コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 62 / 365> B. Kolk “The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma” (邦題『身体はトラウマを記録する』)

英語の本365冊読破にチャレンジ。原則としてページ数は最低50頁程度、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2027年10月。20,000単語以上(現地大卒程度)の語彙獲得と文章力獲得をめざします。

本書はトラウマやその治療法に30年間取り組んだ専門家の集大成ともいえる著作。『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』という題で邦訳されている。

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は②。社会生活を送れず精神科医の手助けを必要とするのは少数派としても、人は多かれ少なかれ思い出したくない記憶や軽いトラウマを抱えているもの。そのトラウマがどのように人の心身に影響を及ぼすのか、どのようにすれば回復可能なのか、知ることは自己治癒に非常に役立つ。

 

本書の位置付け

本書は、著者の30年以上の臨床経験や研究経験をもとに、トラウマになやまされる人々の脳で起こっていることや、治療法の変遷を説明したもの。

著者は冒頭で、なぜこの本を書いたのか明らかにしている。トラウマがどういうものであるかを直視し、どのように治療すればよいか探究するため。そして、トラウマーー戦争経験、事故経験、暴力、性的虐待、ネグレクトなどにより引き起こされるーーを防ぐあらゆる社会的手立てをとるためである。

 

本書で述べていること

トラウマに人生を破壊された人はたくさんいる。彼らは狂暴な怒りにかられてまわりを傷つけ、アルコールに溺れ、うつ症状や不眠症で行動する気力を失う。トラウマ治療の目的は、これらの人々に、自分自身の主人たる力を取り戻すことである。

The challenge is: How can people gain control over the residues of past trauma and return to being masters of their own ship?

正常な状態であれば、強烈な出来事があれば人はそこから逃げ出そうとする。逃げ出してからその出来事を過去のものとして振り返り、どうすれば状況をもう少しマシにできたか考える。しかしトラウマを抱えた人にとって〈その出来事〉は過去ではない。今、この時だ。脳神経科学の研究が進むにつれて、この事実が明らかになった。ささいなきっかけで脳は「自分は〈その出来事〉のさなかにある」と勘違いしてしまい、神経伝達物質を大量放出する。身体はパニックになり、メチャクチャに振る舞う。

言葉にできないほどの経験、という表現があるが、トラウマを残すほどの強烈な経験は、実際に、脳の言語を司る分野の働きを鈍らせることがわかっている。〈その出来事〉は言葉にできないほど壮絶な体験であり、客観性も冷静さも自制心も〈その出来事〉がもたらす感情の大嵐の前では無力だ。しかし、“The greatest sources of our suffering are the lies we tell ourselves,”ーー私たちをもっとも苦しめるのは自分自身につく嘘であるーー著者の恩師はしばしばこのように話していたという。起こったことを認識し、感じたことを否定せず受け入れなければ、トラウマ治療はできず、患者は苦しみつづける。

1970年代に新米精神科医としてキャリアをスタートさせた当初、トラウマやフラッシュバックに苦しむベトナム帰還兵たちへの治療は、セラピーやカウンセリング、睡眠薬処方などであった。神経生理学などの発展により、トラウマにとらわれた人々は、脳の血流分布、神経伝達物質の分泌がふつうとは異なるパターンをもつことが次第に明らかになり、特定の神経伝達物質をブロックする作用をもつ向精神薬がしだいに治療法の中心となる。本書はさらにそこから進み、なにがトラウマをもたらすのかを掘り下げ、単純に診断名をつけてそれに対応する向精神薬を投与するだけでは患者は回復しないことを説き、トラウマがもたらす破壊的衝動をおさえ、日常生活を送れるようになるための治療法を紹介する。

 

感想いろいろ

題名は忘れてしまったが、こんな物語を読んだことがある。

ある海域で幽霊船が出るといううわさがたつ。主人公とその従僕は大嵐で船が難破し、たまたま近くにいた船に命からがらよじのぼるが、それがまさに噂の幽霊船であった。二人は船の甲板を歩き、激しい戦闘のあとのような血痕と死体があちこちにころがり、船長とおぼしき男の死体が額に釘を打ち付けられてマストに磔にされているのを見る。

その夜、主人公たちはありえない光景を目撃する。死体であったはずの船長一味が復活し、酒盛りをしたあと、甲板で殺しあいを始め、夜明けには同じ位置に死体となってころがるのである。同じ出来事が毎晩繰り返され、二人は気が狂いそうになるが、どうにか知恵を絞り、うまく幽霊船を陸に寄せる。

陸には高名な長老がいた。彼は話を聞くと、地面の土を手に取り、船長の死体の額にふりかける。死んだ船長は目を開き、なぜ自分がこうなったか語る。彼は50年前、船に乗せたある男が持つ大金に目がくらみ、その男を夜中に殺して金を奪った。しかし命を落とす直前に男は船長一味を呪う。頭を土の上に置くまでは、死ぬことも生きることもできなくしてやる、と。その夜船上で一部の船員が謀反を起こし、殺しあいにな。船長一味が敗れて殺されるが謀反人たちも大怪我をして、結局全員死に、船は巨大な棺桶のようになる。しかし呪いの成就はそこからであった。昼間はただの死体でいられるが、夜、男を海に投げ捨てた時刻になると、魂が身体に戻り、あの夜話したこと、したことを、50年この方、一夜も欠かさず繰り返さなくてはならなかったのだーー。

