コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

俺はまだ学ぶぞ『「絶筆」で人間を読む -画家は最後に何を描いたか-』

《怖い絵》シリーズで人気の中野京子さんは、これまで「絵は見て感じるもの」と言われてきた絵画に、時代背景、画家の思い、歴史事情などの知識を加えることで、より楽しむことができると教えてくれた。

以前、私はブログにこう書いた。だがそれだけではなかった。

中野京子さんは本書の中で「古典派西洋画は知識をもって読み解くものだった。たまたま日本が明治時代に西洋画を受け入れたときに印象派の時期にあたっていたから、『絵はそのまま見て感じるもの』という考え方が定着した。」と喝破している。

いま定着している考え方は、実はたまたまそうなったのであり、長い歴史の中で何度も変わってきた考え方のひとつにすぎないかもしれない。

そう思うと目が覚める思いがする。

 

本書はタイトル通りさまざまな画家の「絶筆」を紹介することで、画家の一生を振り返る。短い人物伝記の寄せ集めといえる。

官能的なヴィーナスを画布に残しながら、激動の時代にさらされて晩年の作品から官能を消し去ってしまったボッティチェリ。鋭い眼差しの《俺はまだ学ぶぞ》というタイトルの自画像を残したゴヤ。強い権力欲に支配され、地位なくしたあとは魂のこもらない絵画しか残さなかったダヴィッド…画家はそれぞれの一生をかけて傑作を残し、中野京子さんはそれを豊かな物語としてこの本にまとめてくれた。読む教養ともいうべき本。

 

 

 

シンプルな入門書『図解 大学4年間の金融学が10時間でざっと学べる』

金融システムの中枢として銀行が据えられているけれど、それ、過去はそうだったけど、今でも本当?

そう問いかけたくさせる本。

 

この本は見開き2ページで1つの金融トピックを図解入りで説明しており、簡潔で要点を押さえていてわかりやすい。

一方で、銀行システムの重要性や「Too big to fail ー(大銀行は)大きすぎて(万一つぶれると経済影響が大きすぎるから)つぶせない」という考え方も、あたかもそれが当然であるかのように紹介されている。だがリーマンショック以降、私はこれらの考え方を疑いの目で見るようになったから、この本の内容は古いのではないかと感じてしまう。最後で仮想通貨にふれているものの、まだ「可能性がある」という評価にとどまるのが物足りない。

この本は金融学の基礎を学ぶためのものである。いまある金融システムの紹介に終始しているのも無理はない。だが、リーマンショックフィンテック、仮想通貨など、従来の金融システムが変化の波にさらされつつあるのを、金融システムの説明にもっと組みこんでほしい、大学で教える基礎金融学の内容もあわせて多少変えたほうがいいと思う。

 

とはいえ、表現自体は絵入りでわかりやすく、金融学入門書としてはすばらしい。

文字数が少ない分、書かれていることはどれも重要だ。「インフレにつながりやすい行動である戦費調達」「金融機関は事業リスクを様々リスクを持った商品につくりかえる」「市場が効率的であれば株価は予想不能になる」など、さらりと書かれたりする。読むのに集中力がいるが、読むのを楽しめるよう考えられている。

一方、話を単純化しすぎて、逆にすぐには理解できなくなっていることもある。本書には、「災害時には借金をしてでも経済活動を維持すべき。自力で復興しようとすれば大幅な投資超過となって、経済活動が大きく落ちこむ。借金をすれば経済活動の落ちこみが小幅で済む」という考えが出てくるが、これだけではいまいち納得できない。維持すべき経済活動とは?  災害前後の需要変化は?  生産能力は?  など、気になることがたくさん出てきてしまう。この場合はおそらく「災害時には業種によっては需要が冷えこむことがあるが、需要がある業種であれば、借金をしてでも通常の生産活動や投資活動を続けて、倒産を避け、収入を得て、経済をまわすべき」ということかと思う。

 

 

なんなんだ、この主人公は?《オープン・シティ》

いつも参考にさせていただいているブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」で紹介されたスゴ本《オープン・シティ》を読んでみた。

信頼できない読み手にさせる『オープン・シティ』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

普段私が好んで読むのはたとえばハリウッド映画のような盛り上がりがある小説。《オープン・シティ》はスゴ本として紹介されなければ手にとらなかっだろうし、たとえとったとしても最後まで読むことなく巻を置いただろう。そう思えるような日常的な描写が続く。

主人公はナイジェリア系の精神科医。散歩が好きで、ニューヨークを歩き回りながら彼が頭の中で考えたことが、流れる小川のように途切れなく綴られている。彼が縁を結ぶのも移民、それもいわゆる有色人種が多い。彼らとの対話や、見聞きしたものを通して、アメリカでの先住民や有色人種の歴史が、時々、日常描写からはっとするほど鮮やかに浮かびあがる。第二次世界大戦中に日系アメリカ人が強制収容所に入れられたこと。アメリカ北東部の先住民が残酷な迫害に遭ったこと。不法移民の強制送還。9.11の跡地。日常風景と、主人公が思い浮かべることが途切れなくつながり、流れる小川に身をまかせるように小説が進みゆくのを愉しむ。

それでも、スゴ本ブログの書評を読んでいるから、一抹の警戒は怠らない。逆に、そうでなければ見逃していたかもしれない。

突然挿しこまれる告発。

その前とその後での主人公の語りがあまりに変わらなすぎて、びっくりするとともに、これが初めてではないことに気づく。なんなんだこの主人公は?

