人を殴る方法を教えた。父親はそれを「熊のダンス」にたとえた。

これはな……熊のダンスだ、レオ。いちばんでかい熊を狙って、そいつの鼻面を殴ってやれば、ほかの連中は逃げ出す。ステップを踏んで、殴る。ステップを踏んで、殴る!

 

長兄レオが揺るぎなく中心に立ち、弟達と幼馴染のヤスペルを束ねる。武器庫襲撃や銀行強盗の計画は練りに練って、練習は念入りに。成功するたびに祝杯をあげ、計画通りに行かなかったことがあれば次に生かす。まさに軍事作戦だ。

わたしは、読んでいてとても哀しくなった。

レオがしていることは、根源的なところで、家庭内暴力におぼれた父親の記憶から逃れようとするために思えたから。父親にできなかったことを自分はやってのけられる、それを証明することがレオの行動目的の一つに思えたから。だからフェリックスに怒鳴られても、父親と連絡せずにはいられない。もちろん銀行強盗のことなどおくびにも出さないが、自分はうまくやっている、金儲けをしていると、ほのめかさずにはいられない。もっとうまくやろうと銀行強盗計画を練り直し、実行時間をカウントしながらも、父親の陰は常にレオの心にあるよう。

崩壊家庭に育った子どもたちの心理的影響が、共感を呼び起こすから、読み進めるのが辛くなる。なぜ暴力をふるう方向に行くの、と、心の中で叫びながら、それでもわたしは小説から目を離すことができない。それを許さないだけの筆力が、小説をぐいぐい先に読ませる。