コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

<英語読書チャレンジ 14 / 365> C.S.Lewis “Prince Caspian, The Return to Narnia”(邦題《ナルニア国物語2 カスピアン王子の角笛》)

思いつきで英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日
本書は映画化された大人気ファンタジーシリーズ《ナルニア国物語》の第2作《カスピアン王子の角笛》。子ども向けであるから英語は非常に読みやすく、英語多読にはもってこい。

物語は前作《ライオンと魔女》の1年後から始まる。

ナルニア国からイングランドに戻ってきたピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの四兄妹は、夏休みを終え、学校に戻るために電車に乗りこんでいた。しかし急に不思議な魔力が働き、気づけば四人は懐かしいナルニア国にいた。四人がそこで見たのは、自分たちが暮らしていたはずの城が、まるで数百年の時間が流れたかのように、深い森に埋もれ、廃墟と成り果てた姿であった。

たまたま助けたドワーフから、四人はナルニア国になにが起きたのかを知る。人間によく似た姿のテルマール人が現れ、古くからナルニア国で暮らしていた森の精、水の精、言葉を話すことができる動物や樹木たち、ドワーフケンタウルスなどの生き物を駆逐して新ナルニア国を建立し、古いナルニア国の住人たちについて語ることを禁じたのだ。現国王は正当な王位継承者であるカスピアン王子の叔父であり、前国王を暗殺して即位したといわれる。カスピアン王子はしばらく生かされていたが、現国王に息子が産まれたため、殺されることを恐れて逃亡し、古いナルニア国の住民たちにかくまわれていたという。しかしカスピアン王子の身に危険が迫り、彼を助けるために、ピーターたち四人は、ふたたびナルニア国に呼び戻されたのだったーー。

 

読み進めるにつれて、前作《ライオンと魔女》からキリスト教の基礎を学ぶことができるなら、今作《カスピアン王子の角笛》で学ぶのはイングランドの歴史と文学だという気がしてきた。征服者が現れて古くからの住民を駆逐するところはノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服を思わせるし、物語後半にはさらに古いヴァイキング征服時代の歴史までほのめかされる。正当な王位継承者の叔父が王位を簒奪するのはそのまんまシェイクスピアの《ハムレット》だし、同じシェイクスピアの《マクベス》を思わせる情景もでてくる。

文学的謎解きを楽しむのもさることながら、感動を呼び起こすはなんといってもピーターとスーザンである。とくにピーターは冒険の中でイギリスに古くから伝わる騎士道精神をしだいに身につけてゆき、少年から一人前の男性に成長する。物語終盤、ピーターとスーザンが二度とナルニア国に戻ることはないとほのめかされるが、二人はもうナルニア国で学ぶべきことをすべて終えてしまったのだ。おとぎ話の世界には別れを告げ、イングランドでの現実世界に生きなければならないーーそれは、ピーターパンがネバーランドにとどまるために永遠の少年でいることを選んだのとは正反対の結末だ。

 

<英語読書チャレンジ 13 / 365> C.S.Lewis “The Lion, the Witch and the Wardrobe”(邦題《ナルニア国物語1 ライオンと魔女》)

思いつきで英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日
本書は映画化された大人気ファンタジーシリーズ《ナルニア国物語》の第1作《ライオンと魔女》。子ども向けであるから英語は非常に読みやすく、英語多読にはもってこい。ストーリーは起承転結がはっきりしていて、樹木の精や水の精、ドワーフや魔女など、おとぎ話に出てくる存在が大活躍しており、大人が読んでも子どものようにわくわくさせてくれる。

第二次世界大戦中の英国。ロンドンを離れ、田舎の教授の家に兄妹だけで疎開してきたピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの四兄妹が主人公。広大な古屋敷でかくれんぼをしている最中、ルーシーはある空き部屋に巨大な衣装ダンスがあるのを見つける。その奥にはなんと雪に包まれたナルニア国の森が広がっていた。