それまで語ってきた芸術や歴史や哲学のうんちくに隠れて、彼自身の感情経験が抜け落ちていたことにようやく気づく。気づくとともに、恐怖がじわじわとこみあがってくる。この精神構造の人間はなにをしても不思議ではない。たとえば貴志祐介の小説『悪の経典』に登場する蓮実聖司のように。そんな人間の語りに引き込まれたかのようなきまり悪さがある。

スゴ本ブログではネタバレありの読書会も開催したようなので、こちらもどうぞ。

ネタバレ有りで『オープン・シティ』を語ろう(『オープン・シティ』読書会レポート): わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

 

孔子《論語 第十三篇 子路》

孔子の「論語」を読んでいく。今回読むのは《子路篇》、孔子の弟子である子路が、孔子との対話をまとめた部分。その中で心に残ったものをいくつかブログに書きとめる。この篇では孔子の理想主義者なところがとてもよく出ている。

 

13·3 ......名不正则言不顺,言不顺则事不成,事不成则礼乐不兴,礼乐不兴则刑罚不中,刑罚不中,则民无所措手足。故君子名之必可言也,言之必可行也。君子于其言,无所苟而已矣。

......名正しからざれば則ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於いて苟くもする所なきのみ。

少し長いけれど引用したのは、この一節が面白い価値観を反映しているからだ。

「名目が正しくなければ、話の筋道が通らず、話の筋道が通っていなければ政治は成功しない。」

この「名目」がくせもので、君臣・父子などの名分を正すというもの、すなわち立場・ポジションのこと。この篇は「君主になればそれらしいふるまいを求められる」とも「君主になれば (内容ではなく) 立場で話の筋道を通すことができる」とも読める。さて、現代社会はどちらやら。

 

13·18 叶公语孔子曰:“吾党有直躬者,其父攘羊,而子证之。”孔子曰:“吾党之直者异于是:父为子隐,子为父隐,直在其中矣。” 

葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に直・躬なる者あり。その父、羊を攘みて、子これを証す。孔子曰く、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中に在り。

たまに (現代から見れば) 変なことを言う孔子さん。

葉公が「うちの領土に父親の盗みを告発した息子がいる。すばらしい正直者だ」と言うと、孔子は「父親のために黙っていることこそ良いのだ」と反論。父親の不利になることをしないのが親孝行であり、孝行はなによりも優先すべきことである、というのが孔子の考え方だ。現実にも身内の犯罪をかばう人は多々あるけれど、もしかしたら孔子のこの教えを聞いたことがあるのかもしれない。私は葉公に賛成だが。

孔子《論語 第二篇 為政》

孔子の「論語」を読んでいこうと思ったのは一年前だったが、全20篇のうち2篇読んだだけで止まってしまった。ようやく再開しよう。

今回読むのは《為政篇》、政治について孔子が考えたことをまとめた部分だ。その中で心に残ったものをいくつかブログに書きとめる。

 

02-03

子曰。道之以政,齐之以刑,民免而无耻。道之以德,齐之以礼,有耻且格。

子曰く、これを導くに政を以ってし、これを斉えるに刑を以ってすれば、民免れて恥なし。これを導くに徳を以ってし、これを斉えるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格し。

論語第二篇では理想的な政治のあり方を述べるわけだけれど、これはもともと各国をまわって支配者たちに説いてまわった内容である。

言っていることはこうだ。刑罰により犯罪を取りしまっても、人々はなぜ犯罪はいけないのか理解出来ない。それよりも支配者自ら道徳規範となることで、人々が犯罪はいけないことだと思い、自発的にこれを遠ざけることが理想的な姿である。

いかにも理想的だ。けれど、現実的だろうか?

歴史を見るに、残念ながら、人の本性としては刑罰で取りしまられた方がうまくいっている。

まず第一に、支配者が道徳規範になることがほぼない。恐ろしいもので、自分以外の人間を好きに動かすことができる状況は、人の心をたやすく変える。支配力に酔う。一方では支配力を失うことに恐怖を覚え、どんな手を使ってでも権力の座にしがみつこうとする。そうなれば道徳規範どころの話ではない。

では一般庶民の方は?  これまた無理難題。

なぜなら「刑罰や社会罰などのデメリットがなければ、いわゆる掟破り行為の方が、得られるものが圧倒的に多い」からだ。

この誘惑に勝てる人間はそうそういない。宗教を見るといい。あれほど恐ろしげな【地獄】という概念を生み出し、こうなりたくなければ罪をおかすな、と、さんざん脅かさねば人々は「正しい行い」ができなかったではないか。