トラウマを抱えた人たちは、まさにこの船長と同じだ。〈あの日あの時〉を何度も繰り返さずにはいられない。終わりなく繰り返すことがすべてとなり、前に進むことができずにいる。

 

トラウマといえば、アメリカで真っ先に上がるのはベトナム戦争帰還兵が訴えた心的外傷後ストレス障害 (Post-traumatic Stress Disorder, PTSD) であろう。本書もこの話題から始まる。

著者自身にとってもPTSDは決して他人事ではない。父親は第二次世界大戦中にナチスに反対して政治犯収容所送りになり、叔父はオランダ領東インド(現インドネシア)で日本兵の捕虜になり重労働を強いられたが、彼らがPTSDに苦しみ、抑制できない怒りを暴発させるのを、幼いころから著者は見ていた。

しかしその日著者のもとを訪れたトムというベトナム戦争帰還兵は、不眠症や悪夢に悩まされていたにもかかわらず、睡眠薬を飲むことを拒んだーー悪夢を見ずにぐっすり眠るようになれば、ベトナムで死んだ友人たちを見捨てたような気分になると言って。

わたしたちにも多かれ少なかれ思いあたることがあるであろう。死んだ人を忘れたくない、傷ついたことを忘れたくない、という思いには。しかしトムのような戦争帰還兵の場合、問題なのは、彼らがフラッシュバックや悪夢や破壊衝動に苦しみ、日常生活を送ることすらままならなくなっているのに、なお彼らにそうさせる記憶を手放そうとしない点だ。

なぜ、人はかくも過去にとらわれるのか?

これが著者のライフワークを貫く問いかけである。

ベトナム戦争は終わった。帰還兵たちは高齢化している。しかしアメリカにはトラウマを抱える人々が増え続けている。多くは、児童虐待やネグレクトの被害者であり、彼ら彼女らの子どもたちである。

有名な「学習性無気力感」の実験ーーケージに閉じこめた犬に繰返し電気ショックを与えたあと、ケージの扉を開き、もう一度電気ショックを与えたところ、犬は扉が開いているにもかかわらず逃げようとしないーーの後、犬にふたたび逃げる気力を湧き起こらせるためには、実際に扉から外に連れ出し、外に出られるという実感をとりもどさせなければならなかった。これがまさに著者らがやっていることである。終わりのない過去の幻影から連れ出すことが。ちなみに呼吸法や動作を通して心身をととのえるという意味でヨガはトラウマ治療に良い効果をもたらすらしい。朗報。

 

あわせて読みたい

著者は第1章扉で "The Kite Runner" (邦題《君のためなら千回でも》)からの言葉を引用している。主人公はなにかをされたわけではないのだが、ある冬の一日に見たものが、彼の生涯のトラウマとなる。全人類必読の名作。

無邪気な残虐性《君のためなら千回でも》 - コーヒータイム -Learning Optimism-

トラウマになるほどの強烈な体験をした人は、しばしば心が壊れてしまうのを防ぐため、その記憶自体に蓋をしてなかったことにしようとする。抑圧された記憶は、セラピーやカウンセリングなどを通してよみがえり、患者が回復するための第一歩となる。しかし中には「この人はこういう体験をしたに違いない」と決めつけて執拗に質問や暗示を繰り返すセラピストがおり、そのせいで患者は、実際には起こらなかった出来事を起こったと思いこんでしまうことがある。

偽りの記憶、抑圧された記憶の神話について、研究を試みたのが本書。邦題は『目撃証言』。記憶の不確かさと流動性についてとりあげ、目撃証言のみを頼りにだれかを犯人として告発する危うさを説く。

 

大人気の神経科セミナーを書籍化。神経科学で明らかになりつつある脳の活動メカニズムを、これまでに人間が考えてきた哲学や心理学と照らしあわせて、「モチベーション」「ストレス」「クリエィティビティ」の3つのテーマから人間というものについてより深く理解しようと試みたのが『BRAIN DRIVEN』。

心理的危険状態になるのは、恐怖や不安が原因であることがほとんどだが、他にもさまざまな原因が考えられる。

一つは、まったく自分の脳内に記憶がない情報だ。新しいもの、異なるものに脳は拒否反応しやすい。自分の考えとは異なる情報、新しい情報は、心理的危険状態の脳を導きやすい。その結果、その情報に回避的になったり、否定的になったりする。何も知らない状態、曖昧な状態は、不安や恐怖を感じやすく、否定的、回避的になりやすい。それは記憶の痕跡がないことが大きな理由になっている。

(......)

モチベーションが高まる大前提として、この心理的安全状態は欠かせない。心理的安全状態が保たれない限り、新しい学習や挑戦に対するモチベーションは生まれず、ストレスから生命を守るための回避へモチベーションが向いてしまう。

実生活やビジネスなどへの応用をめざしているため、トラウマ治療とは方向性がちがうものの、人間についての理解を進めるという点は本書と共通。