コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

現代日本社会でも役立つ「全体主義」の解説書〜仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』

ハンナ・アーレントという名前を最初から知っていたわけではない。新型コロナウイルスの感染者が乗船していたことで横浜港に留めおかれていた豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号、その内部感染管理がメチャクチャだとYouTubeで実名告発した岩田健太郎医師。そのTwitterに寄せられたツイートに、ハンナ・アーレントの名前が登場したのがきっかけだ。

 

ハンナ・アーレントは1950年代から1960年代にかけて、西欧諸国の政治思想に大きな影響を与えた政治哲学者。著書のうち代表作ともいえる『全体主義の起原』『エルサレムアイヒマン』を、本書では紹介している。原著はとても読み通せないほどの重厚長大な専門書だから、本書ではそのエッセンスだけを紹介している。

ぱらぱら読んでみただけで、どきりとするような鋭い指摘があちこちに登場する。

 

極度の不安は、明快で強いイデオロギーを受け容れやすいメンタリティを生む、とアーレントは指摘しています。

不安な時代であれば、人々は明快で強力なリーダーシップを求める。これに乗ったのが言うまでもなくアメリカのドナルド・トランプ大統領であろう。彼は明快に「アメリカの経済停滞は移民のせい/中国のせい/EUのせい」と、次々打ち出すことで、アメリカ国内の支持を強めた。

 

アメリカをはじめとする西側諸国は、自分たちとは異なる体制──近代的自由主義の成果を否定し、諸個人を大きな共同体としての国家に完全に組み込み、自分のためではなく、国家という共同体のために生きるよう教育することを当然視する体制──の異様さを表現する言葉として「全体主義」を使うようになりました。

これは「全体主義」という言葉についての説明の一部。【自分のためではなく、国家という共同体のために生きるよう教育】している体制は、現代日本のありかたの根底をなしてはいないだろうか。中東の危険地帯で人質にとられた日本人を自己責任だと断じ、親兄弟に謝罪を強要するやり方は、国家に迷惑をかけたということをよりどころにしてはいないだろうか。

 

「敵」との相違が育んだ仲間意識は、それを維持・強化するために、つねに新たな「敵」を必要とします。身近にいる誰かを、自分たちとは違うものとして仲間外れにしないと、自分たちのアイデンティティの輪郭を確認できないからです。

これはそのまま【いじめ】の根本原因ではないだろうか。自分たちがどういう存在なのかはっきりさせることができていないから、仲間意識をもつために、仲間外れとなる【敵】が必要になる。【敵】になりやすいのは外国人、障害者、LGBT...挙げればきりがなく、具体例を出すまでもないほど日々実例がマスメディアで報道されている。

 

自分たちの共同体は本来うまくいっているはずだが、異物を抱えているせいで問題が発生しているのだ──と考えたいのです。自分たちの共同体に根本的な問題があると考え、それを直視しようとすることには大きな痛みが伴いますが、身体がウイルスに侵されるように、国内に潜伏する異分子に原因を押し付ければ、それを排除してしまえばよい、という明快な答えに辿り着くことができます。

人間、問題があることには気づけても、自分たちに根本原因があるとは考えたくないもの、というのはかなり本質的な指摘だと思う。日本に限らずどの国家でも、それどころか会社でも家族でもどんなグループでも、他者批判には熱心でも、自分たちの問題にはなかなか手をつけない、というのはよく見かける。

 

階級社会では、同じ階級に属する誰かが自分の居場所や利益を示してくれるので、政治や社会の問題に無関心であっても生きていくことができました。これに対して、階級から解放されると、自由である反面、選ぶべき道を示してくれる人も、利害を共有できる仲間もいなくなってしまうのです。

これも耳の痛い指摘。「一億総中流」になると、どうすればメリットを得られるか自分で考えなければならなくなる。あるいはなお悪いことに、無関心をそのままひきずり、とりあえずメリットを得ている誰かの真似をすれば幸せになれると思いこむ。

「結婚して、子どもを2人産んで、家を買わなければならない」などがそうだろう。なぜそうしなければならないのかよくよく考えてみると、「親/親戚/友人がそうだから」「みんなそうしているから」以上の理由がなかったりする。なんとなれば、そうすることが本当に自分に向いているのか、自分のやりたいことなのか、分からないまま真似していることも多い。