ルーシーはナルニア国の住人である "Tumnus the Faun" ーー半人半羊のフォーン種族ーーにお茶をごちそうになるが、タムナスは急に泣きだし、自分が白い魔女に命じられ、"Sons of Adam" や "Daughters of Eve" (直訳すれば「アダムの息子」「イヴの娘」、いわゆる人間の子)を見つけたら連れてくるように言いつけられていること、白い魔女こそがナルニア国を永遠の冬に閉じこめた張本人であることを告白する。心優しいタムナスに見逃されてルーシーはもといた世界に戻るが、衣装ダンスの裏の通路はいつのまにか消えた。兄姉たちはルーシーの話を信じてくれず、とくにエドマンドはルーシーをあからさまに馬鹿にして嘲る。

しかしある日、エドマンドもまた衣装ダンスの裏からナルニア国の冬の森に入りこんだ。エドマンドの目の前に、冷たい表情を浮かべた、女王と名乗る白衣の女が現れる。女王はエドマンドに美味しい "Turkish Delight" (ロクムと呼ばれるゆべしに似たトルコ菓子)をごちそうし、甘い言葉で、エドマンドの兄姉や妹をナルニア国に連れてくれば、もっとたくさんのお菓子をあげる、ゆくゆくはエドマンドを王様にしてあげるとささやくーー。

 

Wikipediaによると本シリーズは「キリスト教弁証家であるC・S・ルイスが子供に向けてキリスト教の基礎を専門用語を使わずに書いた小説」であるとのことだが、児童文学としてもとても面白い。

思いやり深くうそをつかないルーシーと、うそつきでいじわるなエドマンドは対照的である。キリスト教ではうそをつくことは罪であり、子どものころからうそをつかないよう厳しくしつけられる。この意味でルーシーの名誉を傷つけるようなうそをつき、食い意地が張り、欲深いエドマンドは「悪い子」にちがいなく、作中でも"Treacherous."ーー「信用ならない者」と呼ばれる(〈暴食〉も〈強欲〉もキリスト教七つの大罪に含まれる)。しかしエドマンドは1歳下の妹に兄貴風を吹かせたい、口うるさい兄姉を見返してやりたいという子どもらしい反逆心を抱いているだけで、根は決して悪い子ではない。
自然情景もとてもすばらしい。キツネやリス、ビーバーやコマドリはイギリスの子どもたちになじみ深く、キンポウゲやサクラソウが揺れる草原は春を思い起こさせる。最年長のピーターが「コマドリっていうのは、ほら、どんなお話でも、いつだっていい鳥だよ。コマドリが悪いほうの味方ってことはないよ。」と訳知り顔で言うように、動物ごとのイメージも物語に生きている(ちなみに白い魔女の手下はオオカミである)。

私がなによりすばらしいと思うのは、屋敷の主人である教授が、ルーシーはおかしくなったのではないかと相談に来るピーターとスーザンを諭す場面。その諭し方は二人を子どもとしてではなく、大人になろうとしている少年少女として向き合う。

"Logic!" said the Professor half to himself. "Why don't they teach logic at these schools? There are only three possibilities. Either your sister is telling lies, or she is mad, or she is telling the truth. You know she doesn't tell lies and it is obvious that she is not mad. For the moment then and unless any further evidence turns up, we must assume that she is telling the truth."

「論理だよ!」教授は、なかばひとりごとのようにおっしゃった。「最近の学校じゃどうして論理を教えんのだろうかね? 可能性は三つしかない。妹さんがうそをついているか、おかしくなったか、本当のことを言っているか、だ。妹さんがうそを言わないことは、きみたちが知っており、頭がちゃんとしていることは明らかだ。ということは、なにかほかの証拠が出てこないかぎり、本当のことを言っていると考えざるをえない。」

(角川文庫訳)

子どもの空想めいたおとぎ話(この場合は空想ではないわけだが)をくだらないと一蹴せずに聞いてくれる大人がいかに少ないことか! いまのところこの物語で一番好きなのは教授かもしれない。

<英語読書チャレンジ 12 / 365> D.Yergin “The Prize: The Epic Quest for Oil. Money & Power”(邦訳『石油の世紀: 支配者たちの興亡』)

思いつきで英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日

本書の邦訳タイトルは『石油の世紀: 支配者たちの興亡』。原書タイトルは直訳すれば『報奨: 石油、カネと権力についての壮大な探究』というところ。

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は①。本書は近代歴史そのものを石油を中心に据えて再構築したもの。石油の存在により近代史がどれほど影響を受けたのか、目から鱗の一冊。