孔子の言っていることは、全員がデメリットなしでも模範的行為をするような聖人君子になれば世の中最高だという、よくいえばユートピア、悪くいえば夢物語。

 

02-08

子夏問孝、子曰、色難、有事弟子服其労、有酒食先生饌、曾是以為孝乎。

子夏、孝を問う。子曰く、色難し。事あれば弟子その労に服し、酒食あれば先生に饌す。曾ち是以って孝と為さんや。

孝行は儒教思想ひいては中国政治の中心であり、親に仕えるように君主に仕えることや、家庭を治めるように天下を治めることが最も重要だとされる。

孝行について書いている章は論語の中で数多いけれど、これはそのひとつ。生活環境面だけでは充分ではない。なお親や年長者を気持ちよくさせるような表情や雰囲気を出さなければならないという。いわゆる忖度だろう。

最近、司馬遷の歴史書資治通鑑》を読んでいるが、歴代皇帝はそれはまあ好き嫌いや合う合わないで部下を取りたてるものである。「耳に痛い意見を聞き入れる」のが賢帝の最重要資質とされるほど。それほど、できていた皇帝が少ない。儒教の本場中国でこれなのだから、実際には努力目標といったところだろう。

目に見えぬ運命を見えるものに『中野京子と読み解く運命の絵』

《怖い絵》シリーズで人気の中野京子さんは、これまで「絵は見て感じるもの」と言われてきた絵画に、時代背景、画家の思い、歴史事情などの知識を加えることで、より楽しむことができると教えてくれた。

《怖い絵》シリーズでとりあげられる絵は見た目が怖いわけではなく、むしろ美しいものが多い。だが、知ることによりじわじわと怖くなる。ドガの《踊り子》は一見優美なバレリーナの絵だ。だが、当時、バレリーナをはじめとする踊り子は芸術家ではなくほぼ風俗嬢同然の立場だったこと、絵の中の黒衣の人物が彼女のパトロンであることを知ると、絵を見る目が180度変わる。

 

本書は中野京子さんの最新刊で、《運命の絵》がテーマ。伝説、物語、歴史で伝わる運命についてのお話や、画家自身の運命に結びついた絵画を紹介している。どの紹介も引きこまれるような魅力的な語り口だ。

とりあげられている絵画の中で、ジェローム《差し下ろされた親指》を紹介しよう。興味をもてば、ぜひ本書を手にとってほしい。

 

時代は古代ローマ帝国

今なお絶大な人気を集める観光地であるローマのコロセウムは、当時は現役の闘技場であり、ここでグラディエーター同士の死闘が繰り広げられた。

絵画はその一場面。

地面に倒れ伏した敗者、血にまみれた砂を踏みつけた姿勢で、勝者は皇帝席を見上げる。とどめを刺すかどうかーー敗者にふさわしく息の根を止めるか、健闘をたたえて生命はとらないでおくかーー決めるのは皇帝だ。

画中で皇帝は手をあげかけている。

親指は見えない。

親指が見えた瞬間、敗者の運命は決まる。

 

ギリシアの神様はとんでもないやつばかり『知れば知るほど面白いギリシア神話』

聖書とともに西洋社会の二大精神支柱と呼ばれるギリシア神話だが、さまざまな物語が口伝で伝えられてきたため、内容にまとまりがなかったり違う物語が流通したりする。本書はギリシア神話の一般的な内容をまとめたもので、入門書としてさっと読むにはぴったり。

ギリシア神話は、現実にギリシア人の始祖が古代世界を生き、さまざまな地方を征服したり征服されたりしながら、現地の神話を取り入れてしだいに成立していった。このため神々の性格に地域性が見られることがある。本書では、それをおおまかなギリシア歴史とともに紹介しており、それもまた魅力のひとつ。

 

ギリシア神話では、神々の系譜を作り出すと頭が痛くなることうけあいだ。最初に混沌から生まれた大地の女神ガイアはともかく、その後生まれた神々は、兄弟姉妹、父母の兄弟姉妹、さらには自分の血を引く子孫達とも次々恋してはどんどん子供を産むのである。

最初に生まれた神々はとても数が少ないため兄弟姉妹婚は仕方ないにせよ、主に天界一の浮気者最高神ゼウスを筆頭に、もはや誰が誰の子孫なのかもわからない子作りラッシュが続く。本書ではところどころで系譜を入れて分かりやすくしようとしているが、なお混乱する。たとえば有名なパリスの審判に登場する三美神では、ヘラはゼウスの妹にして正妻、アテナはゼウスの姪にして最初の妻メティスとの子、アプロディーテはゼウスの祖父ウラノスから単性生殖で生まれたという具合。これだけでも頭痛がする。

 

時代が下ると、しだいに神話が現実世界の人物と混じりあう。神々の血を引く者たちやその子孫が、現実世界の支配者として登場するのだ。こうして神話は現実世界の歴史物語と合流し、やがて遺跡として姿をあらわす。本書はローマ建国で終わるが、ここからギリシアやローマの歴史を読んでいくとなお楽しめるだろう。