アーレントはこのようなものを考えない人々を【大衆】と呼び、自らの要求や権利をはっきり知っている【市民】と区別している。社会がうまくいっているうちはそれでもいいけれど、不景気などで社会が不安定になれば、【大衆】はにわかに不安になる。だがふだんから考える習慣がないから、分かりやすい安心材料を求めてしまう。「ユダヤ人が悪い「移民のせいだ」「○○国が裏で手をまわしている」「○○国の安い労働力が仕事を奪う」といったシンプルな結論にとびついてしまう。

この状況こそアーレントが回避しようとしているものだ、と本書は紹介する。いかなる状況でも「複雑性」に耐え、「分かりやすさ」の罠にはまってはならない。これがアーレントの、また本書の結論である。

 

哲学というジャンルは、私にとってはとっつきにくい。人間の本質に鋭く切りこんでいる気もするし、「これがわかったからといって日常生活になんのメリットがあるのだろう」などとも考えてしまう。

だが、ハンナ・アーレントの哲学思想を見てみると、少なくとも【これを知っていれば、政府がヤバイ方向に行こうとしていれば気づけるかもしれない。気づければ反対するなり逃げるなり選択できる】点では役立ちそうだ。

現代日本社会がナチス・ドイツのような全体主義に染まっているというわけではない。だが類似点は確実にある。それらの類似点が危険かどうかは、「どうしてこうなったか」「これからどうなるか」を知らなければ判断できず、アーレントはまさにこの因果関係を論理的にひもといてみせた。ゆえに価値がある。

冒頭での新型コロナウイルスの話題にもどると、すでに専門家が「水際作戦で対応できるフェーズを過ぎ、国内感染拡大フェーズに入った」と指摘しているにもかかわらず、ネットの一部では今からでも中国からの渡航者を入国拒否すべきだという意見が根強いという。

すでに新型コロナウイルス感染者は日本国内に数百人おり、彼らのまわりで感染が広がりつつある。いわば根本原因はーー少なくとも一部はーー日本国内に移ったのだ。一方で中国では政府主導の強力な封じこめ、外出自粛がだんだん効果を生じてきて、新たな感染者は前ほどのペースでは増えていない。この状態で未だに「中国人を入国拒否すればよい」と言うのは、アーレントが指摘するような、原因を外部に求めすぎる姿勢に通じるのではないだろうか。実際、中国人の入国拒否は、今からでもある程度効果があるかもしれない。それは誰にもわからない。だが、この姿勢が強くなりすぎないよう、気をつける必要があるのではないだろうか。

 

英国貴族の執事たる者の矜持〜カズオ・イシグロ『日の名残り』

ノーベル文学賞を受賞したことで、日本で一躍脚光を浴びたカズオ・イシグロ氏の代表作。

一読してみたところ、日本でいう王朝平安文学のイメージに近い。優美な衣装を身にまとい、雅なあそびに興じる貴族たちに仕える使用人が、筆をふるい、華やかな日々を思うままにつづる文章。ただし『日の名残り』は、第二次世界大戦後、没落した貴族が屋敷がアメリカの金持ちに売り渡されたあとも屋敷にとどまりつづけた執事が一人語りする内容。語られていることは、実際にはすでに失われつつある。

【矜持】という言葉は「自分の能力を信じて抱く誇り」という意味であり、そこには「自分を抑え慎む」意味も含まれているという。この【矜持】という言葉が、『日の名残り』の主人公である執事スティーブンスを語るのにもっともふさわしいと思う。

 

物語の舞台こそは20世紀半ばのイギリスだけれど、主人公スティーブンスの口から語られる、由緒ある貴族屋敷に仕える執事としての品格、こまやかな気遣いとその裏にある緻密な職務計画、伝統にこだわる一方でアメリカをはじめとする新興勢力への対応を決めかねてとまどう様子などは、現代日本で、「昭和的価値観」で育った人々が、平成、令和の世にとまどい、ときには適応できずにますます古い価値観にこだわる姿とほとんど同じに見える。

たとえば、スティーブンスは貴族屋敷でのある重要な国際会議の給仕に忙殺されるあまり、まさに同じ屋敷の中で倒れた父親を見舞うこともままならず、ついにはその死に目にもあえず、しかも回想の中でさえ「国際会議のあの夜を振り返ると、その成功に大きな誇りを感じる」と言ってのけた。「24時間戦えますか」がキャッチフレーズとなるほどの猛烈な働き方がはびこり、それこそ親の死に目にあえなかった人々も多かったであろう高度成長期の日本と、奇妙に重なる。

しかも。国際会議の成功に誇りを感じるというのは、あくまで執事としてうまく貴族屋敷の環境をととのえることができたという意味であり、国際会議自体の是非は、主人であるダーリントン卿が判断することであり、執事の領分にない、という意味のことを物語後半でほのめかしている。