 

本書の位置付け

本書はいわば「石油の流れから見た近現代史」である。19世紀半ばから始まる石油産業が、各国政権や経済界、戦争推移にかかわりながらどのように発展を遂げてきたかについて、詳細までまとめている。著者によれば本書は「これまで石油がたどってきた歴史についての本というだけではなく、エネルギーがどのように世界をつくり変えるのかを理解するための本」。

内容はわかりやすいのだが、情報量がとてつもないので、初心者向けとはいえない。しかし持続可能性やら再生可能エネルギーやら水素社会やらの単語がメディアに登場しない日はないといっていいこの時代には、エネルギーの変化により世界がどのように姿を変えうるか探究するために、なくてはならない一冊であるといえる。

 

本書で述べていること

とにかく重厚長大本だから読むには時間がかかるが、著者は序章で3つの視点を示しており、本書もこの流れで石油の歴史を解説している。これをふまえて読めばわかりやすい。

 

1. 石油を「最重要かつ最大規模産業の主役」としてとらえる視点

初期の石油産業は、灯油や燃料油、潤滑油製造をもとに発展した。とくに灯油利用ーーすなわちケロシンランプーーが普及することでいわゆる「効果的な夜型生活」ができるようになり、産業社会の生産性が向上した。それまでもオイルランプ、松明、提灯などで明かりをとることはできたが、ケロシンランプの明るさと安定さは段違いであった。(その後電灯にとってかわられるのだが)

本書ではケロシン販売からはじまる石油会社の黎明期、各国でさまざまな国有企業や民間企業が設立され、ついに一大産業まで成長するさまが詳細に語られる。アメリカではかのロックフェラーがスタンダードオイルを設立するが、のちに分裂し、エクソン、モービル(いまは合併してエクソンモービルとなっている)など、21世紀まで続く世界的石油企業の前身となる。

 

2. 石油を「国家安全保障戦略や国際外交と分かちがたく結びついた戦略物資」としてとらえる視点

第一次世界大戦は人間と機械の戦争であった。機械は石油を動力源としていた。」

この言葉を始まりとして、本書は20世紀初めの海軍を皮切りに、軍事設備がそれまでの石炭から石油に切り替えていったプロセスをたどる。とくに第3部ではまるまる4章を割いて、第二次世界大戦頃の日本とドイツのエネルギー政策、石油確保手段を解説している。

満州事変直前の日本では、石油はエネルギー消費量の1割未満であったが、そのほとんどが軍事産業と船舶産業用であり、80%をアメリカからの輸入に頼っていた。日米間の緊張が高まるにつれて、アメリカは対日石油輸出制限を主張するようになる。1941年11月、東條英機首相は御前会議で「このままでは2年で軍事用石油は底をつく」と主張し、日米開戦を強硬に後押しした。真珠湾攻撃とほぼ時を同じくして、日本は石油を求めてオランダ領東インドニューギニア島西部を含む現在のインドネシア)に進出し、あらゆる手段で石油供給を確保しようとしたが、やがて著者が皮肉をこめて語るように「日本の石油タンクは空になってしまった」。

 

3. 石油を「社会活動で必要不可欠な物資」としてとらえる視点

第二次世界大戦以降、石油は燃料油としての利用だけではなく、石油化学製品の利用として、さらに需要を拡大させた。もはや石油製品は「あれば便利」ではなく「なくてはならない」存在となる。

 

あわせて読みたい

同じ作者によるシリーズ2冊。読書感想も一緒に。

10年前のエネルギー社会と今〜D. Yergin “ The Quest” - コーヒータイム -Learning Optimism-

エネルギー社会の来し方行く末〜D. Yergin “ The New Map” - コーヒータイム -Learning Optimism-

 

<英語読書チャレンジ 11 / 365> J. Owen “The Establishment”(邦題『エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する』)

思いつきで英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日

本書は『エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する』という邦題で翻訳されている。かなり前からの積読本。

この作者の前作『チャヴ 弱者を敵視する社会』は、イギリスの現在の姿を活写し、日本のこれからの姿を読み取れる本として評判になった。

前作のブログ記事はこちら。
【おすすめ】日本の未来予想図『Chavs: the Demonization of the Working Class』 - コーヒータイム -Learning Optimism-

