コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

20世紀中国の「勝ち組」と「負け組」〜余華『兄弟』

書店で余華(ユイ・ホア)の代表作のひとつ『兄弟』が復刊されているのを見かけた。我が家の本棚にもかなり前に買った『兄弟』があるけれど、積読状態だったため、この機に読んでみた。

ノーベル文学賞受賞作家である莫言(モー・イエン/ばく・げん)が心理描写を多用することで、登場人物から見た主観的風景に重きをおいているのに対して、余華は登場人物が笑い、泣き、怒り、行動するなどの場面描写に重きをおいており、心理については「得意げに言った」「〜ということを知らなかった」という程度ですませることが多いようだ。わたしはたまたま莫言の代表作『赤い高粱』を読んだ直後に『兄弟』を読み始めたものだから、作風のちがいに慣れるまでに時間がかかってしまった。

 

小説は上下部の二部構成。

第一部では、億万長者の李光頭(リー・グアントウ。李は苗字で、光頭はツルツルハゲの意味)が、兄弟同然だったが3年前に死んだ宋鋼(ソン・ガン)を懐かしみ、思い出を語るところから始まる。

と思えば、いきなり李光頭が十四歳の時に公衆便所で村一番の美人である林紅(リン・ホン)の尻をのぞき見て、警察のお世話になったばかりか、評判の美人の尻の様子を語る代わりに村の男どもに飯をおごらせまくったという強烈なエピソードに飛ぶ。さらにさかのぼって、李光頭が七歳のころ、母親が再婚した男性の連れ子が宋鋼であったとようやく明らかになる。その後文化大革命 (*1) が勃発、中学教師であった宋鋼の父親が私設監獄に収容され、暴力にさらされたあげく殴り殺されたことをきっかけに、李光頭が宋鋼と引き離されたことが物語られる (*2)。

(*1) 1966年〜1976年。上層部における政治闘争→反対派粛清→下層部から反対派支持者を一掃するための思想審査開始→特定思想の徹底的否定及び破壊、というのが大まかな流れ。10年間続いたことから、中国国内では『十年』というキーワードで言及されることが多い。中国国内では語ることを許されなくなりつつある出来事。

(*2) 民間ではこのような悲劇は決して珍しいことではなかった。ルポルタージュ『一百個人的十年』(邦題『ドキュメント 庶民が語る中国文化大革命』)では日毎夜毎繰り返される暴力が生々しく語られる。身体的暴力だけでなく人間としてのあり方や尊厳そのものを徹底否定され、精神崩壊して自殺した者、無理心中を図った者もいた。宋鋼の父親が収容された私設監獄及びそこでの出来事は、このルポに登場する、文化大革命中に実在したある私設監獄でのエピソードによく似ている。ルポの著者は前文で文化大革命のことを「魂の虐殺」と表現している。

 

第一部終了時点で、わたしは李光頭に反感しか抱かなかったが、第二部読了後は、宋鋼に比べれば李光頭ははるかにマシな人間だと考えるようになった。宋鋼は一見生真面目で働き者、妻一筋で浮気など考えもつかないという理想ぶりだけど、性格の根幹的な部分にどうしようもない弱さがある。

とある超有名漫画に「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」という名言があるけれど、第二部の宋鋼は、李光頭に関わることでは頑固なところを見せるが、それ以外で『怒り』、まわりと衝突してでも守るのだと思わせるものが目に見えて減少していき、最後には完全になくなってしまう。

このような宋鋼の性格設定は、父親を殺され、祖父ともども迫害され、経済発展の波に乗り遅れてどんどん落ちぶれていく中で、運命に抗うのをとうとうあきらめてしまったことを反映しているのだろうが、わたしには、第二部での物語展開を都合良くするために、このような性格が与えられたのだと感じられた。

第二部では文化大革命終息後の李光頭と宋鋼の運命が語られるが、二人は20世紀後半の中国の経済発展史をなぞりながら、対照的な「勝ち組」「負け組」の人生を歩む。李光頭は国有工場に就職→起業して縫製工場を始める→失敗してなりゆきでゴミ拾いから廃品商売で成功する→ほかの業種にもつぎつぎ手を出して金持ちになる、という「希望ある勝ち組」パターン。一方宋鋼は同じく国有工場に就職するが、景気悪化によりリストラ→肉体労働を始めるが身体を壊して働けなくなる→日雇いの軽作業を転々としたあと、怪しげな露天商人とともに故郷を離れて出稼ぎに行く→結局思うように金もうけができずにひっそり帰郷する、という「やがて人生に絶望感を抱く負け組」パターンだ。

「負け組」パターンをたどるにつれて、自分自身の心の声ではなく、他人の意見に従う傾向が強いという宋鋼の弱点が明らかになる。のちに妻となる女性とつきあい始める時は、彼女に好意があることを自覚しながら、李光頭もまた彼女に気があるという理由でさんざん逃げまわったあげく、李光頭の言葉尻をとらえて「彼女とつきあっても良いんだ」と気分を晴らす。自分や妻の尊厳とひきかえに金もうけをすることを露天商人から提案された時は、「金がもうかるのならなんでもする」と呟く。宋鋼とは対照的に、李光頭ははるかにずうずうしく、怒るべき場面ではとことん怒り、自分のやりたいことのためには手段を選ばず、まわりを巻きこむことをためらわないしぶとさがあり、一方で筋を通すべきところでは通す。まさに商売向きだ。

宋鋼と李光頭の人生物語は、20世紀後半の中国における負け組と勝ち組をそのまま象徴している。いま、中国は経済発展期から成熟期を迎えようとしており、貧富の差が固定されはじめ、日本でいう「さとり世代」のような価値観が芽生えつつある。宋鋼は死んだが、李光頭の人生は続く。彼がどのような結末をむかえることになるか、小説では語られないけれど、21世紀において中国がどのような道を歩むか、注意深く見守りたい。