主人の命令にただ従うスティーブンスのやり方は、スティーブンスの独白にしばしば登場する女中頭ミス・ケントンの言動を借りて反映される。ミス・ケントンがスティーブンスに向ける言葉と態度は、スティーブンスが本人の思う「品格ある執事」で在ろうとするあまり、時に滑稽なまでに人情を無視したふるまいをしていたことを映し出す。

たとえばダーリントン卿がユダヤ系の女中を解雇するよう命令したとき、スティーブンスは反対するミス・ケントンに「主人の命令に従うべきです」と言い放った。だが数年後、ダーリントン卿が女中の解雇を後悔するような言葉を口にすると、同じミス・ケントンに「解雇は正しいことではなかった」と言う。それをーー少なくとも独白の中ではーーおかしいと言わず、主人の命令に忠実に従うことこそが品格ある執事のするべきことだと断ずる。

その自覚のなさが滑稽で、不気味だ。

物語終盤でスティーブンスは突然自分の不覚を語りはじめるが、なおさら「じゃあこれまでの独白は全部自己欺瞞だったの?」という気分になる。

 

イギリスと日本がさまざまな点で似ていることはよく指摘される。島国であること、伝統的な王室を維持していること、前例を重視することなど。『日の名残り』は、イギリスと日本の伝統的価値観が似ているところにまさにスポットをあてているから、日本の読者にはわかりやすい。

だが、私がこの作品を好きなのはそれだけではなく、「滅びの美学」が貫かれているからだ。

「滅びの美学」は、日本文学でいえば太宰治の『斜陽』あたりが代表だと思う。スティーブンスが語る貴族屋敷で執事としてすごした日々はすでに過去のものとなりつつある。屋敷の主人はジョークひとつ言うのにも苦労するアメリカ人になった。かつて女中頭ミス・ケントンと交わした、置物だのフォーク磨きだのシーツだのについての会話は隅々まで覚えているのに、現在の主人に代わってからの仕事についてはほとんど詳細が語られない(スティーブンスが老齢にさしかかり、前ほど記憶力が良くなくなったことを示唆しているのかもしれないが)。

哀惜をともなって語られる古き良き日々が、現在それが失われつつあることを残酷に反映する。沈みゆく夕陽に、大英帝国の落日を重ねながら、スティーブンスが語る貴族屋敷での日々は、真昼の太陽のように華やか。現在と過去の陽光が織りなすみごとなタペストリーのような小説を、ご賞味あれ。

仕事はしょせん人生の一部、日本はしょせん世界の一部〜谷本真由美『世界のどこでも生きられる!―外籠もりのススメ』

久しぶりに読書時間をとった。

Twitter上でMay_Roma(谷本真由美)をフォローしてからかなり経つが、その中でも本書のもととなったCakesの連載「世界のどこでも生きられる」はとても気に入っている。最近だとハリーとメーガンのイギリス王室脱退事件を解説している記事がとても面白かった。女王様のコメントの建前と本音翻訳には爆笑した。

本書もMay_Romaさんが一貫して主張している「日本にはおかしなところがあると思えば英語を死ぬ気でやって国外に出て行けばいい」ということを解説しているのだけれど、先立つものはどこで生活するにしろ必要になるわけで、日本以外の先進国での就労状況や就職活動方法、職務採用などについて、歯に衣着せない語り口で紹介している。私などは「今の会社を離れる」「今住んでいる国を離れる」ことは、選択肢として常に持っているべきだと思うので、定期的にこういう本を読んでみて、日本以外のやり方を忘れないようにしたいし、なによりたとえが面白いので笑いたいときにも読んでみる。

親との関係を冷静な目で見つめなおすことは、これからの人生で最も役立つ『不幸にする親 人生を奪われる子供』

 

不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)

不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)

 


一切の期待も、希望も、信頼ももたない。

 

〈母親〉という言葉が私の中に呼び起こすすべてのイメージと、〈私を産み育てた女〉について私がもつイメージとを、切り離す。

 

ここまでして初めて、私は、これまで私を呪縛してきたものから解放されることができた。

〈私を産み育てた女〉が「あなたが○○をしてくれないから、私は心配でしかたない」と、大げさな身振りを交えながら言っても、「なぜあなたを心配させないために、私が自分の意志を曲げて○○をやらなければならないのかわからない」と、心底から思うことができた。それまでなら〈母親〉を心配させたり悲しませたりすることに罪悪感を覚え、多少なりとも言うことを聞こうとしただろうが、〈私を産み育てた女〉であれば、罪悪感を抑えることができた。