 

"Establishment"は、オックスフォード辞典によれば "the people in a society or a profession who have influence and power and who usually do not support change" 、すなわち権力と影響力をもちながら変革を望まない集団を意味する。日本語に置きかえるならいわゆる既得権益層にあたるだろうか。

著者は英国国教会を含むイギリス政府内部にはびこる既得権益層を強烈に批判し、「彼らは民主主義国家にあって有権者たちから自分たちの利益を守ろうとしている」「英国国教会の有力者が選挙を経ずに政権運営に参加するのはおかしい」などといったリベラル寄りの意見を展開する。

既得権益側に立ち、上流社会に入るための手段として政治家をめざす人々があまりにも多いし、政界・経済界・宗教界(英国国教会)・メディアは許しがたいほどに癒着しており、貧富格差がどんどん大きくなるイギリス社会をより良くしようとするのではなく、自分たちの既得権益を守ることが目的となっているというのが著者の主張。読んでいてかなり納得できる部分もあるけれど、どこか階級闘争をあおるような内容はなんだか共産主義系の主張がバックグラウンドにあるように思えるので、読む人を選びそう。

 

<英語読書チャレンジ 10 / 365> J.R.R.Tolkien “The Silmarillion”(邦題《シルマリルの物語》)

思いつきで英語の本365冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日

本書はもはや説明不要のファンタジーの金字塔『ホビットの冒険』『指輪物語』のいわば前日譚にあたる『シルマリルの物語』。ファンタジーといえど神話研究者の手によるだけあり重厚緻密な歴史書のよう。英語表現は決して読みやすくない(しかも時々古語表現が入る)。しばしば邦訳の助けを借りなければならなかった。

ホビットの冒険』『指輪物語』がホビット、エルフ、ドワーフ、人間などの種族入り乱れた時代の物語であるのに対し、『シルマリルの物語』は創世記から始まる「神代」の物語。唯一神イルーヴァタールの思いから生まれ、それぞれの声部(パート)を与えられ、音楽を奏でる役割を課せられたアイヌル(アイヌア)たち、イルーヴァタールの音楽の主題から生まれたエルフや人間たちが、アルダと呼ばれる地上に下るのが世界の始まりである。やがて神々の間に戦争が巻き起こり、邪神メルコールが盗んだ光宿す宝石シルマリルをめぐって争いが繰り広げられる。

叛逆心に満ちたメルコールは、神々の戦争には敗れたものの、野心を燃やしてさらなるよこしまなたくらみをする。この辺の展開はミルトンの名作《失楽園》に近い。神に叛旗をひるがえしながら敗れて地獄にたたきこまれた堕天使ルシファーが、蛇に化けて神の創造物であるイヴとアダムを堕落させるのが《失楽園》の物語であるが、メルコールはイルーヴァタールの創造物であり子どもたちと呼ばれるエルフや人間、彼らが暮らす中つ国を堕落させ、支配することに執念を燃やした。

シルマリルとはエルフが創造した三つの大宝玉で、失われた神樹の汚れなき光を秘めている。これを盗み出したメルコール(〈黒き敵〉モルゴスと呼ばれるようになる)とかれを追うエルフの子らが物語の主軸なのだけれど、シルマリルを創造したエルフであるフェアノールは、アイヌルの光を宿すシルマリルに執着し、アイヌルに願われてもシルマリルを渡すことを拒否、盗まれたシルマリルをとりもどす旅の途中で同じエルフと諍いを起こしてついには同族殺害の大罪を犯すという、どこか〈一つの指輪〉に魅了されたフロドやゴクリを彷彿とさせる末路をたどる。イルーヴァタール以外はたとえアイヌルといえどその意志は絶対ではない、ということが強調されてもいる。

 

父親越え、父親殺しはあらゆる神話や伝説で繰返し語られるものであり、たとえばギリシャ神話では最高神ゼウスは父親クロノスを、クロノスはさらにその父親ウラノスを追放することに成功する。

しかし『シルマリルの物語』では唯一神イルーヴァタールは打ち倒すことのかなわぬ存在であると早々に明らかにされる。メルコールがイルーヴァタールの求める音楽の主題ではなく、彼自身の考えを音楽に織りこもうとして不調和音を起こしたときにイルーヴァタールが語る。

‘Mighty are the Ainur, and mightiest among them is Melkor; but that he may know, and all the Ainur, that I am Ilúvatar, those things that ye have sung, I will show them forth, that ye may see what ye have done. And thou, Melkor, shalt see that no theme may be played that hath not its uttermost source in me, nor can any alter the music in my despite. For he that attempteth this shall prove but mine instrument in the devising of things more wonderful, which he himself hath not imagined.’

「げにアイヌルは力ある者なり。アイヌルのうちにありて、この上なき力を持つ者はメルコールなり。されど、メルコールは知るべし。すべてのアイヌルは知るべし。われはイルーヴァタールなり。汝らが歌いしことを汝らに示さん。汝らが自らなせしことを、自らの目にて見んためなり。汝メルコールよ、いかなる主題であれ、淵源はことごとくわがうちにあり。何人もイルーヴァタールに挑戦して、その音楽を変え得ざることを知るべし。かかる試みをなす者は、かれ自身想像だに及ばぬ、さらに驚嘆すべきことを作り出すわが道具に過ぎざるべし」

ーー『シルマリルの物語』アイヌリンダレ

……なかなか亭主関白ならぬ父親関白である。もともとメルコールを含むアイヌルと呼ばれる霊的存在(キリスト教でいう天使)はイルーヴァタールの思いから生まれたのだから、イルーヴァタールの中には力とともに傲慢さや支配欲があり、それがメルコールという形をとったという気がする。イルーヴァタールは創世者にして絶対者としての力があるからメルコールを圧倒したが、メルコールを含むアイヌルたちを意志持つ存在(すなわち自分と違う意見をもったり逆らったりする存在)とみなさず、道具呼ばわりして絶対服従を求めたあたり、実は結構器が小さいんでは?

アイヌルとエルフ、人間が世界に下りたあと、イルーヴァタールは「アルダの歴史が終わった後、アイヌル、エルフ、人間により第二の音楽が奏でられるであろう」と話し、よほどのことがなければ傍観を決め込んでいる。トールキンの物語世界における自由意志についてさまざまなファンがさまざまな考察をしており、トールキン自身も見解を示しているけれど、私としては「結末は決まっているがそこに至るまでの道筋を選ぶことはできる」という説を採りたい。イルーヴァタールにより死すべき運命を与えられた人の子なれど、生あるうちをどのように生きるかを選ぶ自由意志もともに与えられている(ただし人の一生は短いからそれほど大きな影響力を及ぼすことはなく、いわゆるイルーヴァタールの音楽主題を逸脱することはまずありえないからこそ許されるともとれる)、というのがしっくりくる。

<英語読書チャレンジ 9 / 365> A.Bourgogne “Be Bilingual - Practical Ideas for Multilingual Families”

思いつきで英語の本100冊読破にチャレンジ......しようと思ったけれど目標を365冊にすることに。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2025年3月20日

本書タイトルは直訳すれば『バイリンガルになるー多言語家庭のための実用的アイデア』。

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は②。タイトル通り、バイリンガルを育てるために今すぐ実践できることを、著者の実体験をもとにつづる。

 

本書の位置付け

著者の母親はスウェーデン語とフィンランド語を流暢に操るバイリンガルで、父親はフィンランド語話者。父親は伝統的なフィンランド家庭出身であり、スウェーデン語は好まれず、著者は家ではフィンランド語のみを話したという。著者が産まれた1970年代当時、子どもをバイリンガルとして育てることは言語発達を遅らせると考えられていたという事情もある。

著者自身はフランス人の夫をもち、バイリンガリズム修士課程で研究した。その結果、バイリンガルは子どもの発育に悪影響を及ぼさないと考え、自分の娘たちにはバイリンガルになってほしいと望むようになった。

しかしさまざまな家庭と交流する中で、一般家庭の親は難解な学術書を読みこなせないし、理論はわかっても実際に何をどうすればいいのかわからないことに著者は気づいた。著者は自分が学び、研究してきた、バイリンガルについての学術研究の内容をやさしく解説し、実践的なやり方にまで落としこむため、本書をまとめた。

 

本書で述べていること

本書のプロローグに結論が述べられている。

「子どもの非日常言語(子どもが暮らす環境で日常的に使われる言語以外の言語)の習熟度は、親がかけた労力にそのまま比例する」

身も蓋もないが、ふだん使われない言語を身につけるのはそれほど大変であり、親は子どもをその言語が話されている国(たいていは両親いずれかの出身国)に頻繁に連れて行ったり、その言語の話者と引き合わせたり、本を読み聞かせたり、音声教材を使用したりと、さまざまな工夫と労力をかける。

 

バイリンガルはあなたの家庭にとってどういうものか? この質問は大変重要である。あなたが定めたゴールが実現方法を決めるからだ。バイリンガルが複数言語を同じ状況で使うことはめったになく、使い分けるのが普通で、求められる習熟度はちがう。日常的に使用される現地の言葉が支配言語になることがほとんどだ。

子どもが自発的にある言語を使うようになるためには、だいたいの目安として、起きている間の少なくとも30%以上の時間(週25時間程度)この言語にさらされる必要があるとの研究結果がある。書き言葉を学ぶならさらに時間をかけなければいけない。

会話が理解できればいいのか?

とりあえず話せるようになってほしいか?

複数言語を流暢に話してほしいか?

さらに踏み込んで、読み書きができてほしいのか?

まずはそれぞれの言語に望むレベルを決める。かけなければならない時間がだいたい予測できる。それが家族にとって現実的かどうかも。バイリンガルになるには意図的にある言語を日常生活でたくさん使用しなければならず、それが習慣化するし、子どもはある年齢になればーーいつかは専門家でも意見が分かれるがーーネイティブなみの発音を身につけるのが難しくなる。耳が聞き慣れない音を拾えなくなるためだ。

次に忘れてならないのは、言語はあくまでコミュニケーションのための手段であること。とくにトリリンガル以上を目指す家庭ではなおさら気をつけなければならない。

 

具体的方法としては、①家族それぞれで話す言語を固定する(たとえば父親は英語で母親は日本語)、②場所により使う言語を固定する(たとえば外では地元言語を話すが家では両親の言語にする)、③時と場合で使い分ける(たとえば学校では公用語だが学校の外では地元言語)がよく使われる。①が最もよく使われるけれど、子どもが言語にさらされる時間をのばすために②を取り入れるなど、家庭により柔軟に使い分かればよい。

 

感想いろいろ

著者は言語学者の研究とともにバイリンガルトリリンガルの家庭の実例をたくさん紹介しており、非常に読みやすい。

おどろいたことにトリリンガル家庭はかなり多いらしい。両親が国際結婚して、国外に住んでいるような場合である。作中にはイタリア人の父親とフィンランド人の母親がスイスのフランス語圏に住むという例がでてきた。スイスではイタリア語とフランス語のコミュニティをみつけるのが容易であり、彼らの子どもはこの2言語を母語同然に操る。(うらやましい!)

一方、フィンランド語も流暢でコミュニケーションには充分だが、子どもがフィンランド語への興味を失わないよう、かなり工夫しなければならなかったという。フィンランドに頻繁に里帰りする、フィンランド母語にするほかの家族とつきあう、フィンランドにいる親戚と定期的にSkypeで会話するなど、時間もお金もとられることが多い。

They may pick up words and get used to the sounds of the language, but they don’t learn to speak it unless people interact with them in that language, and they need it for communication.

ーー子どもたちは(両親の会話から)単語を拾いあげ、発音に慣れるかもしれない。しかし、(まわりの人々が)その子とその言語でかかわり、コミュニケーションのためにその言語が必要になるのでなければ、話せるようにはならない。

Try to increase input for the minority languages, but don’t forget the importance of a solid foundation in their strongest language, which will help them with the two others as well.