「母親と娘がいさかいを起こしたら、いつだって間違っているのは娘の方なのよ。だって母親が娘を愛していないわけがないもの」

そう聞かされても、「母親神話はもうたくさん。母親は愛していたつもりかもしれないけれど、それは私が欲しかった愛の形ではなかった。だから私は【それは私が欲しいものとは違う】と認識するし、それを間違っているとは思わない」と、考えられるようになった。

 

ここまでくるのに10年以上。

その間にさまざまな本を読み漁った。〈産み育てた女〉との関係がこじれている娘は自分だけではないことを知り、〈私を産み育てた女〉との間で起こっていることを言語化した。

たとえばWikipedia毒親について書かれている項目で、この一節はとても役に立った。

宗澤忠雄は、「毒親」に関する多くの議論の共通点は母親の「自己愛」問題であり、「子育てという親子の相互作用において、子どもを愛でる「対象愛」よりも「自己愛」に偏重し、自分の必要や情緒的ニーズを満たすことを常に優先する関与によって、子どもを傷つけていく」と述べている。

本書はその中で一番最近に読んだ。私が自分の中でうずまくものをはっきりと言葉にするために、冒頭から良い助けになってくれた。

不健康なやり方で子供をコントロールしてばかりいる親は、気づかぬうちに子供の心に地雷を埋め込んでいる可能性があります。その子供は、……大人になってもなお、人を愛したり、何かに成功したり、安心して暮らしてもかまわないのだと"許可される"のを待っているかもしれません。その許可は自分で与えればよいということがわからないのです。

不健康なやり方でコントロールされた子供がもつ最大の特徴は、「自分自身の判断に自信がもてない」ことだと思う。コントロールされて親の望むままに行動するにしろ、反発して真逆の行動をするにしろ、結局は親が押しつけてきた方向を基準に、その通りに/その反対に進んでいるから。

それに慣れきってしまうと、いざ誰にもなにも言われなくなると、どう進めばいいのかわからなくて、途方にくれてしまう。こうなってしまえば、現状がおかしいとぼんやり感じていても、その感覚が正しいのかどうか自信がもてなくなる。

本書の著者もそこを意識したのかもしれない。不健康なやり方で子供をコントロールする親をいくつかのパターンに分けて、「健全なやり方」「不健康なやり方」が際立つように比較表を載せている。また、不健康なやり方でコントロールされた子供が、成長後、どんな問題に見舞われる可能性があるかを、それぞれのパターン別に解説している。

実に親切でわかりやすいつくりだから、すらすら読めて、時々立ち止まっては「自分はこの比較表でいうとどちらだろう?」と自問自答できて、判断しやすいようになっている。

子育てをするにあたって、良いことと悪いことを教える、危険なものには近づけないなど、ある程度のコントロールは必要だが、「不健康で過剰なコントロールをする親」とは、子供の成長をはぐくむためではなく、自分(達)を喜ばせ、自分(達)を守り、自分(達)のためになるようにコントロールをする。自分が安心するために私にあることをするよう/しないよう求める〈母親〉のように。しかも幼い子供にはそれを表現する術がないから、感覚として心の中に降り積もる。積もった感覚を言語化してはじめて、親がしてきたことが、子供のためではなく、親自身のためであったゆえに引き起こされる違和感を、はっきりさせることができる。

「苦痛に満ちた子供時代からの癒しは、長年にわたる虐待とコントロールが原因でわき上がってくるすべての感情と言い分を、はっきりと言葉に出して表現することから始まる」

 

この本を読むことは苦痛だった。私がこれまで目をそむけてきたもの、あきらめきれなかったものを、この本はきれいに整理して目の前に並べたててくれたからだ。読み進めるにつれて「私はそうじゃなかった、これは私のことではない」という感情が湧き上がることがあったが、事実はたいていその正反対で、まさにそう感じた箇所こそが、私に(全部ではないにしろ)かなりの部分あてはまった。

この本を読み終えたとき、私は、この本を読み通すことができたことに誇りと自信を感じた。自分はそうではないと否定したり、意図的になにも感じないようにしたりして、躍起になって自分を守っていたが、とにもかくにも、目を逸らさずに、苦痛に満ちたこのテーマを扱った本を読むことができた。そのことを誇らしく思った。

〈私を産み育てた女〉は、典型的な「かまいすぎて子供を窒息させる親」だった。私は幼い頃、親の言うことを聞いていればいいとあきらめきっていた。だが今では、親の過干渉を不快に思う気持ちを言語化することができる。

親が一言の相談もなく私の家でのホームパーティー開催を提案し、ホームパーティーに参加してほしいと親戚に声をかけ、しかもその親戚の口から私に伝えさせたことがある。

「招いてもいないのに私の家にあがりこもうとするのは不快。一言の相談もなく私の家をホームパーティー会場にされるのは不快。自分ではなく親戚に言わせれば断りづらいというその考え方が不快」

そうはっきり自覚したから、きっぱり断ることができた。以前ならもやもやしたものを感じながらも断りきれなかったかもしれない。

言葉にすれば腹立ちを抑えることができる。自分の行動をコントロールすることができる。この本を読み終えて、断ることができた自分自身をふりかえって、さらに少し自信がついた。

母娘関係に悩んでいたら読んでみよう、もしかしたら役に立てるかもしれない『毒親の棄て方: 娘のための自信回復マニュアル』

 

毒親の棄て方: 娘のための自信回復マニュアル

毒親の棄て方: 娘のための自信回復マニュアル

 
Mothers Who Can't Love: A Healing Guide for Daughters

Mothers Who Can't Love: A Healing Guide for Daughters

 

きっとこれは私が読みたかった本で、母親との関係に悩むすべての娘たちが手にとるべき本だと思う。

この本に書かれているいくつかのことを、私は自分で思いついてやったことがある。自分の感じたことや考えたことを書き出す、なぜこのように感じたのか考える、それを口に出す。

「母親は私の考えを尊重してくれなかった。いつも自分の意見を押しつけて、あるいは先回りして私の代わりにものごとを決めた。私はそれが嫌だった。失敗してもいいから自分で決めたかった。私が考えたことを聞いて、頭ごなしに否定するのではなく、たとえそれが母親にとってばかばかしい意見でも尊重してほしかった」

この結論にたどりつくのに、5年はかかったと思う。

自分の中のなりふりかまわない怒りを見つめて、書き出して、分析して、名前をつけて、整理する作業にかかった時間よりも、その作業にとりかかることで不安定になる自分自身の心、時には「なぜこんなにおかあさんを不快に思えるの?」という自己嫌悪に死にたくなる心を落ち着かせるための時間のほうがはるかに長かった。あの暗い夜、死にそうなほど落ちこんだ気分で、照明の届かない、鬱蒼と茂る木々のそばを歩いたことは一生忘れない。それだけ手助けのない感情分析は辛かった。

 

かつて、実母と口喧嘩になったときに言われたことがある。

自分の母親にすらちゃんと良く接することができないあんたが、他人と良い人間関係を結べると思ってるの?

この言葉は私の脳裏に刻まれてしまっていて、母親からなにをほしかったのか、なにを得られなかったのか、それが私の人間関係の結び方にどれほどの影を落としたのか、理解した今でも消えない。親と仲が悪くても他人と仲良くすることはできる、と、頭では理解している。だが心の奥底では、ときどきこの言葉が鋭いこだまのように響く。

なお悪いことに、私の配偶者は、家族、とりわけ母親孝行至上主義だ。小競りあいならまだしも、私が実母に正面切って喧嘩することを好まず、まあまあとおさめようとする。実母ならまだそれくらいで済むが、私が義母に「反抗的な」態度をとろうものなら、配偶者はあからさまに不快感を示し、私をその場から連れ出して頭を冷やさせようとする。配偶者の頭には、客観的にどちらの言い分に非があるかよりも「母親に反抗したり失礼な物言いをしたりすることは無条件に責められるべきこと」とインプットされている。その姿は、自分自身の感情をはっきりと自覚する前の私にそっくりだ。

おそらく、これが大多数の人間の頭に刻まれた母親神話だと思う。母親は子どもを愛し、子どものためを思って行動しているのであり、それをわかってあげられない子どもの方が親不孝者で悪者だ、と。

 

実母との関係で私が感じていることを、誰かに理解してもらうのはきわめて難しいと気づいたのはいつだっただろう。

実の姉妹でさえ、私と同じようには感じていない。彼女はさまざまな理由で私ほどには母親の影響を受けていない。私から見た彼女の姿は、私がなりたかった理想形のひとつだ。実母と適度な距離をおき、悩みを相談することもできるし、意見が合わなければ反発もできる。他人との人間関係を結ぶことを楽しみ、大勢の知人友人にかこまれ、たくさんの人から好かれて頼りにされている。どれも私にはないものだ。