ーー(日常生活で使わない)非主要言語を学ぶ機会は増やすようにしたいが、子どもが一番得意な言語について、きちんとした土台を築くことも忘れてはならない。ほかの2つ以上の言語を学ぶにあたり、助けになるからだ。

さまざまなアプローチがでてくるが、私としては、地域社会では言語A、家庭では言語B、特定活動(テレビ、読書、海外旅行など)は言語C、というアプローチが一番実践的に思う。

 

あわせて読みたい

同じくバイリンガル子育てに奮闘する父親による経験談。ブログ記事参照。

長いマラソンを走り抜けよう “Maximize Your Child’s Bilingual Ability” - コーヒータイム -Learning Optimism-

<英語読書チャレンジ 8/100> E.Brown “To Raise a Boy”(邦題『男子という闇』)

思いつきで英語の本100冊読破にチャレンジ。ページ数100以上、ジャンルはなんでもOK、最後まできちんと読み通すのがルール。期限は2023年3月末まで。

本書の邦訳タイトルは『男子という闇』。原書タイトルは直訳すれば『男の子を育てるということ: 教室、ロッカールーム、寝室、そして隠されたアメリカにおける少年時代の葛藤』。

 

なぜこの本を読むことにしたか

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は①。著者はワシントンポストの記者で一男一女の母親。男性による性的虐待事件の報道にショックを受け、自分の息子がこうならないよう育てるにはどうすればよいか調べ始めたが、やがて、男性もまた暴力や性的被害にさらされていること、それにもかかわらず「男は強くあれ、弱音を吐くな、助けを求めるな」というステレオタイプにかくれて被害が見えなくなっていること、そうした被害者の一部がやがてみずから暴力事件や性的虐待事件を起こしてしまうことを知る。

 

本書の位置付け

タイトルこそ子育て本のそれだが、内容はいわゆる子育て本ではなく、社会問題を扱った本。記者が書いただけありとても読みやすい。専門家を含む複数の関係者に取材し、未成年男子や成人男性を被害者とする暴力事件や性的虐待事件の実情、問題の背景にひそむ社会のありかたの欠陥をさぐる、典型的なドキュメンタリー仕立て。

 

本書で述べていること

未成年男子の6人に1人はなんらかの性的被害を受けたことがあり、性的被害者の75%は加害者が同年代であった、という、かなりショッキングな統計情報から本書は始まる。性的快楽のためではなく、支配欲を満足させ、力関係を見せつけるために、下級生男子をビリヤードキューなどで虐待する上級生もめずらしくない。

しかし性的被害がからむ事件では「男は加害者、女は被害者」の図式が強すぎるうえ、未成年男子の場合、加害者はしばしば同じ学校の生徒やスポーツクラブのチームメンバーであるため、性的被害を訴えたところで「悪ふざけをしていただけだろう」と、あまり真剣に受けとられないのが現実だ。

とりあげられているテーマには身近なものが多く、読みやすい。日本では「しごき」「可愛がり」とも呼ばれる部活動などでの暴力行為。男の子に多様性を認めず男らしさを強要する教育。性教育不足やポルノなどによる偏った性知識。地域や人種によっては13歳になる前に25%の男の子が性体験をするといわれる若者の性体験問題。未成年へのセクハラ問題などなど。本書はアメリカのデータを参照することが多いが、複数国にまたがる調査をした研究者によると、男性にありがちなさまざまな問題は、居住国や人種、文化などによらず普遍的にみられるという。

著者が強調しているのは、子どもたちに性について教える責務は大人にあるということ。No means no. (嫌と言ったら嫌)というようなフレーズで教えた気になるのは間違い。二人ともーー男性側も女性側もーー「性体験したい」ときちんと思えているのでなければ性体験をするべきではないし、相手を思いやり、相手の言葉や身ぶりなどから気持ちをきちんと汲みとるべきである。このようなことは繰りかえし教え、話しあい、意見を交わして初めて身につくものであり、子どもたちが自分自身を性被害や性加害から守るために、なくてはならない知識である。

 

感想いろいろ

この本は、男性は女性に対する一方的な加害者ではなく、男性自身が被害者になりうるものであり、しかもその被害は明るみに出ないことが多いという点を示すことで、男性のあり方についての私の考え方を大きく変えた。

著者はこの現象を「男らしさにこだわりすぎる」ためであるとして、そのような価値観は知らず知らず刷りこまれる、と指摘する。

結局のところ、子どもたち自身がどのような人間になりたいかを大人がきちんと聞くべきだし、自分自身やパートナーを守るための性知識をきちんと教えなければならない。非常にセンシティブな話題であることは間違いないけれど、避けていてもはじまらない。これが本書のメッセージであろう。実際のやり方についてはいくつかヒントが与えられているものの、結局は家庭それぞれになるのかもしれない。