そう思っていた。

「私には手に入らない」と思いこんでいたのかもしれない。そう思えるようになったころにこの本と出会い、私が今までしてきたことは無駄ではなかったことを知った。私がしてきたことのいくつかは、まさにこの本で紹介されている、娘たちが母親との関係を見直す方法そのものだったから。

本書は『毒になる親』を書いたスーザン・フォワード女史の新作。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

著者は心理カウンセラーとして数多くの女性たちに会う中で、母親との関係に問題がある女性たちの多さにおどろき、彼女たちのための本を書くことを思い立ったという。

母親と娘との関係は複雑だ。母親は同じ女として、娘の心理を巧みに操る方法をよく知っている(これが男の子だったらそうはいかない)。娘は母親のやり方に疑問を抱いても、「あなたを産んでくれた母親は大事にしないとダメよ」という言葉に縛られて、自分が抱く違和感を誰にも訴えられなくなってしまう。とくに幼い娘は母親がいないと生きていけないから、「おかあさんはわたしを生かしてくれる」という希望にすがりつきたいあまり、「おかあさんがわたしにつらくあたるのは、わたしがいけない子だからだ、いい子にしないとおかあさんに見捨てられてしまう」という自責感情を内面に溜めこんでしまう。この思考パターンは娘の心の奥深くにプログラミングされ、成人してからも娘の思考方法を支配する。

“Unloving Mother”

著者が母親たちを呼ぶときに使う言葉だ。愛さざる母親。愛さざる母親をもった娘たちが自分の人生を持つことを手助けするために、著者はこの本を書いた。

この本には、愛さざる母親の五つのタイプと、愛さざる母親をもった娘たちを助けるための具体的方法を紹介している。母親宛に(もちろん投函されることのない)手紙を書き、母親がしたこと、自分が感じたことをそのまま書く。それを大声で読み上げる。母親と毎度口論になるのであれば「あなたはそう感じるのでしょうね」などの、攻撃的にならない、けれども母親にそれ以上攻撃させることもない回答をいくつか用意しておいて、それを自然に口に出せるようになるまで練習する。母親とのつきあい方に境界線を設ける(「毎日電話するのはもうたくさん。週ニー三回であればいいわ」)。母親とのつきあい方を変えると宣言して、母親が泣いてもわめいても、これが独立した自分の生活を営むために必要なのだと宣言し、実行する。

著者がこの本で強調しているのは「母親を変えることはあきらめること。それは娘の責任ではないのだから。けれど、娘の母親に対する接し方を変えるのは娘の責任であり、娘にできることだ」という点。

私はこれについての金言を書き留めておき、何度も見返している。

As an adult daughter you are responsible for:

  • Claiming your own self-worth.
  • Having the life you want.
  • Acknowledging and changing your own behavior when it is critical or hurtful.
  • Finding your own adult power.
  • Changing the behavior that’s a replica of your mother’s unloving programming.

成人した娘として、あなたは以下のことに責任をもつ:

  • あなた自身の価値を主張する。
  • あなたがほしい人生をすごす。
  • あなた自身のふるまいが批判的だったり攻撃的だったりするとき、それを認め、ふるまいを変える。
  • あなた自身の成熟した力を見つける。
  • あなたの母親の愛なき刷りこみそっくりのふるまいを変える。

私が自分自身のふるまいを変える試みはこれからだ。私はまだ、母親と数時間一緒にいれば口喧嘩を始めてしまう可能性のほうがはるかに高い状態にある。けれども私は、この本に書いてあることのうち、かなりのことをすでに実践してきた。これからは、母親との会話をコントロール可能なものにすること、なにかあれば攻撃的になるのではなく「あなたの考えではそうなのでしょうね」と冷静に返せるようになることを、まずは目指していきたい。

 

母娘関係に悩んだときに読んでみた『となりの脅迫者』

 

となりの脅迫者 (フェニックスシリーズ)

となりの脅迫者 (フェニックスシリーズ)

 

 

『毒になる親』の著者、スーザン・フォワードによる本。一行目からトラウマを刺激にくる、心当たりがある人が精神的に弱っている時に読むのを控えた方がいい本。

週に一度、夜間講座に通いたい、と夫に言ったんです。すると夫は、いやに穏やかな、そのくせ結構きつい口調でこう言うんですーー「好きにすればいい。どうせきみはいつも自分の思い通りにするんだから。ただし、きみが帰ってきても、いつもぼくが家で待ってるなんて思わないでもらいたい。…

「きみがそうするなら、ぼくとの信頼関係/愛情/幸福にひびが入るかもしれないよ(それが嫌ならやめるんだね)」という恐喝以外のなにものでもないこういう言動。著者によれば、人間関係の軋轢はコミュニケーションスタイルの違いよりも、一方がもう一方の犠牲のうえに自分の思いを通そうとすることから起きるものだという。そこにあるのは単なる「伝達不十分」ではない。上の例で見る心理戦であり、力の闘いなのである。

著者はこの手の心理的恐喝をエモーショナル・ブラックメールと呼ぶ。「私の言う通りにしなければ、きみは苦しむことになるだろう」という基本的脅しを含んだやりとりで私達の心を操ろうとするときに使う強力な手段だ。ブラックメールの特性は六つ。要求、抵抗、圧力、脅し、屈服、繰り返しだ。

人間は誰でも「ホットボタン」と呼ばれる弱点を持っている。そのボタンに触れられると、それまでの人生で心にためこんできたいらだちや後悔、不安、恐怖、怒りなどが飛び出してくる。ボタンのひとつひとつにはいまだ決着をつけられずにいるさまざまな心理的課題、すなわち怒りや罪悪感、不安感、傷つきやすさがためこまれている。近しい人のホットボタンに気づくのは、充分時間をかけて観察すれば誰にでもできる。そして、ブラックメールの発信者に利用される。

一方、ブラックメールの発信者は、自らも強烈な喪失不安を抱えている。いったんフラストレーションを感じると、それが単なる挫折や落胆以上に、根深く連鎖的な喪失不安につながる、すぐにでも行動を取らなければ耐えがたい結果が生じる、という警告だと受け止める。ゆえに厳しい手段に出なければ自分にちゃんとした生き方をするチャンスがなくなると思いこむ。それがブラックメール発信のきっかけになる。

 

問うべき重要な質問がある。

ある人物とのあいだになにか問題が生じたとしよう。その人は問題解決に関心があるのだろうか。それとも、あなたに勝利することのほうに関心があるのだろうか。

この質問にどう答えるかで、心理的恐喝が生じる可能性の高さが違ってくる。

 

私はこの手の話題が苦手だ。母親がまさに心理的恐喝の達人だったからだ。

幼いころから、母親の意に沿わない言動をすれば、最初は優しく諭し、次第に泣き声混じりになるーー「どうして分かってくれないの?  お母さんはあなたのためにこんなに尽くしているのに、どうしてこんなに我がままなことを言うの?」これが出ると試合終了だ。まだ子どもだった私、経済的にも心理的にも両親に依存しなければ生きていけなかった頃の私に、どんな反応ができるだろう?

私が母親の泣き落としに少しずつ抵抗出来るようになったのは大学生になってからだが、それは実家住まいながらアルバイトを始めることができ、経済的に多少なりとも母親から独立できるようになったことと無関係ではないと思う。泣き落としと抵抗ーーたいていは「お母さんがどれだけ子育てに苦労したかは、今話してることと関係ないよ」という言葉ーーの闘いは十年近くにわたり、結局私が一人暮らしを始めて両親から物理的距離を置くまで続いた。それでも完全になくなったわけではなく、実家に戻るとたまにまた上記の心理的戦争を繰り返す。

おそらく、私が母親の泣き落とし作戦をどんなに憎んだか、一方で母親の要求を満たさない自分自身にどんなに失望感と無力感を抱いたか、それが私の自尊心形成にどんなに打撃を与えたか、母親は死ぬまで理解することはないだろう。

こういう経緯で、私のホットボタンは著者言うところの「認められたい病」、何がなんでも認めてもらわねばならない、好意を持ってもらわねばならないという思いこみになる。

これを克服するために、私は著者が用意している自分自身との契約書にサインする用意があるーー

 

私は自らを選択の自由がある成人と認め、私の対人関係及び私の人生からブラックメールを排除するために、積極的に行動することを誓います。その目的を達成するためにーー

⚫︎私は自分自身に対して、今後自ら進んで恐怖心、義務感、罪悪感によって自分の決断を左右されないことを約束します。

⚫︎私は自分自身に対して、この本でブラックメールとの闘い方を学び、それを自らの人生で実行に移すことを約束します。

⚫︎私は自分自身に対して、今後私が後退的な態度を取ったり、挫折したり、もとの行動パターンに逆戻りしたりするようなことがあっても、それを努力をやめる口実に使わないことを約束します。失敗は、それを教訓として利用するかぎり、失敗ではないことを理解します。

⚫︎私は今回の行動に際して、自分を大切にすることを約束します。

⚫︎私は、積極的な行動をとったときには、それがどれほど些細なことであれ、それができた自分を評価します。

 

 

(2019/09/30追記)

子どもができたのをきっかけに母親との関わりが増え、ぶつかりあうことも増え、配偶者になだめられねばならないことも出てきた。このままではいけないと思ったから、もう一度本書を読み返し、モラハラ関係のブログを読み返し、配偶者を不快にさせることなくこの手の人間とつきあう方法を学びなおすことにした。

大切だから「私を心配させないで」「私の気持ちをわかってくれないの?」などの言葉に屈してしまうのなら、究極的には大切に思うことをやめればいいのだけれど、そこまでいく前にこう言えるようになりたい。

「心配で言ってくれているのはわかるけれど、私の考え方はあなたとは違う。あなたがその言い方をするのは気持ちよくない。この際話しあうべきは、どちらが理にかなっているのかだ。私があなたのいうことを聞かないためにあなたが悲しむのは、また別の話だ」

泣かれようが拗ねられようが、罪悪感を抑えてまずははっきり伝える。そこから始めたい。

始められるということが、まだその人が大切であるということだ。その人との関係をちゃんとしたものに作り変えたいということだ。本書の作者もそこを念押ししている。

ひとつだけはっきりさせておきたいのは 、大切な人があなたにエモーショナル・ブラックメール(以下、「ブラックメール」)を仕掛けているからといって、それでその人との関係が呪われているわけではない、ということである。私たちが大切な人からブラックメールを受けていることを正直に認め、自分を苦しめている行動を改め、それによってより強固な土台の上にその人との関係を築き直す必要がある、というだけのことだ。

モラハラ関係のブログをまとめているサイトを見つけたので、アドレスを貼っておく。

モラハラブログまとめ10選/厳選されたおすすめをご紹介

 

 

【おすすめ】一家に一冊、育児の百科事典『育児の百科』

 

定本 育児の百科〈上〉5カ月まで (岩波文庫)

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  • 作者:松田 道雄
  • 発売日: 2007/12/14
  • メディア: 文庫
 
定本 育児の百科〈下〉1歳6カ月から (岩波文庫)

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  • 作者:松田 道雄
  • 発売日: 2009/02/17
  • メディア: 文庫
 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 個性のある赤ちゃんを育てているのであって、「理想的な体重増加」「理想的な授乳間隔」をしてくれる空想上の赤子を育てているわけではない、多少ずれていても赤ちゃんが元気で機嫌がよければ一番、との心構えを胸に刻んだ。
  • 普段と違う様子で泣いたりぐずったりしていたら、まず本書にある「気をつけなければならない」ことにあてはまるかどうかチェックし(たとえばそけい部の腫れなど)、症状がなければとりあえず深刻な状況ではないかもしれないと一息ついてから、ほかの原因を探すようになった。

 

松田道雄氏の『育児の百科』は、岩波文庫に収録され、いまも読み継がれている。

小児科医としての立場からたくさんの赤ちゃんや子どもを見てきた著者は、赤ちゃんが生まれた直後から、小学校に上がるまで、成長していく中でどんなことが起こって、どういう風に対応すればよいかをまとめた。

各章はそれぞれの月齢・年齢で区切られており、月齢・年齢ごとに子どもに通常見られること、両親に起こること、異常や変わったことなどのテーマについて、それぞれ数ページ程度の文章で記している。文章ごとに見出しと番号が振られているから、目次から読みたいところだけを探すことができるし、百科事典のように索引もついている。

「こういうことが起こってもこの範囲内ならば心配ない、こうなったら病院へ」

初めての育児にとまどう母親や父親には、正常かそうでないかを判断できるだけでも非常に助かる。本書はそのコツを抑えているから、長く読み継がれてきたのかもしれない。

たとえば母乳。初産婦では一週間から二週間母乳がうまくでないのは良くある、赤ちゃんの体重が生後一週間で200g以上減るか、二週間経っても出産時から増えなければミルクを考え始めると書かれている。母乳が出ないと焦る新米母親は、ここを読むだけでもずいぶん気が楽になるのではないかと思う。

子育てには、子どもの都合よりも、大人の都合で決めがちなことがある。授乳時間などはまさにそれで、睡眠不足になるから深夜の授乳はなるべく避けたいという母親も多いだろう。本書ではそれを「大人の都合である」とバッサリ切り捨て、できるだけ子どもの都合に寄り添おうとしている。文章から思いやりと優しさが感じとれる。

岩波文庫全三冊の分量がある本だから、すぐに全部読み通すことは難しい。百科事典のように、読みたいときに読みたい章を探すのがいちばんいい。手元にあれば安心できる本